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超法規SP  作者: 小田雄二
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砕かれる革命者

19章


 稲葉が冗談を言っていないとすれば、それは衝撃的なことだ。千葉は冗談だよなと茶化そうとしたが、彼は事実だとかぶりを振り、直ぐに二階の会議室の方に一緒に行きましょうと続けた。

 千葉が会議室のドアを開けて中に入ると、そこは三十人からの男たちが苦虫を噛みつぶした顔でざわついて、負のエネルギーに満ちていて息苦しかった。皆千葉、篠田警部・稲葉に一瞬顔を向けたがすぐに背けた。千葉は、伊東課長を見つけると、一直線に進んだ。

「今稲葉から二階堂紀吏仁が行方不明になったと聞きましたが、本当ですか 」

 彼が真剣な顔で迫ると、相手は野生動物が飛びかかってくるようなインパクトを受けてしまう。

「……残念だが、本当なんだよ。千葉君 」

 伊東課長はイスに座ったまま目を伏せた。

「だって公安が彼を監視してたんじゃないんですか。僕が言うのもおかしいですが、大失態じゃないですか 」この声が聞こえた者達は、胸を抉られ、伊東課長のデスクを向く。

「……たしかにその通りだ。面目ない。SPではこういう時、責任者はどうするんだね? 」

「切腹です 」

「切腹?まさか、君 」伊東は首を絞められたような顔で言うと、「ははは、ジョークですよ。えらいことになりましたねまったく。詳しい状況を教えてもらえませんか? 」と先ほどとは表情を一変させて笑顔を浮かべた。

 二階堂紀吏仁がさらわれた状況説明は、大谷係官という小柄な男がしてくれるというので、千葉と篠田警部は椅子に座って聞くことにした。

 二階堂氏の監視は公安の二名が、二十四時間体制で昨日から行っていた。今朝は午前九時前に市ヶ谷のアーク・ビル三階の太洋交易に出社。公安二名は三階フロアに待機して大洋交易を出入りする人物を監視していた。午前十一時三十分頃、二階堂氏と彼のボディガードである島田氏が大洋交易を出て、三階フロアの共同のトイレに入ってから三十分経っても出てこないので、二名が不審に思って同トイレに入ってみると、『清掃中』の黄色いプレートが立ててあり、二階堂氏はどこにもおらず、島田氏が男性トイレの洋式便器に下着を降ろした状態で腰かけ、左右の手と両足首を結束バンドで縛られた形で眠っているところを発見した。午後十二時過ぎのことだった……。

 この共同トイレの出入り口は、三階フロアから入る一本通路を約七m歩いた所にあり、そこからどこかに行くには、必ずフロアに出なくてはならない構造で、公安が人の出入りをフロアから確認していたが、二階堂氏は女性トイレにもおらず、忽然と姿を消したと説明した。

 千葉と篠田警部は、説明を聞きながら場面を想像していた。

「まだ、続きがあるんでしょう?それは公安側から見たことの時系列説明じゃない。これじゃまるで彼がトイレに入って、ボディガードを眠らせて忽然と消えたことになるじゃない。そんな話誰が信じると思って? 」

 篠田警部は抑えてはいるものの、係官に眉間の深い溝と細くした目を見せて威圧した。

「まぁまぁ、消えたというのはちょっとした洒落でしょう?もう何者かにさらわれたとわかっているんですから、どうぞ、続けて 」と千葉は彼女をとりなして説明を促した。

 係官は篠田警部の、飛んでいる蝿もショック死する視線を受けて身体を縮こませながら「はいっ 」と言って、なんとか空気を切り替えて説明を続けた。

 その後二階堂氏は自宅に戻っておらず。必死で捜索したが、いまだに見つかっていない。島田氏が目覚めて事情をきくと、トイレに入ったら、白マスクに清掃員服姿の二人組が突然襲ってきて、何か薬を嗅がされたら意識がなくなったという。

 それから太洋交易・副社長の証言によれば、午前十時頃にいつもくる業者が、社のトイレを清掃中に管が詰まり、水が溢れだすトラブルが発生し、午後から本格的な修理に入るので、今日は共同トイレを使うことになった。だからちょくちょく社員が共同トイレに出入りしていた。

 このアーク・ビルは建築後二十年を過ぎており、この種のトラブルは全体として何度か聞いたことがあったので、不審には思わなかった。しかし賊は二階堂氏と島田氏が共同トイレに入った後に『清掃中』のプレートを立て、他者が近づかないようにして二人を眠らせ、二階堂氏を手押しのダストボックス・カートに押し込め、エレベーターを利用して車に積み込んでビルを出た模様。この間、大きな物音や悲鳴を聞いた者はいない、従って公安も含め誰も不審に思う者はいなかった。

 千葉は説明を聞いて、これはプロの誘拐だと確信した。今更公安の不注意をあげつらっても仕方がない。二人組の方が一枚上手だったのだ。彼らは社のトイレを使えなくして、標的が共同トイレに入るように誘導したのだ。それから周囲の人々にただの清掃員として認知してもらうために、床などを真剣に掃除したのだろう。認知されれば、もう彼らが控え目に視界に入ってきたところで気にされることはない。

 そして標的が実際に共同トイレに入ると、行動を開始した。この時ファーストタッチが最も重要で、男性トイレ内に他に人がいたり、女性トイレにも人がいる場合を想定し、その場で適切に対応して誰にも怪しまれることなく標的を拉致している。これには経験と機を逃さない迅速な行動力が必要である。場所をトイレにしたのも、誘拐後失禁されては面倒だから、用を足させてからクスリで眠らせた可能性がある、島田を眠らせた(下着まで脱がせている)のは、おそらく同時に行ったと思われる。それから二階堂をカートに押し込んで、エレベーターで地下駐車場に降り、業者の車で逃走したのだろう。本物の業者は、車内でおそらくクスリで眠っているのだろう。

 ボディガードの島田など、銃やナイフで脅せばどうにでもなる。屈辱的な姿で発見されたのがその証で、結果的にはあれで良かったのだ。下手にボディガードぶりを発揮されても無駄なことだし、騒ぎになる前に殺害しても、それは当人にとっても彼らにとっても望むところではないのだ。千葉には、彼らの行動の一つ一つが理解できるから、プロだと思ったのだ。

 それにしてもこの二人組は何者なのだろう。というより、どこからの差し金なのかと千葉は考えていた。二階堂が警察の追及から逃れるために、一時姿をくらませたのであれば理解できる。それは怒髪天にとっても同じで、仮に人数を集めて誘拐に見せかけてさらったとしても、あの素人同然の実行部隊が、あれほどの周密にして大胆な行動ができるか疑問だ。怒髪天が金でプロを雇ったのか。それにしても昨日の今日ではめちゃめちゃ早いのではないか。では一体どこの誰が二階堂氏をさらうのだろう。父親の蔵人氏か?もし彼なら、こんなことをする必要はない気がする。そして彼をさらってどうしようというのだろう。千葉にはさっぱりわからなかった。

 暫くして伊東課長が、問題の清掃員の姿が写っている防犯カメラ映像が今届いたので、これから再生すると言ったので、会議室全体が色めき立ち、ガタゴトと人が動いて中央スクリーンに多くの目が集まった。いきおい千葉もどんな奴らなのか見てやろうじゃないかと好奇心で瞳を輝かせて注目した。篠田警部がコーヒーを持ってきてくれたので、千葉は少し驚いたが、礼を言って一口飲んだ。

 スクリーンに電源が入り、問題の清掃員服の二人が大きなカートを押しながら共同トイレからフロアに現れ、エレベーター側に向かってくる映像がカラーで映し出された瞬間、千葉と篠田警部は驚いた。マスクで顔を隠しているものの、そのいかつい身体と虎のような眼は、西郷誠に他ならなかった。もう一人は岡崎晋吾だと千葉はすぐにわかった。横を見ると篠田警部は、目を大きく見開き、両手で口を抑えて声が出ないようにしていた。

「警部、久しぶりに西郷さんに会えて良かったですね 」と千葉が笑いかけると「うるさい! 」とピシャリと彼の左腿を叩いた。彼女にとってそれはショックな映像だったのだ。

 しかしSPは怒髪天問題に関しては超法規なので、千葉から見れば意外で愉快な真相だった。彼はやおら立ち上がって振り返ると両手を上げた。

「すみませーん。SPの千葉秀樹でーす。今映ったのは、同僚の西郷誠と岡崎晋吾です。お騒がせして申し訳ありませんが、二階堂さんを誘拐したのはSPでーす 」と言うと、忽ち男たちの怒号の洗礼を浴びた。

「なんだその態度は! 」

「SPがなんで我々警察の邪魔するんだ! 」

「超法規だからってなにしてもいいのかよ! 」

「おまえ知ってたんじゃないのか!ふざけんなバカ野郎! 」

 千葉としては、早めに伝えた方が良いと思って声をあげたのに、こんなに罵声を浴びるとは思ってもいなかったので、困り顔で周囲を見まわしていると、怒号は更にヒートアップしてきて、見かねた高田警視正と署長が立ち上がって制止して漸くおさまった。

 篠田警部が千葉の袖を引っ張って強引に座らせた。

「みんな気が立ってる時に、半笑いであんなこと言ったら、怒るに決まってるじゃない、バカじゃないの 」と小さいが、どすの効いた声で千葉を叱りつけた。しかし千葉が困ったように口を尖らせると、途端に可哀想になり「あんたここじゃアウェイなのよ。これ以上反感かっちゃダメでしょ 」と優しく耳元で囁いた。そこへ高田警視正と署長が近づいてきて、ここではちょっと難しいから、署長室で詳しい話を聞かせてくれと言い、署長室へ移動することになった。

 高田警視正、宮下署長、伊東課長、大谷係官、篠田警部、千葉が署長室に入ると、篠田警部は固い表情になったが、千葉はケロリとした顔で応接用の本革のソファに腰かけた。各々が腰をかけたが、高田警視正と宮下署長は、千葉と対面する形となった。

「君の発言は率直で、裏も表も無いように思えるから、そのまま受け止めることにするよ。先ほどは、会議室が荒れてしまって失礼した。SPが二階堂氏を誘拐したという発言はそれほどの衝撃があったということだな。何かそれを裏付ける根拠はあるのかね 」と高田警視正が問いただすと、千葉は彼の目を見ながら答えた。

「西郷さんは身体つきや目に特徴がありまして、知っている人なら一目でわかります。篠田警部もわかりましたよね 」千葉は彼女に問うと「私も間違いないと思います 」と念をおす形でこたえ、高田警視正はわずかに眉を顰めた。

「では、SPがやったということで話を進めるが、千葉君には事前に何も連絡は無かったのかね? 」

 伊東課長が尋ねた。

「全然ありませんでした。だから直ぐに声を出したんです 」

「そうだよな 」

「僕の上司の等々力さんや城之内さんから連絡はなかったんですね 」

 千葉が尋ねると、警察の幹部達は頭を左右に振った。

「だとすると、僕の声出しはSP本部では予定通りとなりますね 」

「なにが予定通りなのよ 」

 篠田警部が顔を向けて問うと、彼は面白そうに答えた。

「やだな、二階堂さんは多分Y県に連行されていると思います。今六時(午後)過ぎですから、ジェット機を使えば今頃とっくに着いているはずです。そこで私が声出しすることで、警察は本格的に動き出さずに済むからですよ。

 そうだ、羽田・U空港間の小型プライヴェートジェット機の航行記録がないか調べて下さい。もしあれば決まりです。SPが二階堂さんをさらって東京かどこかに潜伏する理由がないですからね。西郷さんと岡崎はもともと調査や諜報活動が専門で、誘拐も含みます、人選としては申し分ないですね 」

 それを聞いた大谷係官は、「ちょっと確認してきます 」と言い残して部屋を出た。

「……だとしたら、どうして、つまり警察を出し抜いてまで強引な手段に出たんだろう 」

 高田警視正が女性秘書官の出してくれたコーヒーを勧めながら質問した。

「理由ですか?それは色々考えられますよ。一つはウチのボスの気が短いことかな 」

「ふざけないでよ 」篠田警部が小さいが棘が刺さりそうな声で言った。

「ふざけてませんよ。まぁ僕が思いつくことなんてそんな程度だってことです 」

 SPはボスの意向から離れて勝手に動くことはない。必ずしも警察や公安の期待通りに動くとは限らない。すると伊東課長や篠田警部が思いつくままに推測を語り始め、署長がいちいちそれに反応した。この勢いならこのまま夜が明けてしまうだろう。

 そこへ大谷係官が戻ってきて、「確認取れました 」と伝えた後で詳しい裏付けの説明を始めた。Y県所有のボンヴァルディア社製のリアジェット45(乗員二名・乗客最大九名)が羽田空港に本日午前九時十五分頃到着、そして午後二時三十分頃羽田を発ち、午後三時四十分頃U空港に到着したという。目的は昏睡状態に陥った男性患者をY県に緊急搬送するというもので、機内は既にストレッチャーを固定するための改造が施されており、Y県職員の西郷・岡崎両名が、XX病院から意識不明の男性をストレッチャーで機内に運び込むところまでを立会人が確認したというものだった。

「これで決まりですね。ちょっと上司に電話させて下さい 」千葉は内ポケットから携帯を取り出しY県の等々力に電話した。

「ねえねえ、スピーカー設定にして聞かせてもらえないかな? 」と篠田警部がせがんだが、千葉はやんわりと断った。

「本当に千葉なのか?ちょっと待て…… 」

 等々力が五回コールのあとでこう言うと、どこか静かなところに移動しているようだった。微かに女の嬌声があったので、どこかの飲み屋なのだろう。千葉が電話してくるなど殆どないことなのだ。

「で、どうした? 」

「二階堂さんがさらわれたって聞いて、防犯カメラの映像を見たら西郷さんと岡崎じゃないかって言ったら、SPが捜査の邪魔したってえらい怒られましてね。それで羽田空港に問い合わせたら、U空港間でリアジェットの航行記録があったんでその辺りの確認の電話です」

 等々力は千葉が困った声で「えらい怒られた 」に反応し、愉快そうに笑いだした。

「こりゃいいや。お前も東京じゃかたなしだな。人から怒られるなんて良い薬だよ 」

「等々力さん酔っぱらってるんすか? 」千葉が言うと、彼は真面目に話しはじめた。

「すまん。実は昨日トノ(鈴木有作Y県知事)が二階堂紀吏仁の名前を聞いたとたんに連れて来いと言い出してな、城之内さんが急いでアレンジしてさ、今朝出立して午後には連れてきたよ。俺は見てないけどね 」

「なんで僕に教えてくれなかったんすか 」

「ややこしくなるからだ。時間も無かったし、失敗したら城之内さんの首が飛ぶんだよ 」

「じゃ、トノはなんで二階堂さんをさらったんすか? 」

 この問いに、等々力は言うべきか迷ったようだが、答えた。

「……それは、お前から二階堂を守るためだよ。チバはすぐ殺しちゃうからなってトノが、言っていたそうだ 」

 千葉はそれを聞くなり「そんなことないですよ」と言いながら思わず吹き出して、白い歯を見せた。

「そんなこと言ってぇ、彼をそちらで取り調べるんでしょ 」

「そりゃもう来たからにはばりばりだよ。実はこの件は明日のTV会議で知らせるつもりだったんだけどね。警察と公安の皆さんには、宜しくと伝えてくれ。それからこの件は、やはり根が深いぞ。トノの傍にいる白人の紳士がいたろ?名前が出てこない 」

「リチャード・ギリガンで す」

「ああ、そいつがこの件で、えらく調べててトノに何か真剣に報告してたんだが、俺は英語さっぱりわからんから詳しいことはわからんのだけどね 」

「なんてこった。いいですよ、それはユリさんに訊きますから 」

「おおそうか頼むよ。で、そろそろ御前の出番が近いから、体調を整えておいてくれ、そして篠田警部に絶対に怪我一つさせてはいかんぞ 」

「承知 」

 千葉が最後の挨拶をして通話を切ると、真剣な視線を浴びていたことに驚いたが、爽やかな笑顔を浮かべながら、彼らの質問に応じた。勿論彼をさらった理由が自分にあったことは伏せた。伊東課長はリチャード・ギリガンの名を聞いて彼がCIAの日本支局のエージェントだと知っていた。それから彼らは得た情報を元に様々な憶測を始めたが、千葉はそれを静観し頃合いをみると、詳しい話はウチの等々力が明日TV会議で報告するそうですから、そろそろ今日は帰りましょうと言い出して、一同の目を丸くさせた。彼が立ち上がると、誰も止めることができず、高田警視正は解散を認めた。

 千葉は署長室を出ると廊下で両手を上げて大きく背伸びをした。相変わらず足音を立てずにすいすいと歩く背中を、篠田警部が小走りで追いついた。

「ただいま午後七時二十分。うーん今日はちょっと遅くなったわね 」

「そうですね。警部、今日は家まで送りますよ 」

 彼女は、千葉のマイペースぶりに呆れを通り越して畏敬の念を持った。それが若さゆえのものなのか、揺るぎない自信なのか、ただの怖いもの知らずのバカなのか。いずれにせよ、あれほどの権威と責任ある面々を前にして、臆せずのびのびと発言し、しばしばリードしていたのは、看過できない事実であった。

 自分など緊張するあまり頭痛がしていたというのに、もしも千葉が腰を上げなければ、堂々巡りの議論の末に深夜タクシーで帰宅することが目に見えていたのだ。自分の言った皮肉もまったく動じず、今日は送ってくれるという。まったくわけのわからない宇宙人だが、腕は確かでめっぽう頼りにはなる。そして西郷とは異なる華のようなものが、一緒にいて自分を明るくさせてくれるのだ。

「えっ本当?でも、公安がガードしてくれてるらしいし…… 」

「その公安があのざまだからですよ。今日は嫌な予感がするんです 」

「嬉しい。じゃ麗子が入院している病院に寄ってくれない?お見舞いしましょうよ。それにあたし、お母さんと一緒に帰りたいの 」

「それはイイですけど、カエル君は四人乗りですが、色々装備があって実質二人乗りなんで、お母さんはタクシーになりますよ 」

「ええ!そうなの?使えない車ね 」

 彼女は悪戯っぽく笑ったが、すぐに同意して携帯電話を取り出し母親にその旨を伝え、トイレで化粧を直してからカエル君に乗り込んだ。

 千葉は麗子が入院している病院に向かう途中で、胸中静かに覚悟を決めていた。

 怒髪天の首脳は今頃泡食っているだろうな。それでも二階堂さんがSPの手に落ちたと結論するには、大して時間はかからないだろう。警察が誘拐なんかするわけないからね。しかし彼らは行方がわからなくて奪還のしようがないから、今夜こっちを襲ってくる予感がするから、警部が襲われる可能性を排除したい。そして等々力さんが、出番が近いと伝えてきたからには、それに備えるべきだな。SPはクスリや催眠術を使って早晩実情が明らかになるだろう。(公開するかどうかは別だけど)それから参謀が作戦を立てて、指示が出るんだろうな。一方でリチャードの動きが気になるけど、なにか関係があるとすれば国際問題になるかもしれないな。酔っ払った等々力さんの話では、今は忘れた方がいいや。トノは怒髪天について初めから、「今の段階で潰す 」と言っていたそうだけど、たしかに恐ろしげで厄介なものを感じる。東京という大都会の裏側で、根を蔓延らせた怒髪天という組織が、意外と大きくて本格的だというところなんだろうな。

 まったく警察を差し置いて、勝手に天誅と名付けて大量殺人が横行するんじゃ、まるで必殺仕事人じゃないの。しかも現場に爆弾しかけて証拠を消すなんて聞いたことがない。でもこれが怒髪天の最終目的とは到底思えないな。セミナーで人を集めて洗脳し、信念のためなら殺人もOKな人を増やして革命のロマンを抱かせて政府と戦わせようってのかな。とんでもない金をかけて、人を大勢使って、一体なにやってんだろう。

「ねぇ、なに考えてんの? 」急に篠田警部が飛び込んできたので、千葉は少し驚いた。

「ああ、びっくりしたぁ。怒髪天のこれからの展開について考えていました 」

「ふーん。それで、なにかにいきついたの? 」

「いいえ、なんにも。ところで、今日のファッションは素敵ですね 」

「えっ、そう?でもこれ久しぶりに着たのよ 」

 彼女は千葉に褒められてまんざらでもないように足をぶらつかせて微笑んだ。

「黒スーツなんかよりも断然いいです 」彼は微笑んで念を押した。

「でもねぇこの歳になると足出すの結構恥ずかしいのよ 」

「たまには気分転換ですよ 」

「千葉君て、結構人をのせるのうまいわよね 」

「そうですか 」

「あたし人を動物に例えるの得意なんだけど、いいかしら? 」

「いいですよ 」

「あのね。黒豹 」

「西郷さんがいかつい虎で、僕が黒豹ですか 」千葉は面白そうに笑った。

「ちょっと。あたしいかついなんて言ってない。でも面白いわね 」と彼女も笑った。


20章


 二階堂紀吏仁は暗闇の中で目覚めた。ここはどこだと思うが、見当もつかない。どうやら自分はベッドの上で、微かに消毒剤の匂いがする枕を下に毛布にくるまって眠っていたようだ。目を開けて周りを見ても闇で何も見えないので、そろりと上体を起こした。衣擦れの音が妙に耳に響く。空調が効いているのか室温はちょうどよい。気分は良かったので、ぐっすり眠ったことは間違いないようだ。ベッドの下の方を見ると、小さな間接照明が絨毯を淡く照らしていた。それを見て更に左の方を見ると、壁のあたりに緑色の光が見えた。それは多分照明のスウィッチだと思い、素足を降ろして絨毯の感触を確かめながら、手探りでゆっくり光に向かい、指で押すと照明がついて空間を照らし出した。十畳ほどの窓がない部屋で、壁際にベッドがあり、紺色の毛足が長い絨毯が敷かれ、小さな簡易キッチンと、固定式のダイニングテーブルと木製の椅子があった。

 そして自分が下着を着けておらず、人間ドックの時に着るような水色の簡易ガウンを着ていることに驚いた。キッチンの横にはドアが三つ並び、一つは開かず、もう一つはユニットバスに通じるもので、最後の一つはクローゼットで中は空だった。他に冷蔵庫・電子レンジがあって、ベッドの向かいに小型液晶テレビとDVD・BDプレーヤーがあった。何か情報を得ようとテレビをつけたが、チャンネルをいくら変えてもうるさいだけの砂嵐ばかりだったので消した。その横にプッシュホンが見えたので、飛びつくように受話器をとり、110を押したがつながることは無かった。色々試したがどこにもつながらないので又諦める。

 ベッドに腰かけ両手で頭をかいたとき、何気なく触れた顎に髭が伸びているのに再び驚く。ここへ来た覚えもなければ、こんなものを着た覚えもない。ここはどこで誰に連れてこられたのか全然わからない。それなのに時間は経過していることは髭でわかる。

 しかし、アーク・ビルの共同トイレで襲われ意識がなくなるまでのことは記憶している。急いで全裸になって身体をチェックすると、どこにも傷は無いし痛みも無かった。むしろ体調も気分も良い方だった。これは一体どういうことなのか?いくら考えてもわからない。尿意を覚えたので、ユニットバスへ行き用を足した。思ったよりも長い放尿で、その色が透明なので、本当に体調が良いことがわかった。簡単な洗面所の鏡で顔を見ると、7ミリぐらいの髭がびっしりとあり、これくらい伸びるには三日はかかるはずだと思う。狭いユニットバスを見渡して、トイレットペーパー、使い捨ての歯ブラシ、ボディソープやシャンプー・コンディショナーのボトル、タオルなどの必要な物が揃っており、シャワーは水も湯も出て温度調節できることがわかったので、とりあえずシャワーを浴びて髭をあたることにした。いつもの動作で身体や頭を洗いながら、色々なことを思い出してみる。自分のことは勿論、家族のこと仕事の進捗や取引先や連絡先など、思いついたことは全て思い出せるというのに、ここについての記憶だけが欠落していることがはっきりした。襲われて気を失ってから目が覚めるまで、ほんの数十分しかたっていない感覚だが、現実はおそらく三日はたっているはずなのだ。色々探しても安全剃刀が見つからず、電気シェーバーがあったので、入念に髭を剃った。

 新しくて同じ色の簡易ガウンを見つけたので、それを着て部屋に戻り、バスタオルで髪を軽くもみながら、ビールでもないかと冷蔵庫を開けたが、ソフトドリンクだけだったので少しがっかりし、グレープ果汁ソーダを取り出し、小腹が空いたので食べ物は、ミートスパゲティを取った。他にはピッツァやTBディナーなどの電子レンジであたためてすぐに食べられるものがたくさん入っていた。コップを探して戸棚を開けると、ポテトチップスや缶詰などがあったので、コンビーフを取り出した。皿もコップもフォークまでも割れることがない樹脂製だった。

 不思議なことに誘拐・監禁されていることへの恐怖や不安は湧いてこなかった。おそらく生活に必要な物が揃っていて、ぐっすりと眠った後の風呂上りで、気分が良いからだろう。久しぶりにコンビーフをかじると、ますますビールが欲しくなったほどだ。仕方がないのでそれらを食べながら、あの日のことをできるだけ詳しく思い出してみる。

 あの日は師走の中の一日で、なんでもない日になると思っていた。トイレが詰まって使えないという報告を受け、共同トイレを使うことになったとしてもだ。昼食の前に用を足そうと、島田と共同トイレに入った。昼は時々行く蕎麦屋で天ぷらそばでも食おうと思いながら小便器に立った。

 確か清掃員が二人入ってきて掃除を始めた。クリーナーが音を立てて回転を始めても不審に思わなかった。用を足し、チャックを上げた瞬間に視界の右上から光る小さなものがスッと入ってきた。何だと思ううちに急に強い力で鼻と口に布を当てられた。まるで顔を上向きにされたまま、がっちりと固定されたような感じがした。「騒がなければ殺さない 」と耳元で声がした。聞き覚えのない冷静な男のものだが、騒げば殺すと解釈し、抵抗する気がなくなった。自分の喉元に控えているものは、小型の鎌のような変わった形のナイフで、刃は研ぎ澄まされて鋭く光っていた。布の匂いは柑橘系で、これを吸ったら危険だと無意識に思ったが、息をしないわけにはいかない。

 左隣に立っていた島田も。もう一人の大柄な男に同じように背後から襲われ、自分を助けようとするどころか、さっさと大便用の個室に入ってしまった。これを見て初めて、もうだめだと思った。パニックになって暴れる前に意識がなくなった。それから目が覚めるまでの間のことがまったくわからない。

 冷静に考えれば、意識が無いのだから記憶がないのは当然だ。自分は麻酔薬か何かを嗅がされて意識不明になって今にいたる。それでいいじゃないかと思えるようになった。あの後島田がどうなったのか知らないが、あの役立たずに今度会ったら解雇してやると決めた。そしてこれからどうするかを考える。何しろ自分をさらってここにおいた者が誰なのかさっぱりわからないのだ。その理由は怒髪天についてだと察しがついた。そこから考えると、警察がこんなことをするとは思えない。では公安か?彼らは必要に応じてこういうことをする場合があると知人から聞いたことがある。だとすれば手荒なことはしないだろうと決め込んで、彼はこの部屋の調査を始めた。

 開かないドアは外に通じるはずだと思い、開けようと試みた。木製だと思っていたこのドアは、よく見るとそれは塗装で実は鋼鉄製であった。ノックした音の感じでは相当分厚く、五センチ以上はありそうだとわかった。ヒンジもこちらからは見えず、ドアノブには鍵穴すらなく、ロックされていた。それでも外へ出たい衝動に駆られて、ドアノブにとりついて力まかせに左右に回してみたがびくともしない。押そうが引こうがぶつかろうがとにかく渾身の力を込めたが、まったくの無駄だった。鋼鉄のドアに素手で立ち向かえば、十分後にはみんなこうなる。全身から汗が吹き出して息が切れ、手、腕、肩や腰が痛み、両手は暫く力が入らなくなるのだ。腹いせにバットかハンマーか何かでぶっ叩いてやろうと色々探したが、手に持って使う道具は、使い捨ての食器と歯ブラシぐらいで、これではドアに傷一つつけることもできない。何しろ包丁一本出てこないのだから、文字通りお手上げだ。思わず小さく罵り、再びシャワーを浴びて、心の底から冷たいビールが飲みたいと思った。


 二階堂紀吏仁はプッシュホンのけたたましいベルの音で飛び起きた。暇すぎていつの間にかベッドで眠ってしまったようで、静寂に慣れた耳には空気を切り裂くような強烈な響きで、とても何度も聞きたいものではない。受話器を取り「もしもし 」と言った。相手は意外にも女の声で、お話を伺いたいので、十分後にある場所に連行すると告げて切れた。それは優しい声ではあったが、こちらの事情を一切うかがわない非情なものだった。十分後といわれても時計が無いので、ただ待つ身としてはとても長く感じた。ベッドの上でうつらうつらしていたら突然、どうしても開かなかったドアが開いた。思わず身体を起こしドアに注目すると、そのドアは、開くとなると厳かにいったん十センチ位引いてから回転し、二人の武装した男が入ってきた。二人とも同じ背格好で、身長は170センチ位の鍛えた身体に実戦的な迷彩色の戦闘服を着て栗色のブーツを履き、顔には黒いサングラス、短髪頭にベレー帽を乗せていた。

 両手を上げてこちらに来いというので、簡易ガウンのまま従うと二人は用心深くドアの外に誘導した。目の隅で自分が敗北したドアを見ると、厚さが15センチ位もある銀行の大金庫のような頑丈なもので、油圧で開閉するらしいことがわかり諦めがついた。

 このドアを出るともう一つ前室空間があり、そこを出て漸く外に出ることができ、更に二人の武装した男が待機していて、彼は四人の男たちに囲まれて誘導されるままに歩いた。その途中で「ここはどこ?」「あなたたちは誰? 」「これから誰に会う? 」「今何月何日? 」などと質問をしたが、一切答えることはできないと威圧されて黙ってしまった。三十メートル程歩いたところの両開きのドアの前で、男がプロトコルマナーノックの後でドアを開いた。中に入ると、広い部屋の奥に男女の姿が見えた。女の方には見覚えがあった。元タレントの菊沢ユリ、男の方はどこかで見覚えがあるが、名前が出てこなかった。その男は、紀吏仁を確認すると笑顔で椅子から立ち上がり、「よく来たね。中々血色がいいじゃないか。安心したよ。まぁかけてくれ 」と快活に声をかけてきた。誘拐して連れてきたくせに「よく来たね 」もないもんだ。紀吏仁は仏頂面で抗議の意味を込めて示されたソファに、どっかりと座ってやった。四人の戦闘服は二手に分かれ、決められたフォーメーションのように彼の背後の左右に立ち、後の二人があの男女の背後の左右に立った。自動小銃を持った男達はそれだけで迫力がある。

「ニカイドウキリヒトさんだね。はじめましてかな?鈴木有作です 」紀吏仁は彼の名前を聞いてピントきた。

「鈴木有作といえば、Y県知事の……するとここはY県?地方の首長さんが何故私を誘拐するんですか。ひどいですよ 」と声を荒げると、有作は面白そうな顔をした。まったく、何が面白いというのか。

「おお、元気だな。まぁそう熱くなるなって、これからちゃんと説明するからさ。俺も君に色々話があるんだよ。コーヒーでも飲むかい? 」と自分のマグカップを見せた。

 この返しに彼は鼻頭を抑えられた気がして、無性に飲みたくなって「いただきます 」と答えた。それを聞いたユリは即座に紀吏仁にコーヒーを淹れると、彼は礼を言って飲んだ。強い香りとカフェインが胃に流れ、気分が徐々に落ち着いてきた。

「誘拐とは人聞き悪いな。俺としては君を守るために保護したと思っているんだがね 」

「私を保護って、一体何から? 」

「実は、怒髪天壊滅命令を出してデストロイヤー(破壊者)を東京に送り込んだんだよ。そいつは本当に危ない奴で、ほっとけばあんたは確実に殺されちゃうから、無理にでもここに連れてきたというわけだ 」

「デストロイヤーというのは、千葉とかいう若者のことですか。一度見たことがある。確かに凄腕のようですね。私のボディガードが一発でナックアウトされましたよ。でも私は怒髪天とは何の関係もありません。確かにその件で警察からの接触がありましたが、それだけのことです。そうやって誘拐拉致を正当化するのなら、証拠を出してくれないと、それに私をどうするつもりなのですか?早く解放して下さいよ。さもないと大変なことになりますよ 」

 紀吏仁の口調が再び荒くなってきた。有作はそれを見て、こいつは本当にわかりやすい男だなと思って再び笑顔になった。

「まぁ、そういきりたつなって。ここは地下シェルターだ。核にも耐えられる設計で、誰も入って来れないし出られないよ。生活に必要な物は揃えてあるから、怒髪天が潰れるまで気楽にしていてくれ。今頃君の部屋はメイドが掃除とベッドメイキングをしているだろう。なに、五日もかからないさ。お父上は君がここに保護されていることはご存じだから、なにも大変なことにはならないよ 」

 有作は一瞬紀吏仁を抑えつけるように睨み、五日以内に怒髪天が壊滅すると聞いた彼の反応を窺った。紀吏仁は事態をはかりかねていた。もはや怒髪天との関係性を捜査する段階が終わり、自分を排除して五日以内に荒っぽい外科手術を行う段階にあるようだ。それは本当なのだろうか?自分を隔離して心理的に揺さぶり、自白に追い込もうとする策とも考えられる。迂闊に彼の話を信じるのは危険だと判断し、口を真一文字に縛って有作を見た。有作はその様子を見ているだけで、彼が何を考えているのかよくわかり、再び笑顔になった。

「まぁ、少し話をしようじゃないか。ここに君についてまとめたファイルがある。これによると、小学生の頃から目立っていたね。心身ともに健康で、勉強、運動がよくできて、性格も温厚明朗快活でリーダーシップを発揮していた。お父上は、親心で大学まで自動で行ける有名私立校を敢えて避け、君を区立小学校に入れたそうだ。勿論理由はわかるね。ここには君の素晴らしいエピソードがたくさんある。中でも俺が注目したのは、給食の話だ。君はみんなと食べる給食が大好きだった。特にカレーライスな 」

 有作はまるで親戚の叔父さんのように、温かな笑顔を向けた。紀吏仁はそこまで遡る必要がどこにあるのか戸惑ったが、それを悟られないように話に乗ることにした。まるで幼少期のアルバムを見られているような気恥しさを感じる。

「ええ、そうです。友達と協力して準備をして、みんなでワイワイしながら食べるということが新鮮で楽しかった。それに、家であんなカレーライスを食べたことがなかったからです。多分当時最高に楽しかったし大好きでした。

 当時私は、こんな旨いもの食ったことないと言うと、みんな興味を示して、じゃ家で何食ってんだと聞かれ、メニューを言ったら、豪華すぎるとドン引きされたことを衝撃とともに覚えています。多分これが私の貧富格差の原初の体験だったと、あなたはこれに注目したのだと思います 」

「いや。少し違う。君はそれからというもの、家の料理人にクラスメイトと同じものが食べたいと言って困らせたそうだね。それから、貧しい五人兄弟の友達が、おやつは週に一回くらいしかなくて、待望のおやつはいつも一房のバナナで、それを一本ずつ弟や妹に与え、自分はなかなか一本にありつけないと聞くと、おやつやデザートにバナナ一本の半分でいいと言ったそうじゃないか。

 俺がここで言いたいのは、君は心が優しいだけでなく感受性がとても強くて、貧富格差に驚き、クラスメイトを思いやるあまりに、みんなに自分を合わせようとしたところだよ。金持ちや有力者の倅ってやつは、たいていそれを笠に着てふんぞり返るもんだが、君はいじらしい子だな。まったく 」

「私自身も忘れていたような話ですね。多分父から聞いたのだと思いますが、それについては付け加えたいことがあります。友達はあれから親に何か言われたのでしょうか、露骨に態度がよそよそしくなった子がいました。具体的には、ドッジボールや鬼ごっこをやっても狙われることがなくなりました。これじゃ全然面白くない。私は自分の家庭環境に、徐々に居心地の悪さを感じていたのです 」

 有作は紀吏仁の話を真剣に聞き、その子供らしい話に柔らかい笑みを浮かべていた。紀吏仁は有作と話をするうちに、徐々に警戒や緊張が解けていき、信頼できる人物に出会えたような気がしてきた。

「なるほど。それでも君は何とかしてそれを克服して、クラスメイトとうまくやっていけるようになったんだろ。そこが君の素晴らしいところだ。俺も君の話を聞いて、子供だった頃を思い出しちゃってさ、話してもいいかい? 」

「ええ、どうぞ 」

「俺は君より四つか五つ下になるのかな。場所も田舎だから共感できないかもしれないんだけどね。まぁ聞いてくれ。俺の家は床屋でさ、母親がせっせと稼いで父親が飲んだくれだった。それでも日銭が入るから、普通並の家庭だったと思う。クラスには金持ちや有力者の倅がいたけど、嫌な奴らだったよ。

 小学三四年ぐらいから、みんなキャラクターが立ってくるよね。そして約四十人の世界ができる。その中ではまず。何となく気の合う子が自然に集まり、いわゆる仲良しグループが生まれる。それと同時に、お互いがそれぞれを認知し合うことで、序列みたいなものが出来上がるんだ。例えば、見た目可愛いらしい子やそうでもない子、性格が温和な子や我儘な子。けんかが強い子や弱い子、いざこざを避ける子。勉強がよくできる子やそうでもない子。足が速い子や遅い子など、外見・性格・能力の三つの総合で、まったく無意識のうちにランク付けが出来上がるんだ。それをお互いが認知し合って自分の位置をはかり、他の子の位置を見ているんだ。

 勿論子供は日々成長するから、そんなランクの差なんてものは小さいもので常に変わるのだが、一年という長い期間で見るとその差は大きくなる。しかし子供達にとってみれば、時間という概念はまだ希薄で、いつの間にか自分はあいつより上になったとか下になったという序列の変化に気づかされるんだ。

 当時は俺も時間の概念なんてものは持ってなくて、毎日元気で楽しけりゃいいやくらいにしか思ってなかった。そして外見、性格、能力が同じ位の子が集まってグループができ、全体を俯瞰すると、上位(約十人)、中位(二十人)、下位(十人)のグループに分かれたんだよね。これは自然にできたもので、先生の意向や親の家庭環境は関係なかったんだ。多分今考えると、みんな自分がわからないから、学校の授業や運動の教育を受け、テストの結果で、比較し自分や他の子の位置を認知していたんじゃないかな。そんな中で俺は上位ランクに位置していたと思う。

 そして、上位グループがクラスの主導権を握り、中位・下位グループを支配する構図ができたんだ。こうして言葉にすると恐怖政治を連想させて物騒な感じがするんだが、勿論そんなもんじゃなくて、学級委員長や重要な役割はほとんど上位グループから選出されて、学校への発言力や中位・下位グループへの指導力は増していたな。彼らだって、面倒くせいから、あいつら(上位グループ)にやらせとけって感じで、一応クラスがまとまってたんだ。こういったことは、クラス替えがあっても、学年が上がっても同じようなグループができていたな。

 ところがさ、これじゃ平等じゃないって叫ぶ子が出てきた。そいつは上位グループに憧れて、何とか俺たちのグループに入りたいと熱望して取りいってきたんだ。だけど気持ち悪がられるばかりでさ、陰で笑いものになるだけだった。その子がそれを知ると、ますます熱くなって文句言ってきてね、これだけこじれると、そんな子とは仲良くやっていけないとなったんだ。当然だよな。

 しかしだ、子供の発育の過程で努力と鍛練が加わって、外見・性格・能力が急速に伸びた子が出てきて、みんながそれを認知し、自然に上位グループに加わる子が出てきたんだ。もともとこういうグループ分けに明確な基準はないから、急速に伸びてきた子と上位グループが、自然に気が合うようになるんだな。それまで早生まれで発育が他の子よりも早かっただけで上位グループにいた子は、小学五六年にもなると勉強や運動のレベルが上がって、努力と鍛練を怠るとどんどん置いて行かれることを知るんだ。あいつは落ちた、こいつは上がってきたとかグループ内での変動について話題になったもんだ。俺は四月下旬の生まれだったから早生まれで、気が付いたら上位グループにいて、他の子がどんどん伸びて、それに負けまいと努力や鍛練を積んで上位グループの位置を維持し、新たに伸びてきた子を迎えたもんだ。

 一方で、俺たちの上位グループを熱望する子はというと、決して入ることはなかった。その理由は、文句ばかりつけて、肝心の三条件がちっとも伸びてこないからだ。たとえ三条件が伸びたとしても、平等じゃないと批判しながらむりくりグループに入ったところで、グループの一員であるという一体感は得られないだろう。もともとはただの仲良しグループなんだからね。ある子がその子について、ぎゃあぎゃあ言ってないで、頑張ればいいのにと言ったのには心底同意したもんだ。

 それで俺は気がついたんだ。なにを望んでもいいんだが、それが手に入るものかどうかを考えるべきだと。彼は下位グループから上位グループを見て、クラスをまとめるバンドみたいなものが輝いて見えたんだろうが、それを平等じゃない、差別的だと文句をつけて上位にいれてといったところで、入れるわけがないから手段が間違っている。これでは求めたものも、手段も間違っていたから失敗した。俺は子供ながらに、求めるものを明確にして、それを得る為の手段を間違えないようにしようと心に決めたんだよ。

 そして三要素が伸びてきた子の中には、上位グループに入らない子も出てきた。別に上位グループに入りたくて頑張ったわけじゃないと言われれば、それはそうだということだな。こうして互いを認めつつ、二つに割れて派閥みたいなものができたんだ。まったくの自然にね。だからといって互いにいがみ合うことはない。互いに勉強や運動に励み、更に高め合えばいいことだからね、でもドッジボールやソフトボール、サッカーとかのゲームになると、ことごとく別れて勝負したね。

 勿論クラス対抗でも、俺は勝つことを目標にしてメンバーと団結し、みんなに役割を与えて作戦を立て、自主練習を重ねてことごとく勝った。どうせやるなら勝った方が気分いいじゃないか。負けてもそこからどうすればよいかを真剣に話し合って練習し、作戦を実行して勝つことに拘った。ただの子供のゲームなんだから、大したレベルじゃないんだけど、それでも団結して勝てばみんな気分がいいし、俺は活躍した子を褒めた。褒められると嬉しくなって更に励んで実力以上の力をだしてくれて友情の絆というべきものが得られたね。あれは純粋に楽しかった。多分俺にはそういう能力があるんだろう。だから学校生活は充実して面白かったよ 」

 有作は長い話に紀吏仁が飽きないように、身振り手振りを入れ、表情をくるくるかえて、声に抑揚をつけて語った。紀吏仁は有作の配慮を理解して面白そうに聞いていた。

「なるほど。つまり知事は、格差は家庭環境だけでなく、子供の世界でも自然発生し、似たもの同士がグループをつくり、更にグループ間格差がおこるというわけですね。馬は馬連れといいますが、私にも思い当たることが幾つかあります。

 それに欲しいものを得る為には、何をするべきなのか、欲しがるだけではダメで、手に入れる為の手段は案外違うところにある。といくだりは興味深かった。まるで何かのセミナーのようでした 」と紀吏仁は両手を頭の上で組んで笑った。

「俺もセミナー講師になれるかな。そいつはとっておくとして、君の話だ。君はそれから社会主義に興味を持ったようだね。代々自由民政党の議員をつとめる家系なのにさ、君が三世議員として出馬しなかった理由は多分そこにあるのだろう。君は色々と勉強して過去に同じような理想の実現に燃えて、活動した国々の経緯を知る。勿論国内の連合赤軍や日本赤軍も含めてね。そして友人と議論をすすめていたね 」

「はい。世の中の貧富の格差をなくすために、色々と研究していたことは認めます。その過程で社会主義に興味を持ち、カンボジア問題やソ連の崩壊原因を調べ、資本主義と民主主義の関係も徹底的に点検しました 」

「それで、なにを得たのかな。簡単でいいから聞かせてくれないか 」

 有作は、又興味深そうに紀吏仁に笑いかけた。

「わかりました。あくまでも個人の見解なので、少し恥ずかしさがありますが、お話しましょう。資本主義や社会主義は、人類が繁栄して暮らしていく方法の実験だというところから始めます。かつてはそれが西と東の陣営に割れて対立し、お互い問題があれば修正を加えていましたが、先に崩壊したのがソ連でした。その原因をググッとまとめると、計画された農業や経済の虚飾された数値報告と乖離した実態値の帳尻合わせが、遂に破綻して本当に食べていけなくなったからです。西側は高らかに勝利宣言しましたが、実際は問題を先送りにして借金を重ね、その場を凌いでいるだけですから、それぞれに一長一短があり、どっちもどっちという印象を持ちました。実は社会主義の国は他にもあって、農業を中心にして今も平和に暮らしているケースもあるのです。

 それで私は、大学生の時に、社会主義と資本主義は対立するのではなく、融合すべきであると結論しました。経済は資本主義で、民の思想は社会主義で、互いに助け合えばよいというわけです。その采配を政治家や役人が担うのです。例えば高額所得者を社会的強者と認めての税を増やし、低所得で自立生活ができない者を社会的弱者としてそれを保護する福祉に回していけばよいのです。などと思索を重ねていくうちに、日本の戦後政治形態は、それほど悪いものではないことが見えてきたのです。

 ところが、政治家と役人がいけない。彼らは本分を忘れて税金を食い物にしている。そして、いわゆる政治とカネの問題を繰り返すということは、結局権力を持った者は腐敗するということです。私はこれが弱点だと気づき、真にお互いに助け合う社会を実現するためには、革命的な改革に出るべきであるという考えに至ったのです 」

「それで人工知能か…… 」

 有作は紀吏仁の話を、コーヒーが入ったマグカップを片手に、リラックスした状態で聞いていたが、この瞬間に絶妙な合いの手のように言った。

「な、なぜそれを知っているのですか 」

 紀吏仁は有作の一語に驚いた。彼としては、胸中の信条を吐露したまでと締めくくろうとしていただけに不意を突かれ、思わず行動に移していることを認めてしまうような言葉を返してしまった。有作はこれを逃さず、食べた渋柿が思いのほかまだ渋かった時のような苦笑を浮かべた。

「君は本当に覚えてないようだね。いちいち驚かれてもアレだから言っちゃうけど、実は君はここに来てからすぐに洗いざらい喋っているんだよ。だから俺はもう全部知ってるわけ。もう小芝居してトボケなくていいから 」

 紀吏仁はそう言われて、漸く記憶欠落の合点がいった。おそらく彼らは薬や催眠術を使って証言させ、最後にこのことは一切忘れるようになどと暗示をかけて再び眠らせたのだ。だからもう怒髪天との関わりはおろか、今後の計画などは既に御見通しというわけで、怒髪天壊滅作戦も十分に立てられるというものだ。その上で自分を保護するとは、その真意がわからなかった。

「だったらこの議論は、なんの意味があるんですか? 」

「まぁまぁ。俺は警察でも公安でもないんだ。だから君をしょっぴくつもりはさらさらないんだよ。君は才覚のある素晴らしい男だ。それは認める。だからこんなつまらないことで死なせるのは惜しいと思ってるんだよ。名門二階堂家の一人息子であれば、なおさらだね。俺は君に考え直して欲しいと思っているから、こうして話をしているんだよ。

 君が何を感じて考えようが自由だよ。だけど今回はそれに幸か不幸か金と人が集まってしまった。それで単なる構想だったものが実際に動き出したわけだ。

 国民に番号とIDをふって巨大なデータベースに個人情報と記録をぶち込み、ネットワークで管理して人工知能に政治をやらせて役人を管理執行者にするなんざ、あまりの突飛さに総務大臣がぶったまげてたよ。確かにこれで腐敗は無くなるよな。完全にね 」

 有作は可笑しそうに笑いながらコーヒーを飲んで話を続けた。

「その人工知能、Government (統治機関)を略してGOV(ゴヴ) ってのはインターネット上の情報で毎時もの凄い速度で学習して進化してるんだって?その手始めに天誅のマネジメントをやらせてみたら見事な結果を出した。ところが警察にウチのサイゴーとチバが参加してから状況が変わった。SPは警察の対応とはちょいと違うからね。彼らは怒髪天の参謀は相当なキレモノと報告していたが、人工知能が指揮してるんなら納得だ。

 君はそんな人工知能GOVに、実際に政治をやらせたら具体的に何をするのか、シミュレーションしたことがあるのかい? 」

「いえ、まだありませんが…… 」

「俺さ、興味があってシミュレーションやらせてみたんだよ。ウチのハッカーがシステムに侵入して君のIDとパスワードを使ってね。するとGOVは淡々と答えてくれたよ。君が知らないんじゃ、ざっくり説明するよ。

 日本国民の三大義務って知ってるよね。勤労・納税・施教育だ。GOVはこれを怠る国民は、憲法違反だと規定している。憲法に違反している者は、憲法で保障するところの基本的人権は無視するんだって。つまり、働かない者・脱税者・子に教育を受けさせない親は原則死刑。病気や怪我で働けない者は治るまで執行を猶予され、治る見込みがなければ、来世に期待となる。これは生まれ変わって出直しなさいということらしい。

 GOVは宗教を取り入れ、死刑という言葉を変えて「あの世行き」と「来世に期待」と規定し、絞首刑ではなく、全く苦痛を感じさせずに眠るように死ぬ薬を飲ませるという。つまり安楽死だ。そしてこの方法によって死んだ者の魂は。必ず極楽浄土、又は天国に行き、必ず生まれ変わると規定して、事前に希望する者は国立墓地に祭るそうだ。

 それで税金による生活保護者や高齢者は、全員あの世行きの対象になるが、幼い子供を扶養している場合は、成人するまで生活を完全保護する特例を設けている。GOVはこの世を三次元、あの世を別次元と明確に認知していて、三次元で自立生活して納税できない者や扶養者がいない者は、全員あの世行きになる。

 GOVは国民・法人全ての収支を監視しているから、税金はいわゆる天引きだ。だって誰がいつどこで収入を幾ら得て、どこでいくら金を使ったのか、それによってどこに金が幾ら行ったのかという流れを日々完全に把握しているから、タンスのへそくりまで御見通しなんだ。脱税は即座に摘発して税金+追徴金を強制的に口座から引き落とすのさ。現金の場合はGメンが強制徴収する。

 GOVは戸籍情報も管理しているから、子に教育を受けさせないとか虐待する親を直ぐに摘発して天国に送り込む。そして子供の性格や能力・成績まで管理しているので、優秀な子供は、無金利の奨学金を出して高等教育を受けさせる。

 こうして高齢人口を削減して若返らせ、税金を不正に使う者を徹底的に間引くのだ。更に国家予算も一般と特別会計を認めない。特殊法人も認めない。これでは、いわゆる天下りは消滅し、官僚にはかなり厳しいな。又役人や政治家の収支も監視しているから、少しでもおかしな買い物や飲食・贈与があれば直ぐに摘発する。その後はあの世行きだ。役人や政治家など代わりは幾らでもいて、余人をもって代えがたいということはない。

 これで膨れ上がる一方だった社会保障費を圧縮し、取れる税金をしっかり取って集めた莫大な予算で借金を返しながら、未来ある子供や若者を保護するそうだ。どうやら限りある予算で弱者を救うならば、老人よりも将来の納税者への投資を選んだようだな 」

 有作の言葉はやや怒気を含んで厳しく、重く、凄みがあり、漆黒の瞳で紀吏仁を見すえていた。すると、紀吏仁の背中からゆらゆらと陽炎のようなものが立ち上ってきた様に見えた。有作は目を反らさないまま、彼が何を言うのか待った。彼はすっと立ち上がると語り始めた。

「知事。まったく素晴らしい結果じゃありませんか。これこそがGOVの真骨頂です。吐き気がする政治・行政の腐敗を一掃し。財政問題や高齢者問題を一挙に快方に導き、若者を育て、未来に期待が持てる社会を創生する第一歩なのです。そして、甘い見通しで問題を先送りにしてきた者への復讐でもあるのです。あなたならわかってもらえると思うんですがね 」

 紀吏仁の目はギラギラと光り、唇の端が鋭角に吊り上っていた。その異様な表情に相応しい、刺さってきそうな言葉を有作は黙って受け止めた。彼はまるで有作に同意を得ようとするかのように更に言葉を続ける。

「私は子供の頃の純粋な気持ちで考えたことは、尊く且つ真理だと思います。戦争を嫌い、平和を願いながら、貧富の格差を無くし、困っている人をみんなで助け合う世の中をつくろうと決めたことに悔いはありません。

 しかし、高齢者問題と巨額な財政赤字が、あまりにも厚い壁なのです。この壁は人の弱さや欲がつくりだしたもの。だから人には到底乗り越えられないと悟ったのです。この局面を打開するには、敢えて淘汰が必要だと結論しました!

 当然多くの人が死にます。人工知能はそれを躊躇しない。輝かしい未来に不可欠の死なのです。私はその目標を達するために生じる、人間的な感情を捨てました。例えば明治維新では、多くの民が死にました。真の武士であるものほど死に、そうでないものが生き残って時代が変わったのです。大東亜戦争では更に多くの民が死にました。そして真の軍人ほど死に、そうでないものが生き残って現代をつくってきたのです。これを淘汰であると思います。戦後六十年の平成の世にあって、今再びの淘汰が必要なのです 」

 紀吏仁は烈火のごとく論じ、やがて有作の心を激しく揺さぶって喝采を浴びるはずと正面から彼を見た。

「話はわかった。他に言いたいことはないか 」

 有作は紀吏仁の勢いを切断するように言うと、彼は困惑の表情で固まった。

「もっと想像力を働かせろよ。GOVのおかげで天国へ行った魂の抜け殻の焼却で、全国の火葬場は連日フル稼働だ。さすがは人工知能、社会的影響や反響を一切考えず血も涙もないな。冗談はさておき、こんなものは政策ではない。革命にも程遠い、ただの与太話で究極のやっつけ仕事だ。酒場じゃ盛り上がるだろうけど、選挙じゃ一票も取れないよ。今すぐGOVの電源を切ってシステムを破壊するべきだ。君がやらないのなら、俺がやってやるよ。

 GOVの世界は、人間のものではない。超管理されたエリアに人みたいな生き物が住んで、働いて税金払って、子供を増やして歳を取ったらあの世行き。この繰り返しだ。

 まったくつまらん。これじゃ馬牛羊の家畜と同じだ。きっと海外に移住する者が続出するだろうな。それを制限するのかい?そんなことをしたら自由じゃないじゃないか。十年前ならつまらんSF話だったが、今じゃコンピューターが発達したおかげで、妙に説得力が出てきたから、ハッキリしとこう。俺は断固として容認しない。

 大体子供の頃から格差の芽はあるんだよ。平等にするってのは、人為的な手が入ることで、ある程度は必要だが、度が過ぎればエライことになる。たかが人工知能が全国民を監視して、過度な人口削減するのが気に入らねえ。自由と平等は並立が難しいんだ。それをあっさり人工知能に任せやがって、こんなのは人間の政治じゃないんだよ。少なくとも、自分で責任持ってやれ!君は日本人をまだ知らないようだ。こんなことをすれば、すぐにあちこちで暴動が起こって戦国時代になるぞ。君らが何を主張しようと、あっという間に磨り潰されてミンチになって終わりだ。

 君は観念的になって突き詰め過ぎたんだ。だから大事なものを見失う。今まで誰からも忠告されなかったのかい。義理人情・情愛を忘れるなと……君は、それを自ら捨ててしまったという。いつ捨てたのか知らんが、その時から君は人の理想社会を実現させる資格を失ったんだよ。人は誰も死にたくないんだ。理由は単純かもしれんが、生きているからだ。どんなに苦しんで、悩んで、辛くっても、それでも生きたいんだ。それを邪魔する奴は敵なんだ。そんなことを理解しないGOVは、やがてエスカレートして、義務を果たしていても、GOVに不満を持っている者にまで、これを飲んで天国に行こうなんて言いだすに決まっている 」

 紀吏仁はこれまで、他人にここまで批難されたことはなかった。そして反論もできなかった。自分の理想社会の欠陥がわかってしまったからだ。自信とプライドが崩れるとは、こういうことなのかと実感した。そして信頼していた人工知能GOVが、自分の期待通りの回答を示したにもかかわらず、これほどの批難を受けたこともショックだった。自分が理想を実現させようと夢中になって構築してきた計画は、多くの同志と資金が集まり、現代科学を活用した画期的な大発明とまで思い込んでいただけに、その未来が殆ど真逆のものになろうとは。一体なんだったのかと自問しないわけにはいかなかった。ぞくぞくと悪寒がしてきて、息が苦しくなり、身体から力が抜けていく。漸くカップを持ってコーヒーを飲んだが、喉がカラカラの上に強いカフェインにむせてしまった。

「そろそろ目を覚ませよキリヒト。もう、無理だ。そして俺が容認できないことがもう一つある。君ら怒髪天は、日本の首脳を人工知能に挿げ替える計画を実行するために、ある国から核爆弾を買い付けて、横浜の港から密輸して東京に据え付け、同胞である国民を脅してGOVに政治もどきを強引にやらせようとしている…… 」

 紀吏仁はこれを聞いても、驚きはしなかった。本当に自分が洗いざらい喋ってしまい、すっかり露見しているのだ。ただ放心状態で有作を見つめることしかできなかった。

「CIAが調査して裏付けがとれたよ。さすがにこれには、俺もたまげたね。君は本当に坊ちゃんなんだね。そんなことして日本が危ないと思わないのかい。俺だったら、核爆弾を東京に据えたら、GOVの電源を切って、君らを穴だらけにしてから東京を乗っ取るね 」

「それは無いです。我々だってそれくらいは想定して、契約は、設置後速やかに帰ってもらう事項を確認して契約を締結している。それにGOVだってこれからソフトに修正を加えれば、きっともっと良くなるはずだ。これまで天誅のマネジメントをやらせていたからかもしれない。そもそもこれは国民の義務を果たしている人々には、なんら影響は無いんだから、全く心配することはないのです 」

 この時の紀吏仁の顔は確信に満ちた顔で、有作を強く否定し反論に出た。

「どうやら君はファーストクラス(第一級)の坊ちゃんなんだね。そんな契約書は多分ケツでも拭かれて終わりだよ。その時になってわかっても遅いんだ。そんなこともわからないんじゃ話の他だ。仮にその外人さんが契約通りに帰ってくれたとしてもだ。次には君らの理想社会てのが始まる。義務を果たしている人は影響無いだと?あんたにとっちゃ長年の夢が実現して嬉しいかしらんが、義務を果たさないからって摘発されて毎日何万という国民が合法的に殺される社会なんて、薄ら気味悪いんだよ。おまけに核で脅してくりゃ、なんだおまえらとなる。日本中を敵に回して理想社会か。

 みんな東京から出て行くから、君らだけで核と一緒に暮らすんだな。人によっては首都占領テロだって恐怖に慄いて相手になってくれるかもしれんが、俺が指揮して全員東京から出てもらって後は完全に無視する。コーヒー一杯出すもんか。それで君らは何をしにきたかわからなくなる。やけになって自爆でもするか?君らは理想社会を夢見て行動した結果、東京を壊滅させるんだ。おかしいと思わないのか?どうにも実現のための手段が御粗末過ぎる。おまけに肝心なところは、人工知能や外国頼みで結局他人任せじゃないか。情けねぇな 」

 有作は呆れた表情で、とうとう吐き捨てるように言った。紀吏仁はまるで稲妻に撃たれたかのような衝撃を受けた。「他人任せ 」「情けねぇな 」という指摘が最も効いた。気がつくと頭から汗が噴き出て、それが顎から滴り落ちていた。

 幼いころから理想社会実現に思索を重ね、辛いことになることを想定して人間的な感情を無理に押し殺し、そうすることが修行のように思えて推し進め、人間が統治すると腐敗するから人工知能に代えよう。その為の演習として天誅マネジメントをやらせてみた結果は良好。東京に核爆弾を据え付ければ、日本人の目が覚めて革命的改革は成功するだろう。という考えに辿りついて、組織の中では揺るぎない大成果として評価され、まさに天にも手がつきそうなくらいの絶頂感を味わい、自信を持っていた。目の前の鈴木有作などは、自分の崇高な戦略を知って大いに畏怖し平伏すに違いないと確信していた。なのに結果は、とんでもないものだと気づかされ、わかってもらえないもどかしさに全身から脂汗を噴き出して鳥肌を立てている。次の瞬間、有作が子供の頃の話をした理由がわかり、完膚なきまでに打ち倒されたことを認めざるをえなかった。彼はたまらず叫び声をあげた。

「……私は今まで、こんな思いをしたのは初めてです。もっと早く、誰かから指摘を受けるべきでした。我々が日本中を敵に回し無視され、東京を壊滅するなど、考えもしませんでした。たしかに東京に核爆弾を据え付けた後、外国に乗っ取られたらと思うと、取り返しのつかないことになってしまいます。私は、とんでもないことを…… 」

 その声は力なく、両肩はだらりと下がった。今は有作の存在がとても大きく見えた。これが政治家の凄みというものかと身に沁みた。紀吏仁の身体は、塩を浴びた蛞蝓のようにみるみる小さくなり、どうなることかと思えるほどの長い沈黙を有作が破った。

「だがまあ、わかってくれたんなら、君と話せて良かったよ。そして間に合ってよかった。核爆弾は、こちらでキャンセルしておいたよ。勿論騒ぎになって何人か犠牲が出たが、東京が乗っ取られて、最悪壊滅するよりははるかにましだ。先方さんはね、あまりに旨い話だったんで、CIAの囮捜査じゃないかと疑っていて、残念だが黒幕には手が届かなかったよ。後は怒髪天の壊滅だ。これは心配いらないさ 」

 有作は親戚の叔父さんのような、逞しくて優しい眼差しを紀吏仁に向けた。


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