第五章 戒律の王国(1)
冬の到来を告げる、冷たく湿った風が吹いていた。森の中を抜けていく獣道は落ち葉で埋もれ、雨に濡れて柔らかくなっていた。そこを踏みしめるたびに足がとられ、余計な体力が奪われていく。行きはラクダや馬に化けたナノに荷車を引いてもらい、楽な道中だったが、今はそのナノがイギスに切られ、まだ傷も癒えていない。今、荷車を引くのはラックとジールの役目だった。
「しばらくは自分たちで歩くしかなさそうね」
シーナが少し息を切らしながら、左肩の上に乗せたナノの背中をそっと撫でた。ナノは全身の力を抜いてその身をシーナに預けたまま、力ない鳴き声をあげる。
「そういえばその猫、村でチーターに化けていたけど、あれは何だったんだ?」
ノクトがシーナの後ろに回り、ナノの顔を覗きこんだ。
「この子はいろんな動物に姿を変えるデルタイを持っているのよ」
「デルタイ?」
「ええ、私も詳しくは知らないけど、人によって、それぞれ独自の特殊能力に目覚めることがあるみたいなの」
「俺とジールのデルタイはお前も見ただろ」
先頭を歩くラックが振り返った。
「俺は炎のドラゴン、ジールは地面を走る衝撃波、レッディードのあいつは竜巻、他にも幻影を作り出したり、動物たちを話ができたり、姿を変えられたり。世の中にはもっと変わったデルタイの持ち主がいるかもしれない。そしてノクト、どうやらお前は相手を押しつぶすデルタイを持っているみたいだな」
「デルタイか。でも俺はあの時、ただ無意識に右手を伸ばしただけだったんだ」
ノクトは不思議そうに自分の右手を見つめ、それから顔を上げた。
「そうだ、せっかくだからあの技にも名前をつけてくれよ」
「そうだな。ベシャ・グシャっていうのはどうだ?」
ジールが表情を変えずに答えた。まじめに考えていないのか、本当にセンスがないのかは判断が難しい。
「人間押しつぶし機」というラックの案も何かが違う。
「もうちょっとまじめに考えてくれよ」
「重力だから、グラビティ・クラッシュなんてどうかしら?」
シーナの案に、ノクトの表情が変わった。
「あ、それいいね。もらった。くらえ、グラビティ・クラッシュ!」
ノクトは得意げに右手を近くの木に向けて突き出した。実のなった一本の枝が折れ、下に落ちてくる。
「あはは、腹が減ったときに便利そうな技だな」ラックが笑った。
「バカにするな」
「冗談だよ。いざと言うときは頼りにしているぜ」
その言葉にノクトの頬が少し緩む。
「ところで話は変わるけど、これからどうするんだ?」
ラックがみんなの顔を見渡した。
「俺はノキリの村にあったあの石板についてもう少し村の人たちから話を聞きたかったけど、そんな状況じゃなかったからな」
「シーナ、あの内容、俺たちを騙しているんじゃなくて本当だよな?」
ジールがシーナの顔を見た。
「本当よ、私も信じられなかったんだから」
「あのさ」ノクトが小さく手を挙げた。
「昔ゼイリーじいちゃんから聞いたんだけど、剣士カシウスとカーウィン王には、まだ他にも仲間がいたらしいんだ。その子孫がイエローサ王国の北部にあるハプスという村に住んでいるんだって」
「それならそこに行ってみないか? あれと同じような石板が見つかるかもしれないし、協力者に会えるかもしれない。……でもイエローサ王国か。シーナには危険だな」
ラックはシーナの身を案じてトーンダウンした。
「大丈夫よ。足手まといにはならないから」
「そうは言っても、レッディード兵と駆け落ちしたセセリアという女性の娘だとばれたら命を狙われるかもしれないし、ティーナ姫だとばれてもダメなんだぞ」
だれに気づかれるかも分からないし、かなり困難な旅だろう。
「その時は私を見殺しにしてくれて構わないから」
シーナがぽつりとつぶやいた。その表情はこわばっている。
「そんなこと、できるわけないだろ」
「またそんなこと言うなよ」
ラックとジールが反駁するが、シーナも引かなかった。
「それなら私をここに置いていってもらって構わないわ」
だが、それが無理だということは誰もが分かっていた。どう考えても、山奥に一人取り残されたシーナは狩る側より狩られる側に近い。
「シーナ、聞いてくれ。四人で一緒にハプスの村を目指そう。俺たち三人のデルタイがあればたいていの相手は追い払えると思う。でもハプスの村で古代ネリシア語の石板を見つけたら、それを読めるのはシーナだけなんだ」
ラックにそう言われ、シーナも考えこむ素振りを見せた。グリンピアの建国伝説に出てくるカシウスの仲間たちが何らかのメッセージを残しているとしたら、それを知りたいという気持ちはもちろんある。
「分かったわ。私も同行するけど、その前にビャンマの町に立ち寄りたいの」
シーナは行きに立ち寄った、国境近くにある交易都市の名を挙げた。物品にしろ、情報にしろ、そこには多くのものが集まってくる。
「そうだな。食料や装備の調達も必要だし」
ラックが同意すると、シーナが柔らかな笑みを浮かべた。
それから十日後、四人は交易都市ビャンマの周囲に張り巡らされた外壁を見上げていた。最初の一週間はあまり速度が上がらなかったが、驚異的な速さで傷の癒えたナノがフタコブラクダに化け、四人を乗せた荷車を引いてくれたのである。
「わあ、高い壁だ。俺、こんなの初めて見たよ」
ノキリという小さな村で生まれ育ったノクトにとって、それは生まれて初めて見る巨大建造物だった。外壁の規模で言えば、首都カシウスの王宮をも上回る。普段は交易の盛んな自由都市だが、三カ国の国境付近に位置するこの町はこれまで幾度かの戦禍に見舞われてきた。その結果として現在の姿になったのである。
「まずはこないだの宿に荷物を置いて、それから買出しに出かけましょう。私は衣装の店に行ってくるわ」
前回この街に来たときは周りの目におびえていたシーナだが、あれから日も経った。街の雰囲気を楽しもうという心境になっているようだ。
気持ちは分からなくもない。思えば、ラックとジールが六年ぶりにシーナを見かけたのもカシウスの城下町だった。もともと王宮での暮らしに閉塞感を感じ、王宮を抜け出しては街の雰囲気を楽しむことが好きだったのである。
覚悟を決めた時の意志の強さと無邪気な明るさ、そのどちらもが嘘偽りのないシーナの姿なのだろう。
「シーナ、カシウスの城下町を歩いていて誰かにばれたことはなかったか?」
ラックは並んで歩くその横顔を見た。ヤクの革をなめした帽子を耳が隠れるまで深くかぶり、肩掛けでさりげなく口元を隠しているとは言え、整った目元に輝くブラウンの瞳は隠しようがない。
「一応ね」シーナはややうつむき加減になり、小声で答えた。
「王宮での暮らしは退屈だったのか?」
「退屈というよりも、決まりごとが多くて大変だったわね」
「例えば?」
「まずは朝六時に起床して、ネイネに手伝ってもらって、ドレスに着替えてメイクも済ませるでしょ。朝七時から国王陛下、王妃様、私とダン王子の四人で朝食をとっていると、その間に諸侯が挨拶に来たり、文官たちからの上申があったりするの。それに耳を傾けながらお上品に食べて。それから自分の部屋に一旦戻るんだけど、そこまでの廊下で女官たちが私を待ち構えているから、事務報告を受けたり、雑談したりして。部屋でもう一度身なりを整えてから、専属の家庭教師による歴史学、政治学、経済学、数学などの勉強があって、それから……」
「いや、もういいよ」
ラックは軽い頭痛を覚え、シーナの話を途中で遮った。たしかにこれを聞けば、シーナが変装して王宮を抜け出したくなる気持ちもよく分かる。
「大変だな、王女様というのも」
「話し相手は周りに大勢いるけど、誰もが私の顔色を見てご機嫌取ろうとしているのが分かるから、どうしても私からも気を許せなくてね」
「それでナノしか友達がいなかったのか」
「そんなこと話したかしら?」
「なんとなくだよ。王宮の古い炊事場で会った時に、ナノ以外の誰にも気を許していない感じがしたから」
「そんなこともあったわね」
「ナノとはいつ友達になったんだ?」
「私が十六歳の時だから、今から二年前ね。国務大臣のニキム相手に、すごく悔しい思いをしたことがあってね。気持ちを静めようと思って王宮の庭に行ったら、そこにナノがいたのよ」
「シーナは動物たちと話ができるんだろ。その時にはもうナノと話せたのか?」
「ええ、ちょうどその時ね。ナノが私に何かを言いたがっている気がして、私もナノが何を考えているんだろうって思ったら、ナノの声が聞こえてきたの。そしてそれ以来、他の動物たちとも話ができるようになったのよ」
「ふーん、よっぽど寂しかったんだろうな。動物以外に気の許せる友達がいなくて」
「別にそんな訳じゃないけど」シーナが口を尖らせる。
「ところで俺たちはどうだった? シーナの顔色を見てご機嫌取ろうとしているように見えたか?」
「ええ、とっても」
「え、本当に?」
「ふふふ、嘘よ。緊張していたようには見えただけど」
「それは、まあそうだな」
楽しそうに語りあう二人の後ろを、ジールとノクトが黙ってついてきていた。
「あの二人、仲良さそうだね」ノクトがジールを見上げる。
「まあ、それなりにな」
ジールは両手を頭の後ろに組み、面白くなさそうにつぶやいた。




