第一章 覚醒(3)
その夜、ガイルはラックとジールを連れて、首都カシウスの下町にある居酒屋に来ていた。
半地下にある狭い店内には料理とカビの混ざった匂いが立ちこめ、ランプの明かりの元で酔客たちが陽気に騒いでいる。ガイルは数人の客に手を振って挨拶してから、隅のほうのテーブル席に着座した。その向かい席にラックとジールも腰を下ろす。
「ここは二年前、俺が新米の兵士だった頃からよく来ている店さ。まあ、正直あまり上品な店じゃないが、安いし、色々な地方の料理を扱っているから、田舎の味が恋しくなった時はここに限るんだ」
王国の騎士団に入るため、十八歳で故郷の村から上京したガイルにとって、洗練されたカシウスの料理はどこか身の丈に合わないものだった。そんな折、酔っ払いたちの笑い声が聞こえるカビ臭い半地下の居酒屋を見つけ、恐る恐る入ったのがこの店だった。昨年からは弟のジールを呼び寄せ、二人で下宿生活を送っているが、今でもジールに夕食を用意し、自分一人でたびたび訪れている。
「上品じゃなくて悪かったね。今日はぼったくってやろうかしらね」
頭上から降ってくる声に気づいてガイルが顔を上げると、そこには両手を腰に当ててため息をつく恰幅の良い女性の姿があった。この店の女将である。
「いや、違うよ、女将さん。安くて美味い庶民の味方だって、ほめているんだよ」
「まったく、この子は虫が良いんだから」
女将さんは満更でもなさそうに笑みを浮かべた。ガイルくらいの年齢の息子がいてもおかしくない人だ。地方から出てきて、この店に足しげく通うガイルのことを、息子を見るような目で見ているのだろう。普段ならラックやジールのような子供は入店できないのだが、豊穣祭の行われたこの日だけは、町全体の雰囲気が「硬いことは言いっこなし」になる。
「そっちの坊やたち、飲み物はどうするんだい? 子供はお酒を飲めないし、そこの兄ちゃんの安月給じゃ新鮮なジュースは高くて手が出ないよ」
ラックとジールが顔を見合わせた。ガイルは苦笑いを浮かべながら、二人に向かって謝罪の仕草をしている。
「じゃあ、水で」二人の残念そうな声が唱和した。
「ふふふ、水だね。それと、このジュースは私からのおごりだよ」
女将さんが二人にぶどうジュースを差し出した。ラックとジールの目が輝く。
「わあ、ありがとう!」
「ち、性格の悪い婆さんだ」
ガイルが横で毒づくが、その目は笑っていた。
「いやー、今日は良かった」すでに酒の入っているガイルの声は満足そうだ。
「グリンピア王国建国時からこの国を見守る女神マイヤと、王室に代々伝わる剣士カシウスの聖剣、王国にまつわる伝説を二つともこの目で見られたんだ」
ガイルは気持ちよさそうに、国歌を鼻歌で歌い始める。
「俺はあの踊り、気に入ったぜ!」
ジールが席を立ち、豊穣祭で奉納されたガニ股で飛び跳ねる踊りを始めた。そのひょうきんな仕草に、周りの席から笑いと拍手が沸きおこる。
「俺はあの聖剣を手にしてみたい」
ラックが遠い目をした。
グリンピア王国の英雄カシウスが手にしたとされる聖剣は、この王国の人たちにとって力と正義の象徴である。父親から剣術を習う十二歳の少年にとって、それが憧れの的であることは言うまでもない。それと、今日の豊穣祭でそれを携えていたあの可愛らしい王女のことも気になって仕方がなかった。
横にいたガイルが陽気な声をあげる。
「そうか、それならこの国で一番の剣士になれよ。三年に一度、王国全土の剣士がつどう剣闘技大会が開かれる。そこで優勝すれば、国王陛下から一晩だけ聖剣を貸与されるのさ。ロイズさんも若い頃に二度優勝して、家に持ち帰ったことがあるはずだ」
「そんなの俺が小さかった頃だし、覚えてないよ」
ラックが口をとがらせるが、少し考えた後でぽんと手を打った。
「でもガイルさんの言う通りだ。大人になって、俺がその大会で優勝したら良いんだ」
「そうそう、でもその前に俺が優勝してお前に見せてやるよ」
ガイルも対抗心を見せるが、ラックは聞いていなかった。
「そして家に持って帰って聖剣を抜き、フレイム・ドラゴンを放ってやるんだ」
「ははは、妄想ここに極まれりだな。でも仮にお前が優勝したとしても、聖剣を抜くことすら無理だと思うぜ」
物知り顔のガイルに、ラックが気色ばんだ。
「どうしてだよ?」
「王国建国以来、誰もあの剣を鞘から抜けた人間はいないのさ。これまで百人以上の優勝者があの聖剣を手にしてきた。でも誰も抜けなかった。お前のお父さんもな」
ガイルは大きなため息をついた。
「それって、どこかで鞘だけの偽者にすり替えられたとか?」
「それはないと思うぜ。女神マイヤは今日もあの聖剣を手にしていただろう? 女神は、カシウスやカーウィン王が漆黒の破壊神と戦ったのもその眼で見てきたんだ。偽者なら女神が気づかないはずがないさ」
「そうか、じゃあいつか俺が優勝して、五百年ぶりに聖剣を鞘から抜いてやるよ」
「おお、その意気で頑張ってみろ」
ガイルが気持ちよさそうに笑う。すでにかなり酒が入っており、その呂律は怪しかった。
食事も終わり、三人が家路に着こうとした時である。外の通りが急に騒がしくなり、非常事態を知らせる鐘の音が町中に響き渡った。
「大変だ。隣国の奴らが攻めてきたぞ」
店に飛び込んできた兵士の言葉を聞き、店内も騒々《そうぞう》しくなる。
「どういうことですか? スティビーさん」ガイルが兵士に問いただした。
「ガイル、お前ここにいたのか。ちょうど良かった、俺と一緒に来い。レッディード王国の兵士たちがこの町に攻めてきたんだ。人々の往来が激しくなる豊穣祭にまぎれて侵入し、祭りで騒ぎ疲れた夜を狙ったに違いない」
「で、奴らは今どこに?」
「王宮の宝物庫だ。夜になって女神から返納されたばかりの聖剣が奪われた。お前、戦えるか?」
「はい」
ガイルはテーブルの脇に立てかけていた剣を手に取ってから、ラックとジールに向き直った。
「ということだ。お前たちは危ないから家に帰っていろ」
「無理はするんじゃないよ」
心配そうに声をかける女将さんに手を振り、ガイルはスティビーと共に店の外へと消えて行った。その後ろ姿を見送るジールの表情は冴えない。
「どうする? 俺はガイル兄さんが心配だ」
「うん、そうだな。遠くから様子を見に行こう」
ラックが目配せをすると、ジールが小さくうなずいた。
「おばさん、ありがとう。俺たち、もう家に帰るよ。悪いけど支払いはまた今度にして」
二人はそう言い残して店を飛び出す。
「それはいいけど、気をつけて帰るんだよ」
優しい女将さんの言葉に、二人は心の中で謝った。