第三章 王女の旅立ち(6)
馬車はカシウスの城下町を抜け、草原の中を走っていた。
時おり小石をはねて小さく揺れるが、その乗り心地はおおむね穏やかである。革張りの車内には外の音もあまり聞こえてこない。正面のテーブルにはバスケットが置かれ、色鮮やかな果物が用意されていた。マンゴーにバナナ、アセロラ、スターフルーツ、そしてマンゴスティン。
「ティーナ王女、いえ、ティーナ王妃様、どうぞお召し上がりください。我がレッディード王国は、王妃様を心より歓迎いたします」
バイヤが横に座るシーナに果物を勧めたが、シーナはそれに手をつけず目を閉じた
「ありがとう、でも今はお腹がすいていませんので」
「そうですか、まあ良いでしょう」
バイヤは露骨に不愉快そうな表情を浮かべた。
それからしばらく沈黙の時が流れた後のことである。突然、前方から馬のいななきが聞こえ、馬車が急に止まった。バスケットからマンゴスティンがこぼれおち、テーブルを転がって床へと落ちる。
「おい、何をしているんだ?」
バイヤが怒声を上げながら馬車の外に出ると、その足元に一本の矢が飛んできた。
「うわ!」
バイヤは思わず腰を抜かし、その場に座りこんだ。
すでに馬車は草原を抜けていた。その両脇には岩肌がむき出しになった小高い丘があり、左右の岩陰と正面の三方向から百人を超える山賊たちが姿を現す。
「おい、馬車の奴ら。金目のものと、あとは女がいたら置いていってもらおうか」
馬車の正面に立つ山賊の一人が大声を出した。見たところ、この男が山賊たちの長のようだ。
シーナの護衛についていたグリンピアとレッディードの兵士たちが馬上で剣を抜いた。だが兵士たちは両国あわせても二十名程度で、どう考えても多勢に無勢である。
「剣を収めなさい。ここで戦っても無駄な犠牲を出すだけよ」
馬車の中からシーナの声が聞こえた。
「しかし……」
グリンピアの兵士が困惑の表情を浮かべる。
「いいのよ、あなたたちが無駄に命を捨てる必要はないわ」
シーナは馬車の中からゆっくりと出てきた。その横には黒猫のナノの姿も見える。シーナの姿を見た山賊たちが、一様に満足げな表情を浮かべて笑った。
「最初から狙いは私一人でしょう? 私は逃げないから、そのかわり他の者たちをここから逃がすと約束しなさい」
シーナの凛とした声が響く。
「おう、おう、なんて健気な姫様なんだ」
山賊たちが下卑た笑い声を上げる中、彼らの長が一歩前に出て、兵士たちを追い払う仕草をした。
「たしかに姫君と財宝さえここに残してもらえば、兵士たちに用はない。いいだろう、関係ない奴らは逃げ出せ」
「両国の者たち、後ろへ下がりなさい。王女として、王妃としての命令です」
最初はためらっていた両国の兵士たちが、シーナの命令に従って後方へと撤退を始める。
「もっと離れなさい」
シーナは両国の兵士たちに1プレトロン(29.8メートル)ほど撤退させると、意を決した表情で山賊たちの長を睨みつけた。
「お前たちの目的は分かっているわ。私をここで消すよう命令されたか、雇われたのね?」
山賊たちの長が手にした剣の切っ先をシーナに向け、にやりと笑った。
「すでに死ぬ覚悟があるようだな。しかしあんたみたいな上玉をただ切り捨てても面白くない。その前に楽しませてもらおうか」
「!」
その意図を察し、シーナは懐に隠し持っていた短剣を抜いた。
こんな奴らに辱めを受けるくらいなら、自分から死んでやる。泣かないと決めていたのに、悔しくて涙がこぼれそうになった。
と、その時。
シーナの背後から飛んできた炎が、目の前にいる山賊たちの長に襲いかかる。
「うわ!」
炎に包まれた長はたまらずに地面を転げまわり、砂埃を上げながら何とか炎をもみ消した。
シーナが振り返ると、そこには馬上で剣を構えるラックの姿があった。かなり遅れて、こちらに向かってくるジールの姿も見える。
「なぜ? 私は断ったのにどうして来たの?」
「ここに、絶対に死なせてはいけない人がいたからです」
ラックが毅然とした声で答えた。その言葉に、ずっと我慢していた涙がシーナの瞳からあふれる。
「バカ、私のことは放っておいてよ……」
だが、その言葉にはつい先ほどまでの凛とした力はなかった。
「ははは、姫様を守る騎士殿がご到着のようだ。でもたった一人で何ができるんだ?」
山賊たちの間から笑いが漏れる。ラックは馬を降りると、右足を一歩後ろに引き、右手で剣を構え、左手を前方に大きく伸ばした。
「何ができるのかって。いいだろう、俺の曲芸を見せてやるよ。フレイム・ドラゴンズ!」
ラックの剣先から生まれた三本の火柱がドラゴンの形をなして山賊たちに襲いかかった。今度はその直撃を受けた山賊たちが、炎に包まれることなく後方に吹き飛ばされる。炎で包んだり、純粋にその威力で吹き飛ばしたり、一度に複数の炎のドラゴンを生み出したり、ラックなりに技のバリエーションを研究してきたのだ。
「こいつ、何しやがった?」
山賊たちの動揺が見て取れる。
「これでも手加減してやったんだぜ」
「それとな、こいつ一人じゃねえ。俺もいるんだよ」
ようやくジールの乗った馬がたどり着いた。大柄なジールを乗せた馬は、どうしてもラックより遅れをとってしまう。ジールも馬を降りると、背中から大きな斧を取り出した。
「修行の結果、俺には剣よりもこっちのほうが性に合うと分かったんだ。さあ、とくと見ろ。これが俺のデルタイだ。アース・インパルス!」
ジールは手にした斧を激しく地面に打ちつけた。その斬撃を受けて生まれた衝撃波が、砂埃を巻き上げながら一直線に地面を進む。そして正面にあった高さ7プース(2.1メートル)ほどの岩にぶつかり、岩全体を粉砕した。
「次はお前らだ。木っ端みじんになりたい奴は前に出ろ」
ジールに睨みつけられ、山賊たちがひるむ。
「さあ、今のうちに逃げましょう」
ラックがシーナの手を引いて逃げようとしたが、シーナはそれを振り払った。
「逃げてどうするの? グリンピアとレッディードの争いを避けるなら、私がレッディードの国王と結婚するか、ここで殺されるか、そのどちらかしかないのよ。そんなこと最初から分かっていたのに」
怒りと怯えの入り混じった視線を向けるシーナを前に、ラックは言葉を失った。自分たちの行動は彼女の決意に水を差しただけだったのだろうか?
「そういうことだ。このお姫様は俺たちとのお楽しみの後に殺される運命なんだよ」
山賊の一人が下卑た笑いを浮かべた。
ラックは怒りに任せてフレイム・ドラゴンを放とうとしたが、それがシーナの決意に水を差すかもしれないと思いとどまった。打つ手もなく焦燥感を募らせる中、背後から声が聞こえてくる。
「あなたはティーナ姫を助けたいのですか?」
振り向くと、若草色の甲冑を着た兵士が背後に立っていた。グリンピア王国の兵士かと思ったが、甲冑の下に見える黄色いシャツに違和感を覚える。
「当たり前だろ」
怒気を含んだ声でラックが答えると、兵士の口から意外な言葉が飛び出した。
「それなら私が合図するまで絶対に動いてはいけません。今からティーナ姫は山賊の一人に刺し殺されます。それを見届けてから、王女の亡骸を抱いて右手にある丘の向こうまで逃げなさい」
「なんだって?」刺殺されたら意味がないだろ。
そう言いかけるラックに兵士がささやいた。
「姫自身が逃げることを拒む限り、他に手はありません。私のデルタイを信じなさい」
「あんたのデルタイ?」
「説明は後です」
兵士はそういうと、右手をパチンと鳴らした。同時に山賊の一人が群れから飛び出し、シーナに向けて剣を突き立てた。肉を裂く嫌な音が聞こえ、シーナの背中から剣の切っ先が突き出す。
シーナの膝が地面につき、山賊たちと兵士たち双方から取り乱す声が上がった。あまりにも衝撃的な出来事に、ラックは言葉を発することすらできない。
「今です。私があの山賊と切りあっている間に、王女の亡骸を抱いてあの丘の向こうまで逃げなさい」
言うや否や、兵士は山賊に向けて切りかかった。
ラックは訳が分からぬままシーナに駆けより、その体を抱き上げた。腹部から大量の血が流れ出ており、ラックの着衣にも赤いシミが広がっていく。しかし生暖かい血の感触と臭いはしなかった。その一方でシーナの体には不自然な力みが感じられる。
シーナはまだ生きている。いや、怪我すらしていないのではないか。
ラックは本能的にそう感じ取り、一心不乱に右手の丘を駆け上がり始めた。そこに追い打ちをかけるかのように丘の上で土砂が崩れ、二人に襲いかかってくる。ラック一人なら避けることができたかもしれないが、シーナを抱えた状態では素早く動けない。
死んだ、と思った。
しかし土砂はラックとシーナの体をすり抜けて、下へと転がり落ちていった。その後も一定の間隔を置いて土砂が崩れ落ちてくるが、すべて二人の体をすり抜けていく。ラックはまったく事態を呑みこめないまま、シーナを抱いたまま丘を駆けあがり、その向こう側へと身を隠した。
「姫、大丈夫ですか?」
ラックが小声で呼びかけると、シーナが薄目を開いた。その血色は悪くない。
「ええ、大丈夫。私を刺し殺したはずの山賊に、死んだふりをするようにと小声で言われたけど、全然痛くなかったわ。でも一体何が起きたの?」
「それが自分にもさっぱり……」
二人とも事態が呑みこめぬまま、そっと丘の上から顔を出した。