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行き場のないカルロスの冒険とその終わり  作者: スーザン・ソンタグ・ラブ・エクスペリエンス
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スルッポンは疲れていた

スルッポンは人形のようにベッドに横たわるババンをしばらく見つめた。

彼が瞬きをしていないことに気づいて慌てて脈を取った。

脈もあるし息もしている。しかし、なにかに反応することを止めてしまったように見える。

ババンが完全な虚脱状態にあることをスルッポンは理解した。


それからスルッポンは、日光を遮るためにカーテンを閉めて、ババンの両目を閉じてやった。せめて夢の中でババンが楽しい思いができればいいとスルッポンは思ったが、いったい今のババンがどんな夢を見ることができるのか皆目見当がつかなかった。


部屋のすみにある椅子に座りため息をつく。

ババンへの医療体制やその人員配備の計画について考えなければいけないと思い気が重くなった。「少なくとも、この状態のババンが自殺することはないな」と思い至り少し安心してみようと試みたが、いつか呼吸をすることすら止めるかもしれないと思い、身震いした。


「忌々しいラブエクスペリエンスめ」と彼は思った。

彼は他の仲間たちと違ってラブエクスペリエンスに恋をしていなかった。

たしかに美しいとは思う。

「特に唇は美しい」とスルッポンは呟く。


6歳の頃に母に連れられてはじめて海に行った。

一日中海辺で遊んだ。彼はその日が人生の中でもっとも美しい一日だと思っている。

特に海に沈む太陽に心を動かされた。

すべてが溶けあったような赤い光、それを見ていると自分も溶けそうになった。

しかし、水平線だけは確固たるものとして存在している。赤い光によってすべてのものが溶け合った後も水平線は存在し続けるのだと思い、えらく感動したものだ。

太陽が完全に水平線に消える瞬間に歓声をもらした。そして、それからしばらくして真っ暗な夜がやってきた。


ラブエクスペリエンスの唇を見ると、あの夕日を思い出す。ラブエクスペリエンスの美しさは人間が持っているもっとも美しい記憶を呼びおこすのだろう。

それが彼女の美の力だということをスルッポンは知っていた。

「しかし、それだけだ」

彼女があの日の景色それ自体であるわけではない。あれは僕の目で見た僕の記憶だ、とスルッポンは考える。そして、彼女はあの水平線のような永遠性を持ち合わせていない。


スルッポンはラブエクスペリエンスの最確信能力とエンジニア能力についてはすこぶる高く評価していた。ただし、それはとてつもなく便利な装置としてだ。

スルッポンは最初からラブエクスペリエンスをまともな人間として評価していなかった。

彼女の中にたいした人間性や知性があるとは思えない。

彼女の能力になにかしらの裏付けがあるとも考えなかった。「ただそれはそのようにある」とだけ考え、ラブエクスペリエンスを上手く使って稼ぐことだけを考えた。


もちろん他の仲間たちはそうではなかった。

ラブエクスペリエンスに恋をして、ラブエクスペリエンスの偉大さを世界に広めるために活動していた。スルッポンはそんな彼らのことを愚かしいとは思っていたが、彼らのことは愛していた。

みんな出身階層も年齢も違うが、みんな突出した能力を持っていた。ぶつかり合うことはたくさんあったが、お互いがお互いを尊敬していた。一般社会ではあり得ないチームだった。

あのチームこそがラブエクスペリエンスの一番の奇跡だったのだとスルッポンは思う。


スルッポンはラブエクスペリエンスの能力の組織的運用を担当していた。彼女を愛していないので、彼女を組織の機構の一部として扱うことにことさら抵抗はなかった。

仲間たちから自分が冷酷だと思われているのではないか、と気に病むこともあった。

そんなことを考えながらスルッポンは居心地の悪さはずっと感じながら組織にいたが、それでも仲間たちはスルッポンのことを100%受け入れていた。

それはスルッポンにとって本当に嬉しいことだった。


しかし、仲間たちは徐々に死んでいった。

仲間たちを失うのは本当に悲しかった。

スルッポンは死んだ仲間たちの仕事を第2世代の優秀な連中に割りふった。

残っているのはウヒョツーとババンだけだ。

ウヒョツーについては自分と似たよなものだとスルッポンは考えているので、彼については心配していなかった。彼はラブエクスペリエンスを偉大な技術者として愛しているだけだ。ウヒョツーは結婚して子どもまでいる。ウヒョツーがラブエクスペリエンスに思いあふれることはないと、スルッポンは考えている。


心配なのはババンだ。

穏やかでみんなの話をよく聞くババン。

彼はあまり積極的に意見を出すほうではないが、場が膠着したタイミングではいつも素晴らしいアイディアを出してくれていた。ラブエクスペリエンスへの質問の仕方や彼女の「神託」への解釈系を整えたのはババンだ。

スルッポンはババンのことをすごく頼りにしていた。自分とは異なる種類の知性に対する純粋な憧れがあった。

ババンもスルッポンと同様にラブエクスペリエンスに知性を認めなかったが、それでも彼女のことを強く愛していた。

「そして、このざまだ」とスルッポンは小さく呟く。

ババンの呼吸音が変わった。眠りについたようだ。

「どうかいい夢を見てくれ」とスルッポンは再度祈る。


ラブエクスペリエンスを殺したらババンは回復するかもしれないという考えがスルッポンの頭の中を巡る。

魅力的なアイディアだけれど、死んだ仲間たちも生きている仲間たちも自分のことを許さないだろう。

いずれにせよ、もはやそんなことはできないのだ。

ラブエクスペリエンスのカリスマも組織も大きくなりすぎた。それはスルッポンの手腕に多くを負っている。

今、ラブエクスペリエンスをいなくなろうものならとてつもない混乱が起きるだろう。


ラブエクスペリエンス業はいびつに巨大になってしまった不細工な鳥だ。

本当であれば重すぎて飛べないはずなのに、その鳥は馬鹿すぎてそんなことは気にせず飛び続けているのだ。

飛べないことに気づいたら、そいつは地上に墜落してしまう。

そして、馬鹿すぎる鳥を無事に地上まで導くのが自分の仕事であるし、それこそが自分の責任であるのだとスルッポンは考えた。

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