第十五章 メーヤル博士の最終講義
小難しい話ですみません。
受付にはすでに多くの人だかりができていた。
長いテーブルには三人の女性が立っていて、来場者に記帳を依頼している。二人組の学生が利き手の人差し指で画面をなぞっており、その隣では初老の女性がペン型のデバイスを使い、こじんまりとした字で記名していた。
記帳を済ませた人たちはその先にある大講堂へと案内され、思い思いの場所に着席していく。
講堂前方の空間には講演のタイトルらしき文字が浮かび上がり、両サイドでは大学のマスコットキャラクターが笑顔で跳ねまわる動画が映し出されていた。
タイトル名は「時間の川と光速の山 ~未来の可能性を信じて~」である。
この日の演者であるミルド・メーヤル博士は、ネリシア王国随一の科学研究機関である王立ノア研究所の主任研究員を長年務めており、この日は定年に伴う退官のため、ここ首都カシウスのビラコチャ大学にある大講堂で最終講義を行うことになっていた。
大講堂内にある座席数は501と決められており、その数字は建学当時から守られてきたらしい。すでに座席の七割ほどが埋まっている。
今年二十歳になったばかりのリゼール・シガイレーは前方中央の席に座り、講演が始まるのを待っていた。ブラウンの瞳には感情を押し殺した冷たい光が宿り、やや赤みがかった金髪は無造作に跳ねている。彼はビラコチャ大学政治学部の学生であり、成績は優秀ながら人嫌いをする陰のある性格のため、一人でいることが多かった。唯一の友人と言えるのは、次期王位継承者であるヘンド王子だけである。ヘンド王子は病弱で講義を欠席することが多く、その抜けた穴をいつもリゼールのノートに頼っていた。
そのヘンド王子から、今日の講義の内容をノートにとって、後で見せて欲しいと頼まれていた。他の同級生からの依頼であれば断るところだが、王子じきじきの頼みとあってはそうもいかない。
リゼール自身は文系であり、この王国の科学文明を支えるエネルギー炉の話にはさほど興味がなかった。この王国に暮らす者たちの祖先は、かつて別の星からこの星に入植したという。その際に持ちこんだ科学技術で最初に建造したのが首都カシウスの地下にあるエネルギー炉であった。別の位相にある宇宙から反物質を取り寄せ、この世界の物質と反応させることで莫大なエネルギーを半永久的に取り出すというものだが、王国建国から千年以上の時が立ち、経年劣化のため動作が不安定になっていたらしい。そこで陣頭指揮を執り、首都カシウスの西方にある砂漠地帯に新たなエネルギー炉を建造したのがメーヤル博士である。新しいエネルギー炉には高さ3プレトロン(89.4メートル)ほどの尖塔が建てられ、それはメーヤルの塔と呼ばれていた。
不意に、正面のスクリーンにそのメーヤルの塔が映し出された。
そろそろ講演が始まるらしい。リゼールは背筋を伸ばし、メーヤル博士の登壇を待つことにした。
しばらくして現れたのは初老の男性である。この最終講義にはふさわしくないヨレヨレの作業服で、リゼール以上に寝ぐせの強いぼさぼさの白髪が印象的だ。
座長を務めるビラコチャ大学の総長がメーヤル博士の経歴を紹介していた。リゼールはそれを聞き流し、博士の独特な風貌を眺めていた。そこに大きな拍手が巻き起こる。
「みなさん、こんにちは。王立ノア研究所のメーヤルです。今日は私の最終講義に、多くの人にお集まりいただきありがとうございます。早速ですが、本題に入っていきたいと思います」
博士の声は思っていたよりも甲高かった。
話の前半は、彼が半生をかけて建造した砂漠地方のエネルギー炉についてである。専門的な用語が多く、リゼールにもところどころ分からないところがあった。思わずあくびが出そうになるのを噛み殺し、周囲の様子を観察した。一つ席を開けて彼の右隣りには、黄色いワンピースを着た十三、四歳くらいの少女が座っていて、熱心に耳を傾けている。
この子は理解できているのだろうか?
そんな疑問を抱いたが、彼自身もヘンド王子に見せるためのノートをとる必要があり、睡魔と戦いながらその苦行を続けるのに精いっぱいだった。それ以上、少女に気を取られている余裕はない。
そしてその辛く長い話が終わったところで、博士は時計をちらりと見てから次の話題に入った。
「ところで今日は学外の方にも大勢来ていただいているので、もう少し一般受けする話もしたいと思います。それはタイムトラベルについてです。皆さんはタイムマシンに乗って過去に戻りたいと思ったことはありませんか? きっと一度くらいはあると思います」
うんうん、と同調する空気が感じられる。大講堂が眠りから目覚めつつあった。
「でもタイムトラベルにはタイムパラドックスが伴います。一番有名なのは、親殺しのパラドックスですね。タイムトラベラーが過去に戻り、自分が生まれる前の両親を殺してしまうと、自分自身も生まれてこなくなる。その結果、両親は未来から来た彼らの子供に殺されずに済むので、結果としてタイムトラベラーが生まれてきます。するとそのタイムトラベラーは過去に戻って両親を殺して……と堂々巡りをします。でも実はこれ、単なる考察不足なのです」
博士が右手を動かすと、目の前の空間に小川の映像が現れた。
「ここで質問です。空間は三次元以上ありますが、時間は何次元でしょうか?」
ざわざわという音が聞こえる。
「いきなりこんなことを言われても戸惑うでしょうから、まずは一次元の時間モデルと三次元の時間モデルについて考えてみましょう。一次元の時間モデル、これは簡単にイメージできますね。歴史という一本の糸があり、そこを現在という点が、過去から未来へと一定方向に移動していくものです。それに対して三次元の時間モデルとは川のようなものです。上流から下流へ、過去から未来へと流れていく方向が決まっていますが、それだけではありません。深さや川幅という別方向への広がりをあわせ持っているのです」
博士の目の前にある小川の映像では、絶えず水が流れ続けていた。
「もし時間が一次元であった場合、そこには一本の歴史軸しか存在しません。仮にタイムトラベラーが過去に戻って両親を殺そうとしても、それは必ず失敗し、結局タイムトラベラー自信が生まれてくるというたった一つの歴史しか存在しないのです。つまり歴史の改変は不可能です。私たちにとって過去の歴史は一つしかないように、この時間モデルでは未来の出来事も運命として定められています。絶対に当たる予言者がいたとして、彼が滅びの予言をしたとすれば、それは未来において必ずや的中するでしょう」
小川の映像はなおも続いている。
「それに対して時間が三次元であった場合、そこには無数の異なる歴史、すなわちパラレルワールドが共存しています。タイムトラベラーが自分の生まれたAという歴史から過去に戻り、両親を殺したとします。するとそこで両親が死亡し、タイムトラベラー自身が生まれてこないBという別の歴史、別のパラレルワールドが生じます。Aという歴史とBという歴史は三次元の時間という川の中でパラレル、つまり並行して存在していますが、そこにパラドックスは生じません。二人の釣り人がそれぞれ釣り糸を垂らし、川の流れの中に二本の釣り糸がパラレルに存在していてもパラドックスは生じませんね。それと同じくらい当たり前のことです。この時間モデルでは、未来はさまざまな可能性に満ち溢れています。絶対に当たるという予言者が滅びの予言をしたとしても、その予言が当たるパラレルワールドもあれば、外れるパラレルワールドもあるでしょう。運命という言葉で、未来を決定づけることはできません」
ここで映像が切り替わった。悪人が刃物を持って笑っているイラストだが、子供が描いたものであり、そこにシリアスさは感じられない。
「もう一度、親殺しのパラドックスの話に戻りましょう。これがなぜパラドックスになるのか? それは時間を一次元だと思いこむくせに、その中にAとB、二つの異なる歴史が『パラレル』に存在していると考えるのが原因です。その結果、歴史を変えたことで『今』はどちらの歴史が一次元の時間の中にあるのだろうと考え、一次元の時間軸に別の時間の概念を持ちこみ、さらに誤解をこじらせていく。二つの歴史が排他的だと思っているから、タイムパトロールという無用の長物まで持ち出してくる。でもこれはつまり、時間は何次元なのかという基本的な考察ができていないだけなのです」
会場のざわめきが大きくなった。
「それではここでもう一度質問です。空間は三次元以上ありますが、時間は何次元でしょうか? 一次元の時間モデルと三次元の時間モデル、どちらがより近いでしょうか? これからそれを、相対性理論の公式を一つだけ用いて説明したいと思います」
相対性理論だの、公式だのという難しい単語に、会場の空気がやや疲弊する。
「普段、私たちは時間や空間が絶対的な物だと思っています。光は1秒間に100万プース(30万キロ)進みますが、この1秒という時間や100万プースという長さは、誰にとっても同じだと思いがちです。しかし光速に近いロケットがこの星の近くを通り過ぎる時、私たちがそれを観測したら、ロケットは本来より前後方向に縮んで見え、重さは重くなり、ロケットの乗組員たちの動きはスローモーションのように見えます。これが相対性理論です」
大講堂の後ろのほうから、ため息が漏れた。
「そしてロケットが光速に達すると、その前後方向の長さはゼロになり、重さは無限大になり、乗組員たちの時間は止まっているように見えます。さらに光速を超えると、ロケットの長さ、重さ、乗組員たちの時間はすべて虚数になってしまいます。ゆえに相対性理論では、光速を超える速さ――すなわち超光速は存在しないと考えられています」
ここで博士の前に盆地の映像が現れた。まわりを高い山に囲まれている。
「イメージとしてはこの盆地のようなものです。まわりを光速という高い山に囲まれ、その先は虚数という霧でおおわれています。いかなる冒険者もその先に行くことはできませんし、山の向こうがどうなっているのか誰も知ることができません。そして多くの人は、光速という高い山の向こうに、もっと高い山――つまり超光速の世界があるはずだと思いこんでいます。光速を超えると超光速になると誤解しているのです」
そこで盆地の画像は一つの数式に切り替わった。
w=(u+v)/(1+uv/c^2)
「これは相対性理論における速度を合成する際の公式です。速度uの飛行機から速度vのミサイルを発射すると、地上の人から見たミサイルの速度はwになるというものです。そしてここに出てくるcは光速です。uやvが光速に比べて限りなく小さい場合、この公式の分母はほぼ1になるので、uとvを足すだけでwが求まります」
後ろのほうで席を立つ音が聞こえた。その一方で、リゼールの横に座る黄色いワンピースの少女は食い入るように数式を見つめている。
「でもuとvがそれぞれ光速の0.9倍だった場合、wは光速の1.8倍にはなりません。計算すれば分かりますが、光速の0.99倍になります」
少女がうなずくのが見えた。
「ではここで、AとBを1より大きな数字としましょう。分かりにくければ、3とか4くらいの数をイメージしてください。光速の1/A倍の飛行機から、光速の1/B倍のミサイルを発射しました。地上の人から見たミサイルの速度はどうなりますか?」
ため息が漏れる中で、黄色いワンピースの少女が手を挙げる。
「えーとぉ、(A+B)/(1+AB)・c ですねぇ」
「その通り」
十三、四歳の少女が即答するのを聞き、メーヤル博士は少し驚いていた。
「では光速のA倍の飛行機から、光速のB倍のミサイルを発射しました。地上の人から見たミサイルの速度はどうなりますか?」
「それもぉ (A+B)/(1+AB)・c ですぅ」
やはり少女は即答する。
「その通り。つまり光速の1/A倍の飛行機から光速の1/B倍のミサイルを発射しても、光速のA倍の飛行機から光速のB倍のミサイルを発射しても、その速度は同じになります。つまり光速の1/A倍とA倍、光速の1/B倍とB倍はそれぞれ同じ速度なのです」
大講堂が騒がしくなった。
「これを合理的に説明する方法が一つだけあります。光速のその先で、時間と空間が入れ替われば良いのです。100万プース(30万キロ)の距離を2秒かけて移動すれば、その速度は秒速50万プース、つまり光速の半分です。そして200万プースの距離を1秒かけて移動すれば、その速度は秒速200万プース、つまり光速の二倍になるはずです。しかしここで時間と空間が入れ替わり、200万プースが2秒に、1秒が100万プースになったとしましょう。すると100万プースを2秒かけて移動するその速度は秒速50万プース、つまり光速の半分になります。距離を所要時間で割る、すなわち空間を時間で割ったものが速さです。でも光速を超えたところでその両者が入れ代わってしまえば、光速の1/A倍とA倍は同じ速さになります」
ここに来て、多くの人が話についていけず脱落するのが、会場内の雰囲気から伝わってきた。
「先ほどの話に戻りましょう。我々は盆地の中央にいて、まわりを光速という高い山に囲まれています。その向こう側は虚数という霧に覆われ、きっと光速山よりも高い山があると思いこんでいました。でもこの世界にある一番高い山は光速山であり、その向こうには光速山より低い盆地、すなわち時間と空間が入れ代わった別の世界が広がっていたのです。光速という山の向こう側には、私たちの世界となんら変わることのない光より遅い世界があったのです」
中央に高い山があり、その両脇に盆地が広がるイメージ図が表示された。左側の盆地には「私たちの世界」と記されており、右側には「光速の向こう側の世界」と書かれている。
「光速を超えると時間と空間が入れ替わる。これが成立するには、時間と空間が同じ次元数でないといけません。三次元の空間と一次元の時間が入れ替わることはできないのです。それではここでもう一度質問です。空間は三次元以上ありますが、時間は何次元でしょうか? 一次元の時間モデルと三次元の時間モデル、どちらがより近いでしょうか?」
「三次元」という声がどこからか上がった。
「そうです。時間は一本の糸ではなく、三次元の川に近いのです。この時間モデルでは無数のパラレルワールドが存在して、未来はさまざまな可能性に満ち溢れています。絶対に当たるという予言者が滅びの予言をしたとしても、その予言が当たるパラレルワールドもあれば、外れるパラレルワールドもあるでしょう。運命という言葉で、未来を決定づけることはできません」
博士はここで言葉を切り、会場を眺め渡した。老若男女さまざまな人たちが大講堂に留まり、博士の講演に耳を傾けている。だが、やはり大学の敷地内だけあって若い人が多い。
「皆さんの未来には無限の可能性があります。それこそが、私が若い皆さんに伝えたい最後の言葉であり、相対性理論が皆さんに語りかけるメッセージなのです。これで私の最終講義を終わります。ご清聴ありがとうございました」
メーヤル博士が頭を下げると、大講堂に万雷の拍手が鳴り響いた。会場の人たちがどこまで理解できたのかは定かでないが、人々の生活を支えるエネルギー炉の建設に半生を費やした博士への感謝の意味もあっただろう。
窓の外ではもみじの葉が鮮やかな朱色に染まっている。
時にネリシア王国歴1357年――グリンピア王国歴にして紀元前23年の秋の日のことだった。




