第一章 覚醒(2)
その翌日。
神殿へと続く白い石畳の通りは、太陽の光を浴びてまばゆく輝いていた。
多くの人々が行きかう中、群集をかき分けるようにして多くの積荷を載せた馬車が駆け抜けていく。その慌ただしさが舞い上げる砂埃を吸って誰かが咳こむ音が聞こえるが、それも行商たちの威勢の良い掛け声によってかき消されていく。
道の両脇には数多くの露店が軒を連ねていた。そこに並ぶのは色とりどりの香辛料、瑞々《みずみず》しい野菜と新鮮な魚、軒先に吊りさげられた羊肉、少し据えた臭いを放つチーズに様々な形のパン、この地方特有の甘いお菓子、異国の地で作られた珍しい民芸品など多岐にわたる。
小さな子供たちが棒に刺さった菓子を手に、笑い声をあげながら駆けていった。
王国の建立522周年を祝い、この国の守り神である女神マイヤに祈りをささげる年に一度の豊穣祭が開かれるこの日、グリンピア王国の首都カシウスの中央を南北に延びる目抜き通りは多くの人でにぎわっていた。
「やっぱりこの祭りの雰囲気、最高だな」
ラックは、そのにぎやかな祭りの景色に目を輝かせながら、横にいたジールに声をかける。
「屋台の食べ物もいっぱいあるしな」
どこか上の空であるジールの視線は、右手にある豚肉の腸詰めを売る屋台に注がれていた。
そしてその隣には、王国の兵士であることを示す若草色の鎖帷子を身にまとい、大ぶりの剣を腰に下げたガイルがいた。ロイズが別件で王急に呼び出されたため、二人の少年たちのお守りを任されていたのである。
「ねえ、ガイルさん。腹が減ったよ」
「兄貴、あの腸詰め、うまそうだな」
そんなガイルの立場を分かった上で、ラックとジールはこれ見よがしにおねだりしてくる。
「ほら、二人ともこれで好きな食べ物を買ってこい」
ガイルがため息をつき、腰に付けた袋から銅貨を取り出すと、二人の目が輝いた。
「ガイルさん、かっこいい」
「兄さん、尊敬しているよ」
こいつら、こんな時だけ調子に乗りやがって。
ガイルは苦笑しながら、追い払うように二人の背を押した。嬉々《きき》としたその後ろ姿が群衆の中に埋もれていく。
すでに正面の王宮前広場には多くの観客が詰めかけており、その中央に設置された舞台には地方色豊かな伝統衣装を着た若者たちの姿があった。
向かって右側、王宮前広場の東側には高さ20プース(6メートル)はあろうかという王宮の外壁がそびえ、正面奥には緑に覆われた小高い丘がある。王宮前広場から丘に向かって、大理石で作られた豪奢な階段がまっすぐに伸び、その突き当たりにある丘の上に小さな神殿が建てられていた。こちらも大理石でできているが、壁一面に緑色の美しい紋様が描かれていた。
そこには王国の守護神とされる女神マイヤが住んでおり、年に一度、この豊穣祭の日だけ人々の前に姿を現すのである。
女神マイヤにまつわる物語は、この王国の建国伝説とも深くかかわっていた。かつてこの地にはグリンピア王国とは異なる、別の王国が栄えていた。現代の人々はそれを古代ネリシア王国と呼んでおり、その初代国王は天空からこの地に舞い降り、人々に高度な文明を授けたとされている。伝承では、古代ネリシア王国の人々は自由に空を飛ぶことができ、太陽の明かりと炎の明かりを同時に使いこなしたという。彼らは同じ面積の土地で今の倍以上の農作物を作り出す技術を持っており、その結果として人口も増え、大いなる繁栄の時代を築き上げた。歌と笑い声のあふれる豊かな王国で、人々はとても幸せに暮らしていた。
しかしある時、漆黒の破壊神と呼ばれる存在が舞い降りた。その者は深淵の闇のような漆黒のローブをまとい、神出鬼没にして強大な力を持っていた。ある時は一瞬にして一つの村を消し去り、またある時は強大な吹雪で対峙する一個師団を凍てつかせたという。同時にその悪魔は狡猾な知恵を備えており、王国に伝わる知識や技術を人々や書物ごと闇に葬り去っていった。
初代国王によってもたらされた文明と技術は次第にむしばまれ、人々の顔から笑みが消えていった。
だがそこに、漆黒の破壊神に立ち向かう勇敢な戦士たちが現れた。その中心人物が剣士カシウスであり、カシウスとその仲間たちはデルタイと呼ばれる不思議な力を持っていた。なかでもカシウスが用いたとされるデルタイはフレイム・ドラゴンと呼ばれ、剣の切っ先から飛び出す竜の形をなした炎はありとあらゆるものを焼き尽くしたという。彼らは次第に漆黒の破壊神を追いつめ、遂にはそれを打ち倒すことに成功した。彼らのかたわらには女神マイヤの姿もあったという。
こうしてグリンピア王国歴元年、カシウスの朋友であったカーウィンという人物が新王国の建国を宣言し、初代国王の座に就いた。女神マイヤは王国の守護神として丘の上の神殿に住まい、再び平和な時代が訪れた。しかしそれ以降、剣士カシウスの消息は不明とされている。
カシウスの時代には複数いたとされるデルタイの使い手たちもまた、その後姿を消し、現在に至るまで新たなデルタイの使い手は確認されていない。
もっともこの伝承のどこまでが真実で、どこからが作り話なのかは定かではない。ガイルも言い伝えのすべてを信じているわけではなかったが、それでもこの王国で剣を握るすべての男たちにとって、凄腕の剣士であったとされるカシウスの名は強い憧憬と敬意を抱かせるものだった。この国で剣を握る者であれば、一度は自分が振りかざす剣の切っ先から炎のドラゴンが飛び出す場面を夢見たことがあるに違いない。
ガイル自身も、ジールも、ラックも、そしてきっとロイズさんも――。
その剣士の名を継いだ首都カシウスにある王宮前広場で、年に一度の豊穣祭が開かれ、女神マイヤが人々の前に姿を現す。否が応にも人々の発する熱量が高まってくるのが、肌で感じ取れた。
「ガイルさん、もうすぐ始まるね」
いつの間に戻ってきたのか、ラックが羊肉の串焼きを手に、目を輝かせていた。その隣には豚の腸詰めをほおばるジールの姿もある。
「たしかお前たちは、女神マイヤの姿を見るのは初めてだったな」
「うん、でも五百年以上もこの国を見守ってきたなんて凄いな。女神マイヤは歳を取らないのかな?」
「まあ、人間ではなく女神だからな。俺も去年初めて遠目に見ただけだが、若く美しい姿をしておられた」
「ふーん」
ジールがあまり興味なさそうに腸詰めを咀嚼した。兄として分かってはいたが、やはりこいつはロマンより食欲が勝ってしまうタイプらしい。
ガイルが軽く目をつぶったその時、ラッパの音が高らかに響き渡り、広場をうずめていた人々の喧騒が消えた。
「お、いよいよ始まるぞ」
ガイルが指さす先、広場の正面にある舞台に十人の男女が現れた。
この日のために練習を繰り返し、踊りを奉納するために故郷の村からやってきたのだろう。男性は青、女性は赤を基調として、美しい紋様の入った民族衣装をまとっていた。膝まで届く皮製のブーツを履いているところを見ると、雪深い山岳地方の人々なのかもしれない。男性たちは満面の笑みで舞台を跳ね回り、女性たちはたおやかな仕草で両手を伸ばし、天を仰いだ。みな今年の豊穣に感謝し、来年の豊穣を祈っているのである。
舞台の奥に見える大理石の階段は丘の上に作られた神殿に向かってまっすぐに伸び、その両脇には警備兵たちが直立不動のまま一定の間隔で並んでいた。乾いた山肌の頂上にたたずむ神殿は、雲ひとつない青空をバックに神々しい輝きを放っている。
やがて全七組による歌と踊りの奉納が終わり、鞘に収まったままの古びた剣を両手で恭しく携えた少女が舞台に現れた。明るい栗毛色の髪に、ブラウンの瞳。その額には黄金や宝石で装飾された美しいティアラが輝き、黄金製のネックレスを幾重にも巻いている。絹製のゆったりとしたローブにも金色の糸で紋様が織り込んであり、その豪奢ないでたちが少女の身分の高さを物語っていた。
「ティーナ王女だ」
誰からともなく声が漏れる。たしかラックやジールと同い年のはずだ。
「去年までは王妃様の役目だったが、今年から王女様にバトンタッチしたんだ」
まだ幼さの残るその横顔は、初めての重責と人々の視線の中で、少しこわばっているように見えた。そしてその細い腕が支える古びた剣こそが――
「あれが、カシウスが用いたという聖剣か」
ガイルが低い声でつぶやいた。
「ラ~イラ~ス~イハ~、テ~リヨ~セ~ミサ~、テ~ラノ~セ~リト~、リ~ルサ~シ~ハム~」
ティーナ王女が旋律を刻むような歌声でなにやら唱え始め、人々が息を呑んで見守る広場に優しく響き渡った。それはこのグリンピア王国建国以前に栄えた古代ネリシア王国の言葉だった。
ティーナは聖剣を携えたまま人々に背を向け、丘の頂上へと延びる階段をゆっくりと登り始めた。王女が通り過ぎると同時に、その両脇に控える兵士が敬礼をしていく。やがてティーナが丘の上にたどり着いたとき、その傍に立つ一人の兵士が号令を発し、階段に控える兵士たちが一斉に神殿のほうに向き直った。
高さ15プース(4.5メートル)はあろうかという大きな神殿の扉がゆっくりと開き、その奥から王国の守り神とされる豊穣の女神マイヤが現れた。王国のイメージカラーである緑色のローブをまとったマイヤは、遠目にもそのシルエットや動きから若くて美しい女性であることが見て取れる。そしてその背中には白くて大きな翼があった。
マイヤはティーナから聖剣を受け取り、古代ネリシア王国の言葉で物静かな歌を歌い始めた。ティーナのあどけない歌声とはまた異なる、幻想的な調べである。二人は最後に短い言葉を交わし、ティーナがその場に跪いた。女神マイヤは広場に背を向けると、聖剣を携えたまま神殿の奥へと消えていく。
同時に儀式の終わりを告げるラッパの音が再び響き渡り、広場に集まった観衆は拍手をしながら歓声を上げた。緊張から開放されたティーナはローブの裾をまくり、駆け足で階段を降りてきた。先ほどまでとは打って変わった屈託のない笑顔が、天真爛漫なこの王女の性格をよく現している。
観衆のどこからともなく、かけ声があがった。
「ティ~イナ~オ~ウジョ~!ティ~イナ~オ~ウジョ~!」
それはさっきティーナ王女が唱えた古代ネリシア王国の言葉と同じ旋律だった。ティーナは満面の笑みを浮かべ、両手を挙げて広場の群集に手を振る。
「みんな、ありがとう」
その声に呼応して、人々の拍手がさらに大きくなった。ティーナは再びローブの裾をまくると、神殿の右手に建つ王宮へと駆けていく。その後ろ姿を目で追っていたラックが我に返ったのは、しばらく経ってからのことだった。