177.幻想 *
相対するイロが冷静さを欠いてもなお、その実力はあまりに手強い。治癒魔法を所有しないムゾウは、負った深手を見過ごしながら戦うことを強いられた。
そしてムゾウが次に選んだ行動は、攻撃でも逃亡でも、はたまたそこへ立ち尽くすことでもない。彼はおもむろに上着を脱ぐと、その布地を切り裂いて両耳へと押し込んだ。
それは彼が深い傷を負いながらも、敵の魔法の考察について、ある可能性へと至ったから。根拠は、先の一幕にて。刀身の衝突する音が、不意に正常なものへと回帰したこと。ムゾウはそれを諜報魔法・消音による効果とばかり認知していた。しかしながら、彼は敵の魔法が音魔法に属するものである可能性を考慮したのだった。
諜報魔法とは付加魔法であるが為に、本来なら強化魔法と同様の恒常的な効果を持つ。故に不意な心境の揺らぎでそれを解除する事態は、そう起こり得ない。ましてやイロのような熟練した術者であれば、それは尚更である。だからこそ彼は、それが恒常的な効果を維持するのが比較的難しい発現魔法、すなわち音魔法であると察しを付けた。そしてその際のリスクを極小化するべく、耳栓をすることで自ら聴覚を放棄したのだった。
そしてその推理は、まさしく的中していた。イロの行使していた魔法は、音魔法・逆放射。男は刃から生じる音と逆位相の音波を放出することで、発生するノイズを限りなく小さいものへ抑制していた。しかしながらこの魔法は非常に緻密な魔力操作を要する為に、僅かな集中の途切れが魔法の失敗を生むこととなる。男の行使する魔法は革新的で類を見ない独自性を含みつつも、確かなる脆弱性を孕んでいた。
イロはダイトの行動から、自らの魔法が看破されたことを悟る。今のイロの感情は更に揺さぶるには、たったそれだけのことで十分であった。そこから束の間にしてイロはやけになり、本来あるべき形で音魔法を行使した。
行使したのは、音魔法・放射。鼓膜を穿つ強烈な音波が、ムゾウへと降り掛かる。
しかしその為の策こそ、先に装着した耳栓による鼓膜の保護。故にムゾウはその攻撃で怯むこと無く、次の行動へと踏み出すことが出来た。
ムゾウは音波をもろともせずに、イロの懐を目指して直進する。その間でも止めどなく流れ出る血液は、まさにこの攻撃が最期の好機であることを訴えていた。
この好機に選んだ型は、またしても居合いの構え。既に刀は鞘から抜いているものの、ムゾウは慣れ親しんだ本来の居合いと同じ構えを作り上げる。
イロから見れば、その構えはもはや見飽きた姿だった。故に男にも、大方の予想は付く。だからこそ男は、想像に容易いその太刀筋へ万全に備えた。
そしてイロは、その代償魔法を遺憾なく発揮して刀を振るった。一撃で沈めるべくして、ついに両手を使った剣戟は、かつてない重さを兼ね備える。そしてその重さは、無情にもムゾウの魔法に勝った。
イロの刃はムゾウの刀の魔法装甲をも突破し、その刀身を砕く。それでもイロの刀の勢いは衰えず、遂にはムゾウの体をも両断した。切り離された上半身は下半身を滑り落ち、ついに戦闘へ結末が訪れる。イロが自らの瞳に映した光景は、確かにそれで間違いない。
しかし瞳に映ったそれが、完全なる真実である保証もまた存在しない。なぜならムゾウには、この佳境に至るまで温存し続けた、切り札の魔法が存在するのだから。
幻魔法。それは実体の存在しない幻影を生み出す、発現魔法の一類型。それ自体に攻撃性は無くとも、敵の認知を阻害させる目的で扱えば、もはや右に出る魔法は存在しない。ムゾウ=ライジュの隠し続けた切り札は、魔法剣士の戦闘スタイルと抜群の相性を誇る魔法属性であった。
幻魔法・偶像は、イロを勝利の幻想へと陶酔させた。故に男は気付けない。ムゾウ本人によって、自らの頸が跳ね飛ばされたことに。
「……救えない男だ」
ムゾウは愛剣・夢幻泡影の血払いを済ませ、またその鞘へと収める。武士の魂を宿した魔導師は、その矜持を胸に勝利した。
間もなくして日は暮れる。魔天楼・オルパス=ディプラヴィートが王国騎士団本部へ一報を入れたのは丁度その頃だった。
「――やあ、私だよ」
オルパスの通信に応じたのは、第一師団長・ライズ=ウィングチューン。前線での任務を終えた彼は前哨拠点をロベリアに任せ、本部へと一時の帰還を果たしていた。
「魔天楼殿、今どちらにおいでで?」
「王都に戻ってきたとこ。いやはや、結構な大事になってるみたいだね」
ライズはオルパスの小話を突っぱねて話を進める。
「とにかく、一度騎士団本部へおいでください。そこで作戦の詳細を――」
オルパスもまた、負けじと話を遮った。
「いやいやそんなことよりもさ、ちょっと面白い現場に居合わせたんだ。聞いてくれるかい?」
「……まったくこんな有事に、何の話ですか」
「夕刻に、未知の魔法を知る存在へ出会った。都外で、たまたまね」
ライズはその突拍子も無い言葉を聞き、直ぐに疑念を口に出そうとする。しかしながらその反応を予測していたオルパスは、手早く彼の興味を惹くことの出来る話題を提供した。
「君らの言ってる魔器魔法ってのは、どうやら魔器魔法じゃない。代償魔法だ」
暫しの沈黙を経て、ライズは更なる詳細を求めた。
「……詳しく聞かせてくれ」
「いいよ。一から話すから、長くなるけど」
そしてオルパスは、まず居合わせた状況から語り出す。
「私がまず都外で出会ったのは、若い二人の魔導師だった。男の方は既に死んでいて、女は殺されかけてるところだったね。そして女を殺そうとしてた奴こそ、未知なる魔法を知る存在だと考えられる」
「灰色の肌に、真っ白い髪。それに何より、あまりにも禍々しく異質な魔力。仮装にしちゃあ随分と出来が良すぎる、人間と同じようなナリをした生き物だった」
「そいつは飄々としながら、女に質問してた。そしてその流れで、代償魔法について言及を始める。代償魔法は魔器を強化するが、人間の肉体はその発達に耐え切れない。だから人間がこの魔法を使ったとき、肉体は老衰して著しく寿命が縮む。故に代償魔法なんだ、と説明していたね」
「奴は言った。自分は戦争へ肩入れする為にここへ来たのではなく、代償魔法に振り回される人類の営みを観測しに来ただけ、と」
「それで、その生き物が未知なる魔法を知るという証拠はもう一つ。奴自身が、私の目の前で、私の知らない魔法を行使した。形容するなら……黒い靄を生み出す魔法。その靄は、少なくとも人間の体であれば、いとも容易く破壊する。いや破壊するというよりも、消し去るって表現が正しいかな。生き残った女の患部を調べたから、ある程度は信憑性があるよ」
ライズはその押し寄せる情報を前に、まずもって一つの質問をした。
「その女の詳細は?」
「名前は、イグ=ネクディース。男に担がれて戦線を撤退しているときに、奴から襲撃を受けたみたいだ。恐らくその際の襲撃で、男の方は死亡。女は私が救い出したけど、先の戦闘で既に深手を負っていたみたいで、治癒魔法を行使して直ぐに気絶したよ。そこからは近くに居た後衛の騎士に彼女の身柄を引き継いだから、順当に考えれば今はギノバス王立病院かな」
「……なら、その未知なる魔法を知る者はどこへ?」
「さっきも話したけど、例の魔法で姿を消したと。変質魔法みたいな感じだった」
そしてオルパスは、ふとあることを思い出す。
「そうそう、どういうわけか奴は、私の名を知っていた。奴の評価によると、私は大陸有数の魔法に長けた人類らしい」
人を超越した存在。未知なる魔法の主。にわかに信じ難い情報の数々は、先見の明に長けたライズですらも迷宮へと陥れる。そしてその結果彼は、情報を一度持ち帰ることに決めた。
「……とにかく、報告感謝致します。以後、イグ=ネクディースから証言を得るなどして、精査して参りますので」
「ああ。私もこの件にはかなり興味が湧いたから、こちらでも個人的に調べてみる。丁度もうすぐしたら病院に行って、彼女から直接話を聞こうと思ってる」