第一章 覚醒(4)
すでに夜も更けていたが、下町の往来は普段と違って喧騒に包まれていた。二階や三階の窓を開き、心配そうに顔を出す人の姿も見える。暗闇の中、王宮前広場のほうだけが赤く舐めるような光で染まっていた。
レッディード王国。それはこのグリンピア王国の北方に位置する軍事国家である。
漆黒の破壊神による蹂躙の時代を経て、カーウィン王がグリンピア王国の建国を宣言した当時、北方の山岳地帯の向こうには王国の支配に従わぬ雪の民が暮らしていた。彼らはいくつかの部族を作って勢力争いをしており、王国の安定のもとに平和な暮らしを享受するグリンピア王国の兵士たちからは残忍な戦闘集団として恐れられていた。そこに大軍を送るには、かなりの兵站と犠牲を要するため、支配地域から外れた空白地として長らく放置されていた。
そしてグリンピア王国歴419年、雪の民たちが暮らす北方の地に武神ソドが降臨した。
筋骨隆々とした鋼の肉体に赤い甲冑をまとい、おのれの身長を超える長さの大剣を軽々と振りまわすその姿は武神そのものであり、その背中には空を駆けるための白く大きな翼が生えていたという。猛吹雪の中、ひとつ、またひとつと武装された集落を落としていくソドの名はたちまち北方の地に知れ渡り、人々は恐怖した。しかしソド自身は単に暴れまわるだけの暴虐の徒ではなく、最初に彼にひざまずき、忠誠を誓った集落の長がレッディード王国の初代国王になった。ソドの圧倒的な武力を前にして、他の集落の長たちも次第に平伏していった。
以来、レッディード王国は武勇に長けた兵士たちを擁する軍事国家として栄え、武神ソドは王国の首都パルタスに建てられた神殿に住まい、年に一度だけ啓示を与えるために人々の前に姿を現すという。神殿には赤い塗料で装飾が施されており、そこからソドが現れるのは、なぜか毎年グリンピア王国の豊穣祭の日と重なっていた。
だからこそグリンピア王国側も、今日という日を狙って隣国の兵士たちが攻め入ってくるとは考えていなかったのである。
「レッディード、王国の、奴ら、やっぱり、強いのかな?」
光のほうへと走るジールはすでに息切れしていた。それに比べてラックの声にはまだ余裕がある。
「そうだな、同じ兵力で戦えば十中八九グリンピア王国が負けるって聞いたことがある」
「奴らの、目的って、やっぱり、聖剣かな?」
「多分な」
「あれは、この国の、宝で、俺たちの、誇りだ」
「もちろんさ、俺の父さんやお前の兄さんもいるんだ。絶対に奪われたりしないさ」
「そうだよな」
ジールは苦しそうな表情に笑顔を浮かべた。
夜の王宮前広場には、すでに怒声や剣を打ち合う激しい音が響いていた。なぎ倒された松明の炎は、露天のテントに、街路樹に、そして逃げ惑う人々の衣服に燃え広がり、あたり全体をぼんやりと赤く不気味な光で照らし出している。火だるまになった女性が痛々しい悲鳴を上げながら、用水路の水へ飛びこんでいくのが見えた。
広場から下町へと目抜き通りを走って逃げる群集に逆らい、ラックとジールは広場を目指したが、幾度となく押し戻され、倒されそうになった。それでも何とか広場の入り口にたどり着いた時、馬のいななきが聞こえ、甲冑に身を固めた数十騎の騎馬隊が二人を追い抜いていった。
「お前たち、危ないぞ。早く逃げろ」
最後尾の騎乗兵が馬を止め、二人に声をかけた。ラックも立ち止まり、兵士と向き合う。
「俺たち、聖剣が奪われたと聞いて来たんです」
「お、君はたしかハイモンドさんの息子の……」
「ラック・ハイモンドです」
「俺はジール・シモリスです。兄が兵士としてこの戦いに参加しています」
「そうか、二人ともよく聞け。レッディード王国は長いあいだこの国と和平を結んでいたが、四年前に即位した現国王が領土拡大の野心をあらわにしてから、国境付近でたびたび小規模な争いが起きるようになった。今日、この広場に攻めこんできたのは、赤いトラと呼ばれるその最精鋭部隊だ。特に隊長のイギス・ダンサンはレッディード王国最強の剣士と呼ばれ、非情な鉄の男だと言われている。君たちの心配も分かるが、これ以上広場に近づくことは許さない。我々の使命はこの国の人々を守ることだ。察してくれ」
騎乗兵のさとすような言葉に、二人は立ち止まって顔を見合わせた。その視界の彼方では、深紅の甲冑をまとったレッディード王国の兵士たちが一騎当千の強さを見せ、迎え撃つグリンピア王国の兵団と互角以上の戦いを繰り広げている。あたりに燃え広がる炎が、闇の中で妖しく踊っていた。
若草色の甲冑に身を包んだグリンピア王国の兵士が、一人、また一人と倒されていく。もう武器を持たぬ町の人々は広場から逃げ去り、そこにいるのは対峙する両国の兵士だけになっていた。気合いを発する声と斬撃の音だけが夜空に響き渡っている。
悪夢のような光景を前に、何もできない己の無力さがただただ悔しかった。
「うう……」
両手の拳を握りしめたラックがうめき声を発し、その頬を涙が伝う。
その時、広場の中央を一人の男がゆっくりと歩いていくのが見えた。深紅の甲冑をまとったその手には、昼間の豊穣祭で見たあの聖剣が握られている。
「隊長」
レッディードの兵士たちが道をあけた。どうやらあの聖剣を手にした男が、隊長のイギス・ダンサンのようだ。歳は二十代前半だろう。より年配の兵士たちも大勢いる中で、隊長と呼ばれるにはかなり若い。それが純粋にこの男の武勇によるものだとすれば、かなりの手練れに違いない。
「これで目的は達成した。撤退するぞ」
イギスは感情を押し殺した低い声で部下たちに告げた。
「そうはさせるか!」
グリンピアの兵士が二人、剣を上段に構えて斬りかかるが、イギスの一太刀でその体は大きく後方に吹き飛ばされた。
「今、奴は何をしたんだ?」
グリンピアの兵士たちがうろたえる中、一人の兵士が悠然とイギスのほうに歩みよる。
「ほう、久しぶりだな」
イギスの目が冷たく光った。その見すえる先にはラックの父、ロイズの姿がある。剣士としての最盛期をとうに過ぎてはいたが、かつてグリンピア王国主催の剣闘技大会で二回優勝したその腕前は、国内外で広く知れ渡っていた。
「どうだ、イギス。一太刀あわせてみないか? そして俺が勝ったら、その聖剣をここに置いていってもらおう」
「バカな。この剣はすでに我が手中にあるのだ。今さらここでお前と戦う必要はない」イギスはロイズに背を向けた。
「そうだな、言われてみればその通りだ。お前、なかなか賢いじゃないか」
ロイズはおどけてみせたが、すぐにその表情を引き締める。
「ならばこういうのはどうだ。もしおまえが勝てばこの命くれてやろう。それでも不足か?」
覚悟を秘めたロイズの言葉に、それまで感情を顕わにしなかったイギスが気色ばんだ。
「いい加減にしろ。そこまでしてお前は何を望む?」
突然の怒声にあたりが静まりかえった。その場にいた誰もが、イギスがむき出しにした感情に戸惑いを覚えている。周りの人間には理解不能な怒りに見えたであろうが、イギスの脳裏には幼い娘の姿が浮かんでいた。
「その聖剣は我が国の宝。そして俺はこの国の剣士だ。それ以上の理由が必要か?」
ロイズが静かに答える。
「その覚悟を背にこの場を立ち去れば、俺はお前から逃げたことになるな。自らの名に傷をつけては今後の任務に差しさわる」
イギスは聖剣をその場に置き、自らの剣を抜いた。
「隊長、早くこの場を立ち去りましょう」
そう急かす部下に、イギスは剣の切っ先を向けた。
「何人たりともこの戦いを邪魔することは許さん。分かったか?」
イギスの気迫に圧倒された部下がうなずく。
「勝負だ、ロイズ」
「その心意気に感謝する」
ロイズも自らの剣を抜いた。
すでに火の勢いも弱くなり、あたりを静寂が包んでいた。誰もこの勝負に手出しすることはできない。名高い二人の剣士によって繰り広げられる、誇りをかけた真剣勝負なのだ。ラックも唇を噛みしめながら、遠巻きにその勝負の行方を見守っていた。
「はー!」
気合いとともに最初に切りかかったのはロイズだった。
ガキン! という鈍い音を立て、二人の剣がぶつかりあう。
激しい金属音、そして目にも止まらぬ剣技の応酬に、その場にいた誰もが息をのんだ。ひときわ大きな斬撃音が響いた後、二人は間合いをとる。
「はあ、はあ、はあ」
二人とも息を切らしていたが、その表情を見ればイギスに分があることは誰の目にも明らかだった。
「腕を上げたな、イギス」
ロイズが困惑の表情を浮かべる。
「ロイズよ、六年前の剣闘技大会では俺はお前に勝てなかった。しかし時代は変わったのだ。せめてもの敬意を表し、今の俺が持つ最大の技でお前を倒してやろう。後ろの奴ら、どけ!」
イギスが剣を振って、ロイズの後ろにいる兵士たちを追い払う仕草をした。その気迫に押されてロイズの後ろにいた人垣が割れると、王宮の城壁が見えた。それを確認してから、利き足である右足を一歩後ろに引き、右手で剣を構え、左手を前方に大きく伸ばした。
「俺はデルタイを手に入れた。さらばだ、ロイズ。トルネード・ロール!」
イギスが突きを放つとそこに竜巻が生まれ、その風圧がロイズの体を30プース(9メートル)は離れた城壁に叩きつけた。
「ぐう……」
ぼろ雑巾のような姿をさらすロイズがうめき声を上げる。それを見ていた兵士たちの間に動揺が走った。
「一体、何が起きたんだ?」
「デルタイ? そんな馬鹿な。でもあれは……」
「父さん、大丈夫か?」
ラックは無意識に父のほうへと走り出していた。その姿を見つけたガイルも後を追う。
ラックは父の上半身を抱上げた。しかしロイズの顔色は蒼白で、その右肩はあらぬ方向に曲がっている。
「ラック……いたのか……奴は……父さんの……誇りに……応えた……だけだ……奴を……恨むな……強く……なれ」
そう言い残し、ロイズは事切れた。
「あああ」
十二歳のラックには、目の前のできごとはあまりにも非情だった。取り乱し、父の剣を手に取ってイギスに斬りかかろうとするラックの前に、ガイルが飛び出し、その体を押さえつけた。
「ラック、こらえろ! 頼むからこらえてくれ!」
その目には涙が浮かんでいる。イギスは聖剣を拾うと、ラックに背を向けた。
「ロイズの息子か。おまえの父は立派な剣士だった」
「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! チクショウ!」
我を忘れたラックが父の剣をイギスに向けて振りかざしたその時、周囲にいた誰もが自らの目を疑った。
剣の先から赤い炎が生まれ、ドラゴンの形をなしてイギスへと襲いかかったのである。しかしそれはイギスにたどり着くことなく、途中で消えてしまった。
「あれは、もしかして……フレイム・ドラゴン?」
誰かがつぶやいた。その言葉を聞いて、息をのんでいた群衆たちが目の前で起きた事態をようやく理解する。
「ラック、お前、もしかしてあのデルタイを?」
ガイルも腰が抜けたかのようにその場にへたりこんだ。誰もが驚愕して言葉を失う中、ただ一人だけ冷静な男がいた。
「すまんな、ロイズの息子よ。それを見せられた以上、お前をこのまま生かしておくわけにはいかん」
イギスが再び自らの剣を抜き、ラックに向かって歩み始めた。ラックは蛇ににらまれたカエルのように硬直してしまい、周囲にいたグリンピア王国の兵士たちも剣を構えたまま身動きできない。
イギスの闘気が音もなく忍び寄り、ラックの足元をとらえた。死という言葉を生まれて初めて間近に感じる。
「あの少年は剣士カシウスの再来であり、我が国の宝だ。我らグリンピア王国第二旅団、命に代えてもあの少年を守り抜くぞ」
突如、老齢の指揮官が声をはりあげた。兵士たちの士気が一瞬にして沸騰し、無言の束縛から解き放たれていく。
「おおおおお」
地面が割れんばかりの雄たけびをあげ、若草色の甲冑をまとった兵士たちがイギスの前に立ちふさがった。
「おい、ラック、何をしている。みな命がけでお前を守ると決めたんだ。その覚悟を無駄にさせるな。早くこの場を逃げろ」
ガイルに両肩をつかまれ、ラックもようやく我に返った。
「は、はい」
「ジール、お前もラックと一緒にこの場を逃げろ。何があってもお前がラックを守ってやれ」
ガイルが声を張り上げると、ジールは上の空の状態でよろよろとラックのほうに歩みよった。
「さあ、早くしろ」
その声に背中を押され、二人の少年はゆっくりと、そして次第に全力で走り出す。
「我らグリンピア王国第一旅団、団長コーグ・ティハイン以下三十五名、この任務に参加いたす」
「第三旅団団長のワットルド・ディークマス以下三十三名だ。俺たちのことも忘れてもらったら困るぜ」
続々とグリンピア王国の精鋭軍が集結する中、イギスはゆっくりと剣を下ろした。
「興が冷めた。俺の任務はこの聖剣を奪うことだけ。それを果たした今、これ以上お前たちのような窮鼠を相手にしても単なる噛まれ損だ」
「ふん、おじけづいたか」
グリンピア王国の若い兵士が勢いに乗じてイギスに切りかかるが、目にもとまらぬ速さで剣をはじかれた。眼前に迫るイギスの切っ先を見て、へなへなと座りこむ。
「今日のところはあの少年を見逃してやると言っているのだ。それでもなお、お前たちは無駄な死を選ぶのか?」
イギスの鋭い眼光に、多くの兵士たちが言葉を失った。少年を見逃してやると言われ、命の限りに沸騰していた士気までもが急速に冷めていく。
そして結局、グリンピア王国の兵士たちは撤収を始める赤いトラの兵士たちを黙って見送ることになった。