プロローグ アトランティス王国歴9861年
空は、紫がかった不気味な色に染まっていた。
湿度の高いねっとりとした風が吹きつけ、眼下に望む崖からは波の砕ける音が聞こえてくる。いつもなら穏やかに凪いでいる海が、来たるべき破滅の時を暗示するかのように荒れ狂っていた。どこかに身を隠しているであろう鳥たちが、不協和音のような鳴き声をあげている。
足元の草原には色とりどりの花が咲き乱れ、鼻腔をくすぐる香りを漂わせているはずだが、海から吹きつける磯の香りを含んだ風によって打ち消されていた。
丘の上に、白いローブをまとった二人の男が立っていた。高齢で気難しそうな顔をした男の名をノア、もう一人の体格に恵まれた壮齢の男の名をビラコチャという。二人はこの王国に存在する十王家の一つ、エラシッポス王家から資金援助された、とある研究機関に所属していた。
「ノア先生、やはりもうこの王国を救うことは不可能なのでしょうか?」
普段は陽気で気さくなビラコチャが苦悶の表情を浮かべた。もちろん今さらその答えを聞くまでもない。だが理性では分かっていても、感情がその現実を受け入れられずにいた。
「あれを見よ。ビラコチャ」
ノアはそんな弟子を諭すかのように、右手の人差し指を天空の一点に向けた。左手には三つ又の矛が抱かれている。彼は王国の開祖に敬意を表して、普段からその矛を持ち歩いていた。彼が指し示す先には、紫色の光を帯びて輝く不思議な天体が見える。まさにそれこそがこの王国を破滅へと導く元凶だった。
「すでに事態は我々の手に及ばぬところまで来ている。重力計が狂い、国民の多くは飛翔する能力を奪われた。もはやこの国は破滅の運命から逃れることはできない。明日、このアトランティス王国は海の底に沈むだろう」
ノアは、それを全国民に向けて告げた時の胸苦しさをいまさらのように思い出した。口の中に苦いものがこみ上げる。
「私にできるのは、この王国に生きる者たちのDNAを方舟に乗せ、ともに逃げ出すことだけなのだ」
「すみません、愚かな質問をしてしまいました。私も頭では重々分かっているのですが……」
「ところでビラコチャよ、お前の決意は本当に変わらないのか?」
ノアが慈愛に満ちた顔をビラコチャに向けた。
「はい、私は私の道を行きます」
そう答えるビラコチャの横顔は、心なしかいつもの明るさを取り戻したように見える。
「そうだな、分かった。もう止めはせぬ。ビラコチャ、達者でな」
ノアは右足を半歩前に出し、左膝を地面について、右こぶしを握りしめたまま前方へ突き出した。それを見たビラコチャもやはり同じ姿勢を取り、ノアの右腕に自分の右腕を重ね合わせた。
「テラノム・サーサスール」という二人の声が唱和する。
それはこの王国に古くから伝わる異国の言葉で、「我々は仲間だ」という意味を持っていた。