其拾肆
シマトが扉を閉めて直ぐ、
《主様》
《来たか、イナハ》
現れたのは狐蠱。
バアバの連れ合いは、元々この邑の男でイヌホといった。
そのイヌホに先立たれ侘しさに耐えられず、バアバは造蠱をした。
いや、造蠱しようと思って造ったのではない。
きっかけは偶然、そして突然やってきた。
薬草採取に入った山中、巣穴の中でたった一匹生き残っていた餓死寸前の小狐をたまたま見つけたのだ。
母狐は狩られたのか罠にかかったのか、それとも他の大型獣に喰われたのか、ともかく帰らぬようで小狐の兄弟はこの一匹を残して已に死んでいた。
甕に入れて喰い合いさせた生き残りを育てるだけが造蠱の方法ではない。
難しく成功率は低い上に時間もかかるが、己の血と様々な霊薬を少しずつ与え育てる造蠱もある。
バアバは仕方無しに、その方法を以て子狐を己の蠱とした。
見ぬふりも出来まい、関わってしまったのじゃから仕様もない、等と誰もいないのにブツブツと言い訳をした心の奥底には、今思えば一人になってしまった寂しさがあったと素直に認められる。
バアバは亡夫の名、イヌホの女性形をその狐蠱の真名とした。
今では自分の娘の様にかわいがっている。
またイナハも蠱とその主であるという事や命の恩人であるという事を超えてバアバに懐いていた。
《さあ、イナハ、この娘の中に巣食う蠱を誘き出して、眠りの術を施すぞい》
なぜ娘が意識を失っているのかは分からぬが、体内の蠱の力が強すぎてそれに抗う為ではないかとバアバは推測していた。
ならば蠱の力を弱めれば、娘は一時的に目を覚ますかもしれない。
冬眠状態、できれば仮死状態に持ち込んで娘の体を侵食する速度を遅くしようという算段だった。
それには先ず、この娘の体に巣食っているのが何を素に造られた蠱であるのかを見極めなくてはならない。
バアバはお付きの若武者に、解蠱の手立てはない、と言ったが、実は侵食の初期段階ならば蠱が顔を出したときに引きずりだし、剥がす事もできる。
だが昏睡してから已に何日も経っているという話だし、これだけの気を発しているのだ。
蠱は娘の体の重要な臓腑と融合し、大きく成長してしまっているに違いない。
そうなると引き剥がすことは最早不可能だった。
だから眠らせる。
その為にイナハを嗾けるのだ。
イナハを嫌がり、追い払おうと腕の一本でも見せればしめたもの。
しかしそう上手くはいかなかった。
「な、何じゃ?!」
《主様!》
娘の体から分泌された何かネバネバした液体が部屋中に飛び散る。
その量がおかしな事になっている。
この華奢な娘の体の中からこれだけの量が出てくるはずがない。
ということは……
《い、いかん、逃げるぞ、イナハ!》
この液体はそのほとんどが何かしらの霊的な物でできているはずで、娘の中の蠱が出したのは間違いない。
この量を出せる蠱であるという事は、その霊力は尋常ではないという事になる。
そしてこの粘液噴出の目的は、バアバ達を害する事。
《主様! 動けない!》
イナハの言うとおり粘液に足をとられバアバも動けなくなっていた。
外に助けを呼んでも犠牲者を増やすばかりであろうが、あの若武者は腕が立つようだった。
優れた武者の一太刀には破邪の力が宿るという。
蠱に斬りつけて貰えれば、事によると助かる目が立つかもしれん、とバアバが外に声をかけようとしたその時、
《無駄よ》
頭の中で声が響いた。
イナハの物ではない。
《……お前は、その娘の……》
《そうよ》
(なんと!?)
バアバは驚愕する。
声の主は娘の中の蠱だった。
普通、蠱は念話を使えたとしても施術者であるその主とだけだ。
主ではない者と念話で接触できるのなら、その蠱はバアバの想定の何倍も強力だという事になる。
解蠱など以ての外で、まさに手出しならぬ危険な蠱だ。
それを見抜けなかった己の未熟さを呪うがもう遅い。
《ねえ、話があるの》
(いかん!)
強力な蠱から持ちかけられた話に乗ってはいけない。
それは間違いなく咒であるからだ。
もう形振り構ってなどいられない。
「助けろっ! 誰かぁっ!」
バアバは外へ叫ぶが、
《無駄と言ったでしょう》
含み笑いのような声が頭の中で響く。
部屋の壁は粘液で覆われ、それが外部との接触を阻んでいると気付いたバアバ。
そんな事ができる蠱毒など聞いたことがない。
格が違いすぎる、と冷や汗が止まらなくなるバアバ。
死を覚悟する。
だが生きる事を諦めると却って腹が据わった。
(イナハだけでも逃したい)
己の蠱であるイナハは自分が死ねば、蠱としての力を失ってしまう。
しかし、普通の狐としてなら生きてはいける。
自分との事は忘れてしまうだろうが、バアバはそれでもよかった。
イナハはこの数年、イヌホのいない寂しさ、心の隙間を埋めてくれたのだ。
なんとしてでも助けたい。
だが、娘の蠱からこんな念話が送られてきた。
《ふふふ、こんな田舎で狐蠱とは。私は運がいいようね》
運がいい? どういう事だ? と、考えを巡らせる間もなく、
「ぬ!?」
足に絡まった粘液が、バアバとイナハを娘の方へと引き寄せ始めた。
足を掬われた形になり尻もちを突くバアバは何か使えるものはないかと道具袋を弄るが、ジュルリッとそのバアバを大量の粘液が覆って動きを封じた。
《あら?》
娘の蠱からの戸惑いの声。
バアバと同じく大量の粘液でイナハを絡めとろうとしたようだが、イナハは気を操ってその粘液が完全に自分の体を覆うことを防いでいた。
《これはいい。まだ小狐なのに操気術を使えるなんて。拾い物だわ》
何故か娘の蠱は喜色を表している。
《主様、逃げて!》
イナハは自分を絡めていた粘液を気で払いきると、今度はバアバを捕らえていた粘液も気を発して散らす。
《イナハ、そんなに力を使ってはいかん! 死んでしまうぞ!》
明らかにイナハが使える気の量を超えている。
《いいから! 逃げて!》
バアバと娘の間に入って背でバアバをかばうようにするイナハ。
そんなイナハの行動を、
《まあ、主人思いなのね。どうして? 利用されているだけじゃない》
揶揄するような念話が飛んでくる。
逃げろと言われたバアバにイナハを置いて逃げるつもりなどなかったが、助けを呼ぶ為に扉を開ける必要もある。
扉に駆け寄り開こうとするが、厳重に粘液で封じられていた。
これをどうにかしなくてはいけない。
これを払うには……
(塩か!)
思い至ったバアバは塩袋を取り出し扉に投げつけた。
《あなた、優秀な蠱術師のようね。でも残念》
扉を覆っていた粘液は塩によって一瞬取り払われたが、その量を上回る粘液で新たに覆われてしまった。
もう手持ちの塩はない。
ああ、っというバアバの落胆を聞き、
《引きずり出して喰ってやる!》
イナハが娘の体に飛びかかる。
「やめんかッ!」
バアバは止める、が、遅かった。




