其肆
「バアバ……何が残っていたと思う?」
母屋に戻ってきた少女は、血を与えるために切ったところにすり潰した薬草と油を練って作った軟膏を塗りながら、囲炉裏で何かを煮ている老婆に尋ねた。
「なんじゃ、猫か……蛇ではなかったのかえ?」
囲炉裏にかかった鍋をかき混ぜていた匙を、とんとん、と縁に軽く打ち付け汁を払いながら老婆が問返すと、
「それがね、びっくりしたわ、鼠だったの……」
「なんじゃと……? まさかに……」
匙を引っ込めようとした老婆の手が止まる。
「本当よ。鳴き声が聞こえたもの。暗くてよく見えなかったけれど、血だって口で受けたみたいだったわ」
その血を再現するかのように匙から滴が垂れ、ピチャリ、と思いの外、大きな音を立てた。
「ナアハや……それが本当なら、なかなかじゃぞぃ……」
老婆は匙を小皿の上に置いて鍋に蓋をする。
「なかなかって?」
ナアハと呼ばれた少女は軟膏を塗った上から殺菌効果のある葉をよく揉んで当て、包帯で固定した。
「ただの鼠蠱なら珍しかねえがな、猫も蛇も入れたのに生き残ったとなると……めったに造れるもんじゃねえぞ」
「そりゃあ……」
猫や蛇の入った大甕の中で鼠が生き残る確率は、低い、などというものではない。
奇跡に近い事くらいはナアハにも理解は出来た。
だが、そんな理解では足りない、とばかりにバアバは続ける。
「なあ、ナアハや。 お前が泣いて嫌がった造蠱はのぉ、自然界の営みを濃縮したもんじゃ」
「それは、 何度も聞いたわよ」
ナアハが目を泣き腫らしていたのは、十二の歳になる前に造蠱をしなくてはいけなくなったからだった。
数年前からこの国では蠱術師の登録制度が始まった。
権力側ではなく、民間に発生し広まり発達した蠱術。
それを扱う蠱術師を国家が管理する等、その性質に合わない事は分かりきっている。
が、権力には逆らえない。
バアバは仕方なく登録し、その時はまだ話せないほど小さかったナアハを蠱術師として育てるかどうかは決めていなかったが、親のないこの子にとっては身元証明くらいになるだろうと軽く考えて登録してしまった。
蠱術師の家に生まれた赤子でも登録可能になっていたからだ。
それだけなら問題はなかったのだが、数年後、新たな御達しがくる。
『全ての蠱術師は、己の蠱を少なくとも一つ登録、若しくは成人までに造蠱し、それを登録する事。違反者には蠱術の使用を禁ずる』
この勅命の為に、ナアハは意に染まぬ造蠱をする事になった。
これを拒否した場合、どんな目に合わされるか分かったものではない。
今の皇帝府はそうした物である事くらい地方に住むバアバやナアハにもよく分かっていた。
なので、まだこの国で成人とされる十二になるまでには間があったが、ナアハの習得が思いの外早かった事に加えて、星の並びが滅多にないほどよい物である事もあってナアハは造蠱を行ったのだった。
造蠱。
それは数多の生き物を死に追いやって成る蠱術の秘技である。
狭い空間に、無数の毒虫や小動物を閉じ込め、殺し合い、喰い合いをさせる。
そして生き残った最後の一匹に己が血を与え育て上げると意のままに動く使い魔が出来上がる。
それが蠱だ。
蠱術が扱う素材は様々でこうした毒虫だとかを使わずに行う造蠱もあるが、蠱術を極めるためにはこの生き物を使う造蠱の習得は避けては通れぬ、とバアバはいう。
それをしなくてはいけないと聞かされた時、ナアハは恐ろしさに泣いて拒否した。
が、造蠱し登録せねばこの先ナアハは、蠱術の使用を禁じられてしまうという事、自分らだけではなく此の地域の蠱術師も連帯責任を負わされ酷い目に合わされるかもしれないという現実、いや、特に親しくもない地域の蠱術師は正直どうでもいい。
蠱術を教える時以外は優しいバアバに危害が及んでは、との思いと、造蠱は弱肉強食の自然界を濃縮して力を与える技術であり人が手を加えなくても行われている自然の営みで、それに対して可哀想等と思うのは人の勝手な感傷である、というバアバの言葉で最後は折れて造蠱を始めた。
尤も、ナアハは蠱術使用の権利と連帯責任によって他に迷惑をかけてはならないという事に折れたのであって、造蠱が残酷な技ではないというのには納得していなかった。
そんなナアハの心を見抜いているかのように、フン、と鼻を鳴らした老婆が、
「いんにゃ、ナアハや、聞くんじゃ。自然界の縮図ってこたあな、自然界で起きねえ事が起きたりはしねえ、ってえ事じゃ。自然界で猫や蛇に、鼠が勝つなんて事があるかえ?」
「……それは……」
「ねえじゃろが? その起きるはずのねえ事が、お前の造蠱甕の中で起きたんじゃ」
そう言われて、ナアハは空恐ろしくなってきた。
「バアバ……大丈夫なのかしら?」
「何が?」
「起きるはずのない事が起きたって、今……」
「まあ、起きるはずはないというてもな、何事にも絶対なんぞありゃせん。例外はつきもんじゃよ。生き残ったお前の鼠はその例外じゃ。そしてな、蠱は例外であればあるほど強いもんじゃて」
別にナアハは強い蠱が欲しかったわけではないので、そんなことを言われても、という顔になっている。
だが、バアバは次第に事の重大さの実感が湧いてきたらしく興奮し始め、
「なあ、ナアハや。蠱はな、甕の中で愛情をかければかけるほど、強い蠱になるんじゃよ落とす血の中にたっぷり愛情を、魂を込めるんじゃ。さすれば完成したときに、奇跡の技をも内包した蠱になるぞえ」
ナアハが聞いているのか理解しているのかなどはお構いなしに捲し立てる老婆。
「蠱はの、完成したところから成長するが、その上限は決まっておるのじゃ。言い換えれば完成させるまでの手間が蠱の上限を決めるんじゃよ。勿論その後の育て方を誤ればその力は引き出せぬがな。ない力を引き出す事ぁできぬのもまた道理じゃ」
こんなふうに話すのを見ると、やはりバアバは蠱術師なのだな、とナアハは思う。
バアバ自身は蚤蠱、蚤で造ったちっぽけな蠱、を登録して他の若い蠱術師に蔑むような目で見られていた。
その時は悔しくて、何故もっと強力な蠱を造らないのだ、とナアハは尋ねたが、何だい、造蠱は嫌いなのではなかったのかえ? と大いにからかわれて閉口した物だ。
「蠱はな、ナアハや、強けりゃいいってもんでもねえのだぞ。要は使い方じゃ。毒と一緒じゃよ。強い毒は人を殺すのにしか役立たぬが、薄めて使えば薬になる」
そう言われてナアハはなるほどと思った。
確かにバアバを下に見るようなのは若い術師だけで、ある年齢以上の者はバアバに敬意を払っているのが見て取れた。
そういえばいつだったか、バアバは天塩にかけて育てた蠱をある事で失いそれ以来大きな生き物の造蠱はしなくなったのだ、と教えてくれた蠱術師がいた事を思い出す。
ともかく、バアバも造蠱が好きなわけではないと思っていたナアハは、バアバの反応に面食らっている。
「鼠蠱の真名を早う決めるのじゃな」
「真名かぁ……」
真名とは術者しか知らない蠱の名であり、それによって蠱を操る。
よって決して他者には漏らしてはいけない、と造蠱の技を教わったときにしつこいくらい言い含められた。
「もう考えてあるのかえ?」
「ええ、いくつか候補があるの」
「どんな?」
「えっとぉ……」
とナアハがその候補を挙げそうになった時、バアバの杖がナアハの頭を打った。
「痛ぁ〜いっ!」
頭をおさえるナアハに、
「これ! 教えてはいかんとあんだけ言うたじゃろが!」
呆れを含んだバアバの叱責が飛んだ。