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蠱術師ナアハと鼠蠱の"ちゅう"  作者: 岩佐茂一郎
45/57

其卌伍

「待って」


チトサが止めたのは、ネズミちゃんに伸ばしたフカオの手。


「何で止めるんだよ!」


瀕死の主を見限って野道に落ちるつもりなら、やめさせねばならないだろ、とフカオはチトサの制止を振り払うが、


「違うのよ! ちゃんと見て! 動脈に届いたり、無駄な血が出たりしないようにきれいに噛み切っているじゃない。食べるつもりならあんな噛み方する必要はないわ。ネズミちゃんになにか考えがあるのよ」


確かにそう見える。


そこに、


《その通りだ。黙って見ておれ》


ちゅうからの念話。


ピチョピチョと血を舐められた感覚でなのか、ナアハが薄っすらと意識を取り戻した。


「ナアハちゃん!」


わずかに身動(みじろ)いだナアハにチトサが呼びかけるが、それはナアハに届いていなかった。




毒の所為でナアハの視覚も聴覚も、五感の全てが()いていない。


だが、何かが手首を舐めるその舌のざらついた(ぬく)もりだけは何故かはっきりと感じ取れた。


(……ちゅう…なの? 何しているのかしら? 私の血を、舐めているの?)


舐められているところが何だかひんやりとする。


(そっか……)


ナアハは自分が今どうなっているのか理解した。


(私、肩に何か打ち込まれて……きっと毒だったのね)


これだけ感覚がないのだ。


(私、死ぬのかしら?)


そう思った時に自然と湧いてきたのは死への恐怖ではなく、


(ごめんね、バアバ。帰れなくなっちゃった……)


バアバに淋しい思いをさせてしまう、という申し訳なさと、


(ごめんね、ちゅう。私が死んだら、アナタ、普通の鼠に戻っちゃうわね)


遺してしまうちゅうへの心配だったが、ここでナアハはちゅうを造蠱甕(ぞうこがめ)から出してきた後にした、バアバとの会話を思い出した。


「ナアハや、よいか。大切な事だで、忘れるなよ。蠱に血をやってはならん、ならんぞ。そんな事をすれば術師か蠱、どちらかが死ぬしかなくなる」


いつにも増して厳しい面持ちでそう言うバアバ。


だが、知っている。


こういう時のバアバは、四の五の言わずに言う事をきけ、などという教え方はせずに、ナアハの疑問に出来るだけきちんと応えてくれる。


大事な問題を扱うときほどそうだ。


だからナアハも疑問に思った事は理解できるまで訊く。


「でもバアバの蚤蠱はバアバの血を吸っているんでしょ?」


「そうじゃよ。蚤はそもそもが血を吸う生き物じゃろ。吸わせる量を間違えなければ問題はおこらん。じゃがな普通の蠱に血をやると、思い出させてしまうんじゃよ」


「何を?」


「造蠱の甕の中で味わった、主の血の味をじゃ」


そんな事ってあるの? とナアハが驚きの眼差しをちゅうに向けると、さっと視線を(そら)されたような気がした。


「蠱はな、甕の中で命をつないだ主の血の味を忘れてはおらんのじゃ。術師が未熟で蠱の(もと)が強い生き物じゃとな、隙きを見つけて主を襲う事があるんじゃよ。そうして主を食い殺して野道に落ちる。それは蠱術師と蠱、どちらにとっても不幸な事じゃ」


「へえ〜。ならどうして造蠱の仕上げに血を与えるの? それがなければ血の味がどうのっていうのも気にしなくていいじゃない?」


「確かにそうじゃな。儂も初めての造蠱の時にはそう思った」


バアバは懐かしそうに目を細めた。


「じゃがな、血には遥か昔、人が海から出てくるその前からの記憶が詰まっておるのじゃ」


「え? 人って海から来たの?」


「本当のところは分からんが、儂は師であった母からそう聞いておる。母もその師からそう聞いたそうじゃ。ただ、そう考えれば色々と納得のゆく事もある。血は塩辛いじゃろ? 海の水も同じだそうじゃよ」


「へえ〜」


「ともかくな、その血の中の記憶はな、術師一人一人それぞれが違うものを持っているのじゃ。その特有の記憶のようなもので蠱との絆を造り上げる為にな、血を与えて造蠱の仕上げとするのじゃよ」


血に刻まれた記憶の秘密、そういった難しい事はまだ理解できなかったナアハだが、ともかく、ちゅうが自分の血を飲んで自分だけの蠱になったのは間違いない。


ずっと一人だったナアハは、兄弟が出来たようで嬉しかった。


(バアバは蠱に血を与えちゃいけないって言ってたけど、どうせ私は死んじゃうんだからもういいわよね? ちゅうにはもとの鼠に戻るんじゃなくって、一人でも生きていけるように強くなってほしいわ。強くなっても悪い事なんてしないでしょ?)


野道がしでかす悪事の話はナアハも聞いた事がある。


だが、白蛇使いにあの様に言い返したちゅうがそんな事をするとは思えない。


だからナアハは、手首を舐める感覚の先に向かって、


(ちゅう、あの時、あなたを勝手に造蠱甕に入れちゃってごめんね。でも、私の蠱になってくれてありがと。短い間だったけれど、とっても楽しかったわ。私の命を、全部あげる)


こんな気持ちで血の中に魂を込めるように意識を集中した。


返事など期待していなかったが、薄っすらと遠くの方でちゅうの声が聞こえてくる。


《これだけで十分だ、我が主よ、あなたは死なぬ。我が死なせぬ。思えばあのうまい酒粕から全てが始まった。我が主よ、あなたの血はあれに劣らず美味い。これが再び味わえたのだから思い残す事はないぞ》


そう言って、ちゅうが不敵に笑った気がした。


《待って、ちゅう。どういう意味?》


ここで血に魂を込めすぎたためか、それとも血を失いすぎたためか、再びナアハは意識を闇の中へと沈めた。

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