其伍拾陸
ゼーゼーと息を切らせて、それでも丁重に自分を降ろすシリガイを、ミクズは不思議な物でも見るかのような面持ちで眺めていた。
(私はこの人を操っているつもりになっていたけれど……)
違ったのだろうか?
よく考えたらこの男が私に執心し始めたのは、私が声の咒を使えるようになる前だ。
この男は、咒と関係なしに私を愛していたのだろうか?
名君と讃えられた程の男だ、咒が利かなくてもおかしくはない。
「どうしたのだ? ミクズよ。予の顔に何かついておるのか?」
やっと息が整ったシリガイがニコリと笑った。
「陛下……」
なんと返せばよいのか言葉が見つからないミクズだが、その訝しげな表情から察したのだろう。
「ミクズよ。予がそなたを救うことが、それほど不思議であるか?」
シリガイは入り口に心張棒を張る。
「陛下、私などのために、その大切な御身に何かございましては……」
「ハハハ、何が大切なものか。お前あっての予じゃ。他など、どうでもよい」
そう、どうでもよいのじゃ、……おっ、ちょうどよい物があるな、と小さな樽の栓を抜きながらシリガイは話を続けた。
「ふむ、そろそろ南に攻め入って、豊かな穀倉地帯を手に入れれば皆の不満も一掃出来ると思っておったのだがな、ちとのんびりしすぎたの。お主から離れて戦場に行くと思うと腰を上げられなかったのだから仕方もない。まあ、その分楽しんだ故、予は諦めもつくがな、ミクズよ、お主まで死なせてしまうのは申し訳がない」
中身を撒き終え空になった樽を置き、次の樽に手を伸ばすシリガイ。
「へ、陛下……」
ここが最期の場だと悟ったのだろう。
シリガイはいつもの酔ってだらしない様子とは違い、威儀を正しくしてミクズに向き合うと、静かにこう言った。
「予はお主を、心底愛しておったのだぞ。戦続きで荒みきっていた心を、そなたが潤してくれたのだ。覚えておるか?」
シリガイが目を細めて話すのは側室としてミクズが後宮に入ったばかりの事だった。
一人きりで知らない地に連れてこられたミクズは、泣いてばかりいた。
シリガイはこの美しい異民族の姫の機嫌をとろうと、西国渡りの珍しい菓子を与えた。
それを恐る恐る口にした時のミクズの、今まで味わった事のない風味と甘さに目を丸くし、その後ほんの一瞬だけ見せたあの、天女の微笑。
その微笑みにシリガイは心を奪われてしまった。
あの時からだった。
シリガイが、この美しい異民の娘の、あの笑顔をまた見るためならば、何でもするようになったのは。
だが、戦いに明け暮れ、戦い以外知らなかった不器用なこの皇帝は、愛情を物と権力誇示で表す事しかできなかったのだ。
最後の最後になってそれを言葉と態度で示せたシリガイは、晴れやかな顔つきをしていた。
(何よ、自分ばっかり吹っ切れちゃって……)
と思わないでもないミクズだが、
(そうだったのね。咒で操っていると思いこんでいた私って……あの神に、悲しい、って言われても、仕方ない、か)
自嘲するミクズは、この男と死んでやろう、戦う事しか知らない馬鹿な男だが、それもよいではないか、と、初めてシリガイに見せたあの時と同じ微笑を浮かべ、シリガイに向け両手を広げるのだった。
「延焼せぬよう周りの木を倒しておこう」
小屋は不自然なほど勢いよく燃えた。
その燃え方と匂いからすると、おそらく北から入ってきた燃える水を撒いたうえで火を放ったのだろう。
だとしたら水をかけても鎮火できないので、燃え尽きるまで待つしかない。
日が暮れ始め、空は小屋を包んでいた炎が移ったかのように真っ赤に染まった。
そして小屋は大きく崩れ、ようやく火が、治まった。
「陛下と皇后は……」
すぐに見つかった。
二人はシリガイの上着の下に抱き合うようにして死んでいた。
あれだけの炎に巻かれたのに顔が判別できるほどにしか焼けていなかった。
シリガイの上着に多少の防火効果があったためであろう。
ウタンは持ってきていた不思議な装飾の施された弓と矢を取り出し、ミクズの遺体の周りを複雑な歩調でゆっくりと回りながら、弓の弦を空に向かって打ち鳴らした。
そして矢を番えミクズに打ち込む。
この行為を、後世の史には革命の英雄が傾国の妖怪変化を討ち取ったと記され、英雄譚のように扱われるであろうが実際は、違う。
これはウタンの家に代々伝わる、邪を払い鎮める礼であり、鎮魂の儀式であった。
その爪弾かれる弦の音が響き渡ると、空気が浄化されていくように感じられた。
二本目が撃ち込まれる。
浄化されるのは空気ばかりではない。
炎の中で死んだ二人の念のようなものも、その響きによって中和され、自然に還っていくかのようであった。
こうして三本目の矢が打ち込まれ、革命は、成った。
革命が成し遂げられたが、その決め手となった鼠蠱は、命を、
落とした。




