其壹
鼠の鼻が捉えたのは、今までに嗅いだ事のない芳しいものだった。
警戒するも、その匂いには抗えずそれが漂い来る方へと近づいてゆく。
目に入った香りの元は、何かの白い塊だった。
それが酒粕である事をその時の鼠は知らなかったが、
(タベタイ)
衝動を抑える事は出来なかった。
周りの様子を窺いながら慎重に、しかしできるだけ素早く近づく。
人や猫の気配はない。
一歩進んでは止まり、周りの匂いを嗅いではまた進む。
それを繰り返して終に鼠は白い塊に鼻が届くところまで辿り着いた。
その鼻を強烈な匂いが突き刺す。
もうここまで来たのだ。
我慢などできない。
鼠がそれに齧りつくと、
ガシャンッ!
大きな音に跳び上がる鼠。
閉じ込められたと知り慌てて逃げ道を探すが、そんな物はどこにもない。
チュゥ〜、チュゥ〜、
少しの間、情けない声でないていたがこの鼠は普通ではなかった。
なき続け出口を求めて無駄にジタバタしたりせず、思い出したかのように酒粕を味わい出した。
(ウマイ)
酒粕の塊を前足で抱えこんでガツガツと貪り喰う。
食べ終わっても指の間に残ったそれを丁寧に舐め、もうその味もしなくなるとやっと満足して、寝た。
どれだけ経ったのだろうか、
「あら? ……あなた、寝てたの?」
鼠はそんな声と、浮き上がるような感覚に目を覚ます。
声の主は人族だった。
小さい。
子供であるように見える。
だが鼠からすれば十分大きく、何をされるのかと怯えた。
持ち上げられて自分が籠の中に囚われている事を思い出す。
好きにされてなるものか、と籠を持ち上げる指を隙間から噛んでみたが、厚い革手袋に阻まれた。
「あら、かわいい顔して凶暴なのね。酒粕は……」
少女は籠の中やそれの置いてあった所を確認し、
「まあ……、あれだけの量、お前一人で全部食べたの? それでグーグー寝ていたわけね。 あなた、小さいのに大物ね」
うふふ、と笑った少女の目が腫れている。
人が見れば泣き明かした為だと分かっただろう。
だが勿論、鼠にそのような事は分からない。
「あなたが残ってくれると嬉しいけど。でも……」
笑顔を急に曇らせた少女は、
「本当にごめんなさい……」
何かを思い切るためなのか、ブルブルッ、と頭を振ってぎゅっと口を結ぶと、鼠の入った籠を持ったまま場所を移った。
別の小屋の中に入った少女は籠を置き、床の丸い蓋に手をかける。
重そうに少しずつずらしながらどうにかこうにか開けた。
その中はかなり深いらしく、光が底まで届いていないのでどうなっているのか窺い知れない。
少女は鼠の入った籠の鍵を外すと、床の穴へ向けて傾ける。
鼠はズルズルッと滑るが、落ちる先が真っ暗な大穴である事を見て取ると籠の縁に爪を引っ掛け、かろうじて落下を免れた。
だがその抵抗も虚しく、軽く籠が振られるとあっけなく落ちる。
少女は無言のまま重い蓋を閉め、建物を出ていった。
落下した鼠は強かに体を打ち付けたが、軽いのでこの程度の高さなら落ちても怪我などしない。
着地時に背で何かを潰した感覚があった。
毒虫だった。
鼠はとりあえずそれを、喰った。
喰うと、体の奥から何か熱いものが湧き上がってくるのが感じられた。
あれだけ酒粕を喰ったのに、何故か腹が減り始めている。
周りではこちらを窺う気配があった。
天井の蓋が閉められた今、光は全く入ってこない。
よって聴覚と嗅覚だけが頼りなのだが、視覚がそれほどよくない鼠にとって暗闇は然程問題ではなかった。
問題なのは、奴の臭いがある事だ。
(ネコ)
シャーッ!
威嚇の声に鼠は身構えるが、それはこちらに向けられたものではないとすぐに分かった。
猫は何かと闘っている。
その相手の微かな臭いにも覚えがあった。
(ヘビ)
鼠が落ちてきた事で中断していた闘いが再開されたようだ。
どちらも鼠の天敵だが、幸いどちらも鼠に構ってはいられない状況で、しかしどちらが勝っても鼠は窮地に立たされる。
だが、猫と蛇以外の危険があっても困るので、鼠は二匹の闘いに神経を配りながら他も探ってみた。
この空間には猫と蛇以外の直ぐに脅威となるような生き物の気配はない。
蠢く小さなもの達も手近な、己より小さく弱いものを喰っている。
小さく弱くはなくとも、多数に攻撃され動けなくなれば容赦なく餌食となってしまうようだった。
鼠はゾクリと背に走った感覚に、咄嗟に前に出る。
振り返ると鼠がいた場所に太い尾を振り下ろした物がいた。
蠍だ。
それほど大きくはなく、普段なら鼠を襲ったりはしないだろう。
そんな物に攻撃された事がないので戸惑う鼠だが、生存本能だろうか、何かがこの空間の掟を告げた。
『死にたくなくば、殺して、喰え』
鼠はその声に従った。
予想外に鼠の動きが速く、毒針を刺せなかった蠍は次の動きを用意していなかった。
鼠は素早くその蠍の尾を左前足で、右前足では胴体を抑えておいて尾の根本に鋭い前歯を突き立てた。
何度も齧り付いて尾を切り離す。
尾がなくなれば後は鋏に気をつけるだけでよい。
噛み千切った尾は打ち捨てて、今度は両前足で動けぬように押さえた胴の節と節の間に前歯を抉り入れ捲って、喰う。
蠍の鎧のような外殻も鼠の水晶のように硬い歯にはいい食感を提供するだけの役割しかなかった。
鼠が動かなくなった蠍を喰っている間に先程捨てた蠍の尾にはもう小さな物たちが群がり喰っていた。
それらも、そしてそれらを狙って集まってきたもう少し大きい物たちも、鼠が喰った。
どれだけ喰ったか知れないが、まだ喰える。
喰えば喰うほど何か得体のしれない力が湧いてくる。
何匹目の犠牲だろう。
体に巻きつかれながらも鼠が馬陸のような生き物を頭からバリバリと喰らって腹の中へと送り込んでいるときだった。
それらの決着は、付いた。