第五章 戒律の王国(6)
砂漠の上に満月がのぼっていた。それを取り囲むようにして、羊飼い座とトラ座の星々が輝いている。
昼間は人々で賑わうオアシスも落ち着きを取り戻し、建物の内部から柔らかい光が漏れていた。ミシラルド修道院の外壁に描かれた羽の生えた女性像が、月光を浴びて神々しい輝きを放っていた。
コンコン、とその表戸を叩く者の姿があった。シーナを連れたリューイである。
「何か御用ですか?」
扉が開き、中から一人の修道女が現れた。歳はシーナと同じくらいだろう。丸い銀縁メガネをかけ、顔にはそばかすが目立つ。茶色い髪を長く伸ばし、ポニーテールで束ねていた。麻で編んだ地味な上着とスカートをはき、黒い外套をまとっている。
「こちらの女性をここで泊めていただきたいのです」
リューイが修道女に語りかけた。
「あら、どちらから来られたの?」
「私はこの国の軍師でリューイ・レイレリール。そしてこちらは……苗字は知らないが、シーナさんです」
「シーナ・ユモイニーです」シーナが自己紹介する。
「あら、この国の民族衣装を着ているのに苗字はレッディード王国の人みたいですね。私はこの修道院で暮らすルサンヌです」
「よろしく、ルサンヌ。今晩、こちらで泊めてもらえないかしら?」
「お困りのようですね。ここは私たち修道女がメルネちゃ……、いえ女神メルネ様に祈りをささげながら暮らす共同生活の場所。それでよければ構わないと思いますけど、念のため修道院長に聞いてきます。砂漠の夜は冷えますから、扉の内側で待っていてください」
ルサンヌはリューイとシーナを屋内に招き入れると、建物の奥へと消えていった。
表扉から入ったそこは修道院の礼拝所だった。正面の祭壇に向かってたくさんの椅子が置かれ、彫刻で美しい紋様の描かれた壁がドーム型の天井を支えている。正面には祭壇があり、背中から羽の生えた五人の人物が描かれていた。
中央にいる膝上までの短いスカートをはいた少女がメルネだろう。その衣装は黄色を基調としていた。その隣、紫色のローブをまとった髪の長い女性は豊穣の女神マイヤに似ていた。シーナは六年前の豊穣祭の日、一度だけマイヤと間近に会ったことがある。だがあの時、マイヤのローブはグリンピアのイメージカラーである緑色だった。他の三人は、赤い鎧をまとった大男、白い服の少年、そして緑色の服を着た少女である。
シーナが祭壇の人物像に見入っていると、奥から高齢の修道女に従うルサンヌの姿が現れた。
「私はここの修道院長でスイと申します。今晩泊まるところがなくてお困りなのね。何もないところですが、寝所をお貸しするくらいはできますよ」
スイと名乗る高齢の修道女が柔らかな口調で話しかけてきた。
「ありがとうございます。私にも何か手伝えることがあれば手伝いますから」
「それでは明日、この礼拝所の床掃除をお願いしようかしら」
スイが微笑む。シーナはその広い床を見渡し、引きつった笑顔を浮かべた。王女として育てられた彼女は、そもそも床掃除などしたことがなかったのだ。しかし今のシーナはそんなことを言える立場ではない。
「はい、分かりました」
作り笑顔のまま、了承するしかなかった。
「ここで大人しくしていてください。ここは砂漠のど真ん中。あなたのような女性が一人で逃げ出しても、途中で行き倒れるだけです」
リューイは小声でシーナに釘を刺すと、月明かりが照らす夜のオアシスへと消えて行った。
狭い部屋の窓際には、質素なベッドと椅子が四台ずつ置かれていた。反対の壁側には天板がひび割れた木製の丸テーブルがあり、その上でろうそくの明かりが煌々《こうこう》と灯っている。豪奢な王宮の寝室とは比べようもないが、これまでの旅の中で何度か野宿を経験したシーナにとって、雨露さえしのげるなら文句のない環境と言えた。
ここはルサンヌと十二歳くらいの少女が二人で寝泊まりしている部屋だが、本来の定員は四人であり、シーナもここでベッドを借りることになっていた。
「ねえ、あんた、どこの出身なの?」
自分のベッドに腰掛けた少女がシーナに話しかけてくる。
「グリンピア王国よ」
シーナは頭部と顔の大部分を覆っていた被り物を脱いだ。明るい栗毛色の髪と端整な顔立ちが、ろうそくの明かりに浮かび上がる。
「あんた、結構美人だね。あたいの名前はユリイ。あんたの名前は?」
かく言うユリイも濃い褐色の髪を短く切りそろえており、ボーイッシュではあるが愛らしい顔をしている。
「シーナ・ユモイニーよ」
「シーナか、いい名前だね。ところでシーナはどうしてこの国に来たの?」
そう聞かれて、シーナはとっさに半分嘘を答えた。
「私はグリンピア王国のノキリという村で生まれ育ったんだけど、最近になってちょっとした事情でそこに住めなくなってしまってね。ハプスの村にいるという遠縁の人を頼ってそちらに向かう途中なの」
「ねえ、それってどんな事情なの?」
なんでも遠慮なく聞いてくるユリイを、ルサンヌがたしなめた。
「ダメよ、ユリイ。他の人の事情にあまり首を突っこんではいけません」
「そっか、そうだよね。ルサンヌだって今から二百年以上前に生まれたんだし」
「ど、どうしてそれを初対面の人に話すの?」
ルサンヌは明らかに動揺していた。信じられない話ではあるが、ユリイが口から出まかせを言った雰囲気でもない。
「別に隠すようなことでもないじゃん。知の女神メルネ様や初代女王リファ様の友人だったんでしょ?」
「やめて、ユリイ。軍の偉い人の耳に入ったら大変なことになるんだから」
「あ、私は誰にも言わないから大丈夫よ」
シーナがフォローを入れた。グリンピア王国でも女神マイヤの友人を自称する人物がいれば、ほら吹きの不敬な人物というレッテルを貼られることだろう。厳しい法と戒律が支配するこの国であればなおさらであり、女神メルネや初代女王の友人を自称するだけで罪に問われても不思議ではない。それならこの二人のおかしな妄想には深入りしないでおこうと思った。
「ありがとうございます。ところで今日、シーナさんは軍師の方に連れてこられましたよね。お二人はどういうご関係ですか?」
ルサンヌが話題を変えるべく、シーナに話を振ってきた。だが、どういうご関係と聞かれても答えに困ってしまう。
一度は命を狙われ、そこで助けられ、そして今度は人質に取られた。それをこの好奇心旺盛でおしゃべりなユリイの前で話すわけにはいかない。
「今晩泊まるところがなくて困っていたら、あの軍師という人がここに案内してくれたの」
「そうでしたか。最初は少しとっつきにくい感じがしましたが、実は良い人なんですね」
ルサンヌが無邪気な笑みを浮かべた。
だが仮にも一度はシーナを殺そうとした相手である。良い人とは呼ぶには抵抗があったが、わざわざここまで連れてきてくれたのだから、その点では紳士に違いない。
「どうだろう、良い人なのかな?」
シーナは椅子の上にうずくまって下を向いた。
その時、猫の鳴き声が聞こえてきた。さっきまでハムスターに化けてシーナの懐に隠れていたナノが、いつのまにかベッドの陰から黒猫の姿で現れている。
「あら、ナノ。そこにいたの?」
シーナはわざとらしく大きな声を上げ、ナノを抱えあげた。
「シーナさんのペットですか?」
「ええ、どうもオシッコがしたいみたいね。ナノを連れて少し出かけてもいいかしら?」
「どうぞ、部屋を出て廊下を右に進んだ突き当たりから外に出られますよ。鍵は内側からかけてあるので、帰りはまた閉めて入ってきてくださいね」
「ありがとう」
シーナはやや駆け足で外に出て行った。
あまりのんびりしてはいられない。明後日の朝、この修道院の隣にあるメーヤルの塔をめぐり、政府軍と祖国解放軍、双方による戦闘が起きるのだ。ラックは政府軍の一員として戦闘に参加させられ、ジールとノクトの行方はようとして知れない。
まずは明日、ラックと連絡を取る必要がある。ナノが案内すれば、ラックはきっとこの修道院まで来てくれるだろう。
ジールとノクトが二人で行動していれば、きっと人目に……いや、動物たちの目につくはずだ。
ナノや動物たちを介した情報収集がシーナの得意技であり、それは王宮内で自由に動けない彼女にとって大事な情報源だった。そして修道院内で動けない今、再び大きな助けになってくれるに違いない。
南方から攻めてくる祖国解放軍の軍勢は、それを俯瞰できる鳥に教えてもらうのが良さそうだ。だが満月の夜とはいえ、一部を除いて鳥たちは夜目が効かない。夜目が聞く鳥といえばフクロウだろう。
「ごめんね、ナノ。今からフクロウに化けて、南にいる祖国解放軍の軍勢を見てきてほしいの。それから明日、ラックを探してきてくれるかしら?」
ナノは小さくうなずくと、フクロウに化けて夜空に飛び立った。その姿が満月の中に消えていく。
シーナは扉を閉め、鍵をかけると、ルサンヌとユリイの待つ部屋へと戻った。
「おまたせ。あの猫、建物の中より外がいいみたいで置いてきちゃった」
「良かったんですか?」
心配するルサンヌに、シーナが笑顔で答えた。
「大丈夫よ。これまでもそうして来たから」
そう、これまでもナノはシーナのスパイとしてよく働いてくれたのである。だから今回もきっと大丈夫だろう。




