ロープ
楓が学校から帰ると、家中によく知っている香水の匂いが充満しているのに気がついた。週に二、三回、特に週末によくする匂いだ。この匂いがする日には母は必ず朝に帰ってくる。
リビングの机にはいつもの通り置き手紙があった。この五百円で夜ご飯食べてね。先に寝てて下さい。母の字は汚くて細くて傾いていたが、「下さい」の部分はそんなに悪くなかった。母は敬語なんか使う人間じゃなかった。母は明るくて声が大きくて学の無い人間だった。
置き手紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てて二階へ上がる。窓の小さな自分の部屋。長いあいだ掃除をしていなかったせいでこの家で一番汚い。楓はその部屋の緑色の分厚いカーテンが大嫌いだった。あなたのお父さんが選んだのよ、と母は言った。楓は父の顔を知らなかった。青色の軽いカーテンだったら毎日掃除したのに。
これから夜ご飯を買いに行くコンビニの候補は二つあり、なかなか迷いどころだった。一つは家から近いが学校に向かって歩かなければならない。同級生に会うのが怖いわけじゃいが、今日はもう会いたくなかった。楓はクラスでは無難な存在だった。成績は普通で、部活は書道部だった。クラスの中心とは無縁の友達が何人かいたし、クラスの中心的な友達も一人いた。ユカちゃんといって楓と同じくらいよく本を読む子だった。楓はユカちゃんみたいに「本を読んでない感」を出せないので、ユカちゃんのクラス内でのあり方は驚異だった。平等で、安定で、素敵だった。彼女とは当分話をしていなかった。楓が一番先に見つけた宝石のはずだったが、今やみんながその宝石によってたかって汚している。
楓は学校と反対側の方のコンビニに行くことにした。もう八時だから外は真っ暗だし、真冬らしく凍える寒さだった。ネックウォーマーをして、その外側からイヤフォンを耳につけて音楽を再生する。「星の散歩」という曲名で、家に昔からあるボサノヴァのアルバムの中の一つだが、楓はこのボサノヴァらしくない静謐な曲が好きだった。今夜は曇天で、星の散歩とは言い難かった。でもこの曲を作った人は、曇天の夜に星が見たくてこの曲を作ったんじゃないかと楓はふと思った。
ツナマヨを一つ買って家に帰る。楓は部屋の窓を開けてツナマヨを食べ始めた。マヨネーズの酸味と強烈な冷気で、楓は最高に爽快な気分になった。すると、窓のずっと向こうの空で雲がゆっくり割れて大きな満月が現れた。完璧だった。満月と曇天と自分しかいない、完璧な夜だった。今夜やろう、と楓は決めた。ここ何ヶ月、このことばかり考えていた。生まれて初めて、気持ちがいい。全然苦しくない。私は、今夜死のう。
楓はとても長い時間をかけて、でも効率的に部屋の掃除をした。辞書は辞書の場所に、図鑑は図鑑の場所に入れた。辞書も図鑑も昔クリスマスにもらったプレゼントだった。今思えば安くないプレゼントのはずだ。クリスマスプレゼントにも値段があることに、楓は初めて思い至った。でも今はそんなことを考えたくはなかった。
楓は台所に下りて入念に手を洗い、リビングの椅子を自分の部屋まで運んだ。隣駅のホームセンターで買った白いロープを物干し用のつっぱり棒にかけ、首吊り結びをし、その下に椅子を置いた。ふぅと小さく息を吐いた。いま、せかいで、わたしだけが、まとも。
楓は、飛んだ。
世界から音が消えて、匂いが消えて、光が消えて、そうして真空になった。真空になって、それからもの凄い音が楓の中に入ってきた。楓は少し尿で濡れた床に横たわって嘔吐した。あの音はつっぱり棒が落ちた音だったのだと、理解するまで時間がかかった。
楓はコートを着て外に出た。ネックウォーマーはつけなかったし、音楽も聴かなかった。何も考えずに歩いた。まるでさっきの真空が頭に移ったみたいだった。満月はそれでも煌々として楓の頭上にあった。
楓は二十四時間営業の作業用品店で、ロープがすっかり売り切れてしまっていることに呆然とした。誰がこんなにロープを必要としているのだろう。楓はユカちゃんのことを思い出した。彼女は今夜何をしているんだろう。やっぱり過酷な日常に備えてぐっすり寝ているんだろうか。それとも私と同じことをしたのだろうか。だからロープが売り切れているんだろうか。だから私は死ねなかったのだろうか。
「何かお探しですか」
気がつくと男性の店員が楓の横にいて、にっこりして尋ねてきていた。楓は頭が真っ白になった。ユカちゃんが私の身代わりになったんです。そのせいで私は真空とお友達にならなきゃいけないんです。
楓は店を飛び出して、ひたすら走った。体じゅうが痛かったが、関係なかった。寒くて、でもものすごく暑かった。恥ずかしかった。悔しかった。いますぐに、死にたかった。楓は海に向かって走っていた。
海は静かに光っていて、楓を待っていた。楓は堤防を下りて、砂浜の上に立ち、裸足になった。楓は一歩一歩、砂浜に気持ちよく素足を沈めながら浅瀬に向かって歩いて行った。美しい海岸だった。まっさらな砂浜、深い色に染まった海と波。
楓はゆっくり浅瀬に体育座りした。お尻や足が濡れて寒かったが、気持ちよかった。波が楓に寄ってきて、膝のあたりまで濡らし、少し止まって海の方へ帰って行った。またすぐに次の新しい波が来る。それがずっと繰り返される。気持ちの良いまま。あの店員はきっとそんなこと知らないだろう。父も母も、きっとみんなそんなこと知らないだろう。
「そんなことしてたら、風邪引いちゃうよ」
楓は幻聴だと思った。そのまま海の向こうを見ていた。
「ホントにいいの?風邪引いちゃっても」
楓はやっと声の方を向いた。二十歳くらいの細身のスーツ姿の男だった。目つきはやや鋭く、人相はあまり良くなかった。
「いいんです。別にそれで」
楓は無愛想に答えた。一人にして欲しかった。でも怒りは不思議と湧いてこなかった。
「風邪は怖いよ。俺のばあちゃんは風邪こじらせて肺炎で死んだからね」
男は楓の横に座った。もちろん彼の立派なスーツもびしょ濡れになった。楓はもったいないような気がしたが、当然の報いのような気もした。
「スーツ、いいんですか」
「今日その肺炎で死んだばあちゃんの葬式だったんだ。だからもう当分スーツは使わないと思う。これでじいちゃんばあちゃん全員死んだからね」
男は遠くを見ていた。海や月のそのまた向こうを見ていた。楓はそこに肺炎がないといいなと思った。風が一度強く吹いた。
「ばあちゃんね、半年苦しんだんだ。でも俺の前では全然苦しそうにしなかった。俺の将来のことばっか気にしてた。いつ行ってもそのことばっかだった」
楓は自分の祖母のことを考えた。母を勘当した、顔も知らない祖母。会ったこともない父を産んだ、名前も知らない祖母。その孫の、楓という名前の、私。
「だから花を買っていったんだ。給料で買ったって言って。聞いたこともない名前の花だった。でもばあちゃんは本当に喜んでくれた。こっちが心配になるくらい喜んでくれたんだ」
男は少し笑って言った。そうするとなかなか悪くない人相になったように、楓は思った。波が大きくなっている。
「でも俺はその花を自分の給料で買ったんじゃないんだ。空き巣で取った金なんだ。どの家のものかもわからない」
楓は男の目を見た。黒目が小さかった。汚れた金なんだ、と男は言った。楓は買った花の名前が知りたかった。おばあちゃんがなんと言って喜んだのか、知りたかった。
「俺には空き巣しかない。普通は駄目なんだ。何度やっても駄目なんだ。だからたくさん花を買った。汚れた金でキレイな花をたくさん買った。でも俺はアホだから一つも名前を覚えられなかった。ばあちゃんは死んじまったけど、今日も花を買って行った。葬式にも花がいるんだよ。俺が買ったのはユリって花だ。この名前も、明日には忘れる」
男は一気に喋った。有無を言わせぬ話ぶりだった。楓は聴きいっていた。全く聞いたことのない類の話だった。
「なあ、俺はホントに忘れちまうのかな。ユリって名前を聞いても、なんとも思わなくなっちまうのかな。ばあちゃんのこと、忘れるのかな。空き巣の金でたくさん花を買ったことも忘れちまうのかな」
男は泣いていた。涙が月光に照らされたせいで、楓はそう見て取ることができた。空き巣は疲れた、と男は言った。小さくてか細い声だった。
「忘れませんよ」
と楓は言った。気がついたら言っていた。口が勝手に動いたみたいだった。こんなことは初めてだった。さっき一度真空になったせいだろうか。
「少なくとも私は覚えています」
今度はちゃんと自分で言った。多分。
「そっか」
男もちゃんと言った。楓にはそう聞こえた。
満月がものすごい明るさで輝いていた。楓はここが裁判所なんだと思った。被告がこの男で、検察はこの満月。私は裁判長で、ついさっき判決を下した。弁護士は誰だろうか。海だろうか。楓はそれだけじゃないと思った。月の向こうのおばあちゃんとか、「星の散歩」を作った人とか。人間はこうして何万年も前から、裁き、裁かれてきたんだろうか。
もう家に帰るときだった。楓にはそれが分かった。楓は浅瀬から重い腰を上げて立ち上がった。来た時の自分の足跡の方へ足を向けたが、また男の方を向きなおした。
「お父さんは、なんであんなにたくさんロープを買ったの?」
誰かが言った。何人かが言った。そのうちの一人は、間違いなく今の楓だった。
楓は家に向かって歩き出した。長い夜に暖かな色がつき始めているのが、楓にははっきりと感じられた。