第十七章 アトランティス王国(5)
それから一ヶ月が過ぎた。
その後、カシウスとネリシアの二人は秘密の会合を重ね、その仲を深め合っていた。その一方で、アトランティス王国にはこれまでとなんら変わりない平穏な日々が続いていた。
平穏で幸せな日々。とても平凡で、そして素晴らしいもの。
だが、いつまでも続くと思われたそれは、ある日突然打ち砕かれることになった。
エラシッポス王家が資金援助する宇宙開発施設で長官を務めるノアの電話が鳴ったのは、日が沈み、彼が自宅に帰りついた後のことである。
「どうした?」
ノアが声を上げると、目の前の空間に施設の副長官を勤めるビラコチャの姿が映し出された。ビラコチャは白い肌であご鬚をたくわえた、大柄で普段は温厚で気さくな男だが、いつもとは違う険しい顔をしていた。
「ノア先生、夜分にすみません。実は大至急お知らせしたいことがありまして」
「何か問題でも起きたのか?」
ノアは、立体映像が生み出したビラコチャの顔を覗きこんだ。
「はい、大変な事実が判明しました。彗星184659番の軌道が当初の想定と異なっていたのです」
太陽系に飛来する彗星には通し番号が降られ、それぞれの大きさや形状、飛行経路などがデータベースに蓄積されている。だが急に番号だけ言われても、イメージが湧かなかった。
「まずその彗星のデータを送ってくれ」
ノアが依頼すると、その眼前の空間に彗星に関する各種データが表示された。月よりも巨大な天体であり、七日後には地球からおよそ1000万スタディオン(180万キロ)の距離まで最接近する。
「これか」
ノアは半年前にビラコチャから報告を受けたことを思い出した。天体の99%は氷でできており、地球の近くを通る頃にはその表面が融解して巨大な水の塊のように見えるという珍しい天体だ。軌道は極端な楕円形になっており、太陽から近い地球のそばを通り過ぎる時にはかなりの速度になっている。現代ではケプラーの第二法則と呼ばれているが、アトランティス王国でも同様の法則は知られていた。
「これがどうかしたのか?」
「はい、では次に彗星185201番のデータを送ります」
ビラコチャはまた別の彗星のデータを転送してきた。こちらは重金属でできた重くて小さな天体である。地球には接近しないため、特に問題はなさそうだ――と思ったが、そこであることに気付いた。
「いや、待て。その軌道は……」
「そうです。四日後に184659番と185201番の軌道が重なり、衝突することが判明しました。両者の軌道データを別個に計算していたので、気付くのが遅れたのです」
「それで両者の軌道に変更が生じるわけか。衝突後の軌道はどうなる?」
「宇宙流体力学の専門家を招聘して、たった今計算が終わったところです」
ビラコチャの言葉と共に、ノアの眼前にある空間に様々な数式が現れた。ノアはそれをしげしげと眺めてから唇をかんだ。ビラコチャが再び説明を始める。
「地球の半分はあろうかという巨大な水の塊が飛来し、一週間後、地球に最接近します。これにより、アラブ半島からアフリカ北部、アトランティス、南米にかけて、彗星から大量の水が降り注ぐと共に、彗星による引力で海水も地球の裏側から引き寄せられ、高さ15スタディオン(2.7キロ)の津波が起こると予想されます」
「15スタディオンだと?」
ノアの顔がひきつった。そんな津波が押し寄せれば、アトランティス王国全土があっという間に飲みこまれてしまうだろう。
「ミサイルを撃ち込んで軌道を変えられないか?」
「それも検討しましたが、相手は衝撃時に発生する熱で融解し、ミサイルが届くころには相当な速度エネルギーを持った水の天体になっているはずです。その軌道を大きく変えるほどの特殊ミサイルを今から準備する時間はありません」
「……何ということだ」
ノアは頭を抱えた。だが迫り来る巨大な災厄を前に、残された時間は少ない。悩んでばかりもいられないのだ。そう思い直し、すぐに顔を上げた。
「今から緊急会見を開こう。一週間後、アトランティス王国は海の底に沈む。私はそのことを王国全土に伝えねばならない」
「はい、分かりました」
ビラコチャの映像が消えた。ノアは机の引き出しを荒々しく捜し、一枚の紙を見つけ出して手に取った。それは今から百年前に彼が作った、太陽系外への人類移住を可能にする光子ロケットの計画書であった。
その名を方舟と言う。
五百人の人間を人工冬眠させて搭乗させると共に、地球上の様々な動植物のDNAを保存して持ち出す。そして目的地についてから、その遺伝子情報を元に地球上と同じ生態系を創り出す計画であった。方舟そのものは完成していたが、予算の無駄遣いと非難されて実際の計画は頓挫していた。
だが今から半年前、地球から四十光年離れた場所に人類が移住できる惑星アララトを発見した。それ以来、ノアは私財を投じて密かにアララトに向けて出発できる準備を進めてきたのである。すでに動植物のDNAは一通り保存してある。あとは五百人の人間が搭乗すれば、いつでも出発できるようになっていた。
「このまま地球に残っても、大きな災害は免れないだろう。生き残れる可能性は低い。それならばいっそのこと、新天地に夢を託すという方法もある」
ノアは計画書を握りしめ、つぶやいた。
だが、彼にはまだその前にするべきことがある。服を着替えて外套をまとうと、玄関口に止めてあった一人乗りのスクーターにまたがった。重力制御装置を備えたスクーターがふわりと空に浮かび上がり、エラシッポス王家の王宮を目指して飛び始める。
そして、その性能の限界をノアはよく知っていた。
その夜遅く、エラシッポス王家の王宮で緊急会見が行われた。
会場の上空に地球と彗星の像が投影され、その接近速度や今後予測される軌道、質量などが、ノアによって説明された。
「以上の結果、七日後の夜にこの水の天体は地球に最接近します。その一部が雨となって降り注ぐことによって豪雨をもたらし、彗星の引力によって地球の裏側から大量の海水が引き寄せられ、アトランティス王国全土が高さ15スタディオンの津波に飲み込まれると予測されます。その時、上空には毎秒5プレトロン(149メートル)の強風が吹き、重力場の変化によって皆さんが所有するスクーターを制御しているソフトが誤作動するでしょう。現在、我々はソフトウェア開発チームと共同で、天体の接近に備えたソフトの改良版の開発に着手したところですが、果たして間に合うかどうか……」
「無責任なことを言うな。何とかしろ」
会場の一角から罵声が飛んだ。それは他人に対して責任を負ったことのない人間がよく発する言葉である。自分は文句さえ言っていれば、誰かが何とかしてくれるとでも思っているのだろうか?
ノアはその言葉を無視し、説明を続けた。
「もし間に合ったとしても、小型のスクーターでは暴風雨の中で安定した姿勢を保つことは極めて困難でしょう。現在、アトランティス王国に存在するすべての飛行装置を用いても、その多くは制動を失い、荒れ狂う海の中に墜落すると思われます。はっきりと言いましょう。七日後、このアトランティス王国は滅亡します。何か質問はありますか?」
淡々としたノアの説明に会場が凍りつく中、一人の男が手を挙げた。
「ガデイロス王家の研究機関に所属するパルテルスと言います。私たちもあなたの言われる彗星同士の衝突をだいぶ前から把握しており、その軌道について計算を行っておりました。その結果はあなた方の計算とは異なり、月の軌道より遠い場所を通るため、20プース(6メートル)ほどの海面上昇を引き起こす程度であろうと予測しております。それでも大きな水害は免れませんが、王国が滅亡するなどという大それた話ではないはずです」
会場がざわめき始めた。
「なんだ、驚いて損をした」
「そのくらいの海面上昇なら、今から備えれば何とかなるな」
「でも、もしかしたら……」
あちこちから様々な声が聞こえる。
「この嘘つき野郎!」と罵声が飛んだ。先程と同じ人物に違いない。
結局、その夜は両者ともに再計算をしてみるという結末で幕を閉じた。




