第十二章 偽られた歴史(2)
狭い部屋の天井から床まで、壁一面にたくさんの書籍が並べられていた。
屋外では強い風が吹いているのであろう。古い窓枠がときおり振動し、屋内に低い音を響かせていた。窓際に置かれた大きな机にもたくさんの書類や本が積み上げられ、それを見上げるかのように小さなピグのぬいぐるみが置かれている。机の向こうには革張りの椅子があり、そこには浮かない顔をした老婦人が座っていた。
ここはレッディード王国でもっとも権威あるパルタス王立学院の一室である。老婦人はこの学院で歴史学を教えるサーナ・シストルス教授であり、その正面にはキャラン・コラウニーという名の若い研究者が立っていた。
キャランには六歳上の姉がおり、名をメリカという。彼女もシストルス教授の教え子の一人であり、在学中に古い文献を読み漁ることで古代ネリシア語を習得したという研究室きっての才女だった。その姉が卒業した後、キャラン自身もパルタス王立学院で歴史学を専攻し、姉の手ほどきを受けて古代ネリシア語を修得した。そしてシストルス教授の助手として、かつてグリンピア王国の首都であったカシウスの王宮跡で宝物庫の探索を行ったことがある。その時の功績が認められ、卒業と同時に研究者としてこの教室に籍を置くことになった。銀色の髪にダークブラウンの瞳、聡明そうな顔立ちが印象的な、今年二十歳になったばかりの若き新進気鋭の研究者である。
そのキャランが不満げな顔をしていた。
「教授、またその話ですか?」
「そうよ、キャラン。私は何度でも言うつもりです。ラック・ハイモンドの伝承についてそれ以上、詮索するのはやめなさい」
普段は柔和なシストルス教授が顔をこわばらせながら、キャランをなだめるようにゆっくりと話した。
「でも僕たちは歴史学者ですよ?」
「そう、私たちは歴史学者であり、史実を追求するのが仕事です。だからこそあなたも知っているはずです。彼の伝承について聞き取り調査を行い、行方不明になった仲間がいたことを。それにあなたのお姉さんも……」
「その件はもう言わないでください」キャランの語勢が強くなる。
「でもやっぱり僕は過去の真実について知りたいんです」
「私もその気持ちはよく分かるわ。でもあなたはもう学生じゃないの。世の中には踏み込まないほうが良い領域があるということを知って、もっと大人になるべきなのよ」
「でも、僕は……」
まだ納得がいかない表情のキャランを、シストルス教授は上目がちに見つめた。
「先日、あなたはメーヤルの塔からこのパルタスに来たという老人と会い、色々と話を聞いたようね」
「なぜ、教授がそれを?」
「赤いトラがそのことを知っていたの。私は彼らとの間にパイプがあって、そこから情報が入ってくるのよ。彼らは今、あなたを危険視しているわ」
シストルス教授の言う赤いトラとは、秘密警察のような役割を担う諜報機関である。かつてこの世界が三つの国に分かれていた時代には、他国への急襲部隊としての活動が主であった。そして中興の祖ダッセル王が世界を再統一してからは、その役割を変えることで現代まで生き残ってきたのである。
「まさか、そんな……」キャランの顔が青ざめた。
「あなたは彼らに監視されているの。これ以上うかつなことをすると、本当に命を落とすわよ」
シストルス教授はキャランから視線をそらし、小声で言った。
「……はい、今後気をつけます」
すべて見抜かれていることを知り、キャランも素直にそう答えるしかなかった。
「私からの話は以上です」
シストルス教授は椅子の背もたれごと回転し、キャランに背を向けた。その見つめる先、窓の外には灰色にくすんだパルタスの町並みが広がっている。
「失礼します」
キャランは教授の背中に一礼をすると、部屋を後にした。
昼休憩の時間であったため、廊下に出るとそこでは多くの生徒たちが行き交っていた。キャランの講義を聴講したことのある女生徒が、彼に小さく会釈をして足早に通り過ぎていく。しかしその次に会った女生徒は、キャランの姿を見て、手前の廊下を横に曲がって行ってしまった。心なしか生徒たちも彼を避けているようだ。
たしかに教授の言うとおり、キャランは一週間前にメーヤルの塔からやってきたという老人と街中で偶然知り合い、彼に金貨を渡してラック・ハイモンドに関する話を聞き出していた。キャランは交易で財を成した裕福な一族の生まれであり、資金面ではあまり気を遣わずにすむ環境にあった。
老人は、王国暦528年の戦いで女神メルネがラック・ハイモンドに最初に襲いかかり、それを見た女神マイヤがメルネを止めたのだと言う。
だが老人自身もその話をすることに対してひどく警戒していため、キャランが老人の指定する料理店まで赴き、そこでようやく話を聞くことができたのである。あの時、周りの席には誰もいなかったし、老人が後からそのことを公言したとも考えにくかった。もちろん彼自身もそのことを他人には話していない。
だとすれば、一体どこからあの時の話が赤いトラに伝わったのだろうか?
そんなことを考えていると、不意に彼の名を呼ぶ声が聞こえた。
「キャラン、どうしたの? 気難しい顔をして」
振り返ると、そこにはマイシーが立っていた。彼女はキャランの幼馴染みであり、現在はこのパルタス王立学院の図書館で働いている。赤い髪に愛くるしい笑顔がチャームポイントであり、それは十五年前から変わっていなかった。
「ちょっと、教授に叱られてしまってね」
「一体、何をやらかしたの?」マイシーが神妙な顔になった。
「それが……」
そう言いかけて、キャランはふとあることに気付いた。
そう言えば、マイシーにだけはあの老人から聞いたラック・ハイモンドに関する話をしていた。だがマイシーがそんなことを誰かに言いふらすはずはない。彼女はキャランにとって一番の理解者であったし、彼女もキャランに好意を持ってくれているはずだ。来月やってくる彼女の誕生日に、キャランはプロポーズをするつもりだった。
キャランは頭を横に振って、マイシーへの疑念を忘れ去ろうとした。
「いや、たいしたことじゃないよ」
「あのね、今晩、久しぶりにシャブールを交えて三人で食事しない?」
「シャブールと?」
キャランが少しびっくりしたような声を上げた。シャブールはやはり彼の幼馴染みであり、パルタス王立学院の同級生でもある。だが成長するに従ってキャランとは次第に馬が合わなくなり、疎遠になっていた。
「そう言えば、最近あいつとはあまり会っていないな。今はランデルマードに軍の士官候補生として赴任しているはずだけど」
「ええ、でも昨日、二ヶ月ぶりにこのパルタスに戻ってきたのよ」
「ふーん、そうなんだ」
キャランがつまらなさそうに答えた。マイシーがシャブールのことを笑顔で話すのが、何となく面白くなかった。
「今晩七時、イエローサハウスに集合。来てくれる?」
マイシーの言うイエローサハウスとは、かつてイエローサと呼ばれた地方の郷土料理を出す店である。キャランも何度か行ったことがあるので、場所は知っていた。
「うん、分かった」
口ではそう答えたが、本当はシャブール抜きで食事をしたかった。




