120.相反する二つの教え **
「――これが革命の塔の、全ての始まりです」
エルの語りは止められた。ツィーニアは疑問を呈する。
「あんたはまるで自身が最後まで抗ったような口ぶりだったけれど、今はこうして男の言いなりに落ちぶれている、あんたがどこでその男に心を許したのか、まだ聞いていないわ」
「……私が彼に心を許してなどいません。許していないことが彼に悟られたから、私は革命の塔の捨て駒に落ちぶれたのかもしれませんね」
「洗脳魔法を託されたあんたが、捨て駒……?」
「託されたのではありません、押し付けられたのです。この悍ましき力を」
そしてエルは、その魔法を手にしてしまった日について語った。
「ある日私は、彼に視力を奪われました。刃物で眼球を斬りつけられた感覚は、今でも気味が悪いほどに生々しく思い出されます。そして今になって思い返せば、それは洗脳魔法を付与する手段がどのようなものなのかを、術者となる私にさえも隠し通すための策だったと推測できます」
「……私が視力を奪われた直後のことです。斬りつけられた痛みとは、まるで異なる衝撃を感じました。強い光を当てられて、数千もの虫が瞼の裏に深く入り込んでくるような、耐えがたい感覚でした。きっとそれが、全ての契機だったはずです」
魔法というものは、その人間が持ち合せる先天的な属性に依拠する。後天的に属性を付与する術は未だかつて存在しない。未知なる証言が、ツィーニアを惑わせた。
エルは唐突にも、ツィーニアへあることを告げる。
「洗脳魔法は一度付与されると、解除されてもなお後遺症をもたらします」
「後遺症?」
「激しい頭痛、それに記憶障害。解除とともに洗脳下にあった時間の記憶が脳へ一挙として流れ込むため、強い負担がかかるのです。さらに洗脳下で何か凄惨な体験をしてしまえば、それが不安障害として残留することもあります」
その説明に何の意図があるのか、ツィーニアには分からなかった。エルは粛々とその答えを示す。
「私は罪を重ねすぎました。命をもって償うほかありません。私を殺してください」
ツィーニアは動揺しなかった。そしてしばしの沈黙の後、彼女はまるで仕返すように、突拍子も無い質問を投げかける。
「あんたの居た孤児院の主は神父だったのよね。宗派は?」
「……グリッド教。聖天の導きのままに。それが神父様の教えでした」
ツィーニアはその返答を聞いたうえで、あえてその聖典の文言を言い連ねた。
「大天使・セイクリア=グリッドルを祖とする聖典において、魔法とは愛。魔法は涙を拭い、世を治む」
「……私にはもうそれを語ることなどできません。私は魔法で多くの人を傷つけました」
ツィーニアはそれを聞き流し、また聖典から抜き出した。
「死とは浄化。死して人は救われ、また輪廻する。だったかしら」
そのときエルは言葉を詰まらせた。ツィーニアの綴った文言から意図を汲むことが出来たから。
「…そうですか。人を傷けながらも革命の塔に背こうとした私が、まだグリッド教に導かれし者であると、あなたは認めてくれますか」
エルの光を失った瞳から涙が滴り、目隠しを濡らしてゆく。
ツィーニアは剣を抜くと、エルの足枷を切断した。
「死は償いではない。死とは生への過程に過ぎず、また輪廻する為の単なる刹那」
「グリッド教は生に重きを置く。魔法とは弱きを救い世に平和をもたらすためにある、いわば人間の生を補完するもの。そう記された」
外れた足枷が冷たい床を鳴らす。ツィーニアは剣を鞘に収めた。
「なら、生きなさい。償いの為に生きるの」
「――魔法とは愛。魔法は穢れを払い、世を正す。死とは贖罪。死して人は償い、終を迎える」
大陸に広く広まる宗派であるグリッド教と相対する宗派・ジェディト教の聖典を連ねた男は、革命の塔の最高指導者。彼は休養をとるべく、自身の書斎に据えられた椅子へ腰を下ろしていた。
棚に入りきらぬほど積み上げられた書の数々。書斎机にも溢れるようにして本が並ぶ。男を塔主たらしめた、数多くの知識の集積である。
そして机上には、孤立して横たわる書が一冊。そこに題は刻まれていないが、その漆黒の書は彼のルーツ、ジェディト教の聖典であった。
「……魔法とは歪んだ世を正す革命の手段。過ちを犯した者へ死をもたらし、正しき道を取り戻す」
男は咳き込むとまた血を吐いた。猶予は迫っている。
「クレント……君は天才だ。君を信じている」
男は呟く。既に他の天導師が敗北し、残る天導師が彼一人であることを確信していた。それもまた、男の持った天性の才能が故に。
フェイバルは相対するクレントを分析した。秘技魔法を扱う相手ともなれば、当然油断などしていられない。
想起されるのは先の紫がかった雲。そこからまず考えうるのは、毒性の降雨による攻撃だろう。つまるところ、フェイバルの見立ては粘性の低い液状型の毒魔法。
クレントは佇むだけの男を見かね、ついに先制攻撃へと踏み切った。右手を差し出すと、そこから紫色に輝く魔法陣を展開する。
フェイバルが目視したのも束の間、魔法陣からは凄まじい速度で毒液が放たれた。粘性の低いそれは、銃弾の如く真っ直ぐと男の懐を目指す。
フェイバルは側方へ飛び出し、それを回避した。しばしの安静である程度の体力を回復した彼にとってそれは容易いことだったが、敵の繰り出す魔法の速度に肝を冷やしたのもまた事実。
「……なるほど。速攻魔法陣もいけるクチか」
すかさずフェイバルは小さく右手を構え、光熱魔法・烈線を繰り出す。魔法陣の展開から魔法の発現までの目にも留まらぬ刹那は、あえて敵に速攻魔法陣で張り合うことの決意表明。
光速で直進する熱線に速攻魔法陣が相まり、それは常人が己の死因に気付くことも叶わないほどの技へ昇華する。しかし天導師・クレントはそれを難なく見切ってみせた。
「ふーん。よく見えてるじゃねーの」
No120.グリット教とジェディト教
グリット教はある大天使・セイクリア=グリッドルを祖として伝えられる教えであり、大陸で広く信仰されている。魔法が世の安泰をもたらし、死を救済および輪廻の一過程と解釈する。
ジェディト教は堕天使・ニットリア=トラジェディトを祖として伝えられる教えであり、大陸ではごく少数の者から熱烈に信仰されている。魔法が世に革命を引き起こし、死を贖罪と解釈する。