第五章 戒律の王国(7)
翌朝、シーナは窓の外から聞こえる騒々しい音で目を覚ました。
横で黒猫のナノが寝ていたが、ルサンヌとユリイの姿はすでになかった。修道女たちの朝は早い。一方のシーナはしばらく二人とおしゃべりした後、彼女たちが寝静まるのを待って、再びナノから話を聞くために外出したこともあり、少し寝過ごしたらしい。カーテンの隙間から外をのぞくと、黄色い甲冑を着たイエローサ兵たちが修道院の周りを取り囲んでいるのが見えた。
シーナは急いで着替えを済ませ、部屋の外へと飛び出した。昨夜の礼拝堂に行くと、修道女たちとイエローサ兵たちが対峙している。
「ここを出て行けとはどういうことですか?」
修道院長スイの取り乱す声が聞こえた。
「出て行くのではなく、一時避難です」
イエローサ兵たちの先頭に立っているのは軍師リューイ・レイレリールである。男にしては甲高いその声が礼拝堂内にこだました。
シーナは礼拝堂入り口の扉に寄りかかるように立っているラックの姿を見つけ、ほっとする。
「明日の朝、王国に反旗を翻した反乱軍がこのオアシスに攻めてきます。彼らの狙いはメーヤルの塔であり、そこを占拠することで、この国の正当な支配者だと国内外にアピールするつもりなのです。当然、その隣にあるこの修道院も戦場になる可能性があります」
「ですが、あの塔は知の女神メルネ様が住まう場所であり、誰がその場を占拠しようとも私たちの信仰は揺るぎません」
「それはあなた方の事情であり、それとは関係なしに明日ここで戦いが起きるのです。みなさん、貴重品だけ持って、今からこの東にあるグリーンサンドとの国境の町に避難してください」
「できません。ここは私たちの生活と信仰の場です。ここを追われて生きていくことなど、私にはとても……」
スイの声は震えていた。
「ではここを追われても生きていける人だけ、逃げてください」
リューイの素っ気ない反応に、修道女たちがざわめき始める。
その時、ルサンヌが一歩前に進み出た。
「どうして戦うんですか? みんなで平和に暮らせばいいのに。あなたたちみないた人がいるから、何の罪もない私たちまで戦いに巻きこまれるんです。あなたはそんなに戦いが好きなんですか?」
「いいえ」リューイは感情を押し殺した低い声で答える。
「それなら、どうして?」
一方のルサンヌは少し泣き声になっていた。静まりかえる礼拝堂で、リューイがゆっくりとルサンヌを指さす。
「なぜ戦いが起きるのか。それはあなた自身のような人間がいるからだと省みたことはありませんか?」
「なぜ……」
予想外の反論にルサンヌが絶句した。
「あなたの言うことは正論に聞こえます。でも一番の問題は、あなた自身が自分の主張に何の疑いも抱いていないことです。自分の主張が正義であり、善だと信じきっています。そんなあなたが価値観の異なる相手と出会い、相手もあなたと決して相容れぬ正義を強要してきたら、どうなりますか?」
「それは……」
「いさかいが起き、場合によってはそれが人の闘争本能に火をつけることもあるでしょう。あなたのように自らの主義主張を顧みることを忘れた者同士が異なる価値観、異なる立場で出会い、お互いがそれぞれの正義を主張した時、争いは起きるのです。異質な者同士がお互いの正義を振りかざした時、戦争は起きるのです」
ルサンヌはとっさに返す言葉を見つけられず、黙りこんだ。リューイはなおも続ける。
「修道院にこもって平和の祈りを捧げていれば、あなた自身には何のけがれも責任もありません。嫌なものも見なくて済むでしょう。でもその間にどこかの誰かが勝手にあなたの大事なものを守り、平和を届けてくれるとでも思っているのですか? それであなたは本当に平和を語る覚悟があるのですか?」
「私は……」ルサンヌが何かを言おうとして口ごもった。
「明日、反乱軍がこのオアシスに攻めこんできます。その多くが食うに事欠いて武力に訴えた農民なので、もし彼らがここを攻め落とせば、思いあがって様々な暴挙を働くでしょう。私はこの場にいるあなたたちを守ろうと思います。でも私は弱くて賢くない人間だから、明日ここで彼らと戦うという以外の選択肢が思い浮かばないのです。さあ、みなさん、時間がありません。大事な修道院から一時避難するか、最後までここに留まるか、その二つから選んでください」
あたりが再びざわめき始めた。
二割ほどの修道女たちが荷物をまとめに自分の部屋へと戻って行くが、スイやルサンヌ、ユリイを含む大多数の修道女たちはその場を動こうとしない。
「だいたい予想通りですね。避難希望者たちを国境広場まで送り届けなさい」
リューイが後ろの兵士たちに命令した。すると今度はシーナが声を上げる。
「少し待って」
「何ですか?」
背を背けたまま応じるリューイの声は苛立ちを含んでいた。シーナがルサンヌを擁護して同じことを蒸し返すと思ったからだ。しかしシーナの言葉は彼の想像とは異なるものだった。
「この場にいる人たちを守りたいと言ったあなたの言葉に嘘はありませんか?」
「当たり前です」リューイが振り返った。
「あなたたちの兵力は?」
「それをここで言うはずはないでしょう。今この場にスパイがいるかもしれないのに」
「あなたたちが本当にここの人たちを守るというなら、私が持っている情報を教えましょう」
「何を教えるというのですか?」
「敵の総数と陣形を」
シーナはリューイに近づいてから小声でささやく
「なぜそれを知っているのですか?」
「理由は秘密です。でもレッディードへと向かうティーナ姫を山賊に襲わせたのは、あなたとグリンピアの国務大臣二キムですね。私にはそれを知ることのできる独自の情報ルートがあるのです」
「なんと……あなたはそれを知っていたのですか」
リューイの顔色が変わった。そしてしばらくのあいだ逡巡していたが、やがて毅然とした表情で言った。
「私はここの人たちを守ろうと思ったから避難を勧めに来ました。女神メルネ様に誓って、その言葉に嘘はありません」
「それなら私が知っている情報を教えます。昨晩の時点でここから50スタディオン(9キロ)南に総勢二千人ほどの兵士がいて、陣形を作る演習をしていました。最前列の兵士たちが前方に盾を構え、その後方の兵士たちが上方に盾を構え、そのすき間には槍部隊がひかえていたようなので、おそらくファランクスの密集陣形だと思います」
「ほう、さすがに詳しいですね。しかしあなたが嘘をついていないという保証はありますか?」
リューイはシーナの瞳を覗きこんだ。
「私はこの修道院の人たちを守りたいだけ。そのためにどちらに協力すべきか、そのくらいは分かっているつもりです」
シーナもまったく動じることなくリューイの眼を直視する。
「なるほど、参考にさせてもらいます。では私も多忙ゆえ、これにて失礼」
リューイはシーナに一礼をしてから背を向けた。彼が立ち去るのを確認し、シーナはラックに駆け寄った。それなのになぜかラックの腰は引け、その目は泳いでいる。
「ぶ、無事か、シーナ」
投げかけてくる言葉もどこか遠慮がちでよそよそしかった。
「ええ、私は大丈夫」
「それなら良かった。修道院の人たちとは仲良くやれているか?」
「ねえ、聞いて。ここのルサンヌっていう子と仲良くなったのよ。ほら、さっきリューイさんと言いあっていた子だけど」
実際には少し打ち解けたという程度だが、シーナにとっては生まれて初めてできた女の子の友達だった。
「ここでの生活はつらくないか?」
「大丈夫。それよりラック、少し変よ」
私の心配ばかりして、まるでネイネみたい。そんな言葉が口から出そうになる。
「そうか? あのさ、リューイとかレッディードの兵士からひどい目にあったりしてないよな?」
シーナの目が丸くなった。もしかして一番の心配事はそれだったのだろうか?
「昨日、リューイさんからここに泊まるように言われて、送り届けてもらっただけ。とっつきにくそうな感じの人だけど、私たちが思っているほど悪い人じゃないのかもね」
シーナの脳裏に「良い人なんですね」というルサンヌの言葉が去来する。
「そうか、それなら良いんだ」
「私は大丈夫。ナノもついているしね。それよりラックはどうするの?」
「明日の戦闘で政府軍に加勢するのがあいつとの約束だからな」
ラックはそれを忠実に守ろうとしているらしい。だがハプスの村を目指すことになったのも、国境付近でトラブルに巻き込まれたのも、元はと言えばシーナのためである。
「……ご武運をお祈りしております」
シーナは右手を胸に当て、腰を落として頭を下げた。それは臣下に対して肩をすくめ、頭を下げたように見せる王族特有の仕草ではない。彼女の心からの仕草だった。
「うん、ありがとう。あの時、リューイが言っていたよな。大事な女性が刺し殺される幻を見るのは辛いことですねって。俺さ、たとえ幻とはいえシーナが傷つく場面を見るのは嫌なんだ」
それはラックからの精いっぱいの好意の告白だった。シーナの胸に温かいものがこみ上げる。
この人はいつもこんな感じだ。あの時だって暴漢に襲われた私を、身を挺してかばってくれて……。
そう思ってふと、それがいつのことだったのかと考えた。山賊たちに襲われた時とも、リューイの取り調べを受けていた時とも違う。あれは一体いつのことだったのだろうか?
「じゃあ、そろそろ俺は行くよ」
背を向けようとするラックの右腕を、シーナは無意識のうちにつかんでいた。このまま行かせたらもう二度と会えないかもしれない。そんな恐怖がよぎった。
「待って。無事に帰ってこられるようにお守りをあげるから」
「大丈夫だよ」
「そんなこと言わずに、少しだけ目を閉じて」
「そこまで言うなら」とラックが目を閉じた。
シーナは心を落ち着かせるために深呼吸する。
「目を開けてもいい?」
「もう少しだけ待って」
シーナはラックに近寄り、背伸びをした。そしてその唇にそっと唇を合わせる。なぜだか分からないが、悲しくて切ない気持ちになった。それと同時にラックの全身がこわばるのが感じ取れる。
「ごめんなさい、こんなお守りしかあげられなくて」
果たしてこれでご利益は期待できるのだろうか?
シーナはラックの表情を見るのが怖くて、顔を上げることができなかった。
「ありがとう。シーナからもらったお守り、大事にするよ。絶対に無事帰ってこようって、今本気で思った」
ラックの言葉に、緊張気味だったシーナの頬が緩んだ。顔を上げると、照れたように右頬をかいているラックと目が合った。時折その指が何かを確認しようとして口元に伸び、でも途中で引っ込んでしまう。
「ふふふ」
その仕草がいつになくツボにはまり、シーナが笑いだした。ラックも少し困惑した表情で笑い返す。でもその顔からは、先ほどまでの遠慮がちな様子やよそよそしさは消えていた。
二人のそばを多くの人が通り過ぎていった。明日の準備に追われ、誰も二人のことを見ていない。そんな忘れ去られた世界の片隅で、ラックとシーナはお互いの気持ちを確認しあっていた。
明日、ここで戦争が始まる。




