第六章 神々の姿(1)
未明の砂漠は寒い。湿度が低いため霜が降りることはないが、松明に照らし出されるラックの吐息は白かった。馬の手綱を握る手が少しかじかんでいる。
ラックの周りには黄色い甲冑に身を包んだイエローサの兵士たちが待機していた。その数、およそ二千人。最前列の兵士たちは前方に盾を構えているが、その後方に控える兵士の数はやや左側に集中している気がした。
ラックには知る由もなかったが、これは斜線陣と呼ばれており、前日シーナがリューイに告げたファランクスの密集陣形に対抗するための布陣だった。
そのリューイがラックの横にいて、黄色い甲冑をまとい、馬にまたがっている。
「ラックさん。その甲冑、よく似合いますよ」
リューイに言われて、ラックが顔をしかめた。一度は「グリンピアの剣士として、その黄色い甲冑はまとえない」と拒絶したものの、グリンピア兵が着用する若草色の甲冑がこの国にあるはずもない。いっそのこと甲冑なしで戦場に出ようと思ったが、シーナからお守りをもらったことで心変わりした。そしてプライドをかなぐり捨ててリューイに頭を下げ、黄色い甲冑を用意してもらったのである。
似合っているという言葉に神経を逆なでされたが、無事に帰るというシーナとの約束を守るために脱ぎ捨てる訳にもいかない。
「本当は若草色のほうがもっと似合うんだけどな」
そう強がって見せるのが精いっぱいだった。
「あなたのその性格、嫌いじゃありませんよ」
「別に好かれたくもないし」
「それはお互い様ですね。でもおしゃべりはここまでです。そろそろ夜が明けてきました」
その見つめる先に、敵の大兵団がうっすらと見えてきた。寄せ集めの兵なのか、着ている服や鎧はバラバラだ。その数、およそ千人。盾を構え、横一列に並んでいる。
そしてその前方にただ一人、馬に乗ってこちらを見ている人物がいた。兜の下から金色の長い髪がたなびいている。
「カプリー、久しぶりですね」
リューイがつぶやく。だが彼にはどうも引っかかるものがあった。
敵軍はシーナの情報よりも数が少ないし、陣形も違っていた。そもそも大将が一人前に出て、その後ろに兵士たちが横一列とは、あまりにも定石を無視している。カプリーがそんな初歩的な戦術ミスをするはずはない。
だとすれば、話し合いの場にリューイを誘っているのだろうか。
「道を開けなさい」
リューイが前方の兵士たちに声をかけると、その人垣が割れた。
「できたらあなたも来てください」
リューイはラックに声をかけた。言われるまでもなく、それがリューイと交わした約束である。
「分かった」
ラックは乗馬したままリューイと併走し、カプリーのほうへと向かった。
その姿を確認したカプリーが兜を取った。年齢はリューイと同じアラサーだろう。女性にしては上背があり、面長で整った顔立ちをしている。青みがかったグリーンの瞳は強い意志の力を秘め、まっすぐにリューイを見ていた。
「カプリー、元気そうですね」とリューイが話しかける。
「五年ぶりだな」
カプリーの声は女性にしてはやや低い。
「まさかあなたとこのような形で再会することになるとはね」
リューイがため息をついた。
「そんなことはあの時から分かっていたはずだ」
「そうかもしれませんね」
寂しげな笑みを浮かべるリューイの脳裏に、過去の記憶がよみがえった。
今から十五年前、グリンピア王国暦にして513年のことである。
ハプスの村の北はずれにある畑にはセイヨウアブラナの花が咲き乱れ、そこに隣接する林は新緑の香りに包まれていた。畑の西隣にある草地には、近くの山から切り出された木材が積み上げられ、数人の村人たちが薪割りをしていた。空は青く澄みわたり、春にしては強い午後の日差しが容赦なく彼らに照りつけていた。
イエローサ王国はその領土のほとんどを砂漠が占めているが、このあたりでは樹木も多く散見される。国内の広い地域で見られる日干し煉瓦とは異なる、丸太を積み重ねて作った質素な家が連なっていた。
十五歳のリューイ・レイレリールは村のはずれにあるお気に入りの切り株に座り、父の書斎から持ち出した本を読んでいた。それはこの国の法学に関する本であり、条文を読んでいるとそれを作った者がどれだけ想像力豊かであったか、配慮に富んでいたかが理解できた。
リューイは決して運動神経の良いほうではないが、思考力と記憶力には長けており、半年前まで暮らしていた聖都バイシャでもちょっとした噂になる程度には学業に秀でていた。リューイの父親は官吏であり、一年前までは出世レースの先頭を走っていたらしい。頭の回転が速く、リューイも様々なことを教わったが、いかんせん人が良すぎるのが玉に瑕であり、ライバルにはめられて都落ちとなったらしい。だがそれに対して怒るでもなく、素面で笑いのネタにするくらいだから、本当に出世欲のない人だったのだろう。
この村で、リューイ一家は聖都から来た大事なお客さんとして丁重に扱われた。物静かに読書にふけり、ときに村の子供たちに読み書きを教えるリューイ自身も村人たちからの受けは良く、心地よい距離感を保ったまま次第に村へと溶けこんでいった。正直なところ、この村での生活はかなり気に入っていた。
「ふう、疲れたな。一休みしようか」
少し離れた場所からフュード・シューネイルの声が聞こえた。まだ二十四歳と若いが、先祖代々続く孤児院を運営するしっかり者の男だ。フュードが額の汗をぬぐいながら近くの切り株に腰を下ろしたとき、村人の一人が声を上げた。
「おい、あれは何だ?」
その指さす先、北の方角から赤い甲冑を着た一群がこちらに迫ってくるのが見えた。その数、およそ二十人である。その胸当てに描かれたトラの紋様を見て、フュードの顔が青ざめた。
「レッディードの最精鋭部隊、赤いトラだ。みんな、逃げろ!」
あたりにざわめきが起きる。
「かたまって逃げると危ない。皆バラバラに逃げろ!」
フュードの声を聞き、リューイもそれまで読んでいた本を閉じて近くの林へと逃げ出した。背後で弓矢の放たれる音がいくつも聞こえ、今度はそれらが樹木に刺さる音が聞こえる。すでに相手もこちらに気づき、攻撃を仕掛けてきたようだ。
でもなぜ彼らは突然こんな小さな村を襲ってきたのだろうか?
リューイは木立の中に身を隠し、村の様子をそっとうかがった。多くの村人たちがレッディード軍に襲われ、逃げまどっている。だがその時のリューイには彼らを助ける力はなかった。
「この村に赤い金属をはめ込んだペンダントを持っている者がいるはずだ。早く出せ」
隊長らしき兵士が村人たちに向かって声を張り上げた。その右横には立派な身なりの少年がいる。おそらく歳はリューイと同じくらいだろう。
「イギス王子。我が兵の有能な働きぶりをとくとご覧下さい」
隊長が少年に話しかけた。どうやらあのイギスという少年はレッディード王国の王子のようだ。しかしリューイはその名を耳にしたことがなかった。
逃げ遅れた村人たちが矢で撃たれ、若い女の衣服がはぎ取られる。家に火が放たれ、金目の物を見つけ出したレッディード兵が下卑た笑いを浮かべる。平和な村を赤黒い業火が舐めつくしていた。それは一方的な略奪と凌辱に他ならない。
いったいこれの……これのどこが有能な働きだというのか?
リューイは両こぶしを力の限り握りしめた。しかしその両足は恐怖で震えており、一歩も動くことができない。
かたやイギス王子と呼ばれた少年はその凄惨な現場を顔色一つ変えずにじっと見つめていた。
小さな女の子を抱いた母親がレッディード兵に見つかり、命乞いを始める。
「助けて。どうかこの子だけでも……」
だがその言葉を言い終えるより早く、母親の首元に剣が振り下ろされた。地面に放り出された女の子が泣き始める。その一部始終を目の当たりにしたリューイの体内で、薄暗いマグマがふつふつと煮えたぎっていた。
どうして俺はこんなにも無力で臆病なのだろうか?
どうして俺には何もできないのだろうか?
俺にもっと力があれば……いや、せめて奴らに一泡吹かせるだけの知略があれば……。
そう考えた時、突如としてリューイの背後から百人ほどのイエローサ兵が現れた。兵士たちは彼の体を通り過ぎ、レッディードの兵士たちに襲いかかろうとした。そう、実体のない幻が彼の体をすり抜けて行ったのである。
それは、リューイがデルタイに目覚めた瞬間でもあった。
幻のイエローサ兵たちは、少し高所から赤いトラの隊員たちを見下ろす形で部隊を展開した。それを見た村人たちから歓喜の声が上がる。
「王子が危ない。みな、撤退しろ!」
いち早く敵軍の兵力を見て自軍の不利を悟った赤いトラの隊長が叫んだ。その命令と共に隊員たちが撤退を始める。数名の隊員はイギスと呼ばれた王子をかばいながら後ずさりしている。リューイがその現場を見届けようと木陰から身を乗り出した瞬間、イギスと目があった。
それは何の感情も宿さない冷徹な眼だった。
見る者の心に恐怖と屈辱を感じさせる瞳だった。
リューイは言葉にしがたい敗北感、そして認めたくはないが嫉妬の念を抱いた。
「畜生、もっと俺に力があったら……」
激情に任せ、右拳で今まで隠れていた大木を思い切り殴りつけた。激痛が走り、血がにじみ出る。
「もっと俺に知略があれば……」
自分の無力を痛感し、小さな嗚咽が漏れる。それが軍師リューイ・レイレリールの原点だった。




