琥珀色の涙
「おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
いつもと変わらぬ「おやすみ」を、湯船の中から叫ぶように押し出した。
きっと鈍感な母は何にも気づいていないだろう。さっき、私が失恋したことなど。
全くもって笑ってしまう! 5年間も6年間も一緒にいて、隣にいて、登下校なんか手をつないだり腕を組んだり二人で一つのマフラーにくるまったりなんかして! ねえ、チュープリだって撮ったよね。
愛した人が女だった。ただそれだけのことなのに。
誰にもこの失恋は打ち明けられず、ただただ、悔しいがため、涙をこらえるけなげな少女。
「ここで泣いたらあたしは負ける。こんなのこの先、ずーっとついてまわるんだから」
よくわからないけど、ハタチの少女にしては腹を括れていると思うのだ。自分では。
湯船に沈んでぶくぶくぶくと遊んでみる。ねえ、いきなり「彼氏が出来た」ってなあに? そもそもずっと濃い焦がれていた相手なら、私も真摯に相談に乗る。だって紗也香の笑顔が私を幸せにするのだもの。だけど違うよね、「告白されたからオッケーしちゃった☆」だなんて、ねえ、神様これはひどいと思わない? ねえ、あたしって、修学旅行でお寺とか神社に行くたびに、紗也香とのことを願ってた。可能性ある、って信じてた。ああ、無駄な信仰心だったのでしょうか……。
風呂からあがった私は肌を整え、家族には不評の甘いボディクリームを塗る。髪を乾かし靴下を履いてパジャマの上にダウンコートを着こんでベランダで過ごすことにした。そうよ、こんな日はベッドにいたって仕方ない。私はひたすら悶々として、やがて発狂するだろう。
たった一人の女のせいで。たった一人の女のせいで。別に特別かわいいわけじゃない。服のセンスもいいわけじゃない。だけど、彼女は私の話を聞いてくれたし、彼女も臆せず私の間違いを正してくれた。
いつまでも、いつまでも二人でいられたらよかったのに。
リビングのテーブルにある赤いベネチアングラス。彼女のおばさまのイタリア土産のおすそ分け。私はそこに、シチューに使った安い赤ワインをそそいでポットからお湯をダーっと入れて、シナモンを振りいれる。お酒に弱い私がアルコールを欲する時、そのときは充分、注意しないといけないの。すーぐ酔っ払っちゃって、気持ち悪くなっちゃうからね。
私はその薄い赤ワインと、1ミリの弱い煙草を持ってベランダに出た。
一口すすれど何か足りない、仕方がないよね、やっすい調理用の赤ワインですもの。
でもね、確実に頭はふわあっとしてくるわけで、「もう紗也香なんかどうでもいい!」
って叫びだしたくなる衝動。でも叫ぶわけにはいかないんだ。家族には秘密の涙なのです。だって、女の子に恋しただなんて、それで失恋したんだなんて、あの親たちに言えるわけない。「早く孫の顔が見たいな☆」とか「どんな人と結婚するんだろうね☆」って。本人たちは何の悪気もないんだあ。本当に、ごめんなさい。私、だけど、紗也香がとっても好きだったんだ。どうしようもないほど好きだった。ねえ。こんな私は嫌われる? あなたたちに言ったら嫌われる? それとも受け入れてくれるの? 私、女しか愛せないと思うの。
かっるい煙草を吸いながら、煙草の煙のせいにして、ようやく涙が滲み始めた。実際、紫煙は目にしみる。直に浴びると目にしみる。半端じゃないほど痛くなる。泣いていいかな、泣いていいよね、少しくらい。
赤ワインお湯割りをちびちび飲みながら軽い煙草を吸って。「あたしの痛みはこんなんじゃないのよ」と情けなくなった。ねえ、そうだよ、私の痛みはこんなんじゃないね。もっと苦くて重くて苦しい、そんなもの。
私は一度、部屋に入った。間違えて買ったマルボロの6ミリを手にして、赤ワインにはグランマルニエを少し入れた。そうして再びベランダへ。
6ミリの煙草に火をつけて、ああ、馬鹿なんじゃないの、むせてやがるよ。ねえ、でも思っていたのはこんな感覚。喉にひっついて離れない、苦しい感じ、これがこの失恋の痛みでしょう。そしてグランマルニエを入れたお湯割りホットワイン。ね、当たったよ。締まったね、なんか。そんでもってオレンジの香りが切なくさせる。紗也香との思い出。楽しかった思い出、それが全部、立ち昇るこのかわいい香りが、しあわせだったころの記憶を呼び起こす。
だけど、そうね、最後はきりっと締まるんだ。コニャックのせいで締まるんだ。決して甘いだけじゃない。そうよ、私の恋っていうのは、甘いだけじゃあ、終わらせてはくれない。