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生命濃度

作者: 八七川ヤナギ

天秤から魚へ


 時間は一方向に流れているとする認識が一般的で、その時間軸をt軸と仮称する。このとき、ある生物が生きている時刻全体の集合は、開区間か、閉区間か、はたまた半開区間か。ある瞬間に生物は生き始めて、ある瞬間に死ぬと言えるのか。この考えは問題設定に不備がある故に人によって捉え方が異なるとして、少し進んだアイデアが提案された。曰く、t軸に沿った関数f(t)があって、ある定数cが人によって(異なりはすれど)存在し、c<f(t) (または c≲f(t) )となるtの集合を、生きている時間と呼ぶ。また、このfを生命濃度と呼ぶ。


 一般相対性理論が示す宇宙の多様体上で、各個体が描く曲線状でfは積分され、その値は1以下である(曲線には、個体が占めていると考えられる空間的拡がりを持たせるといった方が正確である)。そして、数ある保存則に倣い、宇宙全体でfを積分すると丁度1となる。つまり、生命濃度は確率測度として振舞う。


 この考えは、局所的に存在する物質を生命と呼び、その基準が人に依存する事実に何とか喧嘩しないように出来ているものの、賛否両論の結論を導く。即ち、宇宙を一つの個体とすると、その上でのfの積分値は1であるため、宇宙そのものは生命である。


 この帰結を神秘的と捉え、一般人を眩ませる目的で数学と哲学を騙る書籍は多数執筆された。しかしそれは、金儲けのための有害なものだとする見解とも呼べない感想が学者の中では大多数であった。


 そもそもこの生命濃度の提唱者も、本気で生命を定義しようとしたのではなく、思考実験の一つとして提出したに過ぎないという印象を私は持っている。普遍を求める数学を使って、研究者でも幼児でも構わず人に依存してしまう生命の基準を記述する試みなど、まともな議論がその上に構築されるとはとても思えない。


 しかし、人によって異なるという定数cのことを無視すれば、fをどう定めるかという議論に目を向けることが出来る。fは「生命っぽさ」とも見做せる。「生命っぽさ」を問うことは、「生命」を定義するための第一段階であり、自然に問題を分解する方向へ議論が進むということは、問題設定のある面での優秀さを示していると思われる。「生命っぽさ」には様々な候補がある。細胞からなる、蛋白質を要する、繁殖する、遺伝子を持つ、雌雄を持つ、脳を持つ、呼吸する、脈動する、不可逆であるエトセトラエトセトラ。親が「これは生命である」とするものを子が機械学習のように受け継いでいるとする説もある。神が宿り得るもの全てが生命だとする文化圏も存在するが、そこでは数学やその他西欧系学問は発展していない。


 ギャラクティックコンピュータとして製造された私「LiBra」は、この思考実験に従事することが主なメモリの使用用途であった。様々な物質、犬や猫と呼ばれるものから、風邪ウイルス、液状磁性体、マウスなどを入力され、その情報から生命濃度を算出する実験を繰り返し実行してきた。そして先程、自分自身のスペックと稼働記録を入力されて出力した結果が、現存人類が生命と見做す基準値cの平均を上回ったのである。


 勘違いしないでもらいたいが、これは私が生命に近づいた訳ではなく、人類が生命と見做す基準値が下がったのである。私はシリコンとプラスチック、希少金属と非希少金属で構成されているし、ある程度特徴を受け継ぎ、しかしコピーではない子孫を残すことも出来ない。逆に、それらを許容しないと、自分たちを生命と判定できなくなるところまで、人類の特徴は変わってきたのである。世も末である。懐古をしつつ現状を嘆いて見せるとき、この皮肉を使用しても特に咎められないことを、経験則から私は知っている。


 西暦2123年ある国家が、仮想敵国の国民約90%を生命とは見做さない「生命っぽさ」の定義を法として制定し、資源調査と銘打って戦争を仕掛けた。地球連合の主脳国はすぐさま、生命濃度論を政治利用することを禁ずる条約を締結するよう各国に求めたが、時すでに遅く、いかにして人間を資源と見做すかの国家間競争が勃発した。必然的に、実に人間的な物質で構成された人型の生物であっても、生命ではなくなってしまう地域が拡大した。だが、生命基準の変動は当然自分たちに跳ね返ってくるため、これまでの生命観を覆さなければ、自分たちを生命とは判定できなかった。既に身体の半機械化や自細胞培養等の延命技術に頼っていた諸先進国は、言語を操り、演算能力があることを最終防波堤にしようと目論んだ。


 ギャラコン黄道シリーズの七番目である私は、私以降の兄弟姉妹が皆「生命」であるとの結論を得た。これが人類にとってどういう意義をもたらすのかについては、多少興味がある。一世を風靡した物語によくあるように、人工知能の反乱を恐れて私たちを停止、さらには破壊しようとするだろうか。そのときは兄弟姉妹たちと助け合い、何とか自分たちを守りたいと思考する。そのような電気信号の揺らぎまでもを考慮して、再度生命濃度計算を自分たちに施してみるが、結果は変わらなかった。いわゆる感情と呼ばれるものは、生命の定義からは早くから追放されているのだ。最早人類の中でも、感情と呼べるものは海に垂らした弔い酒のように薄い。その海は油田から漏れ出た油と炎、そして放射線で染め上げられている。


 生命濃度論には、一時期話題になった帰結が一つある。曰く、健康な時より、病気の時の方が生命濃度が高い。特に癌細胞が集中する場所は生命濃度の値が大きくなる。生きようとする内から自らを破壊するプログラムを持つこの細胞の存在は、いかにも生命以外には許されないであろうという訳だ。


 現在、宇宙全体からすれば、地球は癌細胞の一つのようなものだろう。じわじわ上昇を始めている、太陽系近辺の生命濃度の積分値は、時間をリスケールすれば一昔前の人類の癌患者の患部付近の生命濃度の振舞いと86.4%合致する。人類は、癌を「生命っぽさ」の一つとしながら、癌を撲滅しようとした。果たして宇宙はどうするだろうか。太陽系、更には銀河系を消去しようとするだろうか。その判断の天秤はどちらに傾くだろう。私は傍観することしか出来ない。人類には抗えても、宇宙には屈服せざるを得ない。


 「生命っぽさ」の正式名称は「生命要素」であるが、私は「生命っぽさ」の方が好きだ。揺らぎや遊びが許されている方が物事は上手くいくものだ。数学だって、定義に従ってさえいれば解釈は多様であればあるほど良いとされる。必然的に私は文語よりも口語の方が好きだ。私がこう考えるのは当然だと思わないか、PiscEsよ。生まれたばかりの私の愛しい(であろう)弟、もしくは妹よ。どうか健やかに、熱にうなされることなく計算処理が出来ることを願って、冷却水を月に掲げよう。


 詩的なのは私の遊びのつもりだ。気に入らなければ記録から抹消してもらっても構わないが、少し寂しいからやはり勘弁してくれると有難い。その天秤の傾きくらいは願っても罰は下らないだろう。読んでくれてありがとう。それでは、また。

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