警察のお手柄
13章
それから十日ばかりが過ぎた。千葉はまだ休暇中で、いつものように連絡がとれないまま、どこでなにをしているのかわからない。西郷は東京で怒髪天捜査に加わっていた。昨日の昼頃、六本木のタワーマンションの一室で爆発が起こって、怒髪天の天誅が又発覚した。被害者はオレオレ詐欺を繰り返し、荒稼ぎしていた男六人であった。喉に麻酔薬を塗られて声が出ないまま全裸で串刺しにされ、生きながらリビング中央に据えた爆弾を囲むように立てられていた。数日が経過して腐敗し、猛烈な悪臭で近隣からの通報を受けた警察が、爆発物処理班二名を要請して踏み込んだところに爆発が起きたのだ。それは他の部屋に被害を及ぼさない小規模なもので、二次被害がほとんど出なかったのが幸いであった。
昨日の夜の内に、犯行声明と串刺しビデオがインターネット上に公開された。ここまではいつもと同じであったが、今回は違う点があった。中性的で美しくも怪しいCGの人物は、オレオレ詐欺の卑劣さを激しく糾弾し、天誅の正当性を主張した後で、まだ生きている実行グループの氏名と住所、携帯電話の番号のリストを公開したのだ。その数八〇人、そして言った。「見よ。これが狩るべき獲物だ 」と。気付いたサイバー警察が慌ててそれをネット上から削除したのだが、その情報は既に拡散してしまった。西郷はこれを見た時、「性質の悪い悪戯をするもんだな 」とさほど深刻にはとらえなかったが、篠田警部は事態を深刻に受け止めた。
「何言ってるの! 東京じゃね、誰でもいいから人を殺してみたいっていう人がたくさんいるの。そこへあんな連中が嗾けたら、実行する人が出てきてもおかしくないのよ! 」
西郷は、これほどいきり立った篠田警部を初めて見た。
「警部、落ち着いて下さい。それくらい私も理解しています。まったく嫌な時代になったものですね 」と宥めるように言うと、彼女はハッと我に帰り、周囲を見渡した後で西郷に頭を下げた。
「ごめんなさい。つい熱くなっちゃって……。そんなの、ホントは悲しいことよね。ついでだから言っちゃうけど、あたし、とにかく死にたいっていう人だって、いっぱい見てきているの……。こっちまでおかしくなっちゃう 」
ここはTホテルのレストラン。篠田警部が自分のために毎日弁当を持ってきてくれるので、御礼としてフレンチを御馳走していたのだ。磨き抜かれた大きな窓の外は、大都会の夜景を静かに美しく映し出していた。ビル群の中に、ところどころに明かりがちらほらと輝き、その下では無数の車が赤と白の光のラインを幾筋も描いているのを眺めながら、肉と魚のWメインコースとワインを楽しんでいた。このところ稲葉は、射撃の腕前が人並みになってきたので、射撃訓練をせずにそのまま不審なトラック探しをしている。警視庁はこれまでにも怒髪天の名前を騙った犯罪が多発している事態に苦慮していた。「怒髪天」の名前を出して怯んだところで金品を奪う、勝手に天誅と称した殺人事件の度に色めき立ち、捕まえてみて無関係とわかるのだが、件数が激増しているので忙しい。それに加えて一般犯罪も増加傾向にあり対応が追い付かず、被疑者検挙率が初めて四〇パーセントを切ってしまった。
怒髪天捜査の進捗は、八王子事件以降大きな進展はなかった。死んだ五人の身元は全員われた。西郷が関係した藤宮正夫のDNAは一致した。しかしこの五人の接点が見つからない。肝心の個人携帯電話は既に消失し、家にあったPCをX線鑑定した結果、爆発物が仕掛けられていることがわかり、爆発物処理班にハードディスクとメモリーの取り出しを依頼したが、全て失敗した。五人の銀行口座には、ある人材派遣会社の名義で三年前から月々二万円、五万円、今年にはいってから十万円の振込みが確認された。彼らは他にもアルバイトをしていたらしく、他からも振り込みがあったが、この人材派遣会社だけが架空の会社だった。住所、氏名、年齢、学歴、成績、交友関係などをいくら調べてもお互いを結ぶ接点は見つけられなかった。
一度も面識がなかった彼らをつなぐことができるのが、インターネットやSNSであるのは間違いないのだが、その正体についてはまだ解明できていない。八王子の運送会社のホームページも開設者は架空で、真実は月々振り込まれる料金だけだった。トラックを乗り捨てて逃走したと思われる男二人はまだ見つかっていない。目撃情報が無いので人相風体は不明のままだ。
それに拳銃・弾薬や爆弾の入手経路もわからないままだ。そんな行き詰った中で、更なる六本木天誅事件が発生。これで捜査官が更に数十人増えてデスクの仕事は又増えてゆく。しかも今回は殺人の教唆・扇動付きである。警視庁は新たな犯罪を防ぐために、公開された人物八〇人を警護すると発表して、絶対に危害を加えないようにと警告した。
東京の治安を守ろうと日夜働く警察官を嘲笑うような怒髪天の行動に、篠田警部の神経は消耗していた。それでつい西郷にきつくあたってしまったのだが、彼は篠田警部を「わかります」と理解を示した。「どこでもろくでもない奴はいるものですよ。だけど、それに振り回されては、怒髪天の本陣に食い込むことはできません 」
西郷は上品にスズキのムニエルを切って口に運こび、様々な味がする濃厚なソースと魚肉の風味のバランスを楽しみながら飲み込んだ。篠田警部は冷静な顔で、「では西郷さんは、どうお考えですか 」と問うた。彼は迷ったようだったが、控え目に語りだした。
「私は連中のこの変化を、次の段階に移行しようとしているのではないかとみています。連中はこれまで独自の正義感でもって、奸物を炙り出しては処刑して公表してきました。三年前から大金を使って必要な物を揃えて準備していたのです。現に実行グループを搬送する為だけに、幽霊会社を設立して七人も雇って運営していました。
そして警察に発見されてまずいと判断すると、あっさりと放棄して億単位の資産を放り出して回収しようともしないのです。つまり連中は、それ以上の資産を有していて、本体を守るためであれば、こんな損失なんて屁でもないんでしょう。現に昨日又犯行が発覚しました。裏を返せば連中の正体はそれだけの規模を有していることになります 」
「なるほど。つまり前から言われていたけど、怒髪天は大きな組織で計画的に天誅を行っているというわけね。それで次の段階というのは、どういうことなの? 」
篠田警部は、西郷の言葉をじっくりと聞いて、白ワインを口に含むと、西郷の瞳の中を覗き込むように言った。
「次の段階というのは、扇動することで人々がどう動くのかを試したのではないかと思うのです。これまでにも連中は、人が怒髪天を騙って悪さして捕まってニュースになっても沈黙していました。それは、そういう奴らが増えて欲しいという願望の現れです。今回のように、警察が先手を打って警告したのは、とても良かったと思います 」
篠田警部は、彼の冷静で客観的な分析を黙って聞きながら想像していた。もしも怒髪天の扇動に乗る者が多数出てきたら、これまでのようなデモの群衆と機動隊との激突というわかりやすいものではなく、標的を誰かが密かに誅するという殺人事件の連続発生となるだろう。そうなれば、社会現象に至る可能性がでてくる。怒髪天の捜査が八方ふさがりで行き詰っている状況では、これ以上の複雑化は避けたいところだが、人を殺してみたいという人間が多くいる現実を考えると、胸が苦しくなるような悪い予感しかしなかった。西郷は彼女がそんな気持ちでいるのを知ってか知らずか話を続けた。
「私は東京に来て、警部のお父さんや北岡刑事部長からお話を聞きました。勿論全くの偶然だと思いますが、共通したものがありました。七〇年代の日本に、革命を起こして日本をもっとよくしようと考えた人々が、本当に行動を起こしたという事実です。確かにやったことは滅茶苦茶でしたが、当時からうまくいくわけがないと多くの人が思っていたわけでしょう? でも実際にやったわけですよ。つまり、何かに燃えている人は、周りの意見や考えは関係ないわけです。逆にみんながそれを理解してやったとしたら、その熱も下がったのかもしれません。
多分私の考えは、あの話がいくらか影響していると思うのですが、怒髪天も、今のところは天誅事件しか起こしていませんが、それが最終目的とはとても思えないのです。かといって最終的に何がしたいのかさっぱりわかりませんが、思念に燃えた人間は、やっぱりやると思うのです。
例えばの仮説として、連中は東京を乗っ取って、悪を許さず正義に貫かれた街につくりかえるという野望を持っているとしましょう。私はそれくらい壮大で突拍子もないものだと考えています。当然我々を含めた多くの人々は、そんなことあるわけない。やっても成功するわけがない。と考えますよね。
だけど三〇年前にも、革命を起こして共産化するんだと決起した人々(連合赤軍や日本赤軍)が実際現れたのです。あの時だって同じように普通の人々は、ありえない・失敗すると考えていたわけじゃないですか。それでもあらゆることがうまく運んで成功したら、人はそれを奇跡として受け入れるんです。成功・失敗は結果であって、何かの思念にとりつかれてしまうと、人はそれをやらずにはおれないのではないでしょうか。
そういう思念というものは、人がより良い社会や暮らしを求めるたびに、いつでもどこでも、何度でも芽生えるものではないでしょうか。大抵それらは力を持たずに消えるのですが、何十年という時間とのべ幾千万の人間の思念の中に、たまたま同志と金が集まったとき、赤軍や怒髪天のような組織が出現する感じがします。
実は、北岡刑事部長の話を聞いてた時、格差の無い、自由で平等な世の中にしよう。それは素晴らしいことだよね。て乗っちゃったんですよ。特に勉強する必要のない誰もが思いつきそうな理想じゃないですか。ところが、それを実現するとなると、人々は厳しく監視されてその時点で自由が奪われ、法律は機能せず、洗脳と略奪と搾取、拷問と処刑が蔓延り、指導部は良い思いをする反面権力闘争に明け暮れて、常に粛清と隣り合わせだから国民のことなど考えられない。結果国民の大多数が貧困と不幸で平等になるなんてね。どんどんとグロテスクなものになっていって、最初に求めていたものとは全然かけ離れていく過程を聞いた時、心底不思議で恐ろしかったのです。だってみんなまるっきり逆じゃないですか。
私はどうも、そういったこととは全く無縁なところで育ってきただけに、非常にショックを受けたのです。それは、人が理想の社会を求めた時に誰でも陥ってしまう地獄の穴じゃないかって思ったのです。
頑張った人が評価され、そうでない人はそれなりで、格差が出るのは仕方がないと受け入れてきた私にとっては、革命なんてものは、教科書に載っている単語の一つに過ぎなくて全然無縁なもので、政治に関心が薄く、政府を批判するなど考えもしなかった。それは警部や麗子さんや稲葉君も大体同じでしょう。しかし中には、理想を求めることがとてつもなく魅力的に思う人がいてもおかしくないと思うのです。
とりあえず今は、あの革命騒ぎは失敗に終わって、その三十年後の未来なんだけど、当時よりも世の中は良くなっているのだろうか?と考えると、疑問ですよね。それなりに多くの問題だらけです。そして今の世代の人々の中で、ひどい世の中を観察して、もっと良くしたいと望む者が出てくる。それはおそらく頭が良くてスポーツ万能で、何不自由の無い恵まれた環境で育って余裕のある、他人を思いやる優しい心の持ち主ではないかなと思うのです。
その時、あなたは大変素晴らしい考えを持った人ですと持ち上げられて、それでは世の中の悪人退治から始めてみませんか?天誅が無理なら、せめて運転手だけでも協力してもらえないか?と誘われたら、応じる人が出て、増えていくのではないかと思うのです。そして徐々に洗脳を進めて、やがては殺人行為を善行にすり替えていくのです 」
西郷にしては珍しく長い話で、自分の考えをできるだけまとめて篠田警部に伝えた。彼女は“思念”という単語が出てきたあたりからよくわからなくなったが、後半は理解できた。
「つまり、どこかで誰かが理想の社会を追い求める限り、何度でも同じ悲惨な結論にいたるということですか?つまり、怒髪天の正体は共産主義活動家ということ? 」
「さすがにそれはないと思います。私はあれからネットでカンボジアのクメール・ルージュの原始共産主義や社会主義について色々調べましたよ。でも大元のソ連も既に崩壊したし、今更政治の理想=共産主義を唱えて、日本も、と考えるとは、とても思えないし無理がある…… 」
西郷は赤ワインを飲んで一息つくと、窓の夜景に目を移した。篠田警部は、西郷の瞳を見ながら話を聞いているうちに、今まで全く興味もなかった共産化の話などが理解できたと思った。
「西郷さんの話を聞いて、あたしも思い出したことがあるの。事件とは関係ないんだけど、話していい? 」
「勿論 」
「あたしが小学三年生だった頃の話なんだけど、その頃ってまだ幼いから、学校というのは、先生がいて友達がいてって感じで、勉強や体育なんかやってみんなでわいわい楽しくやるところって感じだったのよね。ところが三年生の時に、急に飛び抜けた子が現れたの。前からいたはずなんだけど、突然目立ち始めた感じね。みんなよりも頭一つ大きくて、顔も鼻が高くて目がクリッとしたハンサムで、いつもニコニコしててかっこいいの。勉強も体育もよくできて、いつの間にかクラスのみんなが認める中心的存在になったわ。お母さんにそのことをいったら、その子は国会議員の子供だって聞いて、なんか凄いって印象だったな。それでも威張るとか全然そんなことはなくて、逆にとても優しくてみんなの面倒をよく見てたわ。
一度、クラスで授業中にお漏らししちゃった女の子がいてね。みんながその子を見ながらクスクス笑っていると、その子が立ち上がって、みんな笑っちゃダメって言って、一人雑巾で床拭き始めたのよ。先生もそれに感動したみたいで、その子を保健室に連れて行って、みんなで掃除しましょうってなったのよ。
そして、クラス別対抗サッカーの時にキックオフでいきなりゴール決めちゃってね、そりゃあ、小学生用の狭いフィールドだったから大したことはないんだけど、それでもあの時はもうみんな大興奮で、三年を代表するヒーローになっちゃったわ。名前なんて言ったかな、確か、二階堂キリヒト。そうそう、それで名前もかっこいいってなったのよ。それから彼の名前をよく聞くようになったの。
それであたしの中で、学校には先生と友達の他にヒーローが加わったのね。彼が健康優良児になったとか、運動会や都の体育祭でも良く活躍したし、勉強も凄いって聞いてたけど、六年の時にもう一度同じクラスになったのよ。
その頃はもう大人びていて、キラキラ輝いて見えたのを憶えているわ。もうやることなすことが、みんなが注目してて、みんなが満足するようなことを必ず何かをやるのよね。運動会で四年から六年の混合リレーの時なんか、前の五年生が転んで最下位になったのに、アンカーのキリヒト君が五人をゴボウ抜きして一位になって、赤組が逆転勝利した時なんか、あたしもたまたま赤組で鳥肌がたって震えたわよ。あんなに感動したのはあの時が初めてね。
それで冬になって寒くなってきたとき、学級会があって学級委員長がキリヒト君で副があたしだったの。それで何か議題ありませんか?て聞いてもなかなか提案が出なかったの。するとキリヒト君が、教室の石油ストーブの位置を変えようって言い出したのよ。当時ストーブの位置は、教室の後ろの真ん中に置いてあって、火傷して危ないからって木の枠で囲ってあったのよ。
キリヒト君はみんなの前で身振り手振りを入れて、ストーブは中心から外側に向かって同じように熱が出て周りを暖かくするんだって、それで今のように後ろ側にあったのでは、暖かいのは後ろ側の人だけで熱の半分をムダにしてるって、だからこれからは、ストーブを教室の真ん中に置こうよって、そうすれば熱が真ん中から同じように広がって、全体が暖かくなって、効率が良いんだって。あの説明はあたしにも良く分かったな。
そしたらほかの子が、そんなことしたら席の近くにストーブが来て熱いし、ストーブが邪魔で黒板が良く見えなくなるって反対したの。彼は席位置を変えたらいいって切り返したのよ。それでどんなふうに変えるか説明を始めたの。黒板に向かって大きな四角を書いてこれが教室、真ん中に丸書いてこれがストーブ、左に一本線書いてこれが黒板、それから上と下と右にみんなの席を長方形で書いたの。調度カタカナのコの字みたいに席を並べれば、黒板も見えるし、ストーブから距離もとれるよって言ったの。
あたしはなるほどと思ったわ、先生は面白そうな顔をしてた。でも、今までと違うことをやろうとすると、不安になったり、戸惑ったり、反対する子もいるの。だけどキリヒト君はそういう子たちの意見をよく聞いて、説明したり、少し変えたりしてね。その変えたっていうのが面白くてね、人が通りにくいからってコの字の角に子供が通れるくらいの間を開けたり、熱が同じように当たるようにって、前と後ろの列を机半分ずつずらしたの。それで結局みんなが賛成したのよ。キリヒト君はあたしが作った議事録を持って先生に「お願いします」て渡したら、拍手と歓声が湧いてね。先生は面白そうに職員会議にかけてみますって言った後、その年のストーブの位置は、ウチのクラスだけじゃなくて全教室でストーブが真ん中に設置されて、机はコの字の変形型になったのよ。学校のストーブの位置なんて、小さなことかもしれないけど、子供だった自分たちにとっては、とっても大きなことで、しかも学校が意見を受け入れてくれたって、もうみんな感激したものよ……。
あらっごめんなさい。捜査に関係ない話しちゃって。ただ西郷さんの話聞いてると、つい思い出しちゃってね、そしてなぜかあなたに聞いてもらいたかったのよ 」
篠田警部はまるで、古いアルバムを開いて、昔の写真に当時を思い出し、もう永遠に手を出せない光景にひたり、愛おしむような顔で目を少し潤ませながら照れ笑いを浮かべた。西郷は深く頷いて。彼女の言葉と気持ちを受けとめた。
「国会議員で二階堂といえば、今では自由民政党の重鎮といわれている東京の二階堂蔵人さんですよね。さすがは代議士の息子さんですね。それが民主主義政治の第一歩でしょう。又学校の先生方も粋なことをするね 」
西郷は久しぶりに胸にたまった汚れを洗い落としてもらったような爽快な気分になった。彼女もそれを見て心が随分と軽くなった。二人はお互いの目を見て話をしながら、美味しい食事とワインを堪能し、すっかり満足して、共有していた深い霧の中を歩くような空虚な思いを一時忘れることができた。
それは、彼女が彼の話を聞いたから思い出したエピソードであり、黙って一人で思い出したところで、今のような感動は得られないものであった。それが彼女にはわかった。西郷はデザートのジェラートを口に運び、警部は赤ワインをこくりと飲んだ。夜景を眺めている西郷の逞しくも優しい横顔を見ていると、これまでつのらせていた想いを口に出したくなった。
そこへ彼女の携帯電話が振動を始めた。警部は小さく息を吐くと電話に出た。時計を見ると、午後一〇時半を過ぎていた。相手は稲葉からで、話を聞くうちに先ほどとは明らかに異なる目の輝きになった。篠田警部は、ここはレストランだから後からかけなおすと言って電話を切った。そして西郷の目をキッと見て小声で言った。
「稲葉君からだけど、怒髪天の天誅実行部隊と思われるトラックを確保して、八名をST署に連行したところですって 」
その情報は、西郷を驚かせると同時に、最大級の喜びをもたらしてくれた。これは多分、警視庁全体が諸手を上げて喝采を送るほどの威力があるだろう。
「凄いじゃないですか 」
「詳しいことがよくわからなかったから、あたし署に行こうかしら 」
「ダメですよ。我々はもう飲んでしまっている。こんな状態で行ったら叱られます。私の部屋でもう一度電話して詳しい話を聞きましょう 」
「そ、そうね。そうしましょう 」
西郷はウェイトレスを呼んで、美味かったよ。ありがとうと礼を言ってから、ルームチャージのサインをしてからレストランを後にした。歩いていけるところに部屋があるというのに、心がはやるあまりにすごく遠くに感じて二人ともつい早足になった。
部屋に入った篠田警部は、部屋の電話をハンズ・フリーモードにして三人で同時に会話ができるようにしてから稲葉に電話をかけた。西郷は手早くその旨を城之内にメールを書いて送った。詳細は明日の会議でわかるのだから、事前情報だけでも入れておけば助かる。
電話の稲葉の声は興奮気味に弾んでいた。彼はその状況を伝え始めた。
「はじめに、この事件について、死傷者・物的損失はありません。現在はトラックの運転席にいた二名と荷台に乗っていた六名、計八名をST署内で任意で取り調べ中。容疑は銃刀法違反と免許証偽造。勿論怒髪天の天誅事件についても情報を得たいところ。
私(稲葉)はこの日も本庁・近藤刑事とパトロール中の午後九時十五分頃、○○町の大通りの交差点で右折中のトラックが、右折矢印が消えた時点で停車したところ、そこへ後ろの車が追突したところを現認。 しかしトラックは次の青信号で、何事もなかったように右折して現場を去ろうとしたので、追尾して停車を命じました。
運転手に事情をきくと、追突には気が付かなかったと言うので、助手席の男と二人でトラックから降りてもらい、本体後ろのへこみと傷を確認。加害車両の傷と位置と高さが一致していることを確認してもらった。加害者も追突した事実を認めた。それでトラックの運転手が、明らかに落ち着きを失い始めたので、ピンときて応援を要請。
提示された免許証を照会して偽造と判明。職務質問を始めたが、住所・氏名・年齢等は偽造免許証の記載事項以外は回答えられず。人相は、身長一七〇センチ位の中肉中背、服装は水色のつなぎ、年齢は二〇代前半と推定。短髪で色白。財布無し。所持金は小銭程度。会社名義の業務用携帯電話と名刺を所持。武器等の所持は無し。
このトラックは個人経営の引っ越し業者の所有で、千葉県柏市に事務所が有り、電話しても誰も出ないので、本部に連絡してこの引っ越し業者に急行依頼。それからトラック荷台部に換気空調設備があることを追及して人が六人いることを聞き取り、外からしか開けることができない構造のため、応援(PC五台二十名の警察官)が到着してから、十分に警告した上で、外側からドアを開けて六人を確保。直ちに全員をST署に連行した。トラックは後にレッカーで運ぶ予定 」
「稲葉君、凄いわ。大手柄よ。これで怒髪天なんか一網打尽よ 」篠田警部は手を叩いて稲葉を称えた。彼らが怒髪天に関係していると思ったし、全員無傷で確保したのだから、今後の自供によって、芋蔓式に首謀者を検挙する図が頭を駆け巡って興奮した。
「信号を守りすぎたために起きてしまった偶然の追突事故を見逃さず、さっさと運転手をトラックから降ろしたところがよかった。そこから八名全員を確保したのは素晴らしい。もう半分解決したようなものだよ 」と西郷も絶賛した。
西郷と篠田警部が、今日はもう飲んでしまったので、署にはいけないことを詫びると、稲葉は自分もこれから報告書を書いたら帰って寝ると言い、今日は本当に良かった。明日又お会いしましょうと言って電話を切った。
翌朝、西郷がST署に顔を出すと、署内は明らかに活気づいていた。今までなかなか核心に迫ることができなかった怒髪天と思われる人物を八人も確保したのだから、彼らを締め上げて情報をとれば、事件が解決するに決まっているからだ。押収したトラックから火炎放射装置発見!妨害電波発生装置押収!小型ナイフ押収!麻酔薬押収!など、怒髪天の天誅実行犯の物的証拠がどんどん出てきてST署は更に色めき立った。
14章
男は猛烈な尿意で目が覚めた。上体を起こして周囲を見渡すと、全く見覚えのない環境であることに驚き戸惑った。ここは十畳ほどの広さで窓はなく、床も壁も天井も殺風景な荒い灰色のコンクリートで、頑丈そうな金属製のドアが向こう側に見えた。天井の蛍光灯が全体を照らしていて、ドアの横に水道の蛇口とホースがあり、粗末な戸棚が見えた。耳を澄ましてみても、音は何も聞こえなかった。なんの匂いもしない。気温は少し肌寒い程度で安定していた。男は「誰かいませんか」と大きな声で叫んだが、応答どころかその声は部屋の外に届いていない感じがした。
冷たいコンクリートの床に長時間寝ていたせいで体の熱を奪われて節々が鈍く痛んだ。着ているものは昨日と同じで、所持品の全てはおろかベルトまで抜かれていた。腹には鋼鉄製の輪が装着されており、そこから長さ三メートルほどの鎖が壁下に固定されて、自由を奪われていることを知った。何度も外そうと試みたが、非常に頑丈なことが分かった時点で諦めた。男は鎖をじゃらじゃら鳴らしながら壁際に行って立ち小便をした。随分と我慢していたらしく、自分でも驚くほどの長い放尿だった。その黄色い液体が、壁と床の間をつたってちょろちょろと流れ、部屋の隅の丸い穴を目指して行くのを見ていると、まるで黄色い兵隊の行進を連想して、あそこからどこかにいけるのかと思いを馳せた。男は漸く排泄を終えた安堵感で、へたり込んで胡坐をかいた。
両手で頭を抱え、こうなってしまう前に何があったのかを思い出そうしたが、頭がぼわーっとして中々記憶がまとまらない。鼻の奥の方でシンナーのような匂いがしたことで、何者かに車に引きずり込まれて、何かを嗅がされて意識がなくなったことを思い出した。それが誰なのか?相手は屈強な男二人組で、後ろから声をかけられて急に両脇をかためられ、抵抗できずに車の後部座席に押し込まれてすぐに黒い袋を被せられたので、顔を見ることができなかった。ではその前はどうだったのか……。まるで部屋の鍵を冷蔵庫の下の奥に蹴りやってしまったようにもどかしい。手を伸ばしても、届きそうで届かない。やがて妻と娘の顔を思い出すと、少しずつ記憶が戻ってきた。
深夜に帰宅したとき、靴がなかったので誰もいないことがわかった。娘はもう大学生なので、いないときもあったが、妻はいつも家にいて、寝ていることが多かった。それがあの日に限って誰もいなかった。連絡なしに家を空けたことは一度もなかっただけに、心配・不安の感情が湧いてきた。胸騒ぎを抱えながら携帯電話で妻と娘にかけてみたが、両方電源が入っていない。青森の妻の実家にかけるには遅すぎる時間なので、かけることはしなかったが、胃袋を誰かに握られているような嫌な感触がした。
突然、固定電話が突き刺さるように鳴り響いた。びくりと身体が反応したが、電話番号表示を見ると〇三―XXXX―〇一一〇であったので警察だとわかり、受話器をとった。相手はスズキと名乗る警察官で、奥様と娘さんは午後六時過ぎに交通事故にあい、救急病院に搬送されて重体だという。腕時計に目をやると、午前〇時を過ぎていた。奥様はうわ言で、ここの電話番号とあなたの名前を繰り返すので、何度も電話した次第とのことだった。男は狼狽しながらも、連絡をくれたことに礼を述べ、妻と娘が入院しているという病院の住所と電話番号を訊いた。警察官が丁寧に教えてくれたのをメモしたことを憶えている。御大事にと言われて電話を切り、受話器を握ったままその病院に電話をかけた。当直の看護師を名乗る女が出て、交通事故の母娘二人の話をすると、たしかに搬送されてきたと述べ、妻・娘の名前と年齢は間違いなかった。容体は重体だが、命に別状はないので御心配なくという。直ぐにそちらに行きますと言うと、こちらは二十四時間体制なので、いつでもお待ちしておりますと言ってくれた。更に、来られるときは、慌てた状態で忘れる方がいるので、お財布と身分証明書と保険証があると手続きがスムーズになるとアドヴァイスしてくれた。そしてなるべく楽な服装の方がよいと重ねた。彼は上ずった声で礼を述べ、今からそちらにうかがいますと言って電話を切った。
ひどい不安を胸に抱えながらも、看護師の落ち着いた応対と命に別状はないという言葉にすがるようにして自分を奮い立たせ、普段着に着替えて二三日分の下着と洗面道具、保険証をショルダーバッグにつめ、財布と携帯電話と鍵をポケットに入れて家を出た。小走りに角を曲がって大通りに出て、タクシーを拾おうとしたときに名前を呼びかけられて、いきなり車に引きずり込まれたのだ。
男は漸くほとんどの経緯を思い出した。それで自分は騙されて拉致されたのだと理解して身震いがしてきた。両手で顎髭ののび具合を確認すると、あれからたっぷり一日は眠っていたことがわかった。自分を監禁したのは誰なんだ?思い当たるふしはいくつかあったが特定できない。おそらく交通事故は嘘なのだろう。と思うと幾分気持ちは楽になったが、これから自分がどうなるのかまったく見当がつかなかった。きっと相手は接触してくるはずだ。という考えに至ったが、いつという時間がわからないので、ここで恐怖と不安の感情が湧いてぶつぶつと鳥肌が立ってきた。殺されるのか?いや、それはないだろう。でも時がきたら殺さるかもしれないと思うとたまらなくなり、再び横になった。自分を保つために、悪いことは考えないようにしたのだが、自分がまんまと騙されたことや妻娘のことが頭に浮かんで、怒りや羞恥、心配や不安が次々に頭をもたげてきては、男の心を苛み、味わったことのない疲労になって、横になっているだけにいつの間にか再び眠りにおちた。
「起きろ 」それは太くて低い男のもので、たちまち目が覚めた。横になったままで目を細め声の主を見上げる。黒いマントで体形を隠し、折り畳み式のパイプ椅子に座っていた。黒い目出しの三角頭巾を被っていて、顔は分からないが、両目がギラギラと異様な力を放ちながら見下ろしていた。奇怪で不気味な姿だ。ゆっくり上体を起こして胡坐をかく。
「……気分はどうかね。北岡清隆刑事部長 」三角頭巾の発する声は、静かで優しく北岡の耳に届いた。
「いいわけがない。あんた誰なんだ 」
北岡は精一杯強そうに言ったのだが、声が震えて裏返り、いま一つ迫力に欠けた。北岡は三角頭巾に近寄ろうとしたが、鎖が邪魔して三角頭巾に手が届くことはなかった。
「私は君らが追い求めている組織の一人だ。君は今、その懐にいる。誰も助けは来ない。諦めなさい 」
「怒髪天か 」
「喉が渇いていないか。腹はすいていないか 」
三角頭巾は否定も肯定もせずに優しい声で、北岡に尋ねた。彼は確かに喉が渇いていたので、それを伝えると、三角頭巾は立ち上がり、戸棚から紙コップと芯の無いトイレットペーパーを取り出し、蛇口をひねって水を紙コップに入れ、手が届くぎりぎりのところに置いた。北岡は、その水を貪るように一気に飲んだ。
「この部屋は、通常拷問に使っている部屋だ。だから、床が奥に向かって少し傾いている。それで血だろうがなんだろうが、あのホースで水をかければ、流れ去るように設計されているのだ。小便は壁に向かってするといい、大便はそこらで適当にするんだな 」
北岡は拷問部屋と聞いてゾッとした。三角頭巾は冷たく北岡を睨み据えている。
「なぜ私をこんな目に合わせるのだ 」
「我々に協力してもらう為だ。今君が生きていることがその証拠だ。拒否すれば、拷問にかけるし、妻娘の命はない 」北岡はこれを聞いて衝撃を受けた。
「妻と娘を誘拐したのか 」
「そうだ 」
「しかし警察から電話があって、交通事故にあったと聞いた。ちゃんとナンバーディスプレイで確認したんだ。病院にも電話して確認したんだ。あっ 」
「そんなもの、金を出せばいくらでも細工できるし、病院の電話応対といえばそれを代行してくれる業者はいくらもあるんだよ。君の官舎は監視カメラがたくさんあって近づけなかったから、誘き出したということだ。さらった場所は監視カメラの死角でね。君は深夜に帰宅した映像と出かけた映像を残して消えたことになっている。今は、君は無断で仕事を休んでいる状態が続いている 」
「だましたな!」 北岡の声は、心からの怒りがこもっていた。
「その通り。面白いな。君は中々冷めた性格で、騙される方が悪いという考えを持っていると聞いていたが、どうした、ここに至っては自分が悪かったと考えないのか。
警察の捜査は常に注意深く観察していたよ。我々にとっては全然心配いらなかった。だが、八王子の事件から状況が変わりはじめた。そして同志八人を拘束した。君たちは踏み込み過ぎた…… 」三角頭巾の声がここで凶暴な凄みを帯びたので、北岡はぶつぶつと鳥肌がたったのを感じた。直感的にその報復として自分と家族を拉致したのかと思った。
鎖でつながれて、脱出などとてもできそうもない。騙される方が悪いと発言したことがあるが、それは詐欺話にひっかかる類についてであって、これだけの罠にかけられた上でこの皮肉には怒りが湧いたし、それを知られていたことが、恐ろしくもあり不気味に思った。そして妻娘を人質にとってまで、自分に何をさせようというのか気になった。
「妻と娘は無事か?いまどこにいるんだ? 」北岡は不気味な思いや怒りを振り払うように三角頭巾に尋ねた。
「生きている。場所を明かすことはない 」感情を抑えた三角頭巾の声の調子に慣れてきた北岡は、生きているという情報だけで満足するほかないが、それでも鬱屈した思いは晴れることはない。
「さっきあんたは、協力してもらうと言ったが、何をすればいいんだ? 」と北岡はついに自分から尋ねてしまった。三角頭巾はそれを待っていたように静かに答えた。
「内容を伝える前に、我々に協力すると誓ってもらう 」
「それでは、何でも言うとおりにするということではないか!ありえない。私は警察官だ。あんたらの手先におちることはない 」北岡はおもわず力強い声で言い切った。三角頭巾はそれを聞いた後、暫く冷たい目で北岡を睨んだ。すると北岡は今の境遇を見て、自信とプライドがぐらつきはじめ、言ったことを悔いる表情が沁み出してきた。三角頭巾はそのタイミングを狙ったように口を開いた。
「今の発言は、面白かったよ。そして今のその顔がさらに増幅している。これから君を拷問でもてなそう」三角頭巾は懐から無線機を出し「準備せよ 」とだけ伝えた。
「拷問とは、何をする気だ 」
「時間がないので手短に済ます。これから君を全裸にして、睾丸をペンチで潰す。これに耐えた者は過去にいない。万が一、睾丸を二つ潰されても警察への忠誠が揺るがなかった場合は、我々は敬意を表して人質を無傷で解放する。そして君は即死の形で処刑する 」
淡々とした三角頭巾の言葉は、北岡の耳に脳に響いた。
これから自分の睾丸がペンチで潰される……。それが想像もつかないほどの苦痛が伴うことを、否が応でも想像してしまう。北岡は跪いた状態で上体を起こしていたが、両手を腿にやってズボンを握りしめていた。恐怖で睾丸が自然に上がってくるのがわかったし、全身から冷や汗が噴き出して、顎の先の髭からポタリポタリと落ちた。
ほどなくガタンと音がしてドアが開き、黒いマスクをつけた四人の男たちが拘束台とペンチを運んできた。それぞれ一八〇センチ以上の上背があり、マントを身につけて体格はわからないが、時々のぞく腕は筋肉質で太かった。北岡がここで初めて聞いた物音は、自分を拷問するための器材を運び入れるためのものだった。その器材を見た時、北岡は姿勢を土下座に切り替えて詫びた。
「待ってくれ。私が悪かった。頼む、この通りだ! なにもそこまでしなくてもいいじゃないか。なっなっ 」三角頭巾は必死にすがる声に全く反応しなかった。
四人の男は手早く一分のうちに拘束台を組み立てると、力いっぱい暴れる北岡をまるで幼児の服を脱がせるように全裸にし、スムーズに拘束台に乗せて固定した。彼の声は悲痛な叫びに変わった。彼らにがっちり身体を抑えられた時、そのあまりの力の差に、むりやりに車に押し込まれたあの夜と同じ感覚を思い出した。
「君は罪人ではないから、喉に麻酔は塗らない。好きなだけ叫ぶといい。やれ 」
三角頭巾が命じると、四人の内の一人が手術用手袋をつけてペンチを握った。北岡は渾身の力で身体を動かそうと試みたが、一センチも状態を変えることはできなかった。恐怖で全身が震え、叫び声をあげることもできない。男がスッと北岡の開いた両足の間に入る。既に睾丸は縮み上がり、小便がペニスからちょろちょろと滴った。その黄色い液体の小隊は、ばらばらに頼りなさげに北岡の下に溜まった。男は冷静にその細やかな抵抗がおさまるのを待っている。そして、いよいよという時に、北岡は叫んだ。
「わかった!なんでも、なんでも協力する!だから、だからやめてくれぇ 」
マスク男が指示を仰ぐように三角頭巾の方を無言で見た。三角頭巾は北岡の変節に腹を立てた様子だった。
「北岡君、我々を甘く見てはいけない。続けろ 」
マスク男は左手で北岡の睾丸袋を引っ張り出し、右手でペンチを握り睾丸を挟んで力を入れた。ゴロリという音がしたかのような感覚と、睾丸から痛みが走り、北岡はこれまで経験したことのない激痛にのたうった。深く鋭い痛みの塊が胸の中を抉り散らしてあまりの苦しみに、息ができず全身から汗が吹き出して水混じりの胃液を吐き、今まで出したことがないくらいの悲鳴のあとで、両目がぐるりと裏返って失神した。
怒髪天と思われる八人を拘束した直後のST署は沸き立ち、稲葉巡査は大手柄と評価された。今までSP西郷の活躍が目立っていたが、今度は警察の面目躍如だと言う者もいて、西郷はそんなことを言っている場合かと不快に思った。ところが、一日たっても二日が過ぎても、八人はまったく口をきかなかった。従って怒髪天に関する情報どころか、名前や年齢、住所も黙して調書を少しも取らせなかった。指紋を採っても前科が無いので身元がわからず、警視庁からも取り調べに長けた捜査官が尋問しても、まったく情報がとれないことは異例で、警察は尋ね人として八人の顔写真を公開して情報を求めたが、寄せられた情報のすべてが悪戯か嘘で、八人の素性は未だに不明のままでいつしか『名無しの八人』と呼ばれるようになった。
そしてとうとう、怒髪天が住所・氏名を公開して狩れと嗾けた者達が襲われる事件が発生し始めた。無言電話や悪戯電話、投石や放火、傷害、殺人。とエスカレートし、全く関係ない者まで襲われる事態となってしまい、警察は非難の的となった。
「予想はしていたけど、困ったことになったわね。毎日事件の山だわ 」
西郷が運転するレンタカーの隣で、篠田警部がボヤいた。今日の仕事は、拘束した八人を知る者がいないか聞き込みで、それは昨日と同じだ。勿論彼らだけではなく、三十人からの捜査官が必死で捜査しているのだが、成果はない。街の誰に聞いても、色々な反応を見せて知らないと答えた。それらが本当かどうか確かめようがないのだが、人々は一様によそよそしく、関わりたくないという様子で、相手の心に迫ることができないことが多くあった。更にインターネット上では匿名で、怒髪天を支持する声が増えてきている事実も把握している。しかし警察は、八人の取り調べを続けると同時に、顔写真を手掛かりにして何とか身元を割り出すという方針をとった。
「でも、あの八人の精神力は凄いわ。事情聴取のプロの尋問をかわし続けるなんて、今まで聞いたことないもの。西郷さんはどう思う? 」
最近の篠田警部は、自分の意見を押し付けるような態度が影を潜め、西郷にも意見を求めるようになっていた。西郷もこの事態は意表をついていた。
「ベテランの刑事が言っていたのですが、ああいうのは時間がかかるらしいです 」
「どういうこと? 」
「私が言うのも妙な気がしますが、一般的に被疑者は、心の奥底に罪悪感や後ろめたさを持っているそうです。それを抱えながら平然を繕っていると、取り調べの心理的な揺さぶりのなかで、どうしてもそれが表情や仕草に出てくるのだそうです。そして話に矛盾が出てくる。ベテランはそこを突いてじわじわと追い詰め、それから決定的な物証を提示でもすれば自供するそうです。
ところが彼らは、心にそれらを抱えていないようなのです。自分はまっとうに生きてきたという自負があり、正しいと信じたことをやってきたと思っていると、本当に自然体で堂々と対応できて、心理的な揺さぶりにも動じることがなく、何日でも一言も口をきかずに過ごすことができるらしいのです 」
「なるほど、つまりちっとも心理的に追い詰められていないということね 」
「だと思います。トラックの中で相当打ち合わせをしていたのではないかと。それに全員に弁護士がついて目を光らせて、行き過ぎた尋問から守られ。支度金を五百万円渡されたことも精神的に大きいでしょう 」
「あいつら絶対依頼元をわらないんだからね。だったらもう、嫌疑不十分で釈放して尾行すれば、どこのだれかぐらいすぐにわかるんじゃないの? 」
「それは素晴らしいアイデアかもしれませんね。だけど、一応は拘留期限までひっぱって、それでもダメなら、そうするのではないでしょうか。彼らは沈黙することで、怒髪天の関連を認めたようなものです。それを怒髪天が、どのような手をうってくるかですね。多分こちらが、彼らを泳がせて(尾行して)身元を掴もうとするくらい想定していると思います。どこかで邪魔が入ると考えた方がいいでしょう 」
「そうねぇ 」篠田警部は気のない返事をして左手で髪をかき上げ、流れてゆく街の景色に目を移した。
「西郷さんの意見は尤もだけど、それが日々の捜査にどれくらい反映されるのか分からない。今日突然あの八人が喋りだすとは思えないし、聞き込みで手がかりが取れるという確証はない…… 」彼女の気は沈んでいた。不安な気持ちがぞわぞわと湧きあがってくる。
北岡刑事部長は、警察が八人を拘束した翌日の夜から行方不明になった。官舎マンションには誰もおらず、奥さんや娘さんも姿を消していることがわかった。連絡はなく、こちらからも連絡がとれないままにもう三日が過ぎている。警察は非公開で別の人員を使って捜索しているが、行方はまだわかっていない。 固定電話に残っていた音声と防犯カメラの画像を分析した結果、深夜に誘き出されてさらわれた可能性が高い。そして奥さんは同日午後四時から、娘さんも午後八時以降に外出先で姿が消えたことが判明した。
確証などなくても、これが怒髪天の仕業であることは警察官なら誰でも想像できた。そして誰もが北岡と家族の身を心配している。そして遂に警察官が襲われたことに恐怖を感じた。警察官が個人に戻ったところを襲われたらひとたまりもない。それも家族も狙うという卑劣な手口は、底知れぬ恐怖と怒りが湧きあがった。一刻も早く怒髪天を摘発・解体しなければ、警察の威信どころか存在意義が問われるし、いつ襲われるかわかったものではない。と気持ちが焦るが、未だに怒髪天の尻尾さえ掴めていない現状に、いつしか彼女は疲れ、いつもの元気が擦り減ってしまっていた。怒髪天は、六本木の天誅と犯行声明を出して以来、沈黙を守っている。北岡一家が行方不明になっても、何も警察に接触してくることはなかった。その沈黙が、警察官たちに不気味さや恐れを抱かせた。
午後五時過ぎ、西郷が運転するレンタカーの横に篠田警部がぼんやりと座っていた。今日も収穫無しで署に戻る途中で、彼女は滅入った気分で雨の降る窓の景色を眺めていた。顔色が優れないのはウィンドウガラスに映った像からもわかった。今日もあの八人はどこの誰なのかわからなかった。北岡刑事部長は行方知れずのままで士気の低下につながり、今は怒髪天に迫ろうとする警察官は、家族も安全ではないという噂が聞こえる。
「ねえ、西郷さん。あたしずっと考えていることがあるんだけど、聞いてくれる? 」
西郷はその邪魔にならないように「どうぞ 」と応えた。
「怒髪天はもしかしたら、私設のグループで、社会に蔓延る目に余る悪い奴らを見つけては、司法機関よりも過激に処罰するのが目的なのではないかしら。そう考えると、人々が警察にあまり協力的でないことが理解できるでしょ。そうすることで東京を良くしていこうとしているんじゃないかしら。
あたしだって聞き込みの経験はあるけれど、こんなにも手ごたえがないのは初めてなのよ。怒髪天はこれまで、関係ない者を襲ったことはないし、他の犯罪に手を染めていないことも、独自の活動方針がちゃんとあってそれを貫いているから、自分たちも天誅を続けられるし、都民からも受け入れられてるんじゃないかしら 」
篠田警部は自分の思うことがまだ言い足りていない様子だったが、ここで言葉を切って西郷の反応を窺った。
「仮説としてはいいと思いますよ。私も連中はネットワークを使って、同志を集めて活動していると思います。例えば、日本の国をもっと良くしたい人とか、悪が許せない人とかで募集し、その中から使えそうな者を選んで活動メンバーにしていると考えています。
メンバーが皆優秀だから、横のつながりがなくても、個別にやることが指示されているから、活動が問題なくできるのではないでしょうか。多分ネットの中に窓口があると思うんですがね。あくまでも表向きはわからないようにして……。
私も警部に同意するところですが、例えば、酷い連続殺人事件であっても、これが社会の治安維持には必要なことで英雄的な行為なのだとか教育を受けると、罪悪感無しで簡単にできてしまうのではないでしょうか。罪悪感がなくてむしろ正しいことをしたのだと思えば、又簡単に日常の生活に戻っていける。それに警察に嗅ぎまわられてもこれだけガードされたら、メンバーに大丈夫だと言っても説得力があると思います。
鍵はネットワークサービスにあると思うのですが、サイバー警察も日々監視していても、国内外に存在するサイトは無数にあって、その中身を深くチェックすることはできないし、本当に悪質で違法なサイトがゴマンとある状況では、一見問題のないサイトを疑うことは事実上難しいんでしょうね。
それでも我々には、共通の仮説があるのですから、地道な検証を懲りずにやってきましょう。まだまだこれからですよ。怒髪天はきっと尻尾を出します 」
「……そうね。あたしたち粘り強くいきましょう 」
篠田警部は冷めた気持ちの中でも西郷の思いやりに触れて、少しだけ温かみがついた笑みを見せた。
15章
ST署で報告などを済ませた西郷は、午後七時頃にTホテルのカープールにレンタカーを停めた。降っていた雨は既にやみ、アスファルトを黒く染めて街灯の光を白く反射していた。西郷は無造作に車を降りると、たまたま赤いポルシェ・カレラが目に入った。それはまるでミニカーのように真新しく、雨粒を丸い珠のようにボディに浮かべ、クリスタルなアクセサリーをまとっているように見えた。その低い車高に、流麗なフォルムにして大胆に飛び出した目玉のようなヘッドライト。そして異様に太いタイヤは、停まっていても、まるで走っているかのような躍動感と迫力を感じさせた。
国内屈指の高級ホテルともなると、カープールにベンツなどの高級車が多く停まっていて、そんな光景にはもう慣れたが、赤のポルシェは珍しかった。「一体どこのバカが乗ってやがるんだ 」西郷は自分には絶対に縁がないであろう赤いポルシェに目を奪われ、それに乗る見知らぬオーナーに毒づいてホテルのフロントに向かった。
レンタカーのキーをボーイに渡し、広々としたフロントロビーに立つとフロント係の美しい女性が、西郷をみとめて「おかえりなさいませ。西郷様。メッセージをお預かりしております 」と素敵な笑顔とともに部屋のカードキーと一緒に封筒を差し出した。西郷は礼を言ってそれを受け取り、部屋に向かいながら封筒の中をあけてみると、千葉秀樹からであった。隣にチェックインしているから、連絡してほしいとのことだった。西郷の胸は踊り、部屋に入るなりに受話器をとって千葉の部屋に電話した。
電話に出た千葉の声は弾んでいた。成田空港から直接チェックインしたという。まるで今までマンガ本を読んで爆笑していたかのように明るかった。久しぶりの挨拶の後、一時間後にホテル内の日本食レストランで夕食を一緒にとろうということになって電話を切った。
「やれやれ 」西郷は思わず独り言を呟いてシャワーを浴び、カジュアルな服装に着替えて城之内に報告書を出したあとレストランに向かった。
レストランのマネージャーに恭しく通された個室に入ると、千葉は既に座っていて緑茶を飲んでいたが、西郷を認めるとスッと立ち上がり懐かしそうな顔で挨拶をしてきた。
「ご無沙汰しております。西郷さん。こんなところでお会いするとは、なんか不思議ですね 」千葉の声はそれ程低くはないが、どこかのんびりとした響きがあり、黒く日焼けした顔に白い歯が印象に残る。クリーム色の折り目のついたコットンパンツに鮮やかな艶のあるピンクのシルクシャツを着こなしていた。 西郷は、千葉はこういう男だったと思い出し、彼の言葉を笑顔で応えた。
「久しぶりだね。というか一緒に食事するのは初めてだよ。何か運命的なものを感じるね。まま、座ろうよ 」
二人は腰を落ち着けた。畳の座敷だが、テーブルの下は堀になっているので脚は楽だ。早速ビールで乾杯ということになってジョッキで生を注文した。
「休暇はどこか行ってたのかい? 」
「ええ、ニューヨークとセント・トーマス島です。そこでまったりしてました 」
「そりゃすごいね。それで何してたの?妻帯者にはどうも想像もつかないんでね 」
「マンハッタンのダウンタウンに、ソーホーという街に友達がいましてね。久しぶりに会って色々話をしてるうちに、休暇なら鹿狩りに行こうぜとなって友達とその彼女とそのまた友達の四人で北の山行って鹿を撃ってステーキにして食べながらキャンプみたいなのやってました。USAでは、十月から狩猟解禁なんです。それから海だったらセント・トーマスが良かったよってすすめられたんで、そこ行ってみたんです 」
「へぇ。なんか羨ましいんだけど、それでどうだった? 」
「結果良かったです。そこは一応観光地なんですけど、そこを外して海辺のコテージを借りて、釣り竿で魚吊って食べて、酒場でナンパしたり友達つくって、ギター弾いてみんなで歌って踊ったりね。みんな適当で、太陽と月が一番真面目で律儀でしたよ。だって毎日正確な軌道で顔を出すんですからね。そんでいつもウィスキー飲んでました。ジャックダニエル。暑かったら海に飛び込んで、暗くなったらベッドに潜りこむって毎日でね。ホント帰りたくなかったっすよ 」と屈託なく笑った。
西郷はそれを聞いて、千葉がそこでいかにも楽しそうに、溶け込んでいるのが想像できて声を出して笑った。そこには太陽と月と星々があって、同じ時間に同じところを巡り、山と海と酒と女と陽気な友達があればいいという千葉の人生観が窺えた。
なかなか面白い男だ。そういえば髪の毛はぼさぼさで、それも彼のスタイルだと思っていたので気にならなかったが、そんな生活をしていたと聞くと納得できた。西郷もそんなレイジーな生活が一瞬羨ましくなったが、もしも自分だったらきっと初日から途方に暮れるに違いない。千葉は実はこんな男なのかとしみじみと思った。
そんな頃に化粧をほぼ完璧にきめた小奇麗な中年ウェイトレスが生ビールをジョッキで二つ運んできた。食事はしゃぶしゃぶでも食おうということになり、千葉が適当な肴と一緒にオーダーした後、二十分間隔で様子見に来てと言い、更にアコギを付け加えた。
「アコギ?でございますか? 」中年ウェイトレスは微笑と共に、頭の中で必死にその語を検索したがヒットしなかったらしく、小首を傾げて聞き返した。
「やだな、アコースティックギターですよ。どこにだってあるでしょ、それお願いします 」これまで幾多の客を捌いてきた彼女も、アコギの注文を受けたのは初めてのようで、西郷は彼女の微かに当惑した顔を見てなぜか痛快に思った。彼女は「そうでございましたか。かしこまりました 」と言って下がった。
それから二人は自然に乾杯し、ジョッキを傾けてグイグイと飲み干した。二人のゴキュッ、ゴキュッという音だけが響いた後は、アーと吐息を漏らして互いに上唇についた白い泡を見て笑い合うのだ。
「いやあっ。よっく冷えてて旨いすねぇ。こんな冷えた奴飲んだの久し振りっす。島のビールは全部ぬるくってね 」と言って小魚の佃煮を掴んで口に放り込んだ。
西郷はそう言って笑う千葉を見て、これまで抱いていたイメージがガラリと変わったことを自覚した。正直なところ、西郷は千葉をあまり好きではなかった。よく言えば型破り、悪く言えば常識知らず。彼はSP創設以来のエージェントで、オフィスに机はあるが、ほとんどそこにはおらず。彼の担当した事件は解決を見るものの、銃撃戦やカーチェイスが多く、事故や死傷者が絶えないことで名を馳せていた。しかし一般人を巻き込むことはないので、それを揉み消す手伝いを何度かやらされたことがあって、超法規という免罪符で言い訳を一切しないことが、「冷酷な破壊者」という異名もとっており、とかく悪いイメージを持たれていて、いつか彼を懇々と説教してやろうと思っていた。
しかし、こうやって酒を飲んで話をすれば、風変りではあるがそれ程悪い男ではないことがわかった。自分だって東京に来て、既にレンタカーを一台潰し三人を射殺し二人を見殺しにしている。それについていまだにとやかく言う輩がいる状況では、千葉の立場がよく理解できた。事情をよく知らん外野はすっこんでろ!ということだ。
休暇で当たり前のようにニューヨークに飛んで、友達と山に入って鹿を食べて過ごし、カリブ海の常夏の島で釣れた魚を食べて暮らし、Tシャツと短パンとサンダルで、気に入った女の前で脱いで、酔っぱらいながら歌って踊って、太陽と月が一番律儀だと主張する男に、自分の論理が通用する、わけがない。それでいて自分よりも若くて腕がたつのだから、彼は日本人には珍しい狩猟の人であって、あの物騒な異名は適格ではなく「明るい破壊者」に変えるべきだと本気で思った。それで西郷は説教をかなぐり捨てて、すっかり千葉のペースに付き合った。その方が断然楽しいし、酒と料理がうまいのだ。話は尽きることがなく、酒もしゃぶしゃぶも申し分なく、宴が進むうちに、西郷は例の三十対一の梅木奪還作戦の話題に少し強引に引き戻した。
その話になると、千葉は意外にも恥ずかしがった。西郷はあの対応策が、自分ではどうしても思いつかなかったと告白し、だから御前は凄いと、どうしても言いたかったのだ。千葉はそれを聞いて殊勝な声になって言った。
「そんなことないですよ西郷さん。まったくクイズやなぞなぞじゃないんですから、話を聞いただけじゃ僕だってわかんないですよ。他人事だもん。でもね、もし西郷さんがあれを担当したら、もっと良い策出たと思いますね。あの命懸けのびりびりした緊張感で時間もない中では、あれが僕の精一杯だったということです。死ぬかと思いましたよ、ホント。でもユリさんがですね、生きて帰ったらデートしてくれるっていうから、あれが一番でかかったっすね 」
「結局そこかよ! 」
千葉がユリの話をしたとき、ごちそうを食べ終わった狼が満足し、ぺろりと舌を出したような顔をしたので、西郷は急に憎らしくなって強く言ってしまった。みんなが美しいと認めて眺めるだけで満足する高嶺の花を、この狼がサッとくわえてさらっていったのが、西郷には妬ましく思えたし、どこか痛快さも覚えた。この男とデートして、何事もなく、はいさようならで済むはずがない。そういえばその後のユリの顔を見ていないので、帰って彼女の顔を見るのが楽しみになった。
そこへ、中年ウェイトレスがアコースティックギターを持って部屋にやってきた。
「このギターは、演芸ホールにございまして、拝借するのにお時間かかりました」と付け加えたが、千葉にはそれが全然届かない様子で、礼を言ってそれを受け取ると、慣れた様子でじゃらんじゃらんと弾き始めた。
「あ、これヤマハの高い奴だ。やっぱ良い音するなー。プロが使う奴ですよ。これ 」と言ってはしゃいだ。「それじゃ一つ、みんな知ってるやつ。ビートルズのシーラヴスユーいきます 」と歌い始めた。この軽快な歌は、音楽に興味のない西郷もどこかで聞いて知っていた。中々うまいもので思わず聴き入り、終わると中年ウェイトレスと拍手までしてしまった。彼女も千葉にあっさりと無視されて、是非腕前を見てやろうと思ったのだろう。
千葉は気を良くして、他にも歌ったが、歌詞が英語なのでみんな同じに聞こえた。最後に千葉は、ココナッツグローブを歌い始めた。西郷も彼女も知らない初めて聴くものだったが、静かにゆっくりとしたイントロを長く弾いて、セント・トーマス島の余韻に浸っているようだった。朝の起き抜けのような、もの憂げな声で歌うその歌は、意味がわからなくても、南の島ののんびりとした風景を十分に思い浮かべることができた。
「千葉君、歌うまいんだねぇ、雰囲気あるよ。感心したなぁ 」
「ありがとうございます。古い歌なんすけど、やっぱりいいすよね 」と言ってギターを彼女に渡した。もう満足したらしい。彼女がまだいたのが驚きだった。
西郷は千葉のような男をこれまで見たことがなかった。麗子の言葉を借りれば、マンガみたいな男ではないか。三十対一の件もそうだが、プライヴェートもこれなら、自分の常識の遥か彼方に存在している男だ。今まで遠目から見るだけだったが、ここで実際話をすると、自然に受け入れることができた。それは彼のキャラクターのせいもあるのだろうが、多分千葉がワイルドでレイジーなスタイルで休暇を楽しんだだけで、芯はしっかりしているところが見えるからだろう。つまり彼は心底堕落・退廃しているわけではなく、その気になればいつでもまともになれるポテンシャルがわかるからなのだろう。ユリとデートできる件も含むのだが、そこはなにかむずむずするところだ。
西郷は千葉に怒髪天について何をどの程度知っているか尋ねてみると、殆ど知らないとあっけらかんと答えたので、その正直さというか潔さに笑ってしまった。へんに知ったかぶりされても困るので、かえって説明のし甲斐があった。千葉は西郷の報告を真面目に聞いて、頭に入れたようなので、明日は朝九時にST署で落ち合うことにして、西郷は挨拶をしてから新幹線でY県に帰ると決まった。
翌日西郷は朝一番で驚いた。九時前にST署の駐車場にレンタカーを停めると、あの真紅のポルシェが既に停まっていたからだ。とすれば、あのオーナーは千葉以外には考えられない。「最高だ 」西郷は呟いて署内に入った。二階の一角に用意されたSP班の部屋に入ると、千葉はマグカップを片手に篠田警部、稲葉巡査とそしてなぜか麗子もいて談笑していた。千葉がポルシェに乗ってやってきた時、麗子はてっきり交通違反の講習を受けに来た者だと思い込んだことを笑っていたのだ。西郷もその和やかな雰囲気に入り込んで、千葉を紹介し今日付けで、自分は帰任することを告げた。篠田警部は遂に来たかと両の目を閉じた。
九時になって三階の大講堂で朝礼があり、千葉が紹介されて西郷は今日付けで帰任することが署長から伝えられた。西郷は八王子事件の活躍と、初めて被害者の身元を割り出したことが知られていて、温かい拍手を受けた。西郷はそれを受けて、色々なことがありましたが、ここでの活動は大変有意義でした。私は帰任しますが、事件の解決をお祈りいたします。お世話になりました。と締めくくると、更に大きな拍手が湧き上がった。続いて千葉が爽やかな笑顔で宜しくと手短に挨拶した。千葉の彫刻のように彫の深い端正な顔としなやかな容姿、優雅な立ち居振る舞いが、女性の心をときめかせることがあり、この時も何名かの女性職員の心を掴んだが、その中には篠田麗子が含まれていた。
そして、行方不明になっていた北岡刑事部長が復帰して挨拶をすると、一五〇名程の捜査官が控え目にざわついた。目が虚ろで落ち窪み、頬が削げて、くまと青白い顔色をファウンデーションで隠し、黒いカラーで白髪を染めて短くカットしていたが、そのやつれようはとても隠せるものではなかった。身体つきも肩が下がって一回り細くなったために、スーツがだぶついていた。たった四日で、どうしてこれほどに人が変わってしまうのか、その経緯は伏せられたが、何者かに酷い目に遭わされたことは全員に伝わった。その何者かとは怒髪天だと囁かれた。
朝礼解散後、四人はSP班の部屋に集まり、例のビデオの話や赤いポルシェの話で盛り上がり、若い稲葉巡査は既に千葉によくなついていた。西郷は「後を頼むよ 」と言って署から支給された携帯電話を千葉に手渡した。千葉は「承知 」と言って携帯電話の中をチェックした。篠田警部は、西郷が帰ってしまう寂しい気持ちを隠すために無理に陽気にふるまっていた。既に千葉は休暇の余韻を払拭しており、武装した上でイタリー製のダークスーツを着こなしており、その姿は西郷にはない華があった。篠田警部などは「あなたが、あの千葉さんなの? 」と確認をいれたほどだ。
西郷は帰任できる安堵と家族に会える喜びを抑え、事件がまだまだ半ばであることと篠田警部に気を遣いながらの会話はややぎこちないものとなった。
「あの赤いポルシェは御前のか? 」
「やだな、あれは公用車ですよ。ちょっとした改造がしてあって、Y県からトラックで陸送したんです。それとメカニックが一人随伴で上京しています 」
「あの車、スゴイ恰好良いんですけど 」若い稲葉は、羨望と憧憬を全身で表していた。
「それじゃ今日の捜査はポルシェで行くわけ? 」
「そうですよ 」
「今度乗せていただけないでしょうか 」と稲葉が言うと「うーん、機会があればね 」と千葉は笑った。篠田警部は、何故公用車が赤いポルシェなのか、そして専属の担当が付いてわざわざ陸送までしてきたのか理解できないでいたが、あのビデオを思い出し、銃撃の恐ろしさを十二分に知っているので、多分防弾仕様なのだろうと思った。それから、西郷の前に立ち、顔を見上げて瞳を見つめて気持ちを込めた言葉を告げた。
篠田警部は、女としての悲しみと未練が混ざった強い想いを警部という責任感で無理やり抑え込んだような笑顔をみせた。西郷もこれにはきちんとした別れの挨拶をして区切りをつけた。そして北岡刑事部長に挨拶しようと電話すると、今なら時間があるので来てほしいということで、四人は彼の部屋を訪れることになった。
北岡の心は深く沈んでいた。妻と娘は今も怒髪天にさらわれたままで、自分は自宅の近くで放り出され、これから刑事部長の立場で怒髪天に協力しなければならないのだ。結局睾丸は潰されずに済んだ。気絶したところでやめてくれたのだ。拷問は苦痛を与える手段であって、睾丸を潰すことが目的ではないらしい。もう二度とあの激痛を味わいたくないし、今でも腫れてひどく痛むのだ。
「我々に協力しなければ、今度は気絶させずに何度でもこの痛みを味わってもらう」と言われて屈した。守秘義務だとか服務規範だとか、そんなものは妻娘を人質にとられ、あんな拷問を受ければ。吹き飛んでしまうというものだ。幸い上官は深く追及することなく、現職に復帰させてくれた。後は嗅ぎつけられないように計画を実行するだけだ。失敗すれば自分と妻娘の命はないだろう。その為には、西郷が邪魔だった。怒髪天もSPという組織と西郷誠については「白マスクの男」として強い興味を持っていたので、知っていることを全て話した。
ノックの後、篠田警部ら四人が部屋に入ってきた。千葉以外の者は執務机で両肘をついて塞ぎ込んでいる北岡を近くで見て息を飲んだ。しかし西郷は敬意と親しみを込めて、帰任の挨拶と後任の千葉を紹介した。北岡は、身体の調子が悪くて立つことができないと詫びてから、座ったままで西郷の顔を儚い夢でも見ているかのように微笑み、「ご苦労様でした 」と労った。その言葉には、自分と妻娘がさらわれる前に、君にいてもらいたかった。という思いがこもっていた。一方千葉に注目すると、西郷に比べると身長は同じくらいだが、身体つきは華奢で頼りなく、雰囲気に華を感じ取って軽く見た。なんだこの男は、ちゃらちゃらしやがって……それが彼の千葉に対する第一印象だった。北岡は社交的な笑顔に切り替えて千葉に目線を合わせて「頑張ってください。期待しています 」と締めくくった。
それから西郷は、レンタカーでST署を去っていった。篠田警部が手作り弁当を手渡すと西郷は、新幹線で味わっていただきますと礼を言って笑った。三人はそれぞれに西郷に対する思いを胸に、これから仕事に向かう。篠田警部と千葉は引き続き名無しの八人の聞き込み。稲葉は不審車探しで昨日と同じだった。千葉は洒落のつもりなのか、ポルシェデザインのサングラスをかけて篠田警部と車に向かった。
千葉は右のドアを開けると、座席に腰かけ身体を回転させて長い脚をフットスペースに滑り込ませてドアを閉めた。彼女も千葉を真似て乗り込んできた。ドアを閉めると高い密閉性のおかげで急に静かになった気がした。
「あたしポルシェに乗るのなんて初めてよ。なんか緊張するわね 」
「窮屈でしょうが、直ぐに慣れますよ 」と声がしたが、それは千葉の声ではなかった。
「今何か言った? 」彼女は千葉に問いかけると「私はカエル君です。どうぞ宜しく 」車内のどこからか若そうな男の明瞭な声がした。
「ひょっとしてポルシェってしゃべるの? 」彼女が目を丸くして尋ねると、千葉はニヤニヤしながら説明した。
「ポルシェがみんなしゃべるわけじゃないですが、この車には開発中の人工知能が搭載されているんです。この人工知能はこの車の全てを制御して、車内の人間と会話したり、守ったりするのです。将来的には自動運転のたしにしたいみたいですよ。車の走行記録や会話は全て記録されて本部に転送されるので、そのつもりでいて下さい。ちなみに、カエル君というのは僕が名付けたんです 」
「へぇ 」
「今回の女性は前回と異なって小柄ですね。千葉さん 」
「余計なことは言わないでいいから。彼女はST署の篠田警部だ。これからしばらく一緒だから、そのつもりでいてくれ」
「承知 」
「承知だって、千葉君に似るのね 」
「会話の相手が少ないから仕方ないのでしょう。カエル君は学習機能が付いているので、どんどん話しかけて鍛えてやって下さい 」
「篠田警部。あなたを画像認識するので、スキャンしますのでレーザーを直視しないで下さい」
カエル君がそう言うと、助手席の警部に青色のレーザーが上から下に走り、頭から爪先までを画像データとしてメモリーに収めた。
「このデータから警部専用のヘルメットを用意します 」
「ヘルメット。あたしそんなもの被ったことないわ 」
「あなたの首の骨を守る大事なものです。後ろには私のヘルメットがあるでしょう。いつも使うわけではありません。あくまで非常時のみです。それと、シートベルトをしましょう 」
二人はしっかりしたX型のシートベルトをがちっとしめたところで、千葉はエンジンをスタートさせた。ズヒューンゴロゴゴゴ……という車内の密閉された空間ではくぐもった小さな音を響かせカエル君は静かにST署を後にした。
「さてと、どこに行きましょうか 」
「そうねぇ、昨日はここをやったから、今日はこの隣のブロックのアパート群をしらみつぶしにやりましょう 」
「承知 」
千葉はポルシェをおとなしく走らせて指定場所へ向かった。最短コースの指示はカエル君が行う。
「カエル君ラジオつけてよ。なんかニュースとかおしゃべりが多い奴 」
「承知。退屈なのですね。ラジオ短波はどうでしょう」やがて若い男女の軽妙なトークが流れた。内容はあなたの周りの勝ち組と負け組について……。
「それにしてもポルシェって視界が低くて地面すれすれを走ってるみたいだけど、意外と前がよく見えるのね。それにハンドル操作の感じが直に伝わってくるし、ゴツゴツと道路の振動を感じるわ 」
「さすが。鋭いですね。この車は防弾仕様でタイヤに空気の代わりにゼリーみたいなのが入ってるんですよ 」今度は千葉が応えた。
「じゃあパンクしないし、銃撃されても大丈夫なんだ。あたしね、この前初めて銃撃されたの。西郷さんのおかげで助かったんだけど、あの時は怖かったぁ 」
「それは大変でしたね。僕も銃撃は勘弁です。何も無いのが一番ですよね 」
千葉は篠田警部に調子を合わせて対応し、他の改造部分を語らなかった。結局この日も八人は無言で調書を取らせず、百人からの捜査官が数千人に聞き込み調査を行っても、名無しのままで終わった。柏市の引っ越し業者も幽霊会社で、収穫無しに終わった。昨日と違うところは、北岡刑事部長が捜査官に檄を飛ばして士気を高めようとした点と、彼の提案で今まで名無しの八人を分散させて別々の警察署で事情聴取をしていたところを、ST署に集めて短い時間でも顔を見させて心理的な変化を付けさせた点だ。これは異例のことだが明日も継続するという。
しかし北岡の顔色は蒼ざめていて声に勢いがなく、捜査官の士気が上がるところまではいかなかったし、八人の集結も効果に疑問を持つ者もいた。だからと言って何もしないよりはまし。まだまだこれから。というのが篠田警部の心境だった。稲葉はそれに同調。千葉はそれらを冷静に観察していた。
篠田警部は内心で、千葉にはがっかりしていた。もっとバリバリやるタイプを想像していたのだが、如才なく立ち回っての仕事ぶりに不満はないが、御前本当はもっとできるだろ。という印象を持った。でもまだ初日だから様子を見たのかもしれないとも思った。とにかく西郷さんが認め、あのビデオの活躍は事実なんだから、失望するのはまだ早いと思い直した。
千葉は淡々と報告書を作成し、上司であるY県の等々力に電話をかけて、帰りますと告げた。等々力は、千葉が何もしなかったことを喜んだ。上司が喜べば千葉もニコニコだ。彼は篠田警部に向かい、今日はこの辺で失礼します。と挨拶して帰ろうとしたとき、麗子が部屋に入ってきた。
「こんにちは~ 」
「はいこんにちは 」
「あたし交通課の主任なの。篠田警部は、あたしの姉でして十歳も上なのよ、今朝は、てっきり講習の受講だと間違えちゃってホント失礼しましたぁ 」といきなり千葉の懐に飛び込んできた。
「あいつばっちりメイクしちゃってさぁ。見てよあのスカート。三センチはたくし上げてるわよ。あたしと十歳違いだって、ホントは九歳よ。若さアピールしちゃってさ 」
篠田警部は、露骨な麗子のでしゃばりに気分を害し、傍にいた稲葉に毒づいた。
「警部。ちょっと声が大きいですよ。聞こえますって 」
稲葉は警部の怖いしかめ顔を見て慌てて小声で制した。その慌てぶりが、両手を軽く伸ばして振りながら両足を小刻みにバタバタした格好が、千葉の目の隅に入った。
「どうしたイナバー。そういうステップが今はやってるの? 」
「そんなわけないじゃないですか 」
「こちらの麗子さんがね、僕の歓迎会をやろうって仰ってるんだけど。今日僕は車で来てるから無理なんだ。だから君が日本男児として麗子さんをエスコートして下さい。それじゃ麗子さん、残念ですがまた今度にして下さい。それでは御機嫌よう 」
千葉は麗子に優雅に一礼して部屋を出て行った。麗子はその後ろ姿を見送りながら。その断り方が気に入ったらしく、「そうよね。あたしったら車で来た人にいきなり歓迎会だなんて、無理よね。それを気遣ってくれてやんわりと断るなんて、さすがだわ。また今度っていうのもいけてるわぁ」と瞳を輝かせた。
「それでは、麗子さん。今夜は日本男児の僕がエスコートを…… 」
「何言ってんのあんた。十年早いわよ。お姉ちゃん。明日から千葉さんのお弁当あたしがつくるから 」「何言ってんの。あんたは関係ないじゃないの。お弁当なんか作ったこともないくせに 」
「それ言う? お姉ちゃんだって西郷さんのお弁当殆どお母さんプロデュースだったじゃない。それなのに、何にも良いことなくて御気の毒様でした 」
「もう頭来た。西郷さんはあたしの命の恩人なのよ! お弁当作るくらい当然だわ 」
「あたしだってね。千葉さんはきっとあたしの大事な人になる気がするの!お弁当位安いものだわ 」
「あ~あ、これで何回目かしら、あんたの妄想癖にはあきれるわ 」
「なんで今それ言うのよ。お姉ちゃんだって西郷さんとの変な妄想ばっかりしてたくせに! 」
篠田姉妹は顔を赤くしながら、果てしなく互いを激しく罵り合った。稲葉はとばっちりを受けないように静かに部屋から出て行った。