其玖
「……そうか、ナアハは御婆様にそこまで言わせるか」
バアバの言葉に少し考え込んだシマトは、部屋の外で聞き耳を立てている者にも聞こえるように声を張り、
「皆、よぅっく聞くのだ。特に若い者には御婆様の力を知らぬ者、話に聞いてはいても信じておらぬ者もいただろうがな、先程見たとおりだ。それだけではない。口止めされている故、話してこなんだが、御婆様は里の恩人なのだ」
おいおい、何を言い出すのじゃ、と止めようとするバアバをシマトは手で制し話を続けた。
「ナアハも御婆様が認める素質を持っておるそうだ。よいか。今後一切御婆様とナアハに対して礼を失するような振る舞いをしてはならぬぞ!」
そう厳命した。
自分たちが話の中心にいるらしいが、それがなぜなのか分からずうろたえるナアハと、大げさにされること自体が迷惑なんじゃよ、という顔のバアバ。
「よいよい、儂らの静かな生活を邪魔さえせなんだらそれで構わぬよ」
もうこの話は終わりじゃ、とバアバが更に話を続けようとしたシマトを止める。
ここで折よく料理が運ばれてきたので、この話は本当にこれで終わりとなった。
だが、せっかく普段は食べられないような贅沢な料理が並んだというのに、ナアハはそれを味わうどころではない。
バアバが里の恩人とはどういう事だろう?
チラチラとバアバを見ても、勿論バアバがその視線に応えてくれる事はない。
そんな食事に集中できずにいるナアハに、
(我が主よ。食わぬのなら我がもろうてやるぞ)
ちゅうが念話を飛ばしてきた。
(……ちゅうは暢気でいいわね)
精一杯の嫌味を返したつもりのナアハだったが、
(当然であろう。我は人族ではない。人同士の関係なぞ気に病む必要もないし、ましてやそれが理由で美味いものを味わい損ねるなどという愚を犯す必要もない)
逆にすっかりやり込められてしまった。
ナアハはむっと頬を膨らましたが、
(……分かったわよ)
それもそうだ、これはちゅうが正しい、と考え直し、ちゅうが催促する葡萄を何粒か小皿に取り分けてやって、自分も料理にかぶりつく。
食が細いのでもう酒に移っていたバアバが、そんなナアハの様子を横目で見ながら小さく笑っていたのをナアハは気付いていなかった。
「御婆様、それでな、明闘の事なのだが……」
十分に食事を堪能し終えた頃、シマトがおずおずと切り出したのはこういう事だった。
勝ち残っている者の蠱はどれも似たりよったり。
ナアハの鼠蠱が倒した猫蠱もよい出来でいいところまで残るだろうと目されていた。
それをあの様に容易く降した鼠蠱に他のものが敵うとは思えない。
だが、この明闘は中央へ送る者を決めるために行っている。
そうなるとナアハを送る事になってしまうが、どうするか……。
バアバはその問には即答せず、
「その前に、都はどうなっとるんじゃ?」
世間から隔絶されている自分らの知らぬ事を話すように求めた。
顔を見合わせた里術師たちの中には、ここ最近都に上がった者もいる。
勿論近隣の村からの話も入ってくる。
それらをぽつりぽつりと話す口ぶりは、
「この国は……どうなってしまうのやら、皇帝様は……」
重いものだった。
若い頃は名君と讃えられた帝シリガイ。
武勇を誇り、大陸に乱立する小国の一つに過ぎなかったこの国の版図を大きく広げ、国を豊かにした。
その下には賢臣綺羅星のごとく集い、外交・内政共に隆盛を極める。
だが十年ほど前から皇帝はおかしくなり始めた。
政治を疎かにし遊興に耽っているのだ。
それもこれも若い側室に入れ揚げての事だという。
何と、数年前には正室に難癖を付け処刑したうえで、周囲の反対を押し切ってその側室を正室へと格上げしたらしい。
シリガイの寵愛を受ける后の名は、ミクズといった。
シリガイは彼女の言う事なら何でも聞く。
賦税を厚くし離宮を設け、そこで彼女を侍らせ日夜酒宴を張っているという。
「その離宮ではな、庭の池が酒で満たされ、木々には肉がかけられているっていう話だ」
首都に上がった者はそんな噂を幾度となく耳にした。
鬼神を祀る事も怠り、后のミクズを巫女とする新しい礼を作って、伝来の儀式を廃してしまった。
このままでは天の怒りをかうのでは、と市井の民は噂している。
だが諫言した者はことごとく処刑されてしまうので、まともな者は諫める事を諦めてしまった。
最近では政府高官も中央を離れ隠遁してしまう者が跡を絶たないという。
なので、現在残っているのは甘い汁目当ての奸臣・佞臣ばかりだった。
「皇帝の行いを正してくれるのではと、皆が最も期待していたウタン様までもが左遷されてしまった」
ウタンとは徳のある人柄で民衆の信頼を集めていた重臣の名である。
そんな人徳者でさえ、左遷されたのではなく処罰を恐れ自ら地方へ落ちていったのだ、と言う者もいた。
真相はどうあれ、ウタン様なら、という淡い期待が砕け散った時の都の人々の落胆といったらなかった。
ではその新しい后が元凶なのかというとそうとも言い切れない。
というのも后の父は処刑されているからだ。
娘を通して政治に介入し権力を手に入れようと画策していたとしてもそれは事前に潰されたわけだ。
だが父の処刑の理由もはっきりとしていないし、処刑後も后は皇帝を恨む様子も見せず尽くしているそうで、その件に関しては謎となっている。
結局のところ今の政治の腐敗は宦官を中心とした奸臣の専横にある、という見方が強いが伏魔殿と化した宮廷内の本当の事は最早誰の知り得る物でもなくなっていた。
「ふん、そんなに非道いのか? だが贅沢と政治の空白で、よく金が続くのぉ」
バアバの感想は尤もで、実際、国の財政は火の車らしい。
属領からは絞り取れるだけ搾り取っており、飢饉でもおきたのかという非道い有様だという。
内から集められないのなら外から、と対外侵略計画があるらしく近々大きな戦争になりそうだとの専らの噂だった。
北のある地域では兵として使うためだろうか、異民族の奴隷が集められ南に移されているという話もあり、噂では片付けられない真実味があった。
「そんなにきな臭い事になっておったのか……。ならば、無理かのぉ……」
一通り聞いて、そう一人ごちたバアバ。
シマトはそれを聞き逃さず、
「何が無理なのだ?」
「いやさな、中央に上がる機会があるのならナアハをやってみようと考えとったんじゃ」
「え?」
まさかの話にナアハが驚く。
「おのしとあの時の数名は知っておる話じゃがの、皆にも聞いておいてもらうとするか」
バアバは、シマトを一瞥してから、
「このナアハの出自じゃがな、おそらくどこぞの貴族の娘なんじゃよ」
バアバはこの場にいる者に打ち明ける事にしたらしい。
この先、里術師達とうまくやっていくためにも秘密主義はよくないと判断したのだろう。
「もう一昔前の話じゃ。儂が薬草摘みに森へ入ったときじゃった」
それはナアハも初めて聞く、そして、いつかする、と言われてそれっきりになっていた話だった。