第三話
高校二年の秋頃。
当時アルバイト先で知り合った大学生と関係を持った。
初めのうち私たちは上手くいっていた、と思う。
仕事中に体調を崩すことも多かった私をよく気にしてくれるとても優しい人だったし、真面目な人だと思っていた。
以前より恋に憧れも大きかったことも手伝って私自身大いに身浮かれてしまっていたけれど、
「えっ?できちゃったかもしれない? 参ったな……」
人間の内面と言うものは追い詰められ初めてわかるのかも知れない。
体調に大きな異変が起きたのは付き合い始めて半年過ぎた頃だった。
初めはいつもの不調かと思ったのだがそうではなかった。
もちろん不安にはなったがそれ以上に嬉しかったし絶対に産みたいと思った。
だが当時の私は学生だ。
ひとりで判断をするには足りないものだらけだった。
それに産みたいと思う気持ちは私の独りよがりかもしれない。
当然、相手の男性にも相談はしたけれど……
「お互いまだ学生でしょ? 子供とか結婚なんて考えられるわけないじゃん」
お前何言ってるんだ? とでも言いたげな言外から感じるプレッシャーにパニックになってしまい言葉が出ない。
「次出来たら絶対結婚するからさ。今回は諦めよう! ね?」
ヘラヘラ笑いながら、追い討ちをかけてくる。
「オレは気をつけていたしなぁ……他に男でも居たんじゃないの?」
期待した言葉でなかった事もあるが、そもそも真面目に考えてくれていない事が伝わってきてしまう。
そう思うと途端に黒い感情が胸中に広がり相手をキッと睨みつけてしまう。
「はは、ちょっと落ち着けって……」
その後この人は連絡もなくアルバイトを辞めた。
住んでいたアパートも引き払ってしまい音信不通となってしまったのだ。
もっと時間をかけて理解を深め合えば幸せな結末を迎えられただろうか?
それとも、初めから都合の良い女とでも思われていたのか?
浮かれていた私にも原因の一旦があったのだろう。
ただ今でもはっきりと言える事がある。
平気な顔をして命を諦めろと言う人とは家族になる事なんてあり得ない。
そしてあの軽薄な態度と一言も無く逃げたことは絶対に許せない。
渦巻く状況が激しく心を掻き乱した。
この事が引き金となったのか私は体調を大きく崩してしまった。
このままではお腹の子が危ないかもしれない。
追い討ちをかけるように不安が胸を締めつけけた。
動ける内に急いで病院へ行って検査を受けたところ、妊娠8週目である事とお腹の子は『かろうじて』無事であると告げられた。
私はこれまで父や母、そして兄に命と日常を守られてきた。
きっと気づかない所でも沢山の人達に守られてきたのだろう。
そんな私がこの小さく弱々しい命を簡単に諦めていいわけがない。
この子の味方は私しかいないのだから。
絶対に守る、そう強く決心したのだった。
例え兄に反対されたとしても一人で産んで育てる決心はしていた。
していたのだが、その強い決心と比例して兄から幻滅されることが怖かった。
私の事はどう思われてもしかたがない。
だがお腹に宿る子を否定される事がとても怖かったのである。
けれどその心配は杞憂だった。
これまでの事を相談したところ、
「心配するなでござるよ!」
ニカッとしたいつもの笑顔を見せ、あっさりと受け入れてくれたからだ。
その時私は感情が溢れてしまい声を上げて泣いてしまった。
涙が止められなかった。
何を言われても決して泣かないそう思っていたのに。
結局の所、兄と学校の先生達の協力もあり高校は休学する事になった。
程なくして無事娘を出産した。
甘く考えているつもりはなかったのだが子育ては正しく戦いだった。
特に夜泣きに精神を削られたものだが、初めて発した言葉が「マァマ」だった時は無限に頑張れる気がしたのを覚えている。
相変わらず生活に余裕はなかったが、私が仕事に出られる様になれば多少は改善されると思っていた。
それに兄には兄の人生があるのだ、いつまでも甘えてはいられない。
気持ちを新たにしつつ忙しくも穏やかな日々を過ごしていたのだが悲劇は唐突に訪れる。
近隣の繁華街で殺人事件が起こりそれに兄が巻き込まれたのだ。
連絡を受け、急いで病院へ向かう。
この時の私は「悪い冗談に決まっている。あの兄が死ぬはずがない」そう思っていた。
しかし私の願いは打ち破られる。
病室に入るとそこには白い布をかけられ冷たくなった兄がいたからだ。
「なん……で?」
聞けば犯人に襲われそうになった子供を庇って刺されたのだという。
兄が……兄が死ぬわけない! その認識が間違っていると理解したとき世界が暗転したような感覚がした。
犯人は依然逃亡中との事だったのだがそんな事はどうでも良かった。
私には……
私に、
わた、ワ撾、タシは、
waタ蚩si.`死死死ァ瘂鼃……箛櫚鋤死死死死ァア死アァ⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎⬜︎!!
「……! マ……! ねぇママ! 聞いてるの?」
「えっ? あっ、どうしたの?」
私は今、何を考えていた……?
「ちゃんと前を向いて! 前を向いて歩かないと危ないんだよ?」
ほっぺを膨らませて腰に手を当てわたし怒ってます! とアピールする娘を見る。
どうやら娘の声で現実に引き戻されたようだ。
少しだけ早くなっている鼓動を感じ、それを落ち着かせるよう自身の胸に手をあて深呼吸をする。
(スゥ……ハァ……スゥ……うん、落ち着いた……)
心配をかけないよう努めて明るく聞こえるよう言葉を返す。
「ふふ、ありがとうね」
娘の目線の高さまで屈み、お礼の意味を込めて頭をなでる。
すると気持ち良さそうに目を細めて撫でる手に頭を擦り付けてきた。
事件から数年が経ち私も成人した。
兄のことについては正直心の整理はついていない。
稀にではあるが、今の様に心を乱してしまったりもする。
だけど子供を庇って刺されるなんて何とも『兄らしい』少しはそう思えるようになってきたのだ。
今日は日差しが暖かい。
「お買い物の前にちょっとだけお散歩しよっか」
「はーい!」
娘の了解をとり商店街へ向かう道を少し外れてみることにする。
緩やかな傾斜を登ると小さな公園に着いた。
休日は親子連れで賑わうのだけど平日の今日は閑散としている。
ここで娘の好きなブランコで遊ぼう、そう思い遊具エリアへと向かってみたのだが生憎先客が居たようだ。
そこには一人の少女が居た。
物憂げな様子で何かを考えている様だった。
(不思議……)
明るいはずの公園の一角が、少女の居るその場だけより一層輝いて見える。
年頃は十四、五歳程だろうか。
腰ほどまで伸びた濡羽色をした艶やかな黒髪、涼しげな目元に緩く弧を描く桜色の唇。
テレビや雑誌でも見たことがないような絶世の美少女だった。
勿論その少女とは面識がないのだがどうにも目が離せない。
不意に少女の顔がこちらは向くと物憂げな表情から一転、口角を目一杯上げ笑うその表情に思わず、
「え?」
――お兄ちゃん?
そう声を上げようとしたその瞬間、
「あっ!」「わぁ!」
突如発生した突風で散り際だった桜の花が一斉に舞い上がった。
唐突に私達の視界を白桜色が埋め尽くす。
「すごいすごい! お花いっぱいだよ!」
はしゃぐ娘が転ばぬようその小さな体を支える。
空いた手で額に傘を作り視界を確保しようとしたけれど、花の乱舞が収まるころには既に少女の姿はなかった。
幻覚でも見たのかと思い、傍にいる娘に聞いてみる。
「そこに綺麗なお姉ちゃん居たよね?」
「んー? 見てないよー?」
ブランコを指差し問いかけてみたのだが、この子は見ていないらしい。
現実離れした美しさは幻でしかなかったのかも知れない。
けれど、
(もっとゆっくりしてけばいいのに)
もしかすると兄が姿を変えて会いに来てくれたのかも知れない。
そう思うと心が暖かい気持で満たされるのだ。
次話『帰ってきたお兄ちゃん視点』で完結でございますm(_ _)m