第三章 王女の旅立ち(3)
二人が連れてこられたのは、王宮の端にある粗末な作りの廊下に面した一室だった。女官が古びて歪んだ木製の扉をノックすると、中から声が聞こえてくる。
「入りなさい」
女官に通されて二人が入ったのは、しばらく使われた形跡のない古びた炊事場だった。その奥に立つ鮮やかなドレス姿のティーナ王女は、どう見てもこの場所には似つかわしくない。その腕には一匹の黒猫が抱かれていた。
「ありがとう、ネイネ。あなたはもう下がっていいわ」
ネイネと呼ばれた女官は一礼をしてからその場を立ち去った。
「座って話しましょうか」
ティーナは二人に古ぼけた椅子を勧め、自分も座った。黒猫がティーナの膝の上で気持ちよさそうに丸くなっている。午後の日差しを受け、それだけでもう一枚の絵画になっていた。
「ここなら誰にも話を聞かれないと思ってね。まずはさっきのことを謝ります」
ティーナ姫は伏し目がちになって肩をすくめた。実際には頭を下げないが、目線と肩の位置で頭を下げたように見せかける王家独特の仕草である。
「それは市井でのことですか? 俺こそ……いえ、自分こそ姫様のお忍びを邪魔してしまいました。申し訳ありません」
ラックは大きく頭を下げた。
「いいのよ、誤解をまねく行為をした私が悪かったの。もうこの町を見るのも残り少ないと思うと切なくて、つい見苦しいところを見せてしまったわ。でもね、もうすぐこの町を立ち去るからこそ、この町の人たちとわだかまりを残したままにしておきたくなかったの」
ティーナ姫は優しい笑みを浮かべていた。この町の人たちとわだかまりを残したままにしたくないというその言葉に、姫の高邁な精神と優しさが現れていた。なんて気高く、そして美しい人なんだろう。
「わだかまりだなんてとんでもない。自分にとって忘れられない素敵な思い出になりました」
それがラックの本心だった。ジールも横で大きくうなずいている。
「私ね、この王宮内にいてストレスがたまると、ときどき街中をあんな風に内緒で散歩しているの。さっきの屋台の店主は、それを知っている数少ない協力者の一人なの。でもレッディード王国に行けば、きっとそのような自由さえ許されなくなるのよね」
ティーナ姫の語尾がわずかに涙ぐんだ。その姿を見て、ラックの胸に鈍い痛みが走る。
なぜ、そこまで思い詰めてまで、レッディードに行かないといけないのだろうか?
こんな理不尽な話、断ることはできないのだろうか?
「姫様はそれでいいんですか? 自分の気持ちを押し殺して、不本意な婚姻を受け入れ、知らない町に人質同然で送られていく。本当にそれで我慢できるんですか?」
思わず感情が爆発してしまう。そして言い終えてから、どうしようもない自己嫌悪にかられた。
どうして俺はこんなにバカなんだろう。
ラックは自分で自分を殴りたい衝動に駆られた。こんなのは単なる本心であって、本当に言いたいことではない。悩み苦しんだ末にティーナ姫がたどり着いた崇高な決断に、後ろ足で砂をかけるような恥ずべき言葉だった。
ふと気づくと、ティーナ姫は目を固くつむり、その肩が小さく震えていた。
「自分の気持ちを押し殺して、人質同然の辱めを受ける。それがどんなに耐えがたいことか、私にだって分かっているわ。それでいいはずないでしょ。でも先方の要求を断ることはできないし、私には自害することすら許されていないの。だってそんなことになれば、グリンピア王国の王女は自分との婚姻を死ぬほど嫌がったと難癖をつけてくるでしょうし、この国の民もレッディード王国に憎悪を募らせることになるから。だから――」
ティーナ姫はそこで大きく深呼吸をした。
「陛下がご依頼された護衛の件は、私から陛下にお断りしておきます。その代わり、あなたたちはこの王国の人間だとばれない形で私の車列を襲ってください。私がレッディード王国に到着する前に、レッディードの兵士たちの目の前で私を殺して欲しいのです」
そこには有無を言わせぬ冷たい決意が感じ取れた。
「どうなの? 返事をしなさい」
ティーナ姫は椅子から立ち上がり、ラックの前に歩み寄った。ラックは座ったまま背筋を伸ばすが、ティーナ姫から見下ろされる形になる。
最初から分かっていたはずだ。ティーナ姫の決意は、ついさっき城下町の料理屋でその話を知ったばかりのラックには想像できないほど重いものだということを。
それなのになぜ、俺は自分の感情に任せてあんなことを口走ってしまったのだろうか。
「すみません、それはできません」
そう答えるのがやっとだった。
「分かりました。覚悟なき者はこの部屋から出ていきなさい」
ティーナ姫が毅然と言い放った。その言葉には、この部屋に最後まで残る姫自身の覚悟と意地がこめられている。
ラックはジールとそっと目を合わせ、のろのろと立ち上がった。出口へと向かう二人の背に、再びティーナ姫の言葉が投げかけられる。
「ごめんなさい。こんなわだかまりの残し方なんてしたくなかったのに、ごめんなさい」
違う、本当に謝るべきは俺のほうなんだ。
ラックは唇を強くかみしめた。いっそ激しく流血して欲しい気分だった。
部屋を出る前に振り返り、ティーナ姫に向けて最敬礼をした。目を合わせることはできなかった。
廊下に出て扉を閉め、その場に立ち尽くすラックに、ジールが強烈な肘鉄をくらわせてきた。ラックはよろめきながらも黙ってそれを受けとめる。
扉の向こうからすすり泣く声が聞こえてきた。廊下の窓からは、柑橘類を思わせる橙色の光が差しこんでくる。
すでに日が沈みかけていた。
その夜遅く、王宮内にある国務大臣の執務室には、ランプの明かりがこうこうと灯っていた。
部屋の主であるニキムは書斎横の椅子に座り、グラスに注がれた蒸留酒をくゆらしている。部屋の中央にはソファーとローデスクも置かれており、そこには一人の男が座っていた。男はグリンピア王国の兵士が着用する若草色の甲冑を着ていたが、その下にはわずかに黄色いシャツが見えている。
「国王陛下が彼らに王女の護衛を頼まれたときはびっくりしたわい」
ニキムがグラスを見つめながら、抑え気味に声を出した。男が相槌を打つ。
「ごもっともです。私とて、デルタイの使い手を二人まとめて相手にしたくはありませんので」
「その後、王女自ら国王陛下に二人の護衛を辞退したいと申し出たから、事なきを得たが」
「はい」
「我がグリンピア王国にとって、レッディード王国に王女を人質にとられるも同然の結婚を、このまま進めるわけにはいかないのだ。弱みを握られては、今後の外交に差しさわるからな。かといって表立って断り、戦の口実を与えることもしたくない」
「我々イエローサ王国にとっても、どんな形であれ、グリンピアとレッディードが同盟を組むような状況になっては脅威です」
「ティーナ王女には、レッディードまでの道中で賊に襲われて事故死してもらうのが、双方の利益になるのだ」
「大臣のおっしゃるとおりです。でも本当によろしいのですか?」
「もちろんだ。現在のティーナ王女は、国王陛下と王妃陛下の実の娘ではない。本物のティーナ王女は一歳のときに病死されたのだ。その身代わりとして拾われてきたニセの王女が命を落としても、両陛下ともそれほど悲しまれたりはしないだろう」
「そうでしたか。そうとも知らず、あのニセ王女も健気なことですな」
「まったくだ。リューイよ、計画にはくれぐれも抜かりのないように頼むぞ」
「承知しております」
リューイと呼ばれた男は立ち上がると、ニキムに頭を下げる。
部屋の片隅では、ティーナ王女の飼っている黒猫が、闇にまぎれて二人のやり取りをじっと聞いていた。