熊のフランソワについて その1
熊のフランソワについて。
フランソワは俺と同じ「異界生物」だという。
俺が今いるのは、トールキンの「指環物語」みたいな感じの世界で、人間の他にエルフやらドワーフやらオークやらがいて、魔法とかもあったりするんだってことを教えてくれたのはフランソワだった。フランソワはとても親切で知的な熊だった。
フランソワは元の世界で熊だったわけではない。1982年8月21日の時点では、フランスのアルザス地方でフランス人の母親の股から、元気に出てきたフランス人の新生児だった。
両親はワイナリーを経営していたという。そのせいかどうかしらんけど、フランソワは10歳の頃には立派なアルコール中毒だった。学校の中庭の茂みで隠れてワインを飲むのが習慣になっていて、教師に怒られたらゲロをぶっかけて反撃していたらしい。まごうことなき問題児ではあったけれど、本人は自分のことをワルだと思うことはなく、勉強もひととおりよくできたため、パリで農業系の大学に入って高度な専門教育を受けることとなった。
「まあ、いつか親のワイナリー継ごうって気持ちももしかしたらあったかもしれないね」とフランソワは言う。
それからいろいろあって、フランソワはパリで役所へ納入するシステムのエンジニアになった。
自分の仕事ぶりについてフランソワは話さなかったけれど、たぶん優秀だったのだと思う。無能だったとしたら喜んでそのことを話すような男だ。
おそらく順調にキャリアを重ねていたフランソワのキャリアは29歳になって突如崩壊した。その話をするフランソワはちょっと言葉が不自然な感じになる。
「崩壊は急にやってきた。会社の休憩所で上司とコーヒーを飲んで話してたんだ。その上司っていうのは40過ぎても活発で。とにかく急でね。その上司っていうのが40過ぎてるんだけど、元スポーツマンっていう感じで。自分のエネルギーを他人に分けてやっているんだ、っていう感じの厚かましさがあって。いや、それまではそんなことは思わなかったんだけど。普通だった。でも、なんか急にそいつが人にエネルギーを分けてやってるんだっていう厚かましさ、いや、それは僕の気のせいかもしれないのだけど、とにかくそのときはそう思って。とにかくその感じが気持ち悪くて仕方なかった。そう思ったら頭がぐらんぐらんしてきちゃって。重力の極が四方八方にあって、ぐるぐる引っ張りまわされる感じ。すごく辛かった。それでも僕はまだ冷静で「ちょっと失礼します」って言ってさ。気付いたら手にワインボトルを持っていた。中座して、外の酒屋に行って買ってきたみたいなんだよね。ワインの領収書を後で見つけてさ。アルザスのひょろっとした形のボトル。日本人の君にわかるかな?まあ、買いに行って戻るまでの記憶はないんだけど。それで、ここからは記憶があるんだけど、デスクまでワインを持って行って、引き出しに入れていたソムリエナイフを取り出して僕はワインを開けた。なんでソムリエナイフがあったかって言うとさ、近々あった同僚の誕生日にプレゼントとしてあげようと持ってきてたんだよね。でも、なんでソムリエナイフなんて選んだのかもわかんないんだよね。まあでも、プレゼント用の包装もバリバリ破ってソムリエナイフを取り出したんだよね。昼間の3時過ぎくらいだったから、同僚もみんな居てね。たぶん、みんな見ていただろうね。それで、僕は瓶の口とキスしてワインを一気に飲み干したんだよ。飲み干したらなんだか悲しい気持ちになったよ。でもなんか笑えてきたね」
それから件の上司が来て、フランソワに「大丈夫かい?」と優しく言った。「大丈夫なわけないでしょう」とフランソワは言って、手に持っていたワインボトルを上司の頭に叩きつけた。
「大丈夫なわけないでしょう」とフランソワはフランス語でかっこよく言ったに違いない。
「フランス語でどんなふうに言うんですか?」と俺が尋ねたら、「ここの言語システムだとそういう表現できないんだよね。もともと違う言語を使っていた僕らがこんなふうに意思疎通ができるのとは逆にさ」ってフランソワが言った。ちょっと残念だけど、そういうものなのかな、って俺は思った。