其卌陸
「いったい……何してんだ?」
黙って見ておれ、と言ったきりナアハの手首に口を付けたまま動かなくなったネズミちゃん。
自分たちを囲む蠱術師や兵も大将とイサの蜂蠱だけでは抑えきれず、その囲みがどんどん狭まってくる。
しびれを切らしたフカオが、同様に固唾を呑んで見守るチトサとイサに尋ねたその時、ネズミちゃんが顔を持ち上げ今まで舐めていたナアハの傷口に滲む血に両前足を浸すと、その血で不思議な模様を顔に描き込み始めた。
また血を付け、次は肩、そして胸……
複雑奇怪な模様を描き上げてゆく。
「まさかッ!?」
出会ってから初めて発したイサの大声に、
「ど、どした?!」
フカオは、何事だ、と仰け反る。
元々青いイサの顔が更に青くなっている。
「あれは……鼠蠱が自らの体に咒式を? ありえない、ありえない、ありえ……」
消え入るように文字通り絶句するイサ。
「だ,だから、どうしたんだよ?! 鼠ちゃんは何をしているんだ?」
何でもいいから分かっている事だけでも説明してくれよ、とフカオがイサの肩を掴むとイサは無言でネズミちゃんを指差す。
「!」
見ると、ネズミちゃんの全身に描き上げられた血の模様が、蠢いているように見える。
いや、本当に動いている!
赤黒い線は揺れて膨らみ伸びて飛び出ると、ネズミちゃんの体の周りを、
ギュルギュルギュルギュルッ!
凄まじい勢いで旋回し始め、何かを形造っていく。
その動きに呼応するかのように天が暗くなり始め、地が鳴動した。
太陽はすっかり隠れ、辺りが薄闇に包まれたその時、
サアアアアァァァ……
ネズミちゃんの真上の天がだけが開き、光が降りてきた。
そう、まさに降りてきたのだ。
その光の先には、赤黒い、顔も何もない人の形をした何かが立っていたのだが、光を身に受けると徐々に色付き形を成してゆく。
そしてすっかり光がおさまったそこに立ってたのは、異国の衣を纏った一人の偉丈夫だった。
気付くと辺りは何事もなかったかのように、すっかり元の明るさに戻っている。
その偉丈夫はナアハの横で屈むと、ナアハに手を翳した。
フワアアァ……
その手から発せられた光がナアハを包み込んでゆく。
「あ」
チトサ達が驚くほどはっきりとナアハの顔色は良くなり、肩の腫れも跡形もなく消えた。
「もう大丈夫。じき目覚めるであろう」
偉丈夫は莞爾と微笑んだ。
ネズミちゃんなのか? と問いただそうにも何故だかフカオは声を出せない。
目の前の偉丈夫は自分と同じくらいの背丈しかないのに圧倒的な存在感があり、金縛りにあったようにどうしても動けないのだ。
ネズミちゃんだった男が立ち上がる。
フカオは丹田に気合を入れ、声を絞り出した。
「あ、あなたは、何者……ですか?」
自分の言葉遣いが改まっている事にフカオは気付いていない。
偉丈夫はゆっくりとフカオへ目をやり、
「我はこの娘の蠱に降りた神。 オオクニヌシとも、ダイコクとも呼ばれている。シヴァと言う名もあったな。 お主等人族は、我の総体をとらえきれぬ故、色々に見えるらしい」
そう応えてニコリと笑った。
尋ねておいてフカオは返事が出来ない。
そうした事に慣れているらしく、オオクニヌシは気にする様子もなく辺りを見回した。
取り囲む兵や蠱術師も目の前の出来事に呆気にとられて立ち尽くしている。
「うむ、少し片付けておくか」
オオクニヌシが腕を横に薙ぐと、周りの兵はフワリと浮き上がって、
「うわああっ!!」
ひっくり返され、持っていた弓も剣も戈も、全てが真っ二つに砕け折れた。
現実味のない光景に唖然とするしかない三人。
オオクニヌシの存在感から解放され動けるようになったが、今の事でまた固まってしまった。
「……神降ろし」
イサが呟く。
「イサちゃん、神降ろしって……あの?」
チトサのその問いかけに、ただ頷くだけのイサ。
神降ろしという言葉はフカオも聞いた事があったが、
「おい、そりゃあ所謂伝説、打明作り話だろ?」
「じゃあ、あれは、……なに?」
オオクニヌシを指差すイサの問いに、フカオは何も返せなかった。