其拾參
扉が閉まってからそれなりの時間が経ったが、部屋の中からは何も聞こえてこない。
ただの治療であれば大きな音など立たなくとも不思議はないが、御婆様は蠱を呼び寄せていた。
蠱による解蠱なのであれば、娘の体の中の蠱も黙ってはいないだろうから音がせずに済む筈はない。
なのにこの不自然な静けさは何だろう?
そうシマト達が訝しがりだしたその時、扉が開いた。
中から歩み出てきたのは嘘のように回復した娘だった。
その姿を見た途端、里術師達は魂が抜けたように動けなくなった。
その美しさに、かもしれない。
後から考えるとそれだけではなかったような気がするが、では何故か、と問われても応えようはなかった。
お付きの武者だけは動けなくなったりせず、踊りださんばかりに喜んでバアバに礼を言う為に部屋に入ろうとするが、
「いいのよ。解蠱に力尽きたようだから寝かせておきなさい」
そう娘に止められ、
「それより、礼代の用意はあるの?」
との下問。
今持っているだけの全てをとりあえず置いて更に残りは後日とどける、という事になった。
ただし、他言無用、今日あったことは全て忘れろ、との事。
拒絶する理由もないので約束すると、貴族娘は従者とともに早々に帰っていった。
何が何だかわからぬうちに全てが終わり里術師達は、夢であったのか、何かよからぬ物に誑かされたかのような心持ちであった。
そういえば御婆様はどうしているのか、と部屋に入ると、床の真ん中で倒れている。
「お、御婆様!」
駆け寄り水を口に含ませると、
「むうう……」
目を覚ました。
「御婆様! どうした、何があった?!」
まだ呆然とするバアバは、その問にただ一言、こう応えた。
「儂の蠱が……持っていかれた……」
こうしてシマトは話を終えた。
扉の中で何があったのか、バアバは今日まで誰にも明かしてはいないが、
「御婆様は我等がせねばならぬ事の肩代わりをしたばかりに、己の蠱を失ったのだ」
語らずとも何かとんでもない事があったという事くらいはシマトにだって分かった。
そして、
「後日約束通り残りの謝礼も届いた。御婆様はそれには一切手を付けず邑の税として使えと渡してくれたのだ。かなりの額でな、そのおかげで税がいかに重くなろうとも未だに払い続ける事が出来ておる。お前ら、おかしいとは思わなかったのか? 他の邑では餓死者が出るほどの苛政にあって我らだけいつも通り暮らせているのだぞ?」
シマトの話によって、バアバが特別扱いを受ける事に不満など持てようはずがないと誰もが理解した。
重苦しい空気の中、ナアハは隣のバアバにだけにきかせるつもりで、
「私、行くわ」
と、言ってみるが、部屋は静まり返っていたので声を発した当のナアハも驚くくらい響いた。
皆の視線を集めてしまい赤面して俯くナアハに、
「行くって……都へかえ?」
バアバは意外そうに尋ねる。
まさかナアハがそうした意志を自ら、特にこれだけの人のいる中で示すなどとは思ってもみなかったからだ。
応えるまでこの注目から逃れられないと悟ったナアハは、
「うん」
短く、だがハッキリと応えた。
「……そうか」
何故そう決意したのかは後で訊けば良い。
ともかくそう決めてしまってこの場を出よう、とバアバは立ち上がった。
「何だ、今から帰るのか? 今夜は泊まっていったらどうだ? もう夜も更けた、夜道は……」
危ないぞ、と言おうとしてシマトは言葉を呑み込んだ。
バアバにとって闇は寧ろ身を護るのに有利に働くのだろう。
「都に上がりたいという者が他におらぬならナアハが行っても構わんかの?」
「そ、それはもちろんだが……何のために招集がかかっているのか分からぬのだぞ?」
「まあ、取って喰おうというわけでもなかろ。態々、勝ち残った者との指定じゃ。優秀な蠱術師を欲している以上、直ぐに危害を加えたりはせんと思うぞ」
「そうだろうか? まあ、ナアハが行ってくれるというのならありがたい。我々は乗り気ではなかったのでな」
皆、田舎の里術師だ。
できれば一生邑の中で過ごしたい。
一時的な商用ならともかく、都に上がって一旗あげようなどという気概を持つ者はいなかった。
詳しい話は後日という事にして邑を出るバアバとナアハ。
満天の星は、まるで降り注いでくるかのようであった。
その星空を仰ぎ見る鼠蠱を頭に乗せ先を歩くナアハ。
都に行く気になった理由をバアバが尋ねる前に、ナアハの方から話しだした。
「ねえ、バアバ。私が都に行って……もし帰ってこなくても、バアバは大丈夫?」
前を見て歩きながらそう尋ねるナアハに、バアバは、
「なんじゃ。儂の心配なぞまだ早いぞ。もし親族を見つけたのなら一緒に住むがええ」
鼻で笑って応えるが、
「違うわよ」
ナアハはくるりと振り返って、
「都に上がるのは、確かに血のつながりのある人を探したいからだけれど……一緒に住みたいとかそう言うんじゃないの」
「じゃあ、何じゃ?」
「探し出して、お母さんが私を庇って死んだって事を報せて……、それからどうするかは分からないけれど……」
それで行く気になったのか、と納得するバアバ。
「お前を庇って死んだわけではないじゃろが。自分を責めるな」
そう慰めておいて、
「じゃが、母親の事を報せる事でお前の気持ちに区切りがつくのなら、それもいいかもしれんな」
賛成するバアバ。
しかし、だとすれば、帰ってこないというのはおかしい。
それは、
「何だか都は危ないみたいじゃない? 万が一があったらって思って」
「そうじゃな。であれば今、態々行く必要もないかのぉ」
先送りしてみてはどうじゃ、というバアバに、
「でもそうしていたら何時行けるか分からないし、もし戦争が始まったらもっと危なくなったり、探さなきゃいけない人たちが死んじゃったりするかも知れないし……」
それも一理ある。
「だから今行きたいの。いいでしょ?」
「ああ、お前がそれでいいと思うのなら、儂は止めはせんよ。もう年だでな、ついて行ってはやれんが……」
「ありがとう。でもバアバに習った蠱術もあるし、大丈夫よ。このネズミちゃんもいるしね」
頭の上のちゅうを手に移すと、そうだぞ、自分がいるのだから大丈夫だぞ、とでも言っているかのように後ろ足で立って踏ん反り返って見せる鼠蠱に二人は笑った。
"ネズミちゃん"
ナアハは"ちゅう"をネズミちゃんと呼ぶ事にしていた。
何か呼び名を決めておかねばうっかり真名を呼んでしまいそうだからだ。
《ちゃん、はやめよ。ただの鼠でよかろう》
ちゅうはそう抗議したが、ちゃんが付いていなくては渾名っぽくないというナアハの謎のこだわりでちゅうの抗議は却下された。
それはともかく、確かに造られたばかりなのに念話を使いこなし、戦い方も心得ているこの鼠蠱がいるのなら大概の事は切り抜けられるかもしれない。
「そうか……。じゃが過信は禁物じゃぞい」
ふむ、今日はそういう日のめぐりのようじゃな、とボソリと呟いたバアバは、
「ナアハや。これは誰にも話しておらぬ事じゃがな、先程シマトが皆に語ったあの娘の話じゃ。部屋の中で何があったのか、話しておこう。こんな恐ろしい蠱もおるっちゅう事は知っておいたほうがええ」
と、あの日、あの部屋の中での出来事を話し始めた。