第十章 パルタスの決戦(2)
その夜のこと。
昼間から降りしきる雪はいつしか白く冷たい絨毯へと変わり、パルタスの町全体を覆っていた。明かりの少ない寂しげな街並みが、雪の冷たさをよりいっそう際立たせている。今年もこの町に長く辛い雪の季節がやってきた。
多くの人たちが家の中にこもってひっそりと暖をとる中、イギスは一人兵舎の中庭に出て、白い雪の粉が吹きつける中で佇んでいた。もう一時間はこうしているだろう。
普通なら彼の体にも雪が降り積もっていておかしくはないが、熱く猛る気持ちを抑えながら精神統一するイギスの体からは湯気が立ち、そこに触れた雪は瞬く間に消えていった。
ガサ。
彼の背後で雪を踏みしめる音がした。最初は遠くで聞こえていたその音が、次第に近づいてくる。
「誰だ?」
イギスは微動だにすることなく声を上げた。
「イギス、久しぶりだな」
それは久しぶりに聞く声だった。孤独なイギスにとって唯一無二の友人と言ってもいいパーガスである。イギスが振り返った。
「パーガス、こんな日にわざわざ俺を訪ねてきたのか?」
「お前に報告しておきたいことがあってな」
「ラック・ハイモンドとティーナ姫がここにやってくるということか?」
イギスが先回りして尋ねると、パーガスは驚きの声を上げた。
「お前、なぜそれを知っている?」
「今日の昼、お前のところの兵士がわざわざダッセルに報告に来ていたよ」
「ち、余計なことを」
パーガスは唇をかんだ。
「それよりもお前、ラック・ハイモンドと戦ったそうだな」
「ああ」
「どうだった? あいつの強さは」
「六年前のお前よりは明らかに強かった」
「そうか。何があったか知らんが、あいつめ、ほんの一ヶ月ほどでだいぶ成長したようだな。だがもちろん俺もお前が知っている六年前のままではない。今度こそ本気であいつと戦えそうだ」
イギスの声は心なしか嬉しそうである。もともと感情表現の苦手なイギスにしては珍しい。パーガスはそう感嘆しながら質問した。
「実は俺も一つ、お前に聞いておきたいことがあってな。今日こそは答えてもらいたい。お前はなぜそこまでダッセルに忠義を尽くす? お前ほどのデルタイがあれば、あいつを排除することも可能だろう」
「お前には関係ないことだ」
とたんにイギスの声から感情が抜け落ちた。
「いや、関係ある。テラノム・サーサスール。俺たちはそう誓い合った仲だろう」
「そういえば、そんなこともあったな……」イギスの声が小さくなる。
「お前の苦悩は俺の苦悩だ。教えてくれ、ダッセルとの間に何があった?」
雪で反射した光にぼんやりと照らし出されたパーガスの顔は真剣そのものである。イギスは大きくため息をつき、この七年間、誰にも話したことがなかった真実について話し始めた。
「俺が九年前に結婚したことは知っているな?」
「テミーシャだろう。覚えているさ。彼女はパルタス王立学院の同期の中でも一番の美人だった。でもその二年後、出産のときに母子共に命を落としたのだったな」
「表向きはそういうことにされたのだ。ダッセルによってな」
「――何だと。それはどういうことだ?」
「あの日、テミーシャは元気な女の子を無事に出産した。しかしその晩、赤いトラの中でも特にダッセルに忠義を尽くす一派が突然押し入り、二人を連れ去ってしまった。そしてその三日後、俺は赤いトラの隊長に推挙された。つまり俺は妻と娘を人質にとられ、赤いトラの隊長としてダッセルに忠誠を尽くすように求められたのだ」
「まさか、そんなことが……」
パーガスはあまりのショックに、両足から力が抜けるのを感じた。
ダッセルが行った暴挙に対してではない。親友だったイギスの苦悩に気づくこともなく、七年間も彼のことを誤解し続けた自分の愚かさに対してである。
「それでお前は隊長就任と共に、感情を押し殺してダッセルの言いなりになったのか」
「娘のレイリアは今年七歳になったが、今の俺はレイリアと一緒の時間を過ごすことすらできない。週に一度だけ遠巻きに二人の姿を見て、テミーシャからの手紙を読み、二人の無事を確認することしかできないのだ」
イギスの声は珍しく苦悩に満ち、高ぶっていた。
パーガスにも妻と三歳の長男がいる。自分に置き換えて考えれば、イギスの気持ちは容易に想像できた。ただ残念なことに、彼にどんな言葉をかければよいのかまったく見当がつかなかった。
「つらかっただろう」
見当がつかなかったが、つい凡庸な言葉が口をついて出てしまう。
「大丈夫だ、つらいことには慣れている」
イギスはいつもどおりの冷静な口調に戻っていた。パーガスに自分の苦悩を打ち明け、少しだけ気持ちが軽くなったのかもしれない。
「そうとも知らず、俺はお前のことが不甲斐なく思えてしまって、お前と果し合いをするつもりで今日ここにやって来た。ペンダントをしかるべき者に托すという我が一族の使命を終え、返り討ちにされるのを覚悟でお前に戦いを挑みたかった」
「そうか、決闘ならいつでも応じるぞ」
イギスが剣の柄に手を伸ばした。
「だが今のお前の話を聞いて、そんな気分ではなくなってしまった。イギス、何か俺にもお前の力になれることはないか? テミーシャたちの居所が分かれば、ダッセルの隙をついて救出できるかもしれない」
「ふっ」
鼻で笑うイギスに、パーガスが気色ばんだ。
「何がおかしい?」
「俺にもまだお前のような友がいてくれたことがあまりにも滑稽でな」
「茶化すな。赤いトラは元々血の気の多い好戦的な集団だ。十五年前、先代の隊長がお前を連れてハプスの村を襲ったときには村人に多くの死者が出たと聞いた。しかし先日残りのペンダントのありかが分かり、お前がノキリの村を襲った時には家屋が燃えただけで死者は出なかったそうだな」
「よく知っているな」
「お前は昔から俺にとって憧れの存在だった。その反動でダッセルの意のままに動くお前に怒りを感じつつも、お前の挙動が気になって情報収集を欠かしたことはなかったよ。お前が隊長として、要らぬ犠牲を出すことも多かった粗暴な赤いトラを規律ある集団に変えたことは評価している」
「そんな大層なものじゃない」
再び自虐的な笑みを浮かべるイギスに、パーガスが質問を投げかけた。
「一つだけ教えてくれ。六年前にロイズ・ハイモンドと戦ったとき、お前なら手加減して彼を殺さずに済ませることもできたはずだ。それなのになぜ?」
「それは……俺にもよく分からない。あの時すでにテミーシャとレイリアを人質にとられ、ダッセルの言いなりになるしかなかった。俺は国の誇りのためではなく、二人のためにグリンピア王国の首都カシウスに攻めこんだ。そして任務を完了し、聖剣を手にして撤収しようとしたとき、ロイズが戦いを挑んできた。あいつは国の誇りを守るために、自分の命をかけて戦うと言っていた。その時レイリアの顔が脳裏に浮かんだ俺にはそれが腹立たしく、そして眩しく思えてな。あの時の俺には、ロイズに全力でトルネード・ロールをぶつけることしか考えられなかった。でもそれが怒りからだったのか、ロイズの誇りに対して全力で応じようとした敬意からだったのか、いまだに自分でもよく分からないのだ」
「そうだったのか……」パーガスはイギスにかけるべき言葉を見つけられずにいた。
「だから父親の死に直面したラックがフレイム・ドラゴンのデルタイに目覚めた時、俺はレッディードの人間として奴を排除しなければいけないと思う反面、奴がいずれ大きく成長し、強敵となって俺の前に現れることを心のどこかで待ち望んでいた。成長してからのラックともこれまでに二度剣を交えたが、その時はまだ本気を出すほどの相手ではなかった」
「彼らはもうじき、この王都パルタスにやってくるだろう。そして今のラックは間違いなくお前を脅かすだけの実力を持っているぞ」
挑発するパーガスに、イギスが不敵な笑みを浮かべた。
「そうでなければ面白くない」
その言葉は自信にあふれ、高揚に満ちている。イギスの魂は、ダッセルからの理不尽な仕打ちを受けてなお、かつての荒々しい輝きを失ってはいなかったのだ。パーガスはようやくそのことを理解した。
「俺は今日ここに来て本当に良かった。俺が心酔したイギスという男は、昔と少しも変わっていない。それを知ることができたのだから」
兵舎の窓から漏れるわずかな光が、一面の銀世界をうっすらと照らし出す。そこに立ちつくすパーガスがイギスに久しぶりの笑顔を見せた。
「パーガス、お前に一つ頼みがある」
「何でも言ってくれ」
「テミーシャとレイリアはあそこに見える王城の東塔に幽閉されている。ラックたちが来た時、できればその混乱に乗じて二人を助け出して欲しい」
イギスは王城の横にそびえる尖塔を指さした。
「分かった。だが無理に押し入れば、かえって二人を危険にさらしてしまうだろう。助け出す約束はできないが、努力はしよう」
「恩に着る」
小さく頭を下げるイギスに、パーガスが右腕を突き出した。それを見たイギスも右腕を突き出し、パーガスの腕と交差させる。
「テラノム・サーサスール」
それは二人にとって十一年ぶりの、互いの友情を確認しあう言葉だった。
夜のパルタスに粉雪が降りしきる。あたりは一面の銀世界である。その片隅に、なぜか寒さの中で息を潜める一匹の黒猫がいた。
二日後、ラック達は王都パルタスまであと少しという小さな村に来ていた。
皆、耳を隠す厚手の帽子にマフラー、手袋をして、綿のたっぷりと入った外套をまとっている。元々シーナが身につけていたティアラの宝石を、ランデルマードの質屋でレッディード王国の通貨に換え、旅に必要な食材や防寒具を買いそろえていた。
「もうすぐ王都パルタスね」
ひなびた村の中央を通り抜ける雪道を踏みしめながら、シーナは誰に話しかけるでもなく、つぶやいた。
「そうだな、やっとここまで来た」
ラックが帽子を取って天を仰いだ。風は冷たいが、前日までとは打って変わった青空から強い日差しが降り注ぎ、それが雪で乱反射するため、眩しくて目を開けることもままならない。
「ラック、もう一度聞かせてくれ。お前がイギスとの再戦を待ち望むのはなぜだ?」
ジールが問いかけると、ラックは思案しながら目を閉じた。
「六年前、俺の父さんとイギスはそれぞれ別の国の剣士として誇りをかけて戦い、そして父さんが負けた。だから今度は俺がロイズ・ハイモンドの息子として、一人の剣士として、あいつを見返してやりたい。そして同時にグリンピア王国の人間として、あいつに奪われた聖剣を取り戻したい。それ以外のことは努めて考えないようにしているんだ。私怨で目が曇った状態で勝てるような相手ではないからな」
その答えにジールがうなずいた。ここまでは何度か聞いたとおりだが、本当に聞きたいのはその先である。
「それなら聖剣と七個のペンダントを手に入れ、聖剣を復活させた後に漆黒の破壊神が復活したら、お前はどうするつもりだ?」
「ごめん、まだそこまでは考えられないよ」
ラックは首を横に振った。仮定が連なった先の話だ。やはり今の時点で明確な答えを求めるほうが酷だったかもしれない。
「そうか、そうだよな。まあ仕方のないことだ。だけど俺はお前をイギスとの再戦の場所まで、できるだけ消耗させずに送り出してやりたい。それは協力するつもりだ」
「そんなのダメですよ。ジールさんのデルタイでは、途中に立ちふさがる人たちに犠牲が出てしまいます」
ルサンヌが話に割って入ってくる。
「だったら、どうすればいいんだ?」
「私に任せてください」
ルサンヌが微笑んだ。彼女には、敵と味方のあいだに見えない壁を作り出し、戦いそのものをできなくさせてしまうデルタイがある。
「みんな、ありがとう」
先頭を歩くラックが振り返って笑顔を見せた。その深い紺色の瞳を見つめながら、シーナが静かに右腕を差し出した。
あれをするつもりなのだろう。すぐにその意図を察したラック、ジール、ルサンヌ、ノクトがシーナと円陣を組む位置に歩み寄り、それぞれの右腕を差し出した。
「テラノム・サーサスール」
五人の声が雪原に響きわたり、そして吸収されていく。
少し離れた場所で、村人に扮した赤いトラの隊員が雪かき作業をしながら聞き耳を立てていた。




