第十七章 アトランティス王国(7)
そして四日が過ぎ、ついにその日がやってきた。
この日、やっとガデイロス王家の研究機関に所属するパルテルスが自身の計算が間違っていたことを認めたが、時はすでに遅かった。実はもっと前からパルテルスも自らの誤りに気付いていたが、それを発表すると暴動が起きるとの理由で、ぎりぎりまで控えるよう横槍が入っていたのである。
あと数時間で襲ってくるであろう暴風雨と津波を前に、多くの人たちはパニックを起こしていた。できるだけ大きな飛行装置に乗りこもうとして多くの人が押しかけたが、定員に近づくとみなそれ以上の乗客を拒んで上空に逃げてしまう。
小型のスクーターでは、暴風雨と重力変化に耐えることはほぼ不可能に近いと、口コミで伝わっていたのである。
カシウスもあの後、何とか伯父の所有する大型の飛行装置に乗せてもらう約束をとりつけていたが、それでも生き残る可能性は高くないと知っていた。あと一時間でフライトの予定だ。最低限の荷物をまとめ、兵舎を後にしたところで、その足が止まった。
「陛下?」
カシウスが信じられないものでも見るかのような表情を浮かべた。彼の目の前にはネリシア女王が立っていた。
「なぜ、ここへ?」
「カシウスと一緒に逃げようと思って、方舟に乗るのをやめたのよ」
「でも今さら安全な避難場所などありませんよ」
「知っているわ」
「方舟には陛下の代わりに誰か乗ったのですか?」
「いいえ。でもあと一時間すれば、搭乗しない人がいても自動的に出発するわ」
「なぜ、そんなもったいないことを?」
「あのまま、あなたと別れたくなかったの。それで生き残っても、つらいだけだと気付いたから」
ネリシアの声は小さく消え入りそうだった。しかしそれを聞いた時、カシウスの心の中で、ネリシアに対する愛憎入り乱れた感情から憎しみの部分が消えた。
この人だけは助けよう。そう思った。それはカシウスが女王の護衛兵だったからではない。純粋にネリシアという一人の女性を助けたかったからだ。
「陛下、方舟の場所はどこですか?」
「私たちの待合場所近くの地下にあるわ。でも、どうしてそんなことを聞くの?」
「今から行きましょう」
「でも、二人は乗れないのよ」
「ええ、でも陛下には私と違って安全な逃げ場所があります」
「カシウスはどうするの?」
「私には最初から安全な逃げ場所などなかった。それだけです」
そう、彼には最初から安全でない逃げ場所しかなかったのだ。
「それなら私もあなたと一緒に残るわ」
「陛下、せっかく生き残れるチャンスがあるのに、それを無駄にしないでください」
カシウスがネリシアの両肩をつかんだ。
「でも、あなたに恨まれながら生き残るのは嫌なの」
その言葉を聞いたカシウスが、ネリシアを抱きしめた。
「恨みませんよ。私は陛下と出会えて幸せでした。本当は陛下ではなく、ネリシアと呼びたかったのです」
「私も、あなたと出会えて幸せでした」
ネリシアが万感の思いをこめて言った。もう涙をこらえることはできない。
「陛下は私の大事な人です。陛下が命を落とすことになれば、私がつらい思いをします。お願いですから方舟で逃げてください。そしてもし可能なら、カシウスという人間がいたことを後世に語り継いでください」
「……はい」ネリシアがうなずいた。
その時、カシウスのポケットの中で通話用の携帯端末が鳴った。多分、彼がフライト間近になってもいっこうに姿を見せないため、伯父か誰かがかけてきたのだろう。しかしカシウスはそのコールを無視して、電源を切った。
「さあ、行きましょう。今ならまだスクーターも使えるはずです」
カシウスは近くに止めてあった自分のスクーターのボタンを押した。即座に彼の生体情報を確認し、所有者本人だと認識したスクーターが起動する。反物質エンジンを備え、人工知能で重力場を制御して空を飛ぶ、アトランティス王国の科学力が生み出した夢の乗り物だった。しかし地球に迫り来る巨大彗星の影響で、重力が大きく乱れた今となっては、逆にそれが足かせになっていた。
カシウスとネリシアの二人を乗せたスクーターがふわりと宙に浮かぶが、重力場の異常を示すアラームは鳴り続けている。フラフラと左右に揺れてバランスを崩しそうになり、いつものように思った通りには進まなかった。
カシウスは歯を食いしばり、精一杯の力でハンドルを握りしめた。コンピューター制御のマシン相手に、ハンドルを力いっぱい握っても意味はないと分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
風が強くなり、不穏な気配を察した鳥たちが、けたたましい鳴き声をあげながらカシウスたちと併走する。まだ昼だというのに、空は薄暗い。それはあと少しでこの王国に訪れる終末の時を暗示しているかのようであった。
カシウスの操縦するスクーターは大きくカーブを描きながらも、何とか王宮の北西にある小屋へとたどり着いた。しかし停止がうまく出来ず、バランスを崩して二人は草の上に投げ出されてしまう。
「大丈夫ですか?」
「ええ、何とか」
ネリシアが右腕を押さえながら立ち上がった。着地の際、右腕で体をかばおうとして強くぶつけたようだ。少し動かすだけで激痛が走るが、今はそんなことを言っている場合ではない。
カシウスがあたりを見渡した。
「方舟は一体どこに?」
「あの小屋から秘密の通路を抜けた先よ」
「急ぎましょう」
カシウスはネリシアの左手を握り、小屋に向けて走り出した。扉は閉まっていたが、鍵はかかっていない。二人が小屋の中に飛び込むと、そこには何の変哲もない壁と地面があった。
カシウスが戸惑いの表情を見せるが、ネリシアは動じた様子もなく呪文を唱える。
「テラノム・サーサスール」
その言葉に反応して地面の一部が光り、そこに地下へと続く穴が開いた。
「方舟はこの先にあるわ」
二人は手を取り合って階段を下り始めた。その動きに合わせて目の前の通路がライトアップされ、通り過ぎると消えていく。やがて別れ道が見えてきたところで、ネリシアがカシウスの手を引き寄せた。
「こっちよ」
カシウスは言われるがままに、果てしなく続く階段を下り続けた。
どのくらい階段を下りただろう?
実際には数分のことだったのかもしれないが、カシウスには果てしなく長い時間に思えた。やがて彼らの行く手に一筋の明かりが見え、そこにたどり着くと、地中に作られた巨大な広場が目の前に広がった。そしてその中心には巨大な宇宙船の姿があった。その表面は長い宇宙航行にも耐えられるよう、炎のように燦然と輝くオリハルコンでコーティングされている。
「……これが方舟か」
その威容にあふれた姿を見て、カシウスが声を絞り出した。
それと同時に方舟の入り口からノアが顔を出し、大声で叫んだ。
「陛下、お待ちしておりました。もう時間がありません。早くお乗りください」
「ええ」
ネリシアは小さくうなずいてから、カシウスのほうに振り返った。二人は黙ったままお互いの顔を見つめ、短い口づけを交わす。
「さようなら」カシウスが精一杯の笑顔を作り、手を振った。
「さようなら」ネリシアも小さな声でそう応える。
「私、こんな結末を望んではいなかったのに……。もし今度生まれ変わるなら、私は王族でなくていい。その代わり、あなたと一緒に暮らしたい」
「はい、その時はぜひ」
「またいつか逢いましょう」
ネリシアはそう言い残すと、方舟に向かって駆け出した。カシウスは静かにその後ろ姿を見送った。
それが二人の今生の別れであった。
方舟の扉が閉まると共に上のほうから大きな音が聞こえ、薄暗い空が現れる。
その空を目指して、巨大な方舟が音もなく浮かび上がった。カシウスのスクーターと違い、宇宙のあらゆる場面で飛行できるように高度な重力制御装置を備えているのかもしれない。その挙動はあくまで的確であり、スムーズだった。暗い空に巨大な炎のような船体が舞いあがり、やがて小さくなり消えていく。
カシウスは微動だにせずそれを見つめていたが、方舟の姿が見えなくなったところで、ようやく自らの境遇に思い至った。
こんな地下深くにいては助かるものも助からない。自分も生き残るために、できるだけのことをしてみよう。
彼は踵を返し、地上を目指して元来た道を駆け上がり始めた。目の前の階段を照らすセンサーが、ネリシアと共に地下へと下りたカシウスを仲間と認識して導いてくれたのかもしれない。行きのような分かれ道に迷うこともなく、明かりに導かれるまま、彼は一気に地上へと上りつめ――そして絶望した。
彗星の引力によって地球全体からアトランティス近海に寄せ集められた海水が巨大な津波となり、彼方から迫ってきていた。大粒の雨が降り注ぎ、小屋の近くに放り出したスクーターはずぶぬれになっている。すでに重力や地磁気などのセンサーが狂い、非常警報を発したままそのエンジンは起動すらしなかった。
「ちくしょう、動け。動いてくれ」
しかしその声は、吹き荒れる嵐の中にかき消されていった。
空は暗いが、迫り来る水の天体による太陽光の乱反射を受け、二つの太陽が天空に存在するかのように見えた。その光景は破滅的であり、狂おしくも美しい。
大粒の雨が激しい勢いで降り注ぎ、すべてを大地の泥へと押しこめようとしてくる。
はるか彼方からは高さ15スタディオン(2.7キロ)はあろうかという巨大な津波が不気味な音を立てて迫りつつあった。
それが、カシウスが最期に目にした光景であった。




