前の小指の話と新しい小指の話
ある日のこと。あれはいつのことだったろうか?こっちに来てからしばらく経っていた気はする。あの日のこと。俺は大きな川が好きで、大きな川の中にある大きな岩に寝そべっていた。体中で日光とそよ風を感じることができた。魔法で五感の感受性を少しだけ上げると、川の底でたゆたう水草や、ゆったりとした魚の動きを俺は全身で感じることができた。そんなことをしていると、自分が川そのものになった気分になれた。最高の気分だ。俺は俺が世界最強の魔法使いであることに感謝した。魔法って最高だ。そういう気持ちになることは稀だ。ちなみに俺は裸だった。俺は10歳のガキなので、別に裸でも問題ないだろうと思った。これからはずっと裸でいてもいいかもしれないとも思った。裸で川と同化した最高の気分の俺の前に一人の女が現れた。女は川から現れた。ぬらっと現れた。
「こんにちは。あなたかわいいわね」と女は言った。
「こんにちは。君もとてもかわいいね」と俺は言った。女の全身はイソギンチャクの触手で構成されていた。おそらく数万本に及んでいたのではないだろうか。色とりどりの触手。触手は一本一本がぬらぬらと動いていた。女の体や顔のパターンもぬらぬらと変化する。奇妙な生き物だと思うかもしれないが、俺にはそれが女だと思えた。生々しくもアブストラクトな女。でも、とてもかわいいねってのは嘘じゃない。
「ありがとう。嬉しいわ。ねえ、キスしていい?」と女は言った。
「もちろん」と俺は言った。
「でもね、私とキスするとあなたは死んじゃうわ。私の唇には毒があるの。私とあなたがキスするでしょ。すると、あなたは死んじゃうの。それから私はあなたを食べるわ。それでもいいの?」
「俺は死なないよ。世界最強の魔法使いだからね。君の毒なんて平気だ」と言って俺は彼女の唇にキスをした。口の中に舌も入れてやったら、ちゃんとあっちにも舌があって何百本かの触手で構成されているようだった。彼女の舌を構成する触手が、俺の舌にほつれて絡まる。
「あなた最高ね」と彼女は言う。キスをしたまんまだったが、どこかで触手を響かせていたのだろう。
「君も最高だよ」俺もキスをしたまんま魔法で彼女に伝える。
その後もキスをしながらしばらくいろいろと話した。彼女の名はクローディアという。名前からして俺と同じ異世界生物だと思うけど、俺はその頃には異世界生物の来歴とかについては聞かないようになっていた。みんないろんなうんざりした出来事を経てここに来ているのだ。彼女は好みのタイプの男が近くに来たら、キスをねだる。自分とキスをすると相手が死ぬこと。その体を自分が食べることを相手に伝え、同意が取れればそれを実行する。
「ちゃんと同意を取るなんて偉いね」と俺が言うと、「そんなの当然じゃない?」と彼女は不思議そうな顔をする。
クローディアは極彩色の触手で構成されたイソギンチャクの化け物なんだけど、それでも俺がかわいいと思ったように、彼女のことをかわいいと思う男はいて、彼女の腹に収まった男は百人に上ると話していた。「みんなあなたより少しだけ素敵な人だったわよ」と彼女は話す。俺はそれについて少し嫉妬したが、俺が世界最強魔法使いでなければ命をなげうって彼女とキスはしなかっただろうなっても思う。そう思うと百人の男たちは確かに素敵な連中で、俺もそいつらを褒め称えたい気持ちになる。でも、やっぱなんか悔しいな。
「クローディア、俺は君のために命をくれてやることはできない。それはとても残念に思う。でも代わりにって訳じゃないけど、俺の小指いらない?」と俺は提案する。せめて小指だけでも彼女の体に収めたいと思ったのだ。
「まあ、本当?嬉しいわ」と彼女が言ったので、俺はすぐさま左目から切断ビームを出して左手の小指を切り離し彼女に渡した。
すると彼女も自分の触手を俺の小指と同じくらいの長さで切り取って、切ったところに俺の小指をはめる。彼女の体の一部になった俺の小指は、他の触手と同じようにぬらぬら動くようになっていた。
「うん、とてもいい感じ。あなたの小指、ありがとう」と彼女は言うので俺も嬉しくなる。
「どういたしまして。クローディア。気に入ってもらえて嬉しいよ」と俺は言う。
「あ。そうだ。切り取って私の触手。あなたにあげるわ」と彼女が提案してくれたので俺は快くそれを受け入れて、左手の小指があった場所に彼女の触手を埋め込んだ。彼女の触手はとてもいい具合に俺の手に馴染んだ。それから、今や彼女のものになった俺の小指と、今や俺のものになった彼女の触手を絡ませて、もう一回キスした後に、バイバイした。それから今に至るまで彼女と会うことはなかったけれど、彼女がまだ生きていて、今も川辺に来る男にキスをせがんでいる姿を想像すると少し楽しい気分になれる。嫌なことばっかり考えて鬱々として眠れない夜に、彼女のサイケな極彩色の触手の中で俺のものだった小指がぬらぬら動いているイメージが、ふっと俺の頭に到来することがあり、そうなるとちょっと楽しくなって気が抜けるのか、ぐっすり眠れたりするのだ。