第三章 王女の旅立ち(5)
王宮前広場はすでに大勢の人でにぎわっていた。
そこにはレッディード王国からやってきた豪華な馬車が停まり、数十人のレッディード兵がまわりを取り囲んで直立不動の姿勢をとっている。一方のグリンピア兵たちも王宮から馬車へと向かう道の両脇に控え、群集を馬車から遠ざけていた。馬車の前にはタイラー王、ノリア王妃、ダン王子の三人と、レッディードの高官バイヤ・デイヤールが立っていた。
ラッパの音が高らかに響くと共に、広場の喧騒が消える。
王宮正面の扉が開かれ、正装したシーナが現れた。その両腕には黒猫のナノが抱かれている。その美しさに、そして様々な思いを胸に、観衆からため息が漏れた。
王女にとって人生に一度の晴れ舞台。しかしその実情は、敵国への屈辱的な人質外交。
みな、複雑な思いでその姿を見つめていた。
「ティーナ、幸せにな」
タイラー王が、横にいるレッディードの高官バイヤの視線を意識しながら声をかけた。
「はい、陛下。これまでありがとうございました」
「体に気をつけてね」
「姉さま、お元気で」
ノリア王妃とダン王子も声をかけてくる。二人とも心配そうな表情を浮かべていた。
「ええ、ありがとう。二人ともお元気で」
シーナはつとめて気丈にふるまい、笑顔を作った。
「それでは、そろそろ出発しますぞ」
バイヤの声にティーナは無言のままうなずき、馬車に乗りこんだ。ナノを膝の上に乗せたまま姿勢を正し、正面を向いて身じろぎもしない。バイヤも馬車に乗りこみ、シーナの横に座った。
「はっ!」
御者が鞭を振ると、馬車はゆっくりと動き出した。シーナは馬車の中から広場の群集に小さく手を振っている。
その群衆の中に、ラックとジールの姿があった。シーナと会ったあの日の翌日、二人の元に王宮からの親書が届いていた。そこには、王女が二人の護衛を辞退した由のことが書かれていた。ラックはジールに内緒で、ティーナ姫と出会った屋台に何度か足を運んでいたが、あれ以来彼女の姿を見ることはなかった。
どうしてあんなことを言ってしまったのだろうか。
締めつけられるような悔恨の念がラックの胸に押しよせる。
そこへ、王宮の中から侍女のネイネが息を切らしながら駆けてきた。
「へ、陛下。国王陛下。これをご覧ください」
タイラー王はいぶかしげな表情を浮かべながら、ネイネが差し出す手紙を受け取った。そして読み進めるうちに、その表情がみるみるこわばっていく。
「まさか、こんなことが……。それを知った上であの子は……」
手紙を持つタイラー王の手が、小さく震えていた。
「これをどこで?」
「つい先ほど姫様からお預かりいたしました。ご自身が出発なされてから読むように言われておりまして」
「そんな……。いや、こうしてはおれん。旅団長たちを呼べ」
王はグリンピア王国に五師団ある機動性に優れた部隊の団長を呼んだ。
「は、第四旅団長ダンス・オイール、ここに」
「第三旅団団長のワットルド・ディークマスです」
二人の旅団長が、王の命令に呼応して駆けよった。ワットルドの後方には副団長のガイル・シモリスも控えている。
「頼む、あの馬車を追ってくれ。ティーナが危ない」
タイラー王は、両膝を地面について頭を下げた。そのただならぬ様子に、切迫した何かを感じた二人の旅団長は、急いで兵を集めるべくその場を立ち去る。
群集もざわめき始めていた。ネイネは王女から受け取った手紙を手に泣き崩れていたが、それを見守る群衆の中にラックとジールの姿を見つけて駆けよった。
「お願いです。あの馬車を追ってください。姫様のお命が危ないのです」
ラックはネイネが差しだす手紙を受け取った。そこにはこう記されていた。
親愛なる国王陛下、王妃様、そしてダン王子へ
私にとって、皆さんと一緒に過ごした日々はかけがえのない思い出です
私が危ないことをしたとき、真剣に叱ってくださった国王陛下
私が頑張ったとき、力いっぱい抱きしめてくださった王妃様
そして私のことを本当の姉だと信じてくれていたダン王子
本当にありがとうございました
もし私がレッディードまでの道中で命を落とすようなことになったら、私ではなく本物のティーナ姫を首都カシウスの見える丘の上に埋葬してあげてください
ノキリの村のシーナより
そして次の便箋には、別の筆跡で、百人以上の山賊に首都カシウスから50スタディオン(9キロ)ほど離れた山道で王女の乗った馬車を襲わせ、王女を殺害する計画が記されていた。
「これは? それにシーナというのは……」
「ここだけの話ですが、本物のティーナ姫は一歳のときに病気で亡くなられたのです。その時に王女そっくりの子が連れてこられ、国王陛下と王妃様の養子になりました。その子の本名がシーナです」
ネイネはラックとジールにだけ聞こえる小さな声で話した。
「それなら俺たちが会ったティーナ姫は?」
「シーナですよ。あの子はそれを分かった上で、この国のためにティーナ姫としてレッディードに行く決意をしたのです」
「そして、その途中で自分が命を狙われることも知っていた?」
最初からその覚悟だったということか?
ラックの脳裏に「私がレッディード王国に到着する前に、レッディード王国の兵士たちの目の前で私を殺してください」と言い放つシーナの姿が浮かんだ。あの言葉は単なる強がりではなく、苦しみ、悩みぬいた末の決意そのものだったのだ。
「あの子は本物のティーナ姫ではありません。でもその生まれが何であれ、あの子はとても強くて優しい子です。絶対に助けないといけないこの王国の宝なんです」
ネイネは泣き崩れ、最後は言葉にならなかった。
ラックはこぶしを握りしめた。ティーナ姫が、いやシーナが、あの凛とした姿の裏にそんな生い立ちと決意を秘めていたなんて思いもしなかった。
「とても強くて優しい子……絶対に助けないといけないこの王国の宝……」
ラックはネイネの言葉を反芻した。
そんなの、そんなの当たり前じゃないか!
「ジール、俺は近くの兵舎から剣と馬を借りてあの馬車を追うぞ」
「俺も行くぜ。こんな話を聞かされたら放っておけねえ」
ラックとジールはそろって兵舎へと駆けだした。