其拾
(なんじゃ?)
獣の気配にしてはおかしい。
此方を窺っている気配はあるが、獣であるならこの距離まで近づけば逃げていくだろう。
怪我をしているか罠にかかって逃げられない可能性もあるが、そういった手負いの獣がいかに危険であるのかを森で暮らすバアバは十分承知していた。
《いけ》
蚤蠱を放つ。
所詮、蚤なので偵察の報告をさせたりは出来ない。
こういう時はもう少し知能の高い生き物で造蠱しようかとも思うが、もうあのときのような思いはゴメンだ、とそれはしない事を誓っているバアバ。
必要は発明の母とはよく言ったもので、報告させるのではなく蚤蠱を通して見る方法を編み出していた。
ほんの少し自分の血を吸わせ、その共鳴を利用して短い時間だけ感覚を共有するのだ。
蚤の視界は人族のそれとは全く違うので初めは戸惑ったが、慣れれば何があるのかくらいの判別はつくようになった。
そして今見えているのは、
(人……女か?)
熊、狼等の猛獣の類や盗賊、野武士ではないと断じ近寄ってみる。
「これ、どなたかいらっしゃるのかえ? 儂はこの森に住む者じゃ。お困りなら話くらいは聞くぞえ?」
いきなり刺されたりしても面白くないので、そう声をかけながら近づくと、
「お、 お願いです……」
真っ白な顔をした女が茂みからゆっくりと姿を現した。
元々肌が白いのだろうが、それだけではない。
(死相じゃ)
幾人もの死に立ち会ってきたバアバには直ぐに分かった。
この女はもう助からない。
女はよろけて前のめりに倒れそうになるが、布で包まれた何かを抱いていて、それをかばうようになんとか踏ん張った。
「どうなされた?」
慌ててバアバがよると、女はその抱いている布包と懐から取り出した小さな革袋をバアバに託し、
「……娘を、お願い、します」
それだけ言うと今度は、
ズサリッ
崩れるように倒れた。
女の背には今まで動けていたのが、いや、生きていたのが不思議なくらいの大きな刀傷。
(おなごを、それも後ろからこの様に切るとは……)
卑劣な奴もいるもんじゃ、と怒りを覚えるバアバ。
渡された包がモゾリと動いた。
布を捲ると、
「なんと……」
赤子が包まれている。
娘と言ったからには、死んだ女はこの赤子の母親なのだろう。
どうしたものか、とバアバが手がかりを探ろうとしたとき、
「おい! 動くな! こっちを向け!」
後ろから声がかかった。
「動いちゃならんのか、振り向かねばならんのか、どちらかはっきりせぇ、馬鹿者め!」
悪態を吐くバアバはすでに蚤蠱を放っている。
声をかけたのは野武士崩れの男。
他にはいないようだ。
一人ならば直ぐに殺す必要もない、と判断したバアバは、蚤蠱に命じて男の踝に二種類の毒を打ち込ませた。
一つは男の動きを封じる毒、もう一つは……
「グッ?」
体の異変に気付いた男。
だがもう手遅れだ。
激しい目眩に襲われ立っていられなくなる。
倒れても天地がぐるぐると回り二日酔いとは比べ物にならない吐き気に襲われた。
「な、何をしやがった?!」
喚きたいが自分の出す声も頭に響く。
「楽になりたけりゃ訊かれた事に応えるんじゃな」
バアバは怒りを押し殺して男に尋問した。
「先ず、この死んだオナゴは誰じゃ?」
「し、知らねえ、どこだかの貴族の奥方だそうだ」
「殺した理由は?」
「殺すつもりじゃなかった。捕まえるはずだったのが逃げ出しやがったんで切ったんだ」
「お前がか?」
「俺じゃねえ」
「では誰がじゃ?」
「仲間だ。名前は知らねえ。この仕事のために別々に集められた」
男が何の躊躇いもなくバアバの質問にペラペラと応えるのは蚤蠱が打ち込んだもう一種類の毒、自白薬の為だった。
「あの女を捕まえて何をしようとしていた?」
「そ、それも知らねえ」
「雇い主は?」
「知らねえ、前金に銀貨三枚、成功すれば金貨を払うって……」
「ふん」
ここまで聞いてバアバは、この男は汚れ仕事のために集められ終われば消される憐れな捨て駒に過ぎぬ、と見極めを付けた。
「仲間は後、何人いる?」
「俺の他に二人だ」
二人もいるのか、と舌打ちしたバアバはこれ以上この男から有用な情報は取れまいと判断し、
「では、約束通り楽にしてやる」
蚤蠱に新たに毒を打ち込ませた。
「あ……」
男の目から光が消える。
自分が死ぬとも気づかず逝っただろう。
それがバアバの情けといえば情けだった。
(さて……)
ここでもたもたして、まだ二人いるらしい仲間に見つかっては厄介だ。
だがバアバ一人の力では遺体をどうにも出来ない。
そこでバアバは急ぎ里術師のシマトを頼った。
女の身分が貴族ならば、里としてもいざこざに巻き込まれたくはない。
シマトは内密に屈強で口の堅い者を数人集め、バアバと現場に戻る。
幸い遺体はまだ発見されずにそのままになっていた。
もう味方がいるので遺体の始末を急ぐ必要もない。
バアバは調べを始める。
血の跡を蚤蠱で辿ると、女は崖から落ちてきたと分かった。
赤子を守るためとはいえ、よくあの傷でこの崖を落ちた後あそこまで行き着けた物だ、と皆で唸った。
崖の上に人の気配がある。
他の術師も各々の蠱を放つとバアバの言う通り二人の破落戸風の男を確認できた。
蠱を使い彼らを始末してから上に登ると造りの上等な馬車が停まっていた。
馭者は矢で心の蔵を射抜かれて即死していた。
侍女らしき女二人も無残に殺されている。
護衛などはいなかったようだ。
もしバアバに赤子を託した女がこの者達の主人なのだとしたら、護衛も付けずにこのような田舎の間道を急ぐ何かしらの理由があり、その行動は筒抜けになっていたか、そうするように仕組まれていた、という事になる。
その理由の一端でも分かれば、と馭者や侍女達の遺体、馬車の中を調べるが、何も出てこなかった。
身元を示す物すらない。
無論、破落戸達にも、更には下で死んだ女にも何もなかった。
遺体を埋め、馬車も処分し、馬は遠くの市で足がつかぬように売り捌く事にする。
惨劇の痕跡は念入りに消された。
赤子と一緒に渡された革袋の中を確認するとぎっしと金貨や玉が詰まっている。
だがやはり、袋からは何の手がかりも見つからなかった。
「手間賃じゃ」
バアバが袋ごとシマトに渡すと、
「御婆様……これは、なかった事にするという……?」
革袋を受け取ったシマトが青い顔で確認する。
「そうさな、女は貴族のようじゃからの。その方がよかろう」
「では、赤子はどうする?」
「そうじゃった……。では、儂が引取ろう」
その赤子が、ナアハだった。