第七章 永い眠り(4)
ルサンヌの傷が癒え、白い石像から元の姿に戻れたのは今から半年前、グリンピア王国歴528年春のことだった。ルサンヌはそれまで280年もの間、ミシラルド修道院の礼拝堂でメルネの代わりに石像として安置されていたことになる。
ルサンヌはメルネと違って石像の姿でいる間、周りの状況を知覚することはできなかったし、少し眠って目が覚めたという感覚でしかなかった。しかし髪の毛は伸び、顔立ちも少し大人びて、知らないうちに自分の肉体が成長していることに気づいた。髪の毛の伸びから想像すると、1年半くらい歳を取ったようである。眠りにつく前は十六歳だったので、現在は肉体的に十七、八歳ということになる。しかし生まれた年から計算すると、296歳の老婆だった。それがショックだったし、ちょうど石像から人間の姿に戻る瞬間を、礼拝堂の掃除をしていたユリイに見られてしまい、客人が来るたびに話題にされる羽目におちいった。
知らないうちに国が変わり、時代が変わり、そこで暮らす人々が変わった。知の女神と呼ばれるようになったメルネがメーヤルの塔から姿を見せることはなく、再会は叶わなかった。いくつかの記憶が欠落してしまい、ルサンヌ自身が石像化する直前のメルネの言葉も覚えていないし、カイモンの顔も忘れてしまった。
最初は孤独と不安にさいなまれたが、ミシラルド修道院は身寄りのないルサンヌを修道女として受け入れてくれた。
「いつの日か人間の姿に戻った時、彼女をここの修道女として受け入れるように」と歴代の修道院長の間で口伝されていたことを知ったのは、ルサンヌがまわりの修道女たちとすっかりうち解けた後のことである。
こうして一人見知らぬ時代に生まれ変わったルサンヌは、修道女としてここで一生を終えるのだと思っていた。この時代に存在する三つの王国はそれなりに国力が拮抗していたし、小さな小競り合いはあっても、大規模な戦争が起きることはなかった。
この危ういバランスの上に成り立つ平和の中で、修道女としてメルネに祈りを捧げながら生きていくのも悪くない。いつしかそう考えるようになっていた。
だが、シシカ女王があの官吏のように自分のための増税を言い出したことで国が乱れ、メルネの住まうメーヤルの塔をめぐって大規模な戦いが起きることになった。
もう二度と争いに巻きこまれて大事な人を失いたくはない。そんな気持ちが高じて、軍師リューイにきついことを言ってしまった。そこは少し反省している。
その後、リューイと話したシーナはより現実的な考えの持ち主だった。ルサンヌは今のまま純粋無垢でありたいと思う反面、これまでに踏んできた人生の場数ではシーナの足元にも及ばないことが悲しかった。その後に現れた男の人と話しこんだ挙句、キスをするところも見てしまった。これまでに歩んできた人生の長さでは圧倒的に勝っているはずなのに、その濃度においては圧倒的に負けていた。
敵わないなあ、と思った。そこにあるのは悔しさではなく、寂しさである。リファに対してはどれだけ敵わなくてもそんな感情を抱くことはなかったのに、シーナに対しては置いていかれる寂しさを感じる。その理由が自分でもよく分からなかった。
すでに日も暮れ、イエローサ王国の長い一日が幕を下ろそうとしていた。
爆炎を受けて頂上付近が変色したメーヤルの塔が、黄昏の中でたたずんでいた。あたりの砂漠には兵士たちが残していった非常食や壊れた武具などが散らばっている。覚醒したルサンヌのデルタイと二人の女神の参入により、戦闘そのものが早期に中断されたこともあり、両軍の被害は当初の想定よりは少なかった。
とは言え、ミシラルド修道院が敵味方を問わずケガ人たちを受け入れたため、その礼拝堂は多くの負傷者で混みあっていた。
「消毒用のブランデーだ、しみるよ」
「いたたたた、勘弁してくれ」
「お湯、沸かしてきて」
「こっちの人が、喉が乾いたって。飲み水はある?」
堂内にはさまざまな声が飛び交い、騒然としている。シーナとルサンヌもその手助けに回っていた。修道院の外では必要物資の運搬やケガ人の搬入が行われ、ラックやジール、ノクトはそちらに借り出されていた。
そして三日が経ち、修道院がようやく元の静けさを取り戻しかけていた日の夜、シーナとルサンヌの二人は修道院の外で立ち話をしていた。シーナの足元では、黒猫のナノがじゃれている。
「やっと怪我をした人たちの介抱も一息つきましたね」
ルサンヌは修道院の壁にもたれかかり、月を眺めていた。シーナがこの修道院にやってきた満月の晩から五日経ち、月の形はだいぶ半月に近づいている。
「そうね、私も掃除とか荷物運びを手伝ったけど、不慣れなことばかりで大変だったわ」
「不慣れ? シーナさんはあまり掃除をしたことがなかったんですか?」
「ええ、まあ」と答えるシーナは、どこか歯切れが悪い。
「私、シーナさんはきれい好きだと思っていました」
美しく、聡明で、常に冷静でありながら、どこか人を惹きつける魅力がある。まるでリファみたいだし、それならリファのようにきれい好きなはずだった。
「あの、そうじゃなくて……」
シーナは困った表情でしばらく頭をかいていたが、ルサンヌに向き直って肩をすくめた。それが無意識に出た王族特有の仕草だということをルサンヌは知らない。
「ごめんなさい、この前は少し嘘をついてしまったわ。私は生まれてすぐに両親をなくし、孤児院に入れられたの。でも一歳の時にグリンピア王国のお金持ちの家に養子として迎えられて、それからはそこの養女として育てられたのよ。だからお手伝いさんもいて、そういうことをしたことがなかったの」
お手伝いさんがいて、掃除なんてしなくていい生活――ルサンヌにとっては未知の世界だった。
「もしかしてシーナさんが養子になったのは、王室に近い家柄ですか? 女神マイヤ様との会話では、王室の内部事情にも詳しいようでしたけど」
「ええ、そんなところね。私の知る限り、王宮内でも剣士カシウスが使った聖剣はただ単に聖剣としか呼ばれてなかったの」
「でもそんな家系で育てられたのに、どうしてシーナさんはこの国に来たのですか? もしかしたらこの前、礼拝堂で会っていた男の人は従者ですか?」
「従者?」シーナが首をかしげた。
「ほら、シーナさんとキスをしていた人ですよ」
従者との間の禁断の恋。なんだかとてもロマンチックだ。しかしそれを聞いた途端、シーナの顔が耳まで赤くなった。
「え? いえ、あれは、その……」
何事にも動じないと思っていたシーナが、ここまで取り乱すとは意外だった。
「あれは無事に帰ってくるためお守りをあげようと思って、でも私には何もなくて……お願い、あれはもう忘れて」
シーナが懇願した。何もないとは謙遜だが、ここまでうろたえるのを見たら、さすがにもうこれ以上はいじれない。
「いいですよ、私の胸に留めておきます。ところでシーナさんたちはこれからどこに行くのですか?」
「それは、ハプスの村に……」
「ハプスの村? たしか十五年前にレッディード軍に襲われた村ですよね」
それはこの半年でルサンヌが学んだ知識だった。
「ええ、そうだけど、そこに古代ネリシア王国時代の石板があるかもしれないの」
「それはきっと古代ネリシア語で書かれているんですよね? シーナさんは読めるのですか?」
「え、それは……」
シーナは口ごもっていたが、しばらくして意を決したように話し始めた。
「ねえ、ルサンヌ。グリンピア王国のティーナ姫が行方不明になったという話は知っている?」
「はい、修道院でもちょっとした話題になりました」
「実はあれ、私なの。本当のティーナ姫は一歳の時に病死して、その代わりに孤児だった私がグリンピア王家に引き取られ、ティーナ姫として育てられたの」
それはルサンヌにとって驚愕の事実だったが、シーナはこれまでのことをすべて打ち明けてくれた。
六年前、グリンピア王国の豊穣祭の夜にレッディード王国の赤いトラが攻め入り、王国の宝であった剣士カシウスが用いた聖剣が奪われたこと。
先日、レッディード王国の国王からティーナ姫に有無を言わせぬ婚儀の話があり、グリンピアはそれを受諾したこと。
ティーナ姫としてレッディードに向かう途中で野盗の群れに襲われたが、リューイの策で命拾いしたこと。
その後、ラックやジールと共にノキリの村に向かうことになったこと。
ノキリの村で剣士カシウスの末裔であるノクトに出会い、ともにハプスの村を目指すことになったこと。
グリンピアとイエローサの国境でティーナ姫だとばれそうになり、ラックが大立ち回りをして暴れたこと。
ラック、ジール、ノクト、シーナ、ナノはみなデルタイと呼ばれる特殊能力を持っており、おそらくルサンヌ自身もデルタイの使い手であること。
――これまでこのオアシスから離れたことのないルサンヌにとって、それは未知の世界での冒険譚だった。
シーナに比べれば自分の人生なんて平凡なものだと思った。しかしルサンヌが生まれてから今年で296年経ったこと、そしてリファやメルネと仲が良かったことを話すと、シーナは驚いた様子で熱心にその身の上話を聞いてくれた。
お互いの秘密を共有することで、何となく打ち解けられた気がした。だから、
「ようやくこのオアシスも落ち着きを取り戻したし、私たちをハプスの村に案内してくれるリューイさんが明日このオアシスを離れてレッディードとの国境付近に向かう予定なの。だから私たちも明日、このオアシスを発つわ」
シーナがそう言ったとき、ルサンヌは得も言えぬ寂しさを感じた。
「そうですか。せっかく仲良くなれたのに残念です」
「そうね、でも」
シーナはそこで何かを思慮するかのように一呼吸置いた。
「もしルサンヌさえよければ私たちと一緒に旅をしようよ。ほら、私たちのデルタイは攻撃三人に、動物との会話、変身能力でしょ。そこにルサンヌの防御系デルタイが加われば、バランスも取れて心強いと思うし」
「でも私なんかが加わっても……」
「もちろんルサンヌがこの修道院に残りたいというなら無理強いはしないわ。でもこうしてせっかく仲良くなれたんだし、私たちはもう友達でしょ?」
友達――その言葉を聞いた時、ルサンヌはシーナに敵わないと思って寂しさを感じていた理由がようやく分かった。
そうだ、私はシーナと並んで歩きたかったんだ。だから置いて行かれることに寂しさを感じていたんだ。
それは、小さい時から姉のように慕っていたリファに対しては決して抱いたことのない感情だった。
シーナと並んで歩くこと、そしてシーナに置いて行かれないこと。
それはすなわち、シーナたちと共に未知の世界への冒険に旅立つこと。胸踊る冒険譚に自分も加わること。
ルサンヌは、自分が無意識のうちにそれらを望んでいたことに気づいた。
「はい、ありがとうございます。今から修道院長に許可をもらいに行ってきます」
修道院長のいる部屋へと、ルサンヌは水を得た魚のように元気よく走っていく。
それは彼女にとって二回目の永い旅の始まりだった。




