真夜中のワゴン
背中に背負ったアコースティックギターが、妙に重たく感じる。その重さに引っ張られまいと俯き歩く僕は、わずかな意地とほんの少しの希望を抱えて歩く。なけなしの日雇いバイト代で買ったワゴンにギターを積み込むと、重さから解放された僕は大きく伸びをする。肩のあたりに残るギターの感覚が、いつまでもこびりついて離れない。バタンと強気な音を出して、扉を閉める。ギターと僕とふたり。いつものようにワゴンを走らせた。
深夜2時。当てもなく進む。高速道路は使わない。地道に下の道路をくねくねと走る。こんな遅い時間なのに、通りを走る車は意外と多い。みんなどこへ向かって走っているのだろう。行く者、帰る者、僕の目には分からない。目的地もない僕は、すれ違う車にわずかな視線と嫉妬を寄せる。都心を離れるにつれて車は少しずつ少なくなっていく。深夜の運転は好きだ。優しい静寂が僕を包み込み、急かしてくるものなど何もない。家々は電気を消して、寝静まっている。はるか遠く、ポツリポツリと残る灯りに想いを馳せてみたりする。きっとあそこにも、眠れない夜を過ごす友がいる。そして、そんな暗闇の中に浮かぶわずかな光を目指して僕は進む。それがなんなのかも、どのくらい遠くにあるのかも分からない。昨日入れたばかりのガソリンはまだほとんど満タンだ。僕はまだ進める。そう言い聞かせている自分に、僕は気づかない。
ふと時計を見てみると5時を回ったところだった。いつの間にか3時間近く走っていたようだ。バックミラーで後ろを確認する。車はいない。しかしそのもっと後ろから、青白い光を伴って、朝が近づいてきていた。ここまでのようだ。僕は近くのコンビニに車を停めると、後部座席に移り、毛布にくるまった。朝日から逃げるように、頭までくるまる。視界に映る黒の世界に安心しきった僕は、何かを考えていたはずなのに、いつの間にか眠りに落ちていた。
緑が生い茂っている駅だった。名前はよく思い出せない。花壇には色とりどりの花が咲いており、背の高い木々が数本立っている。コンビニがひとつ、カフェがひとつ、それだけのこぢんまりとした駅だった。その割には、会社帰りの人たちだろうか、スーツを着た人たちが何人か行き来していた。人が多いとは言えないが、僕にはちょうどいい。僕は改札から数十メートル離れた一本の樹の下に決めた。腰を下ろすとおもむろにアコギを取り出す。声だしをかねて、音階をたどる。声の調子がいい。1オクターブと少しでやめるつもりだったが、調子にのってどんどんと上がっていく。気持ちがいい。自分でもあまり出したことがない高音。まだ見ぬなにかにたどり着いたような、そんな感覚。少し咳払いをすると心地いい疲れ。ちょっと張り切りすぎたかな、なんてつぶやくと、風がふわりと揺れる。電車が駅に入ってきたようだ。ガタン、ゴトン。だんだんとゆっくりになるリズムに合わせて歌いだす。僕の歌える曲はたったひとつ。いや、歌いたい歌はひとつ、と言った方がいいだろうか。テンポ、間合い、音程、様々に変えながら、たったひとつの歌を歌い続ける。初めは道行く人が僕には見えていた。少しの間足を止めてくれる人、遠くから眺めている人、こちらを見ていないがずっとそこにいる人。しかし徐々に、僕の目は誰も映さなくなる。僕に見えているのはたったひとり、ここにはいない君だけ。君と別れて夢を追いかけた。ゴールも終わりもない旅に。君がまだ僕のこと待ってくれているなんて、これっぽっちも思っていない。しかし、この歌を歌いながら泣いてしまうのはなぜなのだろう。もう数えきれないくらい歌ってきた。身勝手な僕を笑顔で見送ってくれた君に、僕はいつまでも歌い続ける。この歌だけが、君の歌だけが、孤独に生きる僕のわずかな光だから。
今日も観客はほとんどいなかった。まあ、こんなものだろう。ギターを片付けながら次の街へと向かう。時々何のために歌っているのか、分からなくなる。最初はただ歌が好きなだけで、ギターを持った。君に出会ってから、恋を知った。僕は君に恋をしていたのだ。いや、きっとまだ恋をしている。君のいない果ての地で。君はとても不思議な人だった。暗闇に浮かぶ光のように僕を導いてくれる。それでも、手を伸ばしてみると、はるか遠くにいることに気づく。ぼくのことなど見えていないように、君は歩いて行く。僕は君の背中にひかれるように歩いていく。君はそんな人だった。自分がみじめに見えてくるとか、そういった類の感情ではない。けれど、僕の中の何かが、確実に動かされていた。このままではだめだと。全てを捨てて旅に出ると決めた僕に、君は何も言わなかった。「不器用なんだから。」そう微笑んで、抱きしめてくれた君を、僕はきっと忘れないだろう。
夜にワゴンを走らせ、昼に眠り、夕方から歌う。そんな生活を続けていた。いま自分がどこにいるのかもよくわからない。今日たどり着いた駅は、なんだかいつもと違う駅だった。木造の駅で、改札もかなり簡易な作りだった。しかし周りにいくつか家があるからか、人通りは終始途絶えない。日を遮るものは何もなく、仕方がないから改札の近く、塀に背を預けながら歌うことにした。他に壁も樹も、音を遮るものは何もないからか、妙に声が消えていく。何かに吸い込まれて、僕まで消えてしまうんじゃないかという錯覚。ふと目を開けると、目の前に一人の女の子がいた。しゃがみこんで、僕の目をまっすぐに見つめていた。「どうして泣いているの。」「どうしてそんな悲しそうに歌うの。」消えてくように感じていたのは、僕の中の僕だけなのか。彼女には見えているのだろうか。彼女から目が離せなくて、じっと黙ったまま泣いていると、彼女はそっと僕の頭を抱きしめてくれた。この駅にたったひとつ立つ街灯が、彼女の顔に影を落とす。見上げても見えない彼女の表情に、僕は君を映しだしていた。君と別れたあの日のように、声を出して泣いた。
いつものようにワゴンにギターを積み込んで、運転席に乗り込む。エンジンを駆けようとしたが、うまくかからない。ガソリンはもう、切れていた。
僕は抱えきれないものを捨てて、旅に出た。わずかな荷物と、わすかな希望だけを持って。しかし、どんなに進んでみても、僕を形作ってきたものは消えたりしない。孤独から逃げられないのなら、孤独を愛そう。絶望を捨てられないのなら、希望を持とう。変わることを恐れない、変わらない強さが、きっと光となる。それがものであれ、人であれ、僕らには光がある。