ST署襲撃さる
16章
翌日も千葉と篠田警部は、ポルシェ(カエル君)で昨日と同じ聞き込み捜査を行う。篠田警部のシートの後ろには、昨日の測定データに基づいて用意したフルフェイスの黒いヘルメットが、マジックテープで固定されていた。千葉はそれを取り出し彼女に被らせ、天辺に固定されたストラップをシートの上部分に連結して彼女の頭を前後左右に振って、不自然に首が曲がった時にしっかり止まることを確認して満足した。そして彼女にこれが首の骨を守るために必要な物だと十分に説明して納得してもらうと、快晴の中でカエル君を静かに発進させた。
今日はまだ手を付けていなかったダウンタウンの聞き込みをしてみたが、有力な情報を得ることはなかった。東京は狭いが一千万人を超える人間が暮らしているのだから、聞き込みの相手に困ることはない。中には他の犯罪に手を染めているのではないかと思われる人も見かけるが、今回はそれを追及してはならない。
「ねえ、千葉君 」
「なんでしょう 」
「今日こそは何か掴みましょうね 」
「賛成です 」
「あれ?『承知』じゃないの 」
「ここは『賛成』が妥当かと 」
「冗談よ。ところで西郷さんと引継ぎをしたの? 」
「ざっとですけど…… 」
「あなたは怒髪天をどう思う? 」
「僕は政治が絡んでいると思いますね 」
「政治。思想じゃなくて? 」
「ああ、西郷さんの言う思念てやつですね。確かにあると思いますよ。でもそれは、同じ考えを持つ者が集まるプロセスについて説明しているのだと思います。でもね、彼らが集まってどうするかですよ。今は天誅とかなんとかをやってますが、それは最終形ではないと考えるべきです。もっと大きな目的があるはずです。西郷さんは東京を乗っ取るみたいな大胆説を唱えていましたが、それくらいのレベルです。
僕は彼らが使う銃器や爆弾のレベルの高さに注目しますね。そんじょそこらの過激な集団では、到底手に入らないものばかりですよ。彼らはどこからそれを手に入れているんでしょうね。その辺を捜査してますか? 」
千葉はサングラスをかけて、軽くハンドルを握ってゆったりと運転しながら語った。千葉にそう言われて警部は初めて気がついたように、「そう言われてみると、入手ルートの捜査をしているはずだけど、情報が上がってこないわね 」と応えた。
「それは案外、警察がさわれないところなんじゃないですか。それに起爆装置に高度な技術が使われています。積算起爆装置などは多分独自に作ったものでしょう。北岡刑事部長の失踪原因がうやむやで、現職に復帰してもあのやつれようだし、一体何があったんだと考えるべきでしょうね……。それにSPの投入です。これは政治が動いているに違いないです。僕は最初、東京に行ってくれないかと言われて驚きました 」
千葉は左手を軽く振りながら、警部に「よく考えたらわかるでしょ 」と思わせぶりに言ったのだが、彼女にはさっぱり伝わらなかった。
「あ、そうだ忘れてた! 」
「何をです? 」
「実はね、捜査とは関係ないんだけど、妹の麗子が千葉君にお弁当を作ってきたの。それで食べてもらえないかと…… 」
「こ、このタイミングで弁当ですか 」
「ごめんなさい。確かにおかしいんだけど。思い出しちゃったんだもの 」
「それは、かまいませんが、でもなぜ? 」
千葉としては当然の質問を警部に投げかけた。警部は言うかやめようか迷った様子だったが、結局話しはじめた。その顔は妹を案ずる姉のものであった。
「あの子は昔から、ちょっと夢見がちなところがあってね。負けず嫌いで、何かとあたしの真似をして張り合ってきたものよ。でも子供の頃って歳の差があるから勝てっこないのに、それでも向かってきてよくケンカしたわ。今でも口喧嘩するけど、でもやっぱり可愛い妹なのよね。
それで、八王子事件で西郷さんに助けていただいたことをすっごい羨ましがってね。『あたしも誰かに命助けて欲しい 』て、バカみたいでしょ。だけどなんかわかるのよね。女も三十過ぎたら、気持ちを抑えられないとこがあって、あたしもそれで西郷さんにグラッときたわ。あ~言っちゃった~。西郷さんには絶対内緒よ。それでね、あたしは色んな思いを込めて西郷さんに毎日お弁当作ったの。なんにも報われることはないとわかっていても、やらずにはいられなかったのよ。そしたらあの子ったらそれも羨ましがってね。『あたしも命の恩人にお弁当作ってあげるの 』だって 」
警部の言葉にはバカでしょうと言いながらも、そんな妹をしっかりと受け止めている感じが千葉に伝わった。
「僕は妹さんの命の恩人ではないですが、その思いの相手が他にいないということですか? 」
千葉はわけのわからないことに出くわしたように、迷惑ではないが感じた奇妙さを警部に伝えた。彼女は笑ってそれを受け入れ、妹はきっとあなたに好意を持ったのよと伝え、迷惑でなければ、好きにさせてやってくれないかと押してきた。千葉は、しかし署に戻れば聞き込みが滞りますと言うと、いいのいいの、どうせ収穫無しなんだから、と言ったので、千葉は承知してカエル君を署に向けた。
ST署は地上七階地下二階のビルで、千葉は警察車両を停めるところにカエル君を停めて署内に向かった。昼時の警察署はどこでも、署員が昼食をとって同僚と雑談を交わしたりするので、わずかに緊張が緩む。篠田麗子主任の交通課は、入ってすぐ右手のカウンターで区切られたフロアの一角にある。窓から一般の駐車場が見えるし、その奥に警察車両も見通せる。そして署に入ってくる者もパッと見ることができる位置にいた。麗子が入ってくる千葉を見とめると、よく懐いた犬のように走り寄り、最高の笑顔で手作り弁当を手渡した。低い身長を仕草で可愛らしさに見せ、スカートを三センチたくし上げ、胸元のボタンを開けていた。髪は栗色で立て巻きカールでゴージャスに、そして小顔に見せていた。メイクは白をベースにしていたが、こみ上げる興奮が頬を紅潮させ、瞳を大きくするカラーコンタクトと、増量したマスカラが目を大きくキラキラに、陰影と錯覚を利用して実際よりも鼻を高く、唇は光沢のある口紅を上手に厚塗りしてつやつやに見せていた。麗子は昼前に相当の時間と手間をかけてメイクを施し、この瞬間のために自分の最高の姿を千葉に届けた。彼女の演出は成功し、千葉は右手でサングラスを外して弁当箱を受け取ると、麗子としっかり目を合わせて自然な笑顔で、「ありがとう。上で美味しくいただきます 」と言うと、麗子は感激して自分が何と返答したのか記憶が飛んでしまった。足音も無く通り過ぎて階段を警部と上がってゆく姿を見送る姿は、傍から見ていると滑稽であったが、彼女はそれを全く気にしない様子で、満ち足りた気分で夢を見ているような顔で席に戻った。
千葉は彼女の弁当を開けてきちんと両手を合わせ「麗子さん、いただきます 」と言って、本当に美味しそうに食べ始めた。その顔は至福を伝える表現としては最高のもので、いつもクールな顔とのギャップに警部も見とれたほどだった。
「西郷さんもそうだったけど、SPの人ってどうしてここまで、なんでもないことで人を惹きつけるのかしら 」と内心で呟いた。この表情を妹にも見せてやりたいと思いながら。自分も弁当にパクついた時、ふいに立て続けの銃声と、耳に響く悲鳴が千葉の至福の時を引き裂いた。
「な、なんですか?こんな時に。訓練ですか? 」
「こんな訓練があるなんて全然聞いてないわ 」
「それじゃ本物?自動小銃の連射ですよ、あれ 」
警部は何度も無言で頷いた。千葉はサッと動いて消灯し、ドアの内から鍵をかけて外の気配を窺った。少なくとも五人以上の軍用ブーツの音が次々に階段を上がっていく中で、三人ほどの靴音が二階の廊下に出て、明かりのついているところに飛び込んでいった気配がした。恫喝が聞こえるが、銃声は聞こえてこない。悲鳴も聞こえてこないのは、脅して拘束しているのか?千葉は微かに聞こえる声と物音と気配で予想した。その恫喝の言葉が日本人による日本語だったので、千葉は少し安堵した。日本の正規軍が警察署を襲うわけがないので、彼らは実戦経験のない素人以上で兵士未満と判断した。となれば、戦闘能力や射撃レベルも大したことはないだろう。二人がいるこの部屋は既に消灯して鍵をしているので、無人と判断したらしく、足音は遠ざかって行った。
「これで一階と二階を制圧したということか。きっと上の階でも同じようなことをやるのでしょう。大人しくしていれば危害を加える気はないようです。警部、二つに一つです。ここでジッとしていればまず安全です。それとも、うって出ますか? 」
千葉は冷静に小声で問いかけた。彼女は少し考え「一階の妹が心配なのよ。それに、これから何をしでかすのかわかったもんじゃないわ。出ましょう 」
「承知 」
千葉は遠くの方で物音と悲鳴、恫喝と散発銃声が響く中で、静かにドアを開けて素早く左右上下を見渡した。「大丈夫。誰もいません 」とドアの外に出ると、彼女は「麗子 」と呟き、ヒールをカツカツ響かせ階段に向かって走って行った。
「そういう大丈夫じゃなくて…… 」と呟いて小走りに追っていたところに、彼女が階段を上がってきた賊の三人と鉢合わせになった。彼女は驚いて反射的に背を向け、同時に耳を塞いでしゃがみこんでしまう前に、その三人は頭を撃たれてどさどさと倒れ込んだ。
「危ない 」と言う間は無い。千葉はその鉢合わせを見た瞬間に、右手を走らせコルト・パイソン有作スペッシャルを抜き出すと、腰の位置から人差し指でトリガーを引いたまま、左手の平でハンマーを高速で三回弾いた。「パパパッグオォォンンン 」という全身に響く銃声が反響する中で、三人は小銃を構える間もなく頭を撃ち抜かれた。彼女は再び357マグナムの銃声と衝撃波を立て続けに聞かされた。
これはファニングという射撃方法で、県知事鈴木有作が千葉に特製パイソンを授けて撃ち方を指導したもので、真剣に三週間をかけて訓練を積み、やっと身につけたものだった。彼はしゃがみこんで両手で耳を塞いだままの警部に駆け寄って肩に手をやって言った。
「警部。ダメじゃないですか、勝手に走っちゃ 」
「今誰が撃ったの? 」
「僕ですよ 」
「ウソ 」
彼は既に銃をホルスターにおさめて涼し気な顔をしていたので、とても信じることが出来なかった。
この反撃の銃声に驚いたのは一階を制圧した賊の方で、リーダー格の男が様子を見て来いと、更に二人の賊を差し向けた。彼らは階段を慎重に上がって来て、一階と二階の間の踊り場で不用意に顔を出した瞬間に撃たれた。床に腰を降ろして背中を壁につけた状態の千葉が、ダブルアクションで撃ったのだ。
「警部、僕は補弾するから、援護射撃して下さい 」
「ええーだってあたしーまだ 」
「ぐだぐだ言ってないでやりなさい! 」
「はいっ 」警部ははじかれたように、慌てて懐のニューナンブM60を、焼けた炭でも持つような危なっかしい手つきで取り出し、階段下に向けてやみくもに二発撃ったので、千葉が「どうどう 」と止めた。
「敵は下と上にいます、多分十人以上。無駄撃ちは禁物です。足音が近づいて来たら撃つんです 」
千葉がアドヴァイスすると、警部は小刻みに頷いて銃口を上と下に向けて警戒を始めた。その間にスピードローダーで素早く補弾すると、コルトをホルスターにおさめた。賊は襲ってこずに様子を見ているようなので、倒れた三人の賊の装備を確認した。
「自動小銃はM27 IAR。拳銃はベレッタM9。手榴弾はM67か。全部アメリカ軍の海兵隊が使っているものです 」
やがて、上から階段を駆け降りて来る複数の靴音と、下からも駆け寄って来る靴音がしてきた。おそらく無線で連絡を取り合い、挟み撃ちで一気に片を付けるつもりなのだろうと直感すると、M27を警部に渡し、死体から手榴弾M67を抜き取ると、階段を上がりながら安全レバーを押さえてピンを抜き、三階フロアに向かって投げると戻る途中に同じ動作で一階と二階の間の壁にぶつけて反射させて一階フロアに手榴弾が転がるように投げると、二階フロアの警部を抱き寄せてかばうようにして伏せた。直後に殆ど同時に上と下で悲鳴が上がって爆発が起こり、轟音が響いて全体が揺れた。
千葉は粉塵をかき分けて警部の手を取って起こすと、ヒールの音が目立つからと脱ぐように命じ階段を上がった。
「取調室は何階ですか警部 」
「六階よ 」
「じゃそこまでダッシュです 」
「麗子は? 」
「大人しくしていれば多分大丈夫ですよ。こいつらの目的は名無しの八人の奪還でしょう 」
千葉は階を上がるたびに用心深く索敵したが賊はおらず、六階について区分けされた取調室の一つを開けると、口を粘着テープで塞がれ、海老反りにされて大型の束線バンドで縛られた取調官二人が転がっていた。名無しの男はおらず、遠くの方でドタバタと去って行く足音に「遅かったか 」と舌打ちをした。
千葉はこの二人を助けて話を聞いた。いきなり賊が押し入ってきて銃で脅され縛られて、名無しの男は賊と逃げたそうだ。こんな仕様の海老反りがあと十四人はいて、名無しの八人は賊と逃走したのだろう。
そこへ西郷から預かった警察用携帯電話が振動を始めた。相手は北岡刑事部長だった。
「今取り込んでるんですけど 」
「千葉君か。なんと署に賊が押し込んできたようだ。下にポルシェが停まっているのをみかけて、かけてみたんだ。そちらは大丈夫ですか 」
「なんとか 」
「電話回線は遮断されて使えないし、携帯電話もアウツだ。多分妨害電波だろう、そこで内線モードにしてみたらつながったというわけだ。それより聞き込みはどうしたんだ 」
「昼食は署でとろうということで戻っていたんです 」
「そうだったのか、君がいてくれて良かったよ。それで今下から見えるんだが、賊はバスで署を出たようだ 」
「バスですって 」
「そう、青い塗装のバスだ。外を見てみたまえ、今署を出て右手に曲がった。すまんが君のポルシェで追ってくれないか 」
「了解しました 」
千葉も六階の窓から下を見ると、青い塗装のバスが右端に見えたがすぐ見えなくなった。左の頬を窓ガラスにつけてバスを見送ったとき、チョプチョプという微かな音を捕らえ、それがヘリコプターのローター音だと認識した。
「今、北岡刑事部長から電話があって、賊はもうあの青いバスに乗って逃走したそうです。警部、ここにヘリポートはありますか? 」
「ええ、屋上にヘリポートあるけど滅多に使われたことはないはずよ。なんで? 」
千葉の頭の中で何かが連結する。
「警部上だ。屋上行きましょう 」
「あんたバスを追うんじゃなかったの 」
「やっぱやめです 」
千葉は警部の返答を待たずに、屋上に通じる階段を一気に駆け上がって行ったので、警部もしかたなくその後をついて上がったが、彼の姿は既に遥か彼方だ。千葉が屋上のドアを蹴り開けたとき、白い大型ヘリコプターが、まさにヘリポートに着陸寸前のところで、名無しの八人とその護衛と思われる自動小銃を持った男が一人ヘリに走り寄っていた。ヘリとの距離は約三十メートル。風は左から右へ吹く、千葉はコルトを抜くとスタンディングで精密射撃姿勢をとり、シングルアクションで護衛の男の後頭部を狙って撃つと、男は走りながら前のめりに倒れこんだ。そしてヘリが着地したタイミングで間髪入れずに、メインローターの軸部分を狙って五発撃ち込んだ。
大型ヘリのパイロット二人はその轟音に驚き、頭上のただならぬ衝撃を感じ取って、軸部分からの異音に、慌ててエンジンを止めて名無しの男たちに、上を指さして手を左右に振ったり、両手で✕をつくって「もう飛べない。諦めろ 」と伝えた。名無しの彼らは、ヘリに到達したものの突然の銃声に仲間が撃たれ、軸部分の着弾の衝撃波と火花に驚き、とどめにパイロットから諦めろと伝えられ、もう飛び立つことができないと理解すると、放心状態で立ちつくし、こちらに向かってくる男を茫然と見ていた。
千葉は歩きながら彼らに見せつけるように、コルトの弾倉を開いて空薬莢を抜き、左ポケットに入れてから補弾してホルスターにおさめた。転がっていた自動小銃には目もくれず、名無しの八人を見つめながらゆっくりと歩いた。彼らには千葉が発する殺気が、黒い怪物のように大きくなって襲いかかってくるように見えた。自分たちの逃走を阻止するために仲間を射殺し、ヘリを飛べなくした男が迫ってくる。衝撃と恐怖と絶望で身体が固まり、一歩も動くことが出来なかった。
「残念だったね 」
千葉の口調は穏やかだが、その目は「逃げてみろよ 」と挑発的だった。睨み合いが少し続いたが、やがて名無しの八人の一人が口を開いた。
「この横風でよく命中させたな。大した腕だ 」
「こいつはどうも 」
「あんた警察官じゃないだろう 」
「その通り。さあ、これからどうするんだ 」
「みんな、妙な抵抗をしてはならない。こんなところで死ぬことはないんだ。我々は取調室に戻ることにするよ 」名無しの彼は右手で背後の七人を制した。
「御協力感謝します 」千葉は下手な敬礼で、尚も挑発した。
それから拘束されていた取調官たちがようやく屋上にやってきて、名無しの八人にがっちり手錠をかけて取調室に連れて帰った。ヘリのパイロット二名は、事情を聴くために連行されたのを見届け、千葉はもう肩の荷を降ろしていいだろうと思ったところへ、警部が蒼ざめた顔で駆け寄ってきた。
「千葉君、結局名無しの八人の逃走を阻止したのね、凄いわ。もっと褒めてあげたいところだけど、下では今、麗子が大変なのよ!すぐ下に来て欲しいの 」
「どうしたんですか? 」
「下にいた賊はもう逃げたんだけど、変な爆弾を置いて行ったのよ 」
「そんなもの爆弾処理班に任せたらいいじゃないですか 」
「それが電話も電子メールも緊急連絡網も切られたのか全然通じないの。麗子が爆弾を抱かされてて、もうもちそうもないの 」
「ええっ、それどういうこと? 」
階段を降りながら、警部が息を切らして混乱した状態を千葉が宥めながら聞いた話をまとめると、その爆弾とは四十センチ四方の箱で、ガラス板の下に幾つも穴が空いた板の上に金属ボールが一個あり、このボールが穴に落ちれば爆発するという。箱にはセンサーが付いていて。三十度以上傾けても現在位置を上下三センチずらしても爆発する仕組みなのだそうだ。賊の一人が麗子を選んで爆弾を抱かせてから説明し、リモコンスウィッチを押すと、箱の真ん中で金属ボールを止めていた丸い仕切りが下がって、センサーが作動したという。だからといってみんな外へ逃げ出すことはできない。というのも、賊は逃げ出す際に外に通じる通路にブルーシートを取り付け、これを動かすと仕掛けた爆弾が起爆すると言ったのだ。
署の制御室を占拠して細工したから、窓を開けても警報信号で起爆すると付け加えたため、はったりなのかもしれないがそれを確かめる術がないので、怖がって誰も外に出ることができないそうだ。千葉はそれを聞いて、だから賊は易々とバスで逃走できたのかと理解した。警部はプライドにかけて、パニックにならないように千葉に状況を説明した。それを聞く彼の表情は明らかに困り顔だった。聞いていて決して愉快な話ではない。そう、犬の糞を踏んでしまったように……。
一階の交通課フロアに行ってみると、血の匂いと悪臭がして、誰か撃たれたことを察したが、今はもっと重要な爆弾問題に取り組まなければならない。麗子は椅子に座ったまま箱を両腿に乗せて下から両腕で抱く様にして、ボールが穴に落ちないように一心に支えていた。箱の上部はガラス張りで穴とボールがよく見えるのだ。その傍には一人の女性職員がいて両手を爆弾箱に添えて、麗子の震えでボールが穴に落ちないように支えていた。百人近い職員達はそれを遠巻きに固唾を飲んで見守っている状況だ。その尋常ではない緊迫感に千葉も真顔になった。
一分や二分なら問題無いだろうが、これが十分二十分となると話は別だ。既に麗子は極度の緊張で脂汗をかき、涙と鼻水が垂れ、身体が恐怖でガタガタと震え出すのを必死で堪え「神様、御願い 」と何度も呟いていた。傍らでは女性職員がパニックを抑えるために励ましていた。膝が震えるとボールがゆらゆらと揺れる。それが穴に落ちないように箱を微妙に傾けて調整していた。
「まったく性質が悪いな。あの状態でもうどれくらい経過しているのですか? 」
「かれこれ十分以上になるわ 」
「そろそろ限界ですねぇ。それにしてもみんな冷たいねぇ。こんなに人がいるのに誰もなんとかしようとしないの 」と言って周囲を見回して小声で言った。
「仕方ないじゃない。どうしたらいいのかわかんないんだし、それに他人なんだもの。でもあたしは肉親なんですからね 」
「僕は肉親じゃないんですけど 」
「そんな冷たいこと言わないでよぅ。あなたしか頼れる人いないんだから、何とかして下さい。御願いします 」と深く頭を下げた。
「んもう。しようがないなー 」と言いながら千葉は麗子にゆっくり近づいて行った。
警部はその後ろ姿を眺めながら、こんな時にもまったく物怖じしない千葉の言動に内心感心していた。弁当を食べているところに賊が押し入ってきてもすぐに対応し、あっという間に賊を射殺し、手榴弾二個で活路を開くと、ヘリコプターを破壊して名無しの八人の逃走を阻止したのだ。そして今は、麗子の爆弾事件に嫌がる素振りも見せずに取り組もうとしている。情けないかもしれないが、百人からの同僚よりも、彼が一番頼りになった。
「彼は天才?それとも命知らずなだけ?なんでもいいから御願い 」警部は両手を組んで祈った。
千葉がゆっくりと近づいてくる様子を視界の隅でみとめ麗子は「危ないから来ないで、御願い 」と力なく言っていたが、心の底では嬉しい様子だった。前かがみに両手を柔らかく広げて近づきながら「麗子さん。今助けますからね、もう大丈夫ですよ~ 」などと優しく声をかけ、横で彼女の腿の高さと同じ位の高さに本や書類を積み上げると、ある物を手に取り、爆弾箱のガラス板越しにボールの上に置いた。
するとボールは、カチッと音を立てて固定された。
千葉はホワイトボードにはりついていたマグネットを、ガラス越しの金属ボールの上に置いたのだ。後は爆弾箱を傾けないように慎重にスライドさせ、同じ高さに積み上げた本・書類の山に置いた。これで麗子は自由になり、起爆の恐怖はとりあえず去った。
「さあ、もう大丈夫ですよ 」
千葉はそう言うと、麗子の右の手をとって立たせた。麗子は姉の小百合も見たことがないほどの安堵と感激の表情で、人目も構わず千葉に抱きつき、文字通り「うわーん 」と声を上げて泣いた。
「見ろ!俺たちは助かったんだ! 」
「やったー 」という声が上がると、はち切れたように歓声と拍手が湧きあがった。それがやがて「チーバ!チーバ! 」というコールになり、千葉は期せずして英雄になったようだ。彼は満面の笑みで両手を上げてコールに応えたが、麗子はまだ千葉の首に腕を回したまま離れようとしなかった。それを見かねた警部が麗子を引き剥がして長椅子に寝かせた。千葉は笑いながら、「みなさん。とりあえずの危機は去りました! 」
「おおおー 」
「賊はもう青い塗装のバスで既に逃走しています。だから妨害電波はもう無いと思うので、早く何とか最寄りの警察に通報して下さい 」と言うと、その皮肉的なユーモアに笑いが起こった。
「賊の目的は名無しの八人の奪還と思われますが、作戦は失敗し彼らは今六階の取調室にいます。賊が怒髪天と関係があるとすれば、爆弾は得意分野なんで、どうか皆さん、決して甘く見ないで、慎重に処理を御願いします。僕はまだやることあるんで、これで失礼します 」と言い残し、自分が破壊した階段とは別の階段で上がって行った。それを見た警部も足早に後を追った。
17章
北岡刑事部長は、胃をだれかに握られてゆっくり捻られるような鈍痛に苦しんでいた。睾丸が動いて、内臓が抉られるような痛みに苛まれ、熱と吐き気が続いている。個室に一人、重ねた指を額につけて耐えていた。妻と娘が明るく笑っている姿を思い浮かべ、無事で再会することだけを考えていた。
自分の権限で八人を署に集め、逃走にヘリを使うために夜間ではなく、快晴で署内の緊張が緩む昼時を選んだ。何をするかわからないSPの西郷が帰任後を選び、後任の千葉には聞き込み捜査任務を与えていた。そして怒髪天は同志八人を奪還するために、今日乗り込んできたのだ。署の内部情報は全て教えているから、一時的に占拠する時間は三十分を想定していた。これで計画は成功し、後は名無しの八人と部隊が煙のように消え失せ、取り逃がして悔しがる警察幹部の役を演じればよいのだ。そんな屈辱もキャリアとしての傷も、家族と自分の命には代えられない。あの拷問室に鎖で拘束され、全裸で睾丸の痛みにのたうち回り、激痛の中で血が混じった小便をし、隅でトイレットペーパーを敷いて排便する屈辱。時計がなかったので時間がわからなかったが、おそらく一日バナナ一本と紙コップの水しか与えられず、それを大事に食うざまを味わった今となっては、なにほどのこともない。怒髪天部隊の行動は正確で、行動開始から約三十分でバスに乗りこんで逃走するのを窓から見届けようとしたとき、駐車場に赤いポルシェを見つけて胸騒ぎを覚えた。あの銃声や爆発は千葉の仕業ではないかと思うと、額と両脇から汗が噴き出した。失敗は死を意味すると信じていた北岡は、千葉に内線モードでバスを追うように指示したのだった。
篠田警部は階段を上りながら、前を進む千葉に声をかけた。
「千葉君、どこ行くのよ? 」
「取調室に行って名無しの男から話を聞くんです 」
「そんなの無駄よ。だって彼らは拘束後全然口をきいてないのよ 」
「そうかな?さっき一人が僕を褒めてくれたんですよ 」
「ええ?本当 」
「本当ですよ。だからもっと話をしに行くのです 」
篠田警部は、あっさりと言ってのける千葉が、まるで宇宙人に見えた。どこの星のというのではなく、事件は目まぐるしく展開しているというのに、どうしてこんなにサクサクと動けるの?という意味でだ。西郷とは単純に比較できないが、彼とは違う印象が心に残る。一言で言ってしまうと『軽快』なのだ。中身が薄いというのではなく、底が知れない。ならば深いのかと言うと、わからない。自分の物差しでは測れないということだ。
千葉は六階の取調室で、屋上で言葉を交わした名無しの男を見つけると、取調官に席を外してもらい話をすることになった。千葉は男と目を合わすと、ニィと笑いポケットから缶のブラックコーヒーを男の前に置いて向かい合って座った。この名無しの男は、千葉が見たところでは歳は三十代で、身長は一六〇センチくらい。四角い顔に太い眉に細くて鋭い目をしているが、悪人には見えない。とかなりざっくりとした印象だが、彼はそれ以上のことは気にしない。
「僕は千葉と言います。少し話しませんか?手錠外しますか。これ、飲んで下さいよ 」
すると男は、黙ったまま缶コーヒーを飲み始めた。自分を気遣って手錠を外そうとまで言う千葉の気遣いとも、わざと隙をつくって逃走を煽って殺すのではないかともとれる余裕に、男は従うしかなかった。千葉も自分のを飲むと、「さっき『命中』と言ったでしょ。あれ久し振りに聞いたんで、面白くてね 」
「じゃあ、なんて言うんですか? 」
「僕らは『当てる』と言ってます 」
「そうなんだ。私は霧島と言います 」
「キリシマさんですか。今回は残念でしたね。奴らは怒髪天ですね?又来るんですか 」
「……そうです。彼らは同志です。しかし、これは奇襲でない限りリスクが大きすぎるので、多分二度目はないでしょう。まったく、あなた一人にやられたようなものです。あなたは、我々の目の前で同志を射殺した。あれは大きな衝撃だった。
あなたは、ヘリを破壊した後、我々に銃を向けるでもなく、何も言いはしなかった。それがかえって恐ろしかった。あんなことして、罪には問われないのですか 」
「そいつに答える気はない。抵抗すれば、僕に殺されると思った 」霧島は無言で頷いた。
「あなたはあえて口に出さずに煽っていましたよね 」
千葉はそれにも応えず、霧島の目を見ていた。霧島のように頭の良い男は勝手に想像するので、説明はいらない。
「私は今まで、どうしようもない奸物を殺してきました。まさに天誅をなしたと思っています。悔いはありません。しかし、同志が殺されたとき、あの場に八人もいたというのに、我々は立ちすくんで何もできなかった。それが重大な問題なのです 」
千葉は霧島の言葉をしっかりと受け止めた。
「そうですね、キリシマさん。あれで良かったんですよ。これに懲りたら、もうやめにしましょう。今まで何人カンブツを殺したんですか? 」
「あなたほどじゃない 」
「こいつは参ったな 」と千葉は笑った。
「まあいいや。とにかくキリシマさんは、そんなことしちゃいけないんですよ。他の七人もね。なんていうか、キリシマさんたちは、普通の人なんですから 」
「普通の人間の決起が、世の中を変えてきたのです」
霧島の顔に微かな怒りが滲む。千葉は怒髪天という組織が西郷の読み通りに、普通の人々の集合体であることを確信した。
「それで、キリシマさんは怒髪天で世の中を変えようとしてるんだ 」
「今となれば、私にはもう何もできません。ならばその礎になるばかりです 」
「それはわからないよ。でもどうしてそんなふうに考えて怒髪天に入ったんですか? 」
「私は常々、世の中がおかしくなってきていると思っていました。社会の何もかもが腐っている。勿論それが不満であり、将来を不安に思っていたのです。それについてネットで色々な人たちとやりとりしている内に、私と同じように思っている人がたくさんいることを知りました。そして、ある自己啓発セミナーを受けたのです。そこは、社会の問題点を浮き彫りにした時事テーマについて、受講生同士で議論し提案して更に深い議論をするところで、中々面白いと思いました。それで自分なりの考えを論文にして出したら、怒髪天から勧誘されたのです 」
「そうか、自己啓発セミナーだったのか。だから公安も見つけられなかったんだ。それ自体は問題ないもんね。僕はキリシマさんが何を考えようと、何をしようと自由だと思います。ただ、どう変えるのかが気になるところですが、こんなところで燻ってちゃだめでしょ。でもその前に、キリシマさん。ボスの名前を教えてよ 」
「私がそれをしゃべると思うのか? 」
「僕はその方法を、色々知っている…… 」
口調は穏やかだが、霧島の目を見ながら言った。その彼の背中から、殺気立った黒い怪物がゆらりと立ち上がってきたのを霧島は見た気がした。肉眼ではなく、感受性で感じとったのだ。
霧島はびくりと上体を反応させ、その怪物から逃れようと下を向いた。しかし頭から飲み込まれそうな気がしたので、再び千葉の顔を見た。一瞬の内に後頭部を撃たれて左右の眼球が飛び出し、額が裂けて血の塊が飛び出した光景。顔が顔でなくなるグロテスクで恐ろしい残像が浮かんだ。そして黒い怪物、それらが交錯するうちに落ち着きがなくなり、ひどく汗が出て呼吸が乱れ、遂に嘔吐するように名前を出した。
「二階堂紀吏仁 」
千葉はその人物の住所と、その自己啓発セミナーのサイト『五光倫の会』を記憶し、それから北岡刑事部長と家族を誘拐して利用する計画があったことを聞き出し、北岡の家族が失踪したのなら、多分怒髪天以外にないことを確認した。妻娘の監禁場所は、おそらく伊豆の別荘だろうとその住所と連絡先をメモした。千葉は霧島を労わるような視線をやって言った。
「僕には難しいことはよくわかんないけど、そろそろ警察と口をきいた方がいいでしょう。もう助けが来ないからって、諦めちゃダメだ。警察はみんなを有罪にする証拠を持っていないようです。免許証を偽造した人はまずいけど、他の人は十分なお金が振り込まれてるんだから、弁護士とよく相談して、不利な証言をしなければ、嫌疑不十分できっとすぐに出れますよ。
そして難しいことはもうやめて、日常に戻ることです。世の中を変えるってのも結構ですが、どうも血生臭い事件ばかりで気が滅入るんだよね。もっと違う方法をとってみたらどうでしょう。第一僕は、キリシマさんたちは、向いてないと思います。あの時僕に向かってこなかったのがその証拠です。僕一人を倒せないようでは、結局そんな大そうなことは無理ですよ。あなたは大して悪くないし良くもない、普通の人なんですから。僕は警察じゃないから、今聞いたことを証言するつもりはありません。色々話してくれて、どうもありがとう 」と言い残して取調室を出た。
クールな表情で歩く千葉の右に左に、篠田警部はまるでぶら下がるように色々問いかけたが、その答えは彼女を激しく揺さぶるものとなった。まず、名無しの男に霧島という名前がついたことに驚いた。
「どうして千葉君には口をきいたのかしら? 」と問うと、「彼はきっと、拷問の恐ろしさを知ってるんですよ。それで僕が拷問するんじゃないかと思ったようです 」確かに警察は拷問などの、苦痛が伴う自白の強要を禁じている。だから安心してだんまりを決め込んでいたのだが、千葉にはそれが通用しないと思ったのだろう。次に、霧島の年齢・住所・職業については聞かなかったことに怒った。「どうしてそんな初歩的なことをきかないの! 」と怒鳴りつけた。
千葉は振り返って彼女の顔を見たが、そんなことは全く気にならない様子で、霧島のボスについて聞き出したと言うと、篠田警部の勢いが急に萎えた。確かにそれと比べれば、霧島の人となりなど重要度は下がる。どうして彼はそんなことができるのか、彼女は千葉を怒鳴りつけたことが急に恥ずかしくなった。
そして霧島のボスの名を聞いて、息が止まるほど驚き、俄かに信じることができなかった。彼女は、足音を控えてすいすいと歩く千葉の背中を追いながら、衝撃のあまりにもう言葉を発することが出来なかった。霧島のボスの名前の他に、捜査指揮官の内通は、彼女を更に打ちのめすのに十分だった。
千葉は北岡の部屋をノックして躊躇なく中に入っていった。警部は恐ろしくて中に入ることができなかった。中には彼の部下が二人いて、北岡は誰かと電話中だったが、千葉を見て少し目の色を変えた。
「SPの千葉です。報告に来ました 」
「あとでまた連絡する 」と北岡は電話を切ると、目配せで部下二人を外に出した。千葉は座るように促がされて素直にソファに腰を降ろし、出し抜けに起きた襲撃事件を報告した。名無しの八人の逃走を阻止し、爆弾事件を解決したことを伝えた。それは実際に対峙してきただけに、見聞きしてきた部下の話よりも、迫真の説得力があった。
「……そうですか、大変よくやってくれました 」北岡の顔は血の気が引き、吐き気を堪え、手は震えを抑えるのがやっとで、声はわずかに震えていた。
「本当にそう思ってます?あの時あなたは僕に電話で妙な指示をしましたね。それに賊は署の内部を明らかに知った上で行動していましたよ 」
「そうですか……。内線モードで、バスを追えと指示をしたのは謝る。しかし、言い訳がましいかもしれんが、あの場ではバスを追えと、誰もがそう言ったと思う。賊が署内を知っていた理由は、私は知らない 」
そう言った北岡の顔色の蒼白さは、体調が悪いのか、千葉に追い込まれて苦しんでいるのか、その両方なのか。千葉は、北岡が苦しんでいる様子をみて、ニィと笑顔を見せた。それは、口角だけが上がって笑顔に見えるが、目は少しも笑っていない。北岡を見透かす目だ。
「もう、そういうやり取りはやめにしましょう。時間のムダです。あなたは怒髪天に誘拐されて拷問を受けた。それは顔色や歩き方を見ればわかります。ここじゃなくて即入院すべきなのに、よくそこに座っていられますね。それは奥さんと娘さんが人質に取られているからです。でも計画は失敗しました。名無しの八人も諦めたのか、僕に色々教えてくれました。もうあなたも御家族も用無しというわけです 」
千葉はそう言いながら立ち上がり、北岡の机に近づいた。彼は殺されると直感し、蒼ざめた顔色に狼狽色を脂汗で塗り重ねて右手で制した。彼には千葉の背後から何かが湧き出し、それが大きくなって襲いかかってくるように見えたのだ。幻覚をみたのかもしれない。千葉が動いた残像かもしれない。
「ま、待ってくれ。殺さないでくれ 」
「大丈夫ですか、北岡刑事部長。直ぐに入院した方が良いと思いますよ。重い責任と重圧の中で、その上こんな酷い目にあって大変でしたね。あなたは怒髪天に利用されただけです 」
北岡は、自分からは言うわけにはいかないことを千葉がわかってくれているという安堵の気持ちが広がり、救われたような気がした。すがるように、「君の言った通りだよ。すまなかった。この計画が失敗したからには、もう私は殺されるだろう。しかし妻と娘は助けて欲しい 」と手帳から家族の写真を出して千葉に見せた。千葉はその、上品な笑顔を浮かべて映っている二人の女性の顔を記憶して写真を返し部屋を出た。
部屋の外には北岡の部下二人に篠田警部、そして公安の伊東課長が立っていた。彼は笑顔で「御疲れ様です」と挨拶した。
「初めまして。私は公安の伊東と言います。SPの千葉秀樹さんですね。御苦労様です。話はあらかた聞きました。大変でしたね 」千葉も初対面の挨拶にぺこりと頭を下げた。
「全くですよ。弁当食べてたらいきなりですからね。死ぬかと思いましたよ。ホント 」
「またまたぁ。大活躍じゃないですか千葉さん。おかげでみんな助かりましたよ 」
「どうでしょうね、公安が来られたということは、もう爆弾は撤去されたのですか 」
「ええ、爆発物処理班と一緒に来て調べてもらって、出入り口の爆弾はフェイクとわかりました。しかし、四角い小箱の方は本物で、今は撤去完了しています。液体窒素の釜に漬け込んで蓋をすれば、もう起爆しないんですよ。それにしてもマグネットで金属ボールを固定するとは、よく咄嗟に思いつきましたね。処理班メンバーも感心してましたよ。そして青い塗装のバスですが、隣町の裏の通りで四方をカーテンでしめきった状態で立て籠もっているようなので、今投降するように呼びかけています 」
それを聞いた千葉は、少しびっくりしたように「本当ですか 」と伊東課長の目を見た。あれほど周到な連中が警察に包囲されるなんて妙な気がしたのだ。しかし公安の責任者がそう言う以上反論する気が失せた。
「なんだ、そうだったんですか。こいつは一杯食わされましたね。でも箱のやつが本物というのが、やっぱり始末が悪い相手です 」
「先ほど篠田警部から聞いたんだけど、名無しの男から話を聞きだしたんだって?ちょっとミーティングしませんか。状況をもっと共有しましょうよ。どうもわからないことが多くてね 」
「そうですね。僕もなんか怒髪天の思うつぼにはまっている感じがします。それに名無しの八人の奪還に失敗した知らせは、あっちにも既に届いているでしょうから、怒髪天がもう用無しの人質をどうするのか心配です 」
それから数分の後に、篠田警部が会議室を用意してミーティングを行うことになった。ミーティングは病院に運ばれた北岡刑事部長を除いた関係者を集めて約一時間で終わった。怒髪天の襲撃部隊は推定二十数人、その内六人が射殺され、三人が手榴弾で死亡した。他にも負傷者が出たようだが逃走。警察側の被害は一階フロアで一人が射殺され七人が負傷。その他彼らが起こした事件の詳細と千葉と篠田警部の反撃した詳細がつまびらかになって記録された。千葉は説明を求められて、言い訳をすることなく全て必要な措置だったと淡々と語った。その場の空気は、彼の超法規的措置は織り込み済みなので、誰も口を差し挟む者はいなかった。いたとしても千葉は合理的な説明を用意していた。
それよりも北岡刑事部長の内通に非難が集まった。千葉は北岡が怒髪天に連れ去られて拷問を受け、家族が伊豆の別荘に人質になっている可能性を発表し、仕方がなかったことと弁護したが、署内の見取りを教えた点と、職務権限で規則を破って名無しの八人をST署に集合させた点は、相当の処分は免れないようだ。次に伊豆の警察に人質の救出を訴えると、伊東課長がそれを引き受け、外に出て携帯電話で伊豆の警察に掛け合っている時に、その二人は無事に保護したと聞いた。彼女たちは確かにどこかに軟禁されていたが、今日午後になって目隠しに後ろ手拘束状態で解放され地元の人に助けられて警察に保護されたという。伊東課長は、二階堂氏の別荘に行ってみるように要請した。
そして青い塗装のバスに立て籠もっている賊は、警察が道路を封鎖してバス車輌を取り囲み、絶対に逃走できないようにしてから投降を呼び掛けているが、応じないのであればSAT投入が決定されたという。最後に二階堂氏の一人息子紀吏仁氏に事情をきかないわけにはいかないので、その役目を篠田警部がかってでた。小学校が同じで顔見知りだったことが考慮されて正式に抜擢された。必然的に千葉も同行することとなった。
篠田警部と千葉はカエル君に乗りこんで、二階堂紀吏仁が経営する『太洋交易』という会社に向かっていた。彼女が時計をみるとまだ午後の四時前、あれだけのことが立て続けにあっても、まだ勤務時間内であることが信じられなかった。まるでジェットコースターに乗ってアップダウンと急旋回を繰り返し、ヘトヘトになってもまだ終わらないかのようだ。横を見ると千葉が相変わらず冷静にカエル君の指示通りに運転していた。
「千葉君て、意外とタフなのね 」
「何がですか? 」
「だって大変な事件が色々あったのに、まだ五時前なのよ。疲れてないの 」
「大丈夫っすよ。出かける前に弁当の残りを食べましたからね 」
「さすがね。あの時は妹を、いいえ署員のみんなを救ってくれて、本当にありがとうございました 」
「こちらこそです。実際僕も助かりましたからね。麗子さんは凄くタフでした。もし彼女が耐えきれずにボールを穴に落としていたら、今頃どうなっていたかと思うとゾッとします。
僕はこの一件で、怒髪天なりの仁義を感じましたね。僕は任務で、ある暴力団に潜入していたんですが、彼らにもそれなりの仁義があって生きていると実感したんですよ。そりゃ多少ルーズなところや悪知恵が働いて乱暴で世間じゃ鼻つまみなのかもしれませんが、義理人情を守って仁義を通していることがよくわかったんです。
奴らも仲間を奪還しようと警察署を襲撃するなんて、あまりの大胆さに驚きましたよ。それに僕が何人か撃っても、彼らは報復に職員をむやみに殺すことはありませんでした。職員死亡の状況説明を聞くと、威嚇射撃の時に不運に当たってしまった印象を受けます。それに手榴弾は僕が使ったくらいです。確かに箱爆弾については性質が悪いけど、磁石にくっつくボールを選んだのは、わざとだと思えるんですよ。あいつらきっとそうやって僕らを試しながら逃げる時間を稼いだんですよ。まぁ無事に切り抜けた今となっては、それもブラックユーモアを感じるし、フェイク爆弾にはやられましたしね、これらの点に冷静な知性を感じます。そして最後に、奪還作戦に失敗しても、用済みの人質を無事に返すなんざ、怒髪天なりの仁義を通していて、なんか憎めないんだなぁ 」
「ちょっと。それ以上怒髪天に共鳴なんかしないでよね。仁義がなによ。あいつら警察に挑戦してきたのよ。一刻も早く全員逮捕して全容解明しなきゃだわ。あのバスにSATが突入すれば、一挙に前進する。見てなさいよ 」
「あれほどの組織が、バスに立て籠もって警察に包囲されるなんて、正直考えられません。もうバスは蛻の殻かもですよ 」
千葉がそう言って笑うと、篠田警部は無性に腹が立ってきた。
「あんたねぇ、目撃者の証言を聞いてないの?あのバスはあそこに停車してから警察が包囲するまで、誰も降りていないのよ。蛻の殻なんてバカバカしい 」
彼女は語気を尖らせて言い放ったが、彼は、「警察に挑戦 」などと傲慢に考えるから、余計に反発をかうのだ。という言葉を抑え不毛な議論を避けた。
「それよりも、霧島が言った二階堂紀吏仁の名前よ。彼がどれほど怒髪天に関わっているのか、それを確かめなきゃだわ 」彼女は鼻の穴から息を噴き出した。既に電話で二階堂と面会のアポイントメントをとっている。小学生時代のヒーローとこうした形で再会するのは複雑な心境であったが、警察官として真実を究明する使命感を持っていた。
二階堂が経営する有限会社『太洋交易』は新宿区市ヶ谷のビル街の中にあって、十四階建てのビルの三階にオフィスを構えていた。千葉はそのビルの地下駐車場にカエル君を停めると、篠田警部とエレベーターで三階の『大洋交易』に向かった。公安からの情報によれば、社長は二階堂紀吏仁で従業員は他に五名だ。防衛庁(当時)に装備品を納入する業務を行っており、小規模ながら手堅い取引で着実に業績を上げているという。
三階にフロアに出ると、視界が開けて思ったよりも奥行きがあり、様々な企業が入っている光景が目に入ってきた。スーツ姿の男女がそれぞれの出入り口から出たり入ったりして、このエレベーターに乗り込もうとする人も何人かいた。二人は彼らとすれ違ってこのフロアのレイアウト図を頼りに『大洋交易』を探した。その会社は、南側の隅に位置していて、二人は豪華で洒落た木のドアを開いて中に入った。
そこには受付の女性が座っていて、訪れた人を座らせる椅子が並んでいた。篠田警部はつくり笑顔を浮かべながら、早口で社長に会う用件を伝えると、受付嬢は彼女を上回るプロの笑顔を見せて「あちらで御待ち下さい。良かったらコーヒーとクッキーをどうぞ 」と言い、受話器をとって「社長。篠田様がお見えです 」と爽やかに伝えた。千葉は受付嬢に笑顔で「コーヒーいただきます。警部は? 」と言って、簡易コップにコーヒーを注いだ。警部は要らないと右手を軽く振った。
五分ほどすると、濃いグレーに白いストライプが入った高級スーツを着こなした紳士と、くたびれた紺のスーツを着こんだ大柄な男が出てきた。一見してグレースーツが社長の二階堂紀吏仁であることがわかったが、篠田警部と二階堂にとっては、三十年以上の年月を経た再会になる。二人は目を合わせ、互いに記憶の項をめくりながら、「篠田君? 」「キリヒト君? 」と確認し合い、懐かしむ柔らかな笑顔に包まれた。
この時ばかりは事情聴取という堅い要件をおさめて、久し振りの挨拶を交わし、場の雰囲気は温かいものになった。二階堂が、二階に喫茶店があるから、そこで話をしようと提案し、篠田警部はそれを受け入れ『大洋交易』を出た。千葉と大男もその後ろをついて歩いた。
その途中、篠田警部はまるで少女時代に戻ったようにはしゃぎ、二階堂も懐かしそうに話を合わせていたが、千葉は一目で二階堂を徒者ではないと感じた。鋭角な鼻と顎のライン。髪の毛は薄くなって額が広くなっているが、むしろそれが威厳を感じさせた。何よりも、一瞬だが自分を射抜いて透かし見るような眼光が強く印象に残った。篠田警部から小学生の時はヒーロー的存在だったと聞いていたので、その後もそれなりの功績を重ねてきたことが窺えた。知力、体力が充分にあり、財力も家柄も備えたこの人物が怒髪天に関わっているとすれば、なるほどこれは手強いなと思わせた。
階段を降りて二階の喫茶店の入り口の前に来ると、二階堂は、「私は彼女と話があるから、島田、ここで待っていてくれ 」と命じた。この大男は島田というらしい。彼は言われるままに承知した。すると篠田警部も、「悪いんだけど、千葉君もここで待っててくれない? 」と上目遣いで言うので、千葉も承知した。
大男は、千葉に目を合わせ、「それじゃ我々はあそこのベンチで待っていましょう 」と言って喫茶店外のはす向かいにあるベンチをさりげなく指差した。まさか二階堂が喫茶店で篠田警部を襲うとは思えなかったので同意した。
18章
「やれやれ、よっこいしょっと 」
彼は身体を揺らして簡易ベンチに腰を降ろすと、千葉を手招きしたので、彼は島田の左横に浅く腰かけた。
「お名前は? 」
「千葉と言います 」
「そう、俺、島田です。あんたも警察官なの? 」
「いえ、違います 」
「そうだよね、見えないもん。いやいや悪い意味じゃなくてね 」と島田は笑った。
陽気な人だなと千葉は思った。
「で、なんで警察官と同行してるの? 」
「まぁ、篠田警部の警護みたいなものです 」
「ええ、本当? 警護の仕事ならこっちの本業だけど、そうにも見えないんだけどさ」
島田は不思議そうな眼差しを千葉の顔から靴先まで投げてから首を捻った。
「まぁいいじゃないですか。島田さんは社長の秘書ですか 」
「いやいや、そんなもんじゃないよ。俺は民間の警備会社からの派遣だよ 」
「それ、長いんですか 」
「そうだな、二年くらいかな。君歳いくつ? 」
「二十六になります 」
「かー若いねー。それで警護になるの? 」
島田は再び千葉の靴先から髪の毛までを何度も見直して言った。初対面なのに、年下だとわかった途端に、態度が大きくなった感じがする。なんだか妙な具合になってきたなと千葉は思った。
「運動は何かやってた? 」と聞いてきたので、「特には何も 」と答えると、彼はげんなりした表情を見せて「俺、早稲田のラグビー部でフォワードだった 」と言ってきた。
「おいでなすったよ。この手の男はやたらと自分を披露したがるものだ 」千葉は内心で呟いた。案の定、彼はラグビーの話を、ちょっとした自慢話を交えてたたみかけてきた。
「これには参ったね。どうも 」
おまけにラグビーで鍛えたこの身体が、相手に威圧感を与えるのに役立っているし、実際社長の危ないところを何度か救ったと鼻孔を膨らませた。彼は調子よく相槌をうって、彼が気持ち良くおしゃべりができるように誘導し、長かった話がようやく一段落つくと、島田は「試しに自分を殴ってみてよ 」と言う。どうやら自分の武勇伝を証明したいらしい。それに相手の攻撃を避ける術があると言う。さすがに千葉は何度も辞退したが、彼は「大丈夫だから 」を連発し、半ば無理やりに千葉を立たせた。
千葉は気が進まなかったが、まったく興味がないわけではなかった。というのも、「相手の目を見ていれば、いつ打ち込んでくるのか分かる 」と聞いて、それは何かの本で読んだことがあったので、暇つぶしにやってみるかと、間合いを一メートルほどとり、軽く左足を引いた。島田は、「おお、やる気になったねぇ 」と構えた。二人はボクシングの構えで向かい合う。千葉の右ジャブを左のパアリングで弾き、スウェーで避けると言う。もともとジャブはノーモーションからくり出すパンチなので威力はそれほどでもないのだが、千葉の運動神経とバネをもってすると、それなりのスピードと威力があった。一発目は島田がパアリングする前に左の頬をとらえ、カポッと音がした。二発目も彼のパアリングが空を切ってからスウェーで避ける暇もなく再び左頬にヒットした。
島田はこの屈辱に分別を失い「この野郎! 」と叫ぶと、持ち前の瞬発力で猛然と千葉に食らいつこうと頭を下げて突っこんできた。彼はその肩に両手をつき宙返りで避けると、上から押された反動で無様に床に突っ伏した。尚も襲いかかろうと振り返ったその顔は、怒りと恥ずかしさに顔を赤くした達磨のようであった。
「参ったなこいつは 」と呟く間に島田は体制を立て直し、今度は顔を上げたまま腰を落として突進してきた。千葉は冷静に間合いをはかると、左腕をL字に曲げ下顎を狙いすまして、腰に左肩を乗せるイメージでシュンッと回すと、拳が下顎にヒットして顔が鋭くブルッと揺れた。それは正に彼の両腕が腰に巻きつこうとしていた瞬間で、まるで糸が切れたマリオネットのように床に突っ伏すと、千葉は素早く右方向に身体を移し島田を見下ろした。
この大立ち回りに悲鳴が響いて場が騒然となり、千葉は彼の大きな身体を後ろから起こすと、右膝を背骨に当てて両脇を抱えて何度か引いた。「島田さん、起きて下さい 」と頬を何度か叩いたが目を覚まさない。スーツ姿の男女が心配そうに足を止めて見ているところに警備員が飛んできて、何があったのかと詰問し、警察と救急車を呼んだと言う。「まずいことになったな 」と島田を介抱しながら警備員に大したことではないと説明していると、「千葉君何やってんの! 」と頭ごなしの厳しい声が上から聞こえたので見上げると、篠田警部が鬼の形相で両手を腰に当てて仁王立ちしていた。
ST署に戻るカエル君の中では、事情をすっかり理解した篠田警部が笑い声を上げていた。千葉が運転しながら、ばつの悪そうな顔でぼそぼそと説明する表情と中身が面白かったのだ。あの後島田はすぐに意識を取り戻し、尻尾を股に引っ込めて困りきった犬のように小さくなって、二階堂に厳しく注意された。
篠田警部は警察バッジを振りかざして場をおさめ、自ら携帯電話で一一〇にかけて身分を明かし、先ほどの通報は自分が現着確認して状況は終了事件性無しと説明し、警察官と救急車要請をキャンセルしてくれた。彼女は、床に伸びた島田を介抱する千葉を見て慌てはしたが、彼がこの程度で済ませてくれたのは御の字だと思った。その気になれば殺害も躊躇しないのに、猛牛のように襲いかかってきた大男を一発で気絶させたことは、済んでしまったとはいえ有難いのだ。そして、射撃の腕だけなく格闘能力も一級品と知って息をのんだ……。
千葉は空気を変えようと、自分が牛と遊んでいる間に行われた二階堂紀吏仁の事情聴取について尋ねた。彼女は意外にもさばさばとした表情で語り始めた。
「結論から言うと怒髪天との関係性は、有りね。本人は全然知らないと言ってたけど、こっちはそういう人をさんざん見てきたんだから、表情や仕草でわかるのよ。残念だけど。今回だけじゃ、どれくらい関わっているのかわかんなかったけど、しばらく監視が必要ね。署に帰ったらそう報告書書くわ 」
篠田警部は喋りながら、運転する千葉の鼻の頭を見ていた。
「さすがですね。これでやっと奴らの生きた人物にぶつかったわけです 」
千葉は一瞬警部に顔を向けて楽し気に言った。
「まぁね……。だけどこれからの捜査は、現職代議士の息子ってところが引っかかってくるのよね。よほどの確証がない限り、連行は難しいかな 」彼女は諦観の表情で呟いた。
千葉は、相手が政界がらみになると、そういうことになるのかと理解し、ならば監視して確証を得ればいいと内心思った。
「だけど、今日は大変だったわね 」
「最後は牛ですからね。もう勘弁です 」千葉がそう呟いた。
「八王子事件では、口封じのために二人も焼死させたのに、今度は名無しの八人を奪還に、人質までとって襲撃してくるんだから、矛盾してると思わない?」
「警察に捕まった場合は、事前にそういう約束があったんじゃないですか? だから彼らは安心して完全黙秘が出来たんですよ。そして約束通りに奪還に来たが失敗して、絶望したから喋り出したんじゃないでしょうか 」
「なるほど、それに千葉君が恐ろしいしね 」
そこで、彼女の携帯電話が振動を始めた。相手はST署で待機していた公安の伊東課長からであった。彼女は内容が千葉にもわかるようにハンズフリーに切り替えた。例の青い塗装のバスにSATが突入した結果、既に誰もいなかったとのことで、彼女の声は沈んだ。バスの床には直径一・五メートルほどの丸い穴があけられていて、そこから道路のマンホールを開けて逃走したらしい。しかもそのマンホールは瞬間接着剤のようなものでがっちりと固定されてどうしても開けることができず、日を改めて工事をして交換することになった。勿論近くのマンホールを開けて下に降りてみたが、賊を追跡することは諦めた。こうなると鑑識を呼んで足跡を調べて逃走経路を調べたり、バスをレッカーで移動して手がかりを見つけることにして、今夜は撤収するという。
話を聞いた千葉は、篠田警部には悪いが納得できた。「そうこなくちゃね。賊は今頃コーヒーでも飲んで寛いでるんだろうな 」と内心で思った。しかしその気配を彼女は見逃さず、「千葉君。言った通りバスが蛻の殻で良かったわねぇ 」と嫌味たらしい声で言うと、千葉は笑ってごまかした。
「結果はそうでも、警察としては適正な措置だったと思いますよ。後片付けは誰かがしなきゃいけないんですから 」そう言われれば、そうなのだ。
「今日は色々ありましたけど、怒髪天の計画は失敗。名無しの八人は喋り出し、二階堂紀吏仁さんが浮上して新しい手がかりを掴んだわけで、凄い進展じゃないですか 」
千葉がそう言って彼女を見つめて爽やかな笑顔を浮かべると、もう彼女は納得せざるをえなかった。女に対するそんな力が、彼にはあった。
二人は署に戻り、署長や伊東課長を前に二階堂紀吏仁のことを話すと、伊東課長が公安から人を出して、しばらく彼の監視をしようと言ってくれた。そしてそれらを報告書にまとめてデスクに提出してから電子ファイルを千葉に渡すと、彼はそれをそのまま自分の上司である等々力に電子メールで送った。千葉がちらりとみたテレビの報道番組では、賊がST署を襲撃した顛末とSATがバスに突入した事件を時系列に報じていた。しかし、二階堂紀吏仁の名前が伏せられていたことは、この先のもっと深刻な事態を予感した。千葉は、今日の事件はおそらくY県知事鈴木有作の耳に入っていることを予想し、おおかたいつものようにげらげら笑っている姿が目に浮かんだ。どういうわけだか、彼の姿を思い浮かべるだけで、すべてが刺激的に面白くなってくる。あの強い目に見られると、すべてが小さく見えて、心から安心できる。ああいうふうに笑ってくれると、すべてが許され抱擁された気がする。父親っていうのは、きっとああいうものなんだろうな。父親を知らず母親に育てられた千葉は、ふと、そんな思いが浮かんだ。
「う~ん。ちょうどいい時間ね。千葉君、一緒にファミレスでご飯でも食べない? 」
篠田警部が帰り際にさりげない声で誘うと、千葉は、今夜はさすがに一人でいたいと丁重に断った。彼女は断られたのが予想外で一瞬ポカンとしたが、それもそうよねと思いなおした。幾ら超法規といっても、あれだけのことをやってのけてみんなを守ったんだから、疲れているようには見えないが、色々思うところがあるのだろうと諦めた。
翌朝のTV会議は、怒髪天が大きく動いたので久しぶりに白熱した。SP側は、エージェントが西郷から千葉に代わった日から、城之内から等々力に代わっていた。報告は吉村管理官が、よく通る声で司会進行・説明を行い、千葉の活躍を強調したので、等々力は気を良くした。しかし、千葉が合計六人を射殺し、手榴弾を二発炸裂させて死傷者を出した上に署の一階と三階の階段部分を破壊。大型ヘリコプターのローター軸を破損させて飛行不能にした。等々を聞かされ、「あいつ僅かな時間で、これ程の損害を出すとは…… 」と顔がくもった。
吉村管理官はそうして等々力を凍りつかせておいて、二階堂蔵人衆議院議員の実子紀吏仁氏の名前を挙げ、彼が怒髪天と関わっている可能性を突き止めたことを発表し、事態は解決に向けて大きく進展していることを強調して、賊に逃げられた事実があまり失態と印象に残らないようにうまく運んだ。後は、怒髪天の同志集めの窓口が、自己啓発セミナー『五光倫の会』であることを説明して、そこから組織の全容を解明していくと締めくくった。
ST署内でも捜査会議が行われ、北岡刑事部長の後任に警視庁から赴いた高田警視正が着いた。小柄で太っていて人の良さそうな感じの人物で、怒髪天事件についての経緯は既に知識として頭に入っている様子で、簡単な挨拶の後で前日に起こった事件(ST署)の経緯報告と、各々の今日のテーマが与えられ、篠田警部と千葉の任務は、二階堂紀吏仁の身辺と素行調査であった。
二人は精力的に二階堂紀吏仁の経歴・人柄・評判を調べ上げていった。その作業はそれほど難しいものではなく、T大学の経済学部を訪れて教授に彼の成績や評判を尋ね、当時の友人を探して彼の人となりを訊いて歩いた。今日の彼女は水色の上下に膝上スカート。そして足音がしにくいパンプスだった。昨日ハイヒールの音を千葉に注意されて、パンプスにしたら、上下黒のパンツスーツが似合わなくなり、スーツも水色に変えたのだろう。気持ち程度だが女性らしさがあらわれた。
二階堂紀吏仁は大学を卒業後、就職せずに市ヶ谷に友人と『大洋交易』を設立した。父親が防衛庁長官を務めていたこともあって防衛庁と堅実に取引をして業績は順調。家柄・人柄が良くて優秀で、正義感が強く頼りになる兄貴分。三十二歳で仕事を通じて交際していた五歳年下の女性と結婚し、四人の子供をもうけている。事故や大病などの災難が二階堂家に降りかかることはなかった。篠田警部は彼の幼い頃の記憶しかなかったが、当時のヒーローが時代の流れをしっかりと掴みながら成長して大人になり、今や家族とともにしっかりと生きている様子がよくわかり、フッと微笑み、それから複雑で虚ろな表情に変わった。
それは、彼の人生の中で怒髪天や連続大量殺人事件に関わっていることなど、全く考えられない材料ばかりが揃ってしまったからなのかもしれない。しかし、キリヒト君はシロでした。というわけにはいかない。怒髪天のメンバーが直に名前をあげたからには、必ず闇の関係があるはずなのだ。この捜査では、彼の表面からは決して見えてこない、部分を必ず抉り出さなくてはならないと強く思っていた。しかしその糸口がわからないところに彼女の虚ろがあるようだ。隣では千葉がサングラスをかけてカエル君を静かに走らせている。彼女は千葉に聞こえるように声を出した。
「あ~あ。結局誰にきいても悪い話はでなかったわね。彼は大学まで優秀な成績で、スポーツ万能で性格も良くて友人が多い。親の力を借りて会社を設立していきなり社長に座ったものの、仕事は順調で家族と幸せに暮らしている。親の七光りなんていう人もいたけど、素晴らしい人生よね、これじゃ闇の部分なんか何も見つけられないじゃない 」
「……しかしこれ(二階堂の人生)だと、かなり余裕がありますよね。心身が健全で、酒とかクスリ、ギャンブル、女性問題もないようだし、趣味は釣りとスキーです。社交的でパーティーもよくやっているから顔も広い。警部は闇の部分が無いって言ってますけど、実は闇の部分なんて無いと考えてみませんか? 」
「それどうゆうこと? 」
「例えばですけど、彼は自分の信念に基づいて怒髪天を結成したとして、『五光倫の会』でメンバーを集めて行動を開始する。その中身は大量殺人で犯罪なんだけど、天誅と名付けて罪の意識をすり替えてしまえば、これは世直し活動であって闇ではないんじゃないでしょうか 」
「なるほど 」
「彼の会社は防衛庁と主に取り引きしていますが、海外の武器や爆弾だって扱えるかもしれません。それらを提供して、自己啓発セミナーを使って同志を指導して訓練を積ませ、役割を与えて天誅をやらせてみる。これなら、日々の仕事の合間に実行可能ですよ。趣味の釣りやスキーは家を空けやすいですからね。それらがうまくいけば、彼なりの世直し活動が順調なものだから。心身ともに健全でいられるというわけです 」
「つまり彼にとって怒髪天とは、自分の理念を実行するものだから、そもそも闇の部分ではない。だから闇が見つからないからと焦ることないってこと? 」
「まあ、そうです。『五光倫の会』の捜査は今別の人達がやっていると思いますから、明日には彼との関係がわかるでしょう。そうなれば堂々と彼を連行できるんでしょ? 」
「そうね。確証が得られれば、ひっぱれるでしょうね。あら、千葉君あたしのことをフォローしてくれたわけ? 」
「へへ、期待している結果を求めようとすると大抵うまくいかないから、結果に応じて気の持ちようを変えていくんですよ。ドンマイです 」と笑った。
篠田警部は、千葉の意外な優しさと明るさに触れて軽い驚きを覚えた。彼の笑顔には煌めくような華があるが、目元を隠したサングラスがアンバランスで、謎めいた魅力が伝わってきて、はからずも彼に見とれてしまった。
「麗子さんの容体はどうですか? 」
千葉は唐突に話題を変えて少し声を落として尋ねた。彼女はあれからすぐに入院したと聞いていたのだ。
「そうそう。麗子ね、さっきお母さんからメールあって、午前十一時頃に鎮静剤がとけて目が覚めたみたい。昨日はパニックでひどかったらしいわ 」
「そうですか、それは良かったですね 」
「でしょ?あたしもう安心しちゃって」と屈託のない笑顔になった。千葉はそれを見て少し安心した顔になり、もうすぐ昼なのでファミレスで食事をしようと言い、篠田警部は同意した。
千葉は国道沿いのファミリーレストランの駐車場にカエル君を停めて中に入り、笑顔でサングラスを外すと、ウェイトレスに「二人」と告げ二本指を見せ、店内と客の位置をさりげなく見ながら、窓から離れた奥の全体が見渡せるテーブルについた。篠田警部も何を言う間もなく後に続いた。彼は自分のアンテナで店内をサーチして非常口を確認し、空いているところでこの位置が最も安全と決めたのだろうと察した。
二人はメニューを見てスムーズに注文をしてから向かい合う。千葉は笑顔を絶やさずに会話をしながらも、目の隅で客の全てをチェックしているように見えた。彼女はここまで用心深い相手と食事をしたことがなく、まるで自分が劇画の登場人物になったような感じがしておもわず背筋が伸びた。
「千葉君て、意外に用心深いのね 」
「仕事柄です。これくらいは普通にやりますよ 」
「西郷さんの時は、いつも車の中で食べてたのよ 」
「そうですか、でもカエル君の中は狭いからとても食事なんてできませんからね、でこうなるのです 」
「確かに、あれだけ(身体を)固定されたら、食事どころじゃないわよね。千葉君は撃たれたことやケガしたことあるの? 」
「ないですね 」
「西郷さんは前にお腹を撃たれたことあるんですって 」
「知ってます。詳しいことは言えませんが…… 」
それから二人は交代で手洗いに行ってから、千葉がハンバーグ定食、篠田警部は唐揚げ定食を食べ始めた。
「ねぇねぇ、女性のSPっているの? 」
「聞いたことないですね。でもこれから出てくるかもしれないですね 」
千葉は面白そうに笑い、上品にハンバーグを切って口に運んだ。
「ホテルに帰ったらいつも何してるの? 」
「普通に暮らしてますよ。プールやジムがあって、泳いだりトレーニングしたり、食事はなんでも美味いしね。これでシューティング・レンジがあれば言うことなしです 」
「えっ千葉君トレーニングしてるの?毎日? 」
「はい、二時間くらいですね 」
「すごいわね。あたしはてっきりお酒飲んで寝てるだけかと思ってた 」
「へへへ、否定はしませんけどね。それでインターネットで『五光倫の会』を検索してみたんですよ 」「そうそう、あたしもそれ家でやってみたんだけど、あんまり詳しくなくてさー、よくわかんなかったんだよねー 」
「そのはずですよ。怒髪天は元々ホームページを持っていないし、検索にヒットするのはどうしようもないゴミばかり、そして『五光倫の会』は、名無しの八人が警察に拘束された日からホームページを閉鎖しています。過去のログまで完全削除してましたから、徹底してましたよ。これでは捜査はかなり苦労するでしょう 」
千葉はそう言うと、彼女は千葉の考えを更に聞きたい様子だったので、千葉は思ったことを口に出した。
「前から感じてたんですけど、こいつらやっぱり手強いですよ。なにしろ手回しが良すぎです。八王子事件のきっかけは西郷さんの直感だし、名無しの八人の拘束だって偶然の追突事故が発端でしょ、つまり通常捜査では尻尾がつかめないんです。こんなケースは過去に見たことがない。怒髪天の参謀は、相当なキレモノだと思うんです 」
「人間じゃなかったりして……はは、冗談よ 」
彼女が何気なく放った言葉に、千葉は虚を突かれて言葉につまった。笑えないしそれを否定する根拠がない……。
その時、千葉は頭の中で何かが光った。
怒髪天の参謀は素人同然の連中を使って後始末を含めてうまくやっている。名無しの八人奪還作戦も、失敗はしたが三十分署を占拠するために必要な人数を送り込み、一方で北岡をさらって拷問しての妻娘を人質にして指揮をとらせた。北岡が「あのバスを追え 」と言えば、部下は間違いなく命令に従い、連中はまんまと屋上からとんずらできたはずだ。敵ながら見事な作戦だと思う。誤算は自分(SP)が署に戻っていたことだろう。それはまったくの偶然だった。ということは、予測できないことが起きない限り、怒髪天を止めることはできないということか。怒髪天の参謀は人間じゃない?たしかに、人間業とは思えない……。いったいどんな奴なのか。千葉のひらめきはそこで止まって落ちてしまい、彼はそこで目を伏せて味噌汁をすすった。
「どうした?ぼんやりして 」篠田警部は怪訝な顔をして千葉を見た。
「ええ、ちょっと考えごとしてまして、でも結論は出ませんでした 」と笑った。
それから二人はファミレスを出て、二階堂紀吏仁と飲み仲間だという人物から話を聞いてみたが、特段新しい情報を得ることはなかった。篠田警部は少々落胆しながらも、カエル君の中でノートPCを器用にカタカタと叩いて今日の捜査報告書をコンパクトに作成すると、署のデスク宛にメール送信した。これで署に戻って何もなければ、今日の捜査は終了となる。二人ともそのつもりであった。
二人がST署に戻ると、いつもより慌ただしい空気を感じた。二階の分室に行くための階段は工事中で使えないので、遠回りして東側の階段を使うと、稲葉を見かけた。
「お~い!イナバー 」と千葉が声をかけると、稲葉は千葉と目を合わせてから周囲を素早く見まわしてから近づいてきた。なにやら緊迫した顔つきが二人に不安を伝えた。
「どうしたぁ、何かあったの? 」篠田警部がいつものように尖り気味の声で訊くと、稲葉は「二階堂紀吏仁が何者かにさらわれ、現在行方がわかりません 」と小声で告げた。