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蠱術師ナアハと鼠蠱の"ちゅう"  作者: 岩佐茂一郎
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其伍拾肆

ナアハは涙で視界が歪むが、手にはちゅうがいるので拭えずにいた。


目の前がぼやけていても目指す相手がどこにいるのかくらいは見える。


(まばた)(たび)(こぼ)れ落ちる涙の粒は尽きる事がない。


ナアハは考える。


何故初めての造蠱なのに、ちゅうは神降ろしが使えるほど強力な蠱になったのだろう?


しかも主である自分に意識のない状態で、自ら咒式を体に描き込み発動させた。


そんな事が可能なのだろうか?


不思議でならないが、実際ナアハはそれによって救われているし、意識の底から起きていた事は全て見えていた。


ここでふと造蠱の(かめ)に鼠が残ったと知らせた時の、バアバの言葉を思い出した。


「甕の中で愛情をかければかけるほど、強い蠱になるんじゃよ。落とす血の中にたっぷり愛情を、魂を込めるんじゃ。さすれば完成したときに、奇跡の(・・・・)をも内包した蠱になるぞえ」


奇跡の技を内包した……。


まさにその通りだった。


ちゅうは奇跡そのもの。


《それは、我が主よ、あなたがたっぷりと血に愛を込めて、我に与えてくれたからだ》


ナアハの思考の中にちゅうが割り込んできた。


《だから我が主よ、泣くな。これは我が願い。聞き届けてくれて嬉しいぞ》


そう言うちゅうはナアハの手の中でへそ(・・)を上にして寝ている。


その安らかな面持ちにナアハは余計に悲しくなるが、一度決めたのだ。


《やるわよ。できる?》


そう言ってちゅうに両親指の先を少しだけ噛み切らせるとその血でちゅうに模様を描き込んでいく。


描いているうちに涙は止まり、心は凪いだ夜明け前の湖面のように穏やかになった。


一度神降ろしを体験したからであろうか。


どんな模様を描けばよいのか、考える前に指が動く。


言葉が音による咒なら、模様は記号の咒。


内より自発するそれを、ただ無心に描く。


模様を描いている途中でセタが話しかけてきた。


ナアハはセタがここにいる事を知っていたので、驚きはない。


自分を呼ぶあのときの声は聞こえていたのだ。


(ありがとうセタさん。来てくれたのね)


心の中で礼を言うが、まだ模様を描く集中を途切れさせるわけにはいかない。


だから、セタの問いかけにはただ首を振って応えておく。


模様を描き終わった丁度その時に、自分の父である、とセタが言ったウタンと言う男が話しかけてきた。


昏睡状態の意識の底で、父だという者が現れたときは本当に死んでしまってもおかしくないくらいに驚いた。


その男に話しかけられ心が乱れそうになるが、ちゅうに描いた咒式に影響があってはいけない。


あくまでもナアハは冷静に応える。


真っ直ぐ見た父の目は吸い込まれるような深みがあった。


今でなければその胸に飛び込んで泣きじゃくりたかったが、今ではない、今ではないのだ。


ナアハは后を倒すとはっきり宣言し、また歩みを進めた。


敵兵も邪魔をせず道を開けた。


ナアハは皇后が決着を望みそうさせたのだと直感した。


その皇后はもう目の前なのだが、


(何だろう?)


ナアハは違和感に歩を止めた。


皇后が何か仕掛けているような気がする。


それをさせてしまわぬ前に、


《ちゅう、いくわよ》


《うむ、我が主よ。やろう。さあ、呼びかけるのだ》


ちゅうと共に念話の感度を高めてゆく。


交信する相手は……


《イナハ! イナハ!》


后に取り込まれたバアバの狐蠱、イナハの真名を強く唱えると、


《……誰?》


応えがあった。


《今からアナタを解放するわ。協力して!》


時間がない、皇后に気付かれれば必ず妨害してくるだろう。


その前にやらねばならない。


それは、二人が別れを惜しむ時間がない事を意味していた。


《ちゅう、……ありがとう》


《うむ。さらばだ》


()わす言葉は短いが、今の二人にはそれで十分。


そしてナアハは、ちゅうに描き込んだ咒式を、




発動させた。




パッと世界が反転したかの様に暗闇に閉ざされたかと思うと、その闇を、


グラララガアアアーンッ!!!!


白光一閃、切り裂いた(いかずち)はミクズに、落ちた。




落雷の直撃を受ける一刹那(いっせつな)前、ミクズには外界の時が止まったように感じられた。


胸の奥、鼠蠱に降りた異国の神に射抜かれた所が(うず)く。


(あれは……やはり攻撃ではなかったのね……)


攻撃ではないから自分の防御をすり抜けた。


体内の狐蠱は、あの神に力を分け与えられ自我を取り戻したようだった。


圧倒的な力を持つ神が直接攻撃ではなく、イナハを目覚めさせるという力を削ぐ(・・・・)手に出るとは意外だった。


が、あの憐れみの眼差しは、何故そうしたのかの理由だったのかもしれない。


しかし、今更イナハが目覚めたところで接触は難しいし、万が一できたとしても真名で縛っている自分よりもイナハに強く影響を与えられる者など、元の主以外いるはずもない。


イナハを得て極めた操気術でミクズが張った防御壁は、どんな攻撃も壁を伝って散ってしまう様に工夫されている。


そう、私を倒すなどできようはずもない。


そのミクズの自信は、イナハが自分の中から抜け出ていく感覚と共に、崩れ去った。


どうして?


まさか、あの少女には、真名で縛った私より強くイナハに働きかけられる力があるとでも言うの?


イナハを取り込んだ事によって構築されていた力が消えていく。


それと入れ替わる様に、ある感慨が湧いてきた。


(そうだったのね……あの時、私は、……本当は死んでいたのね……)


イナハをその主である老婆から引き離したあのときの罪悪感。


あれを無視したあの時に、自分の魂は死んでいた。


その事にミクズは今更ながらに気付いた。


その後は本当の自分として生きていなかった。


ただ復讐心に生かされて(・・・・・)いただけだったのだ。


(でも……)


ミクズは思う。


(後悔はしていないわ)


唐突に時が戻り、イナハを失ったことで不完全になった障壁は雷に貫かれ、そしてミクズに直撃した。

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