「私、実は悪魔なの!」
それからだ。本間さんは僕によく話しかけるようになったのは。
最初は朝の挨拶だった。
廊下側のドア横すぐの席に座る僕に、教室に入ってきた本間さんが「おはよう」と遠慮がちに声をかけてきた。挨拶をされるなんて思いもしなかった僕はどもりながら「おはようございます」と敬語で返してしまった。
僕の挨拶に「何で敬語なのー」と噴き出しながら、本間さんは「今日もいい天気だね」とかそんな当たり障りのないことを言って自分の席に行ったり友達の席に行ったりしていた。
そこから僕が本を読んでいれば「私もその作者好き」だったり「その本今度読みたいなって思ってて」と話す内容が本のことになっていった。世間話は苦手な僕でも、本の話ならいくらでもできる。
そうして本間さんと話すことに慣れた頃、本間さんの朝の挨拶に軽いスキンシップが混ざるようになった。
軽い、本当に軽いものだ。「おはよう!」と言いながら僕の肩、もしくは背中をぽんと叩くだけ。普段の本間さんが友達に抱きついたり飛びついたりしてることを思えば、このくらいスキンシップにも入らないんだろう。
でも僕にとっては違う。
気になる子に話しかけられて、気さくに触れられて、それでますます意識しないはずがない。
「渡部君、おっはよ!」
朝の挨拶をしながら本間さんが僕の肩にぽんと触れた。顔が熱い。本から顔を上げられないまま「あの」と本間さんに声をかける。
「あ……あの、本間さん。そうやって、あんまり気安く他人に触らないほうが……」
「えっ。ご……ごめんねっ、渡部君、触られるの嫌いだった?」
本間さんが悲しそうに声の調子を下げる。僕は本から勢いよく顔を上げ「違うよ」と大慌てで否定した。
「そうじゃなくて、その、きみは女の子じゃないか。僕は男だし、そうやって気さくにされると、か……勘違い、して、しまうから……」
こういうことを言うから「気持ち悪い」とか「陰キャ」とか「キモオタ」なんて言われるんだ。言った後に気づいていつも後悔するんだ。言う前に気づけないのか、僕は。
頭を抱えたくなり、すっと目線を下げてしまった僕に、本間さんがぽつりと言った。
「男の子は渡部君しか、触らないよ」
下げた目線を戻すと、本間さんの顔は真っ赤になっていた。いくら陰気で卑屈な僕でも、本間さんが言いたいことを理解できないほど鈍くないつもりだ。
声も出ない僕に、本間さんは続けた。
「抱きついたり、触ったり、そういうのは友達にするけど……女の子だけだよ。男の子は渡部君しか……触ったり、こうやってしゃべったり、しないもん」
これ以上赤くなれない、というくらい赤くなった本間さんは両頬を手で隠すと、ぱたぱた足音を立てて自分の席へ行ってしまった。残された僕は、本間さんに負けないくらい顔を赤くして固まっていた。
本間さんに呼び出されたのはその日の放課後だ。
空き教室に呼び出された僕は、衝撃的な〝告白〟を受けた。
「あの、あのね……私、実は悪魔なの!」
悪魔。
元は神だったものが他宗教によって弾圧され迫害され貶められた結果そういう呼び名をされるようになったもの。もしくは、人の心の弱みにつけ込んで悪事を働かせたりするもの。
スキンシップで僕の心を惑わす本間さんは〝小悪魔〟と言って差し支えないだろう。だから「悪魔なの!」と言われて納得できないことも――。
突然の告白を受け止めきれずぐるぐる考えていたら、本間さんは「嘘じゃないよ」と泣きそうなほど眉を下げ、僕に背を向けた。
「肩甲骨のところにね、羽が……あって。えと、さ……触って?」
言われるまま手を伸ばす。本当に羽があるなんて思っていないけど、好きな人に触っていいと許可を出されて手を伸ばさずにいられる人間がいるだろうか? いるんだろう。ただしそれは僕じゃない。
――と、そんなことを考えながら伸ばした手は背中に触れられなかった。
見えない何かが指に触れる。触れたそれは、しっとり吸いつくような、いつまでも触っていたい手触りだった。
手触りのいい何かを指でなぞると、本間さんが「きゃあ!?」と甲高い声を上げた。反射的に「すみません!」と謝り手を引っ込める。
心臓がバクバクする。引っ込めた手を胸の前で握りしめ「すみません」と繰り返してると、本間さんが「ご、ごめんね……」と力なく謝った。
「あの、羽なぞられると、くすぐったくて……」
触れていた見えない何かが、羽だったようだ。嘘をついてるとは思わなかったけれど本当だとも思っていなかった僕は大いに混乱した。
頭にいくつもの疑問符を浮かべる僕に向き直ると、本間さんは高崎さんに服を脱がされそうになった日の真相を教えてくれた。
「いつもはね、ほかの人から見えないように、お父さんが隠してくれてるの。だけどあの日は何でだか、高崎さんには見えちゃったみたいで……」
高崎さんに本間さんの羽が見えた理由は、今もわからないらしい。さっきの感触を思い出しながら、僕はなるほどと納得した。
同級生の背中に生えた羽が自分にしか見えていないとわかったら、僕なら自分の目や頭を疑う。高崎さんも自分がおかしいのかもしれないと怖がってたのかもしれない。
だとしても、あんな風に本間さんを泣かせていい理由にはならない。
僕に〝告白〟を終えた本間さんは、何かまだ言いたいようで僕から目を逸らし言葉を探している。
さて次はどんな衝撃的発言をしてくれるのだろうかと構えていたら、それを上回る発言が本間さんから飛び出した。
「わ、私悪魔だからっ……渡部君にっ、私と契約してほしいの!」
なぜ僕と。いやそもそも、どんな契約を?
答えられずにいる僕に、本間さんは〝契約〟を迫る。
「半分しか悪魔じゃないし、本物の悪魔みたいに何でもは叶えられないけど……一ヶ月に一度くらいなら、少しの不可能を可能にできるくらいの力はあるから!」
「少しの不可能を、可能にって……えっと、例えば?」
僕の質問に、本間さんは「例えば……」と考え込む。
腕組みして首を傾げるなんて古典的な考え込み方をする本間さんはすごく可愛らしかった。
いい例えが浮かんだのか、腕組みをやめパッと顔を明るくした本間さんももちろん可愛い。
「渡部君がすっごく楽しみにしてる本、読むまで絶対ネタバレを目にしないっていう不可能を可能にできるよ!」
「それはかなり助かるなぁ」
毎月契約を更新すればネタバレを見なくて済むのか……と思わずうなずきかけた僕は、悪魔との契約に代償は付き物だと思い出し何とか踏み止まった。
「もし契約したら、僕はどんな報酬を払えば……?」
「え、えっと……」
そこで言い淀み、本間さんは自分の爪先に目を落とすともじもじし出した。いったい、どんな代償を払うのだろう? ハラハラする僕に、本間さんは真っ赤になった顔を向けた。耳まで赤くなりながら、眼鏡の向こうの瞳はまっすぐ僕を見ている。
「私を……渡部君の彼女に、してください」
今日受けた告白の中でも一番の衝撃だ。理解が追いつかない。いや幻聴の可能性もある。ちゃんと確認しないと、本間さんに不快な思いをさせてしまう。
「え、っと……僕の、願いを叶えて……そしたら本間さんが、僕の彼女に?」
「う、うん……。あの、その……渡部君が、嫌じゃなかったら……」
本間さんはうなずくと、少しだけ目線を下げ、しどろもどろに告白の経緯を語り出した。
「入学式の日、私と渡部君、同じ本を読んでたでしょ? あれから、今日は何読んでるのかなって見てたら、面白そうな本ばっかり読んでて……渡部君と、話してみたいなって。それにあの日、頼まれたってだけで話したことない私のこと助けに来てくれて……笑って、何ともなくて良かったって言ってくれて、あの、その」
下がった視線が再び上がる。逸らしたくなるほどまっすぐな目で、本間さんは大事な言葉を僕に伝えてくれた。
「た、助けてくれたときの渡部君がかっこよくてっ、すっ……好きに、なりました!」
本間さんは、僕なんかに想いを告げるためにどれほどの勇気を出してくれたんだろう。きっと僕なら出せないほどの勇気だ。だって、あんなにも足を震わせている。
「それじゃあ……一つだけ」
「頑張るよっ、何でも言って!」
僕も本間さんの勇気に答えなくちゃと自分を奮い立たせたけれど、僕の答えは我ながらちょっとずるいなと思うものだった。
「僕を、本間さんの彼氏に……してください」
本間さんがきょとんと僕を見上げる。見る見るうちに目を輝かせたかと思うと、本間さんは「渡部君!」と僕に飛びついた。
小柄な本間さんに飛びつかれ、抱きとめられたのも転ばずに済んだのも奇跡と呼べるだろう。
本間さんは僕にぶら下がり「好き!」とまっすぐな感情を伝えてくれた。落ちないよう支えながら「僕も本間さんが好きです」と敬語で返してしまった。
本間さんは笑ったりしない。
抱きつく力を強め、僕の耳元で「嬉しい」と今にも泣きそうな声で呟いた。
好きな人に同じ思いを告げられると、こんなにも嬉しくなるのか。
心臓が今にも破裂しそうで苦しい。それなのに、この苦しさまでも大事なものに思えてくる。
――こうして僕に、生まれて初めて恋人ができた。