第十七章 アトランティス王国(2)
部屋の入り口の両脇には白いランの花が飾られ、その手前には鹿の毛皮に似たなめらかな肌触りの生地で作られた明るい色合いのソファーと、ウォールナットで作られた長いローテーブルが置かれていた。ソファーの上には黒い猫のぬいぐるみが寝そべっている。入り口から死角になる奥の部屋には、暖色系の生地で作られた天蓋つきの立派なベッドがあり、その傍にある出窓からは暖かい日差しが差し込んでいた。
それらを一望できる部屋の一角には、やはりウォールナットで作られた机が鎮座し、その上には表装された本が三冊と孔雀の羽で装飾したペン、黄金で刺繍された絹製のしおりがきちんと並べて置かれていた。
午後の日差しが差し込む暖かい室内で、ネリシア王女は机にもたれかかりながら本を読んでいた。明るい栗毛色の髪にブラウンの瞳。ベルベット製のドレスをまとい、その額には宝飾の施された小さなティアラが輝いている。清楚だが豪奢すぎない上品な装いが、十八歳になったばかりのネリシアの美しさをよりいっそう引き立てていた。
本当は室内の好きな場所に立体映像や文字を投影することもできたが、革で表装された紙の本を読むほうが何となく趣があって好きだった。
ネリシアは読んでいた本が一段落着いたところでふと顔を上げ、ローテーブル真上の空間に投影された時計を見た。時刻は午後二時を廻っている。
「もう御前会議は終わったのかしら?」
ネリシアがつぶやくと同時に時計の映像が消え、かわりに御前会議の議場が映し出された。すでにそこにいる人影はまばらだ。それを確認し、手にしていた本を机の上におくと、部屋を後にした。
扉の外には巨大な吹き抜けの空間があり、それを取り囲むように作られた二階の廊下には数人の侍女たちが控えている。
「王女様、ごきげんうるわしう」
侍女たちが片足を後ろに引き、腰を下げながらネリシアに一礼をした。ネリシアは侍女を引き連れ、ペライトス王の執務室へと向かう。ペライトス王はアトランティス王国に十人いる王のうちの一人であり、その遠い祖先はポセイドンとクレイトの間に生まれた七番目の子供、エラシッポスであった。執務室の扉を三回ノックすると、奥から王の声が聞こえた。
「誰だ?」
「お父様、ネリシアでございます」
「入りなさい」
王の声をセンサーが識別し、重厚な木製の扉が内側に開く。中に入ると、赤色をベースに美しい模様を織り込んだ絨毯が正面の執務机まで伸び、向かって右手には会議用の机が、左手にはローテーブルとソファーが置かれていた。世界中の銘木を取り寄せ、金やオリハルコンで装飾を施した、いずれ劣らぬ銘品ぞろいである。執務机に向かって座るペライトス王が右手を横に振ると、その正面に浮かんでいた文字が手の動きに合わせて横へと消えた。
「ネリシア、ここにお前が一人で来るとは珍しいな」王が破顔した。
「今日の御前会議はもう終わったようですね」
ネリシアは一度右膝をついて頭を下げてから、王の執務机へと歩み寄った。
「うむ、最近王国の内陸部で干ばつが続いていることは、お前も知っているだろう。昨日、あの地方を治めるエウアイモン王家のサラセナ女王から救援の要請が入ったのだ」
「それで救援の内容について話し合われたのですか?」
「取り急ぎ、水と食料を送ることについてはすぐ決まったのだが、財政的な支援が必要かどうかについて意見が分かれてな。あの地方は元々人口が少なく、所得水準もあまり高くないところで、五百年前に作られた灌漑施設の老朽化も著しい。そのインフラ整備の支援をすべきかどうか。しかし我がエラシッポス王家の統治領も失業率が15%を超える現状では、予算を他の地方に回すことへの反発も根強い」
「お父様、連日の国務でお疲れでございましょう。私が代理を務めても構いませんので、少し休まれては?」
ネリシアが王を気遣った。彼女はペライトス王の長子であり、将来はエラシッポス王家の女王になることが決まっている。今後は少しずつ国務を引き継いでいかなければならない立場なのだ。
だが、ペライトス王はそんなネリシアの覚悟をよそに軽く笑い飛ばした。
「なに、私はこのくらいのほうが張り合いもあって楽しいし、ネリシアに任せるのはまだ不安だ」
「いつまでも子ども扱いしないで下さい」ネリシアが不満げに頬を膨らませる。
「ははは。そうは言っても、お前はまだ若く王でもない。老練な大臣たちにどうしても軽く見られよう」
「そういうものですか?」
まだネリシアは不満そうだ。それを見たペライトス王は話題を変えようと、身を乗り出した。
「ところで話は変わるが、ノアの話は知っているか?」
「はい、人類が移住できる新しい星が見つかったという話ですね」
ノアとはアトランティス王国でもっとも高名な宇宙学者である。アトランティス王国では、十人の王はその一番年長の子に家督を譲る慣わしとなっており、二番目以降の子はいずれ王族を離れ、一般人になる。そして一般人との間に子供を作ることが繰り返されたため、王国建国から約一万年になろうとする今、この国の民はほぼ全員が開祖ポセイドンの血を引いていた。そしてどういう訳か、このノアという男だけは先祖返りを起こし、通常の十倍ほどの時間をかけて生育、老化した。そのため六百歳となる今も、見た目は六十歳の壮年である。
「今から四百年前、人類の移住できる惑星を探す計画が組まれ、ノアとアララトという二人の学者によって作られた光子ロケットが近隣の恒星系に向けて飛び立った。そしてそれが半年前に帰還し、そのデータを解析した結果、地球からおよそ四十光年のところに、大気成分、重力、気候、自転周期、公転周期、衛星の存在など地球の環境に酷似した惑星が見つかったのだ。ノアはこの星に、かつての同僚アララトの名をつけたらしい」
「たしかに夢はありますが、現在の私たちにはそこに移住する動機がありません」
「もちろん、現状では非常時の避難場所でしかない」
「そこにそれだけの予算を割いてよかったのでしょうか?」
「昔の王たちは必要だと考えたのだ。お前が王位を継ぐころには、その判断が変わっているかもしれないが……」
話の途中、ペライトス王が急に顔をしかめ、執務机向かいの椅子から崩れ落ちた。
「お父様、どうなされました?」
ネリシアが駆け寄ると、ペライトス王は左肩を押さえながら苦しそうに机の下で倒れていた。その呼吸は荒く、額には汗がにじんでいる。
「医官を、医官を呼んで!」
ネリシアが叫ぶと同時に、執務室の扉が自動で開き、緊急を告げる不協和音が鳴り響いた。それを聞きつけた衛兵やネリシアの侍女たちが駆けこんでくる。
「どうしましたか?」
「王が、ペライトス王が急に倒れたの! 医官を呼んで!」
ネリシアが叫ぶのを聞き、衛兵の一人が外に走っていった。それから少しして、一人の医官が屋内移動用の椅子のような形の乗り物に乗って廊下の向こうからやってきた。このほうが、人間が走るよりも速いのである。
ペライトス王に歩み寄り、その容態を見た医官が、手にした端末に話しかけた。
「心肺停止です。救急用具一式とありったけの人員を回してください」
「心肺停止?」ネリシアが両手を口に当て、後ずさった。
「はい。陛下、失礼します」
医官はペライトス王を仰向けにしてその着衣を脱がし、胸部に二つの小型装置を装着した。
その間に別の医官たちが駆けつける。最初の医官が叫んだ。
「心室頻拍《VT》だ。DC用意、みんな下がれ」
その数秒後、王の体がバネのように飛び跳ねた。
更に別の医官は右の耳たぶに針で小さな傷を作り、そこから搾り出した一滴の血液を手にした機械のセンサーに押し当てた。一瞬にして血液検査の結果を出し、他の器具やデータベースとの双方向アクセスで、人工知能による診断予測まで導き出す機能がついていた。それを見た医官が叫ぶ。
「突然発症のVT。白血球10800、CPK427、GOT61、トロポニンIは78……診断は感度93%、特異度89%で急性心筋梗塞です。ルート確保、カテコラミン、多能性幹細胞心筋シート緊急移植用意」
王の体は寝台のような乗り物に乗せられ、呼吸補助と心臓マッサージを受けながら、慌しく部屋の外へと運び出された。
ネリシアは両手を口元に当てたまま放心していたが、ふと我に返り、宣誓した。
「ペライトス王が無事復帰されるまで、私が国務を代行します」
力強い声であったが、目には涙が浮かび、その膝は小さく震えていた。それを聞いたすべての人間がネリシアに向かって片膝をつき、頭を下げる。
だがその晩、医療班の懸命の治療もむなしく、ペライトス王は帰らぬ人となった。享年四十五歳。医療や公衆衛生も発達し、男性の平均健康寿命が七十五歳を超えていた当時のアトランティス王国にあっては、かなり短い生涯であった。




