三十対一の死闘
10章
約束の午後七時に遅れること十分程度。五人が居酒屋の個室で杯を合わせた。西郷の右隣に篠田警部、その正面に北岡刑事部長、その左隣りに麗子、若い稲葉巡査が篠田姉妹の間の席に着いた。篠田姉妹は場が固くならないように、いつも以上にホステスよろしく明るく男三人を接待した。西郷はジョッキで生ビールを見事に飲み干し、上唇に白い泡をつけたまま笑いながら北岡と目を合わせた。北岡は五十がらみの中肉中背の上品な感じの男で、ロマンスグレイの髪を短めにカットしていた。彼は美味そうに生ビールを飲む西郷の姿に見とれ「おお 」と声を上げると、他の者が銘々のペースで飲んだ後で大きく手を叩く気遣いのできる人柄で、仕事に対しても誠実で真面目で評判である。怒髪天捜査本部の責任者で、日々百人からの捜査官の指揮をとっている。彼は連日朝八時半から夜九時が定時として働いていたが、今日は西郷と会えると聞いて急遽駆けつけたのだ。そして実際に西郷と言葉を交わし、初めて目に見えない力というものを感じた。多くを語らなくとも、その目の強さとそれに見合った大きな体躯。柔らかな笑顔に卒のない所作は、やはり只者ではないことを実感させてくれた。北岡は、八王子事件はご苦労さんでしたと笑顔を見せ、あれで色々なことがわかりましたと続けた。
西郷はそれを受け、「まだまだこれからですよ 」と枝豆を二三掴んで口に放り込み、器用に豆だけをとって味わった。
「あの土地の所有者と会社経営者が全くの架空人物だったのは意外でしたわ 」篠田警部が物怖じせずに言うと、西郷のジョッキを下げて小さめのコップにビールを注いだ。
「それがわかったのは、大事だよ。これはだいぶ根が深いということさ 」北岡はタフなところを見せようと、いささか面白そうに言ったが、幾らかの悔しさが滲みでていた。
警察は連日怒髪天捜査をしていたが、その進展は芳しくなかった。西郷と篠田警部が追っていたトラックは、八王子事件が発生したその朝に、多摩川の河川敷に乗り捨ててあったのが発見された。このトラックから降りてきた人物を目撃した人はまだ見つかっていない。鑑識がトラック内部を隈なく調べた結果、遠隔操作でドアとシートベルトをロックさせ、ガソリン並の威力を持つゲル状可燃物を噴き出す仕掛けが発見された。指紋は採取できず、遺留品は毛髪と多数の靴跡。男三人が楽に座れるほどのクッション付の長腰掛けが二脚。現在全てDNA鑑定をおこない、靴の種類とサイズの割り出しを行っている。
車検証も登録証も運送会社の所有で問題なかった。但し肝心の人物の記載に関しては。住所、氏名が偽物であった。このトラックは、運送会社の社長を名乗る人物が八王子のディーラーから三年前に新車で五台まとめて現金で購入しており、販売員は社長の顔も容姿もよく思い出せなかった。それは土地購入時の不動産業者、建物施設を建設した業者も同様で、今時珍しい現金支払いに気を良くし、運送会社の社長の肩書の入った名刺を受け取ると、商談はほとんど言い値でスムーズに運んだので、それ以来社長とはまったく会うことはなかった。今年になって新型車の営業に運送会社を訪ねたことがあるが、この時は社長ではなく社員が応対してくれたという。
新しい運送会社の社長としての風貌や年齢に違和感をもつことはなく、普通という印象しか残らなかった。捜査官がどんなにうまく誘導して証言を引き出しても、平凡な人というイメージしか引き出すことができず、似顔絵師に風貌を描いてもらっても、ディーラーの者は中肉中背の初老の男。不動産業者は、小太りの頭の薄い中年男。建設会社の者は、長身で痩せた中年男というように、全く異なる人物像であった。つまり三人の男が同じ名刺で、それぞれの業者に接触して取引をしていたことになる。どの業者もわざわざ偽名で現金取引をする必要性を感じていなかったので、よく確かめもしなかった。
まとまった金額の現金を用意するために近所の銀行が使われたが、そこに法人としての口座があり、名義は代表の社長の氏名と一致していた。そこで口座の主を調べたが、その氏名と住所は運送会社とは全く関係のない人物で、昨年末から行方不明になっていた。それにも関わらず、この口座には不定期に都内のメガバンクに業者を名乗る人物が訪れて大金を振り込んでいた。この業者について調べたが、記載された書類の氏名住所、運転免許証のコピーは偽物で、身元を特定することはできなかった。担当した銀行員も、スーツ姿で落ち着いた感じの小太りの中年ぐらいしか記憶していなかった。勿論銀行は警察の捜査に協力したいところだが、不審なところや必要な書類に不備がなく、手数料が滞りなく揃い、数千万円単位の振込みならば、銀行としては通常業務なので、三年前から特定して思い出してくれというのは、難しい要求だった。業者たちは、この銀行の営業担当が持ってきた現金で取引をおこなったと証言したので、この営業担当者から社長の風貌を思い出してもらおうとしたが、普通の方という印象だけだった。
そこで三枚の社長の似顔絵を見せたが、どれにも似ていないと言い、結局四枚目の似顔絵ができてしまった。三年前からの監視カメラの映像を見せてくれと要求したが、残っていなかった。せめて残っている映像を社長と面識がある業者に見てもらったが徒労に終わった。警察は、怒髪天が組織的に少なくとも三年前から、現金で土地を買い、建物施設を建設して、トラックを購入してこの運送会社を殺害部隊の搬送の目的で設立したのではないかという推論に至った。
西郷が射殺した三人も、焼死した二人も、どこの誰であるかを特定するのに苦労している。採取した指紋から身元を特定できなかったので、前科がないことはわかった。財布や携帯電話、パソコンの中身を解析すれば、身元どころか組織の全貌がすぐにわかると期待していたのだが、それらがあった事務所は二度にわたって爆破されてしまい、有力な手がかりは何も発見できなかった。鑑識からの報告によれば、社員たち(推定五名)は金庫のようなものに財布や携帯電話をまとめて保管していて、それがパソコンのサーバーの近くにおいてあったのではないか。そのサーバーも復元不可能なほどに破壊された状況では、その金庫のようなものが爆弾であった可能性が高い。非常時には、何をおいてもこれだけは抹消しなければならないという強固な意思が窺えた。
彼らは出勤時に、ルールとしてロッカーで作業着に着替え、私物は事務所の金庫のようなものに入れて保管し、帰宅するときは、そこから自分の物を取り出してロッカーで着替えて帰宅していたのだろう。それから運送会社の駐車スペースには会社所有のトラックしか残っていないので、社員の通勤手段は自家用車ではないと判明し、具体的な通勤方法はまだわかっていない。遺体の歯型や手術痕などの身体的特徴とDNAはデータとして残し、八王子事件から失踪した者を探す方針が決まった。
この運送会社は三年前から有限会社として操業を開始して毎年赤字、工業団地に存在しているにもかかわらず、長距離輸送業務をせずに小口の近距離しか仕事を請け負わないことで知られていた。納税、申告、監査、その結果も問題はなかった。
銃器については、自動拳銃シグ・ザウエル P226 計九丁と予備弾倉と実弾を押収し、他に銃器は発見できなかった。爆破に使用されたのはプラスチック爆弾で、積算型の起爆装置が使われた。その残骸から分子配列を分析した結果、怒髪天が仕掛けた爆弾と同一の物質が検出されたので、ここに漸く怒髪天と結び付ける物証がでたことになる。
大雑把に言えば現在のところ、警察はまだこの運送会社と怒髪天を関連付ける確証を得たものの、多摩川の河川敷にトラックを乗り捨てた人物や、この会社の経営者にも辿りつけておらず、鋭意捜査中ということだ。犯行に使われたトラックの車種はH社製の街でよく見かけるタイプで、手配書を作成して見かけたら職質をかける方針を立てた。怒髪天が全て同じ車種を使っている可能性はわからないが、一つ一つ現実と結び付けていく捜査を積み重ねてゆくほかない。
西郷はそれを耳にしてもさほど驚くことはなかった。しかし死亡者の身元は近々判明するに違いない。経営者を見つけられないのは残念だが、遠回りでも死亡者たちのつながりから怒髪天の核心に迫る方法もある。
しかしこの居酒屋での雰囲気は、とても明るく賑やかで悪くなかった。稲葉と麗子が二人ではしゃぎ、北岡、西郷、篠田警部が和やかに語り合った。西郷が初めて射撃コーチをした話をすると、稲葉が口を出してきた。彼は西郷の腕前を絶賛し、357マグナムの凄さやそれを撃つ表情が俄然厳しくなることなどをオーバーに語る反面、自分の腕の貧弱さを強調して笑いを誘った。北岡はそれを聞いて穏やかに笑っていた。次に西郷は篠田警部の御宅で一泊させてもらい、父親の隆之氏から貴重なお話を伺ったことを話した。
「ほう、OBの昔話に付き合うのは退屈だったでしょう 」と生ハムを口にしながら言うと、「とんでもありません。さすが元署長だけに話がうまいし、話題も豊富で、非常にためになりました 」
西郷は実直と謙虚が混じった表情で応じた。
「例えばどんな? 」北岡は西郷の言葉が信じられないようで、片方の眉を上げ、こう問わずにはいられなかった。西郷は特に印象に残った話を一つした。
「それはなんと言っても連合赤軍ですね。あのあさま山荘事件の…… 」と西郷が水を向けると、北岡はそんな古臭い話かというように少し顔をしかめた。
「ああ、たしか銃による殲滅戦とかで革命を起こして共産化しようとした連中だろう? 」
北岡はまるで、何年も開けたことのなかった引き出しから、すっかり色褪せたTシャツが出てきて、捨ててしまおうときっぱり決めたような顔をした。
「ところが、私にはそれがとても不可解なものに聞こえたんです。全国規模で学生運動が盛んになって、それを世論が受け入れていたのもそうですが、何といってもたったの二十九人で、銃で戦って日本を共産化しようなんて、マルクスの資本論に影響されながらも、中国共産党を熱烈に支持したりして、無茶苦茶過ぎます。
それなのに少ない仲間をリンチで十二人も殺して埋めた挙句に、あさま山荘に十日も籠城して多数の死傷者を出したのですから、聞いた私としてはあまりに荒唐無稽で質問の連続だったわけです。それを篠田警部の御父上は、嫌がるどころかむしろ一生懸命に答えて下さったのですから、退屈どころか時間があっという間に過ぎましたよ 」
北岡は西郷の話しぶりを見て、ロートルの話が本当に面白かったんだなと理解した。
「ホントそうよ。大抵の人は痺れを切らしてはやく終わらないかなと願うものなのに、西郷さんたらもう興味津々で、こっちがびっくりだったわ 」
篠田警部が焼酎をロックで西郷に差し出して、困ったような、それでいてなんだか嬉しいような顔をつくっていた。
「カクメイ?キョウサンカ?それって日本のことですか? 」
稲葉が素っ頓狂な顔をして言うと、二十代男性の見解は、もはや日本の話ですらないことがわかり、時の流れは時代の流れで、過去の事件はこうも風化してしまうものかと北岡と西郷は笑った。
「それで言ったんですよ。あれだけ日本中が注目し、警察もやっきになった事件だって、三十年もたてば、すっかり忘れ去られてしまうのなら、今の大事件だって三十年後はきっと同じようになるんでしょうね。と、そしたら『粋なこと言ってくれる』と面白がられましてね…… 」と冷えた焼酎を飲んだ。
それは喉を通り、胃に入るとじわりと熱くなる。北岡はそれを聞いて、全くだとその発想は面白いと賛成した。すると稲葉が「ああ早く三十年たたねぇかなぁ 」と言うと、麗子が、バカ、そういうことじゃないの!と言って稲葉の膝を打つと一同が笑った。
「西郷さんの発想は、時の流れによる事件の風化ですね。しかし私がそれを聞いて思ったことは、技術の進歩です。実は私もあの当時学生でね、七十年代の生の空気を知っている一人です。あの頃は携帯電話どころか固定電話も少なかった。自動車もまだまだ高価で運転免許を持っている者もまだ少なかった。風呂無し共同便所の木造アパートに、畳の上に無理やりカーペットを敷いて、ベッドと小さなイスと机を置いて、十四インチのテレビとステレオと小型ラジオがあれば、もう上等な学生の暮らしだった。三十年後の今にしてみれば、何かと不足だけど、不便と思ったことはなかったな。それがみんな当たり前だったからね。だけどその分、今よりは随分と自由だった気がするな。
あの当時レベルの事件は今でも起こってるんだけど、それはもう随分楽に処理できるが、数が違う。それに携帯電話やパソコン、インターネットなどのIT技術が普及して、車や道路も良くなって、航空や鉄道網が充実してさ、便利になった分、事件はとんでもなく複雑になって広域化して、昔じゃ考えられないくらいの手強い事件の犯人を我々は日夜追いかけている。西郷さんの言うように、三十年後、例えば今の怒髪天などはとっくに解決されて、忘れ去られていればいいなと私も思うよ。ただし、三十年後は、それなりに頭の痛い事件が山ほどあって、相変わらず追いかけていることは今から保証できるね 」
西郷は北岡のユーモア・センスと自分の話題にそいつつも、独自の見解を加えて展開させておいての切り返しに感服して笑った。
「北岡刑事部長は凄いです。確かにそうですよね。あの頃の北岡刑事部長は、学生運動をやっておられたのですか 」と、もっと話が聞きたい気が満々ですと言いたげに焼酎をぐいとあおって北岡の目を覗き込んだ。彼は俯いて何かを思案して再び西郷に目を合わせた。
「西郷さんは聞き上手ですね、あなたにはなんだかもっと話したくなる。よし、わかりました 」
北岡はそう言うと、ウィスキーの水割りを飲み干して座りなおした。
「私は当時T大の文学部でね、学生運動は冷めた目で見ていました。マルクス資本論は私も読んだくちだが、矛盾が多くて全然共感できなかったな。しかし、熱烈な信奉者は多くいて、彼らに疑問を差し挟んだり、矛盾を指摘したりして答に窮すると、御前は根性が曲がっとると本気で怒りだすんだ。
これでは議論にならないから、こちらが折れてバイトで稼いだなけなしの金を何度かカンパしたものだ。彼らは元々インテリゲンツィアで、ケンカなんかしたことがないから、殴るとなると集団で加減も知らずに無茶苦茶やるから本当に殺されかねなかったんだよ…… 」
北岡は苦い顔で、ウィスキーの水割りを飲み干した。もっと旨いウィスキーが飲みたかったが、居酒屋では我慢するほかない。目を閉じて俯き、思いを巡らせる。自分がすっかり忘れていたこんなことを、どうして思い出すことができたのか不思議だった。
真剣で火花が迸るような激しい議論……和解や決別……荒れた校舎、うるさいだけで少しも響かぬアジ演説。それらが脈絡もなく溢れ出るように甦ってきた。あの頃、理想へのロマンや現実の醜さ・矛盾、革命の興奮などを語って飲んだくれていると、そばにいた女は大抵胸をはだけてすり寄ってきた。多分、知識としてのフランス革命の自由・平等・博愛のキーワードが、いつの間にか女学生たちにフリーセックスを刷り込ませたのだろう。
毎晩のように女学生が、妙に男っぽい恰好で、大抵二人組でビールとつまみを持って自分のアパートに訪ねてきたので、自分の思いがわかってもらえないやるせなさを吐き出した。色々な女の顔、その表情、自由を求める若い肌…… 張りのある柔らかい感触。殺伐として渇き、思い通りにならずにぶつかってばかりのすさんだ心には、愛は生まれなかったがセックスに不自由はなかった。激情にかられた連続的な射精の快感と脱力…… 別れ際の女の涙や、その時に聞いたあまりに一途で健気な言葉を思い出すと、後悔でたまらなくなって、甘酸っぱい気持ちになり、胸がぐいと締め付けられる。そしてつい強い酒が欲しくなるのだ。忘れてしまいたいのか、もっと浸りたいのか、自分でもわからない。今では、決して軽くない責任ある立場である以上、このことだけは口にできないが、三十年前の自分は、どこにでもいるような。やせっぽちの学生だった…… しかし時代は、そこにいる誰も彼もみんな巻き込んだ。
「北岡刑事部長も色々あったんですね……。そのマルクスの矛盾や疑問について、もっと知りたいなぁ 」
西郷は相変わらず焼酎の水割りを飲みながら言った。北岡は、自分がはからずも昔を思い出して切ない気分になってしまったのは、もしかしたら、初対面なのに底知れぬ力を放つ西郷のせいかもしれないと思うと、話さずにはいられなくなった。
「……つまり。ブルジョワとプロレタリアートの関係性なんだよ 」
「ブルジョアってヨーグルトかなんかすか? プロなんとかって、みんなで集まって星座見るやつですよね 」と稲葉が道化師のような赤ら顔で言うと、麗子が「それはプラネタリウムでしょ。あんたはちょっと黙ってなさい! 」と夫婦漫才さながらの突っこみを披露した。
「はははは、いいよなんでも。ブルジョワは資本家で裕福な人で、プロレタリアートは、ブルジョワに労働力を売って生きる人のことだ。つまり、マルクスの資本論をざっくり言うと、資本主義の社会は、あらゆる物が商品であり、価値がある。それを交換する道具が金だ。どんな人でも金さえあれば、買えない物はなくて、愛情でさえも買うことができると批判している。だからブルジョアはもっと金を得る為にあらゆる手を尽くすようになる。そして、極少数の王族や貴族・僧侶、役人を除けば、大多数がプロレタリアートであり、ブルジョワに徹底的に搾取され、夢も希望も無く、多くは過酷な労働に身体を擦り減らしながら、悲しく虚しく死んでいくしかないというんだ。そして資本主義は必ず破綻すると予言した。当時の学生たちは、そういう社会の大多数の人々が不遇な状態は、ダメな社会なんだと批判を始めた。それは日本のことだと。
当時どうしてその本が学生に広く読まれて、それが日本のことだと思い込んだのか、その正確な経緯は不明だが、おそらくアメリカへの反発心が作用していたんじゃないかな。とにかく学生のアジ演説は、危機感たっぷりにこのままでは日本が滅びてしまうと、アメリカを批難し、ベトナム戦争を批難し、反戦を訴え、平和を訴えた。そして共産主義という考えは、まるで黄金のように煌めく魅力を放っていたんだよ。それを若くて力のある我々若者が団結して権力者を打倒し、日本を作り変えるしかないと主張した。当時それはインテリゲンツィアに広く受け入れられたもんだった。
どのように作り変えるかというと、まず指導部を作る。これが国の全てを管理・指導する。そしてみんなが平等で、共同で計画的に“GOODS”つまり物だね、“GOOD”(グッド)の複数形だ。みんなで食糧や製品を計画的に作ってそれを分配して暮らすように指導するんだ。そうすれば、人々が平等で貧富の格差がない素晴らしい社会になるんだ。それだけではない。世界中の人々が共産主義になって助け合えば、生産量が格段に増えて分配量が更に増え、みんなもっと豊かに暮らすことができる。そうなれば紛争はおろか、戦争の必要がなくなって、世界に平和が訪れる。そして最終的には国境も意味がなくなり良いことづくめだと言う 」
「それってすごいじゃないですか。僕はそれ良いと思うなぁ 」赤ら顔の稲葉がウィンナーを齧りながら目を輝かせてのってきた。
「そうそう、そういう感じで大抵の人は、まるで大発見でもしたかのように飛びつくのさ。ところがこれは、とっくに多くの血と手垢にまみれた共産主義の基本理念なんだ。彼らは競うように勉強して議論を重ね、これは確かに資本主義よりもすぐれている。善は急げだすぐやろうと活動を始めたね。あの頃の大学生たちはそれぞれデモのお題目は違ったが、全国規模で声を上げて、社会の大人たちは知っての通り、それを受け入れ支援さえした。
私の第一の疑問は素朴なもので、それは理想であって現実的にうまくいくのだろうか? というものだった。それを当時の友人で共産化運動をしていた学生の論客、言わば共産化の卵に疑問をぶつけたことがある。その論客は、日本において共産化を目指す者は、そういう疑問を持ってはいけないんだそうだ。
なぜなら、それは資本主義に毒された古い世代の考えからくるものだからで、我々は新しい世代のエリートとして、理想的な社会の実現に向けて団結して活動しなければならない。そしてそうすることは、決して悪いことではないはずだ。だから理想の実現に燃えるグループの中に、そういう疑問を持つ者がいると浮いてしまうし、それが伝染すると、活動そのものが潰えてしまうんだそうだ。
こう聞くと至極当然で、おかしなところはないようだが、裏を返せば疑問を持つことを許さない。そしてほかの考え方を許さない頑ななものなんだ。彼の説明によれば、共産主義は資本主義よりも優れていることは間違いない。ならばそれをとって進むべきだ。疑問や疑いを持つ者など、勉強不足からくるものであって、我々よりも明らかに遅れている。そんな者に指導部が関わるのは時間の無駄なのだそうだ。しかしこの問題については、これからも再三発生するだろうから、共産主義を優しく教える専門の教育部をおいて活動すれば解決する上に同志が増えるだろう。と妙案でも浮かんだように言った。これはやがて思想・信条、言論の統制といって国民を洗脳・監視して縛りつける機関になるんだ。
みんな平等というと聞こえはいいが、ある国のケースでいうと、指導部は長年の恨みの対象であった地主や資本家などの所謂ブルジョワを家族ごと引き出して公開処刑したのさ。そしてプロレタリアートをブルジョアから解放したと高らかに宣言すると、彼らは熱狂した。それから指導部は彼らの土地や財産を収奪してプロレタリアートに分配して見せたのさ。彼らは歓喜の二乗で指導部を支持し、これからの共同生産への意気があがるというものだ。しかしだ、これは指導部が国内のブルジョアを抹殺して略奪という犯罪を公然と実行し、正当化して対立軸であるプロレタリアートに分け前を与えたということだ。指導部はちゃっかり私腹を肥やして新しい富裕層になり、プロレタリアートの代表達には、人口が多いから公平に分配すると、どうしても少なくなると嘘を言って少額を与えるんだ。そして当然の如くその代表は。そこからまたピンハネして涙粒のような額を配るのさ。人口が多いからこれくらいだと付け加えてね。これで黒い分け前を受け取って共犯関係になり、そういう意味では平等になるのかな。勿論指導部はこれを記録しておく。後でそいつが邪魔になればすぐに粛清する為の証拠としてね。
もはやその国は法治国家ではなくなり、指導部が独裁でやりたい放題になるんだ。こうなるともう、国民は安心して暮らすことができなくなるんだよ。指導部が欲しい物は何でもぶんどっていいし、邪魔者は罪人にでっちあげて処刑してもいいんだからね。おまけにブルジョアを一気に全て処刑したことによって、ブルジョアが裕福でいられた根拠である大事な知識や経験、人脈や経営・運営のノウハウが失われ、もう二度とそれまでのような利得は得られなくなるのさ。だってど素人がいきなり農業や会社経営をやっても、うまくいくわけないじゃないか。結局、なんの役にも立たない粗悪な製品ばかりが出来上がり、食料は不作続きで餓死者が大量に出る始末さ。指導部へは責任追及を恐れて嘘ばかりの報告がなされ、指導部は指導部でそんなものはそっちのけで連日権力闘争だ。同志だったはずなのに、権力や地位が手にはいると、途端にお互いが信じられなくなる。序列が気に食わなくなる。互いに足を引っ張り合って次の指導者になろうと躍起になる。粛清か頂点かの両極端が隣り合っている場だから、ちょっとしたミスが致命傷になりかねない汲々とした毎日だよ。そんな彼らがキチンと国民のことを考えるわけがない。当然指導部内の評価を上げようと高い成果を上げようとするから、現場に更に過酷な生産ノルマを課すのさ。まったくの悪循環だ。
そんなことは、あの当時七〇年代でも、その手の本を読めば容易に知ることができたはずだから、共産化運動家はそれを知らないはずがない。彼らは、自分達は絶対そうならないと決め込んでいて、そういう負の部分を語ることはなかった、もし私がそれを指摘しようものなら、袋叩きにあうのがわかっていたから、何も言わなかったね。
次の私の疑問は、人々が共同生産したものを平等に分配するというが、平等とは具体的にどういうふうなんだ?国民には老若男女。性格や容姿・能力・健康状態がそれぞれ違うのがざっと一億人もいるんだぞ。それも状態が日々刻々と変化する不安定なものだ。それに対して平等に分配するには、指導部は国民一人一人の状態を正確に把握して、平等な分配量を決めなくてはならない。その労力は途方もないに違いない。更に国民がみんな平等分配なら、一生懸命働いても、サボっていても得られるものが同じだ。すると人はサボるようになって、楽をして生きたいと知恵を絞るようになるだろう。やがて、懸命に働いていた人もバカらしくなってサボるようになったら、全体の生産が落ちて立ち行かなくなるだろうというものだった。
論客は少し驚いた顔で私を見てこう言った。我々日本人は勤勉だから、そんなことは考えもしなかった。しかし君が言うのだから可能性はある。指導部の中に国民を監視する部署が必要だと答えた。私は内心で、当時の国に、国民監視機関が実際にあることを思い出した。国民の言論や思想を厳しく統制して、反逆を考えていないか、サボっていないか、浪費をしていないかを監視するんだ。それに互いに監視させて密告も有りだから人間関係はうまくいかなくなる。私は思わず、監視して問題があったら、逮捕するのか?と聞いたら、当然だと答えた。それでどうする?と聞くと、収容所をつくって、理想社会の一員としてしっかり機能するように再教育する。と言った。私は再教育してもダメだったらどうする?と踏み込んだ。すると、そんな奴はどうせあれこれと嘘やごまかしで楽して生きようとするだろう。そんな卑しい人間に生きる意味や価値があるか?人間は、子供の頃のような純真な心で、夢や理想に向かって精一杯活動しなければならない。なのに自分だけは楽して生きようなんて、そんな卑怯な者は粛清しかないだろう。と平然と答えた。粛清とは殺害するということだ。それに再教育と言えば聞こえはいいが、実際は拷問だよ。まだ共産化の卵の段階で、再教育や粛清が飛び出したんだから驚いたね。
それから医療費を無料にするために、医師や看護師など医療に携わる人や、製薬会社は無報酬で、衣食住物資を完全配給制で従事させると、さも妙案のように得意気に言うので、私は思わず、それでは全然平等どころではないじゃないか、誰がそんな職につくものかと反論すると、いやそんなことはないと返された。人の命や健康を守るという崇高な職務には、患者やその親族から感謝されるという価値がつく。だから指導部が人選をして適任者を配置すると答えたので、私は呆れたよ。選ばれて拒否したら、当然収容所に送られて拷問を受けるか粛清されるのだろう。そんなのはいちいち聞かなくてもわかるさ。
つまり、貧富の格差の無い、誰もが望む理想の社会の実現を目指して活動するのは良いとして、それを現実的に考えると、指導部が教育部と監視部をおいて国民を洗脳して疑問や他の考えを持たない従順な人間にして、人々の思想や言論を監視しながら労働生産をさせるのさ。その中で、疑問を持つ人間や、改善案を出す人間、労働条件や待遇改善や自由を求める者も、ただの怠け者と一緒くたに素行不良と決めつけて、裁判無しで収容所に送り込み、再教育や粛清を実行するんだ。これは犯罪ではなく指導・教育だから裁判は必要ない。と言うあたりから、もう私はついていけなくなった。これではでっちあげだってあり得るじゃないか!
グループで机上の議論を進めていくと、やがて白熱する。それでシンプルで極端な発想が賞賛を浴びるようになるんだ。すると、みんな賞賛されたくて、或いはリーダーシップをとろうとして、どんどん極端な意見が出てくる。そうすると、最初の魅力的な理想が、議論が進んで視野と思考が狭窄し、人間性が削ぎ落とされたまったくグロテスクなものに変貌してしまうんだ。おまけに彼らは、それに気づくどころか、熱い議論の結果に、まるで大発明でもしたかのように酔いしれた顔をしているんだから性質が悪い。そんな国で生きる人々が、国連などの外部査察団に今幸せですかと訊かれて、そんなことはないと答えられるか?そんなことを言えばたちまち収容所送りだ。
当時、こんな話を読んだことがある。ある共産主義国家で、思想犯罪で収容所に送り込まれた男がいた。彼は反体制派のリーダー格で、ある情報を得る為に連日殺して欲しいと叫ぶほどの激しい拷問を受けていた。ところが拷問師はちゃんと心得ていて、決して死なせることなく、最低限の治療を施し、最低限の栄養剤を点滴して辛うじて生かしていたが、それでも男は口を割ることはなかった。しかしそれも十日もすると、もう足腰立たないほどに衰弱し、鉄製の板に括り付けられた状態で、あと一発でも打撃を加えたら死んでしまうのは明らかなほどに弱りきってしまった。
それで男は、焦点が定まらない虚ろな目で、弱々しい声で取引条件を出した。「俺はもうだめだ。最期に一目母親に会わせてくれ。そしたら何でもしゃべる」と。拷問師は頷いて、上にかけあってくると言い残し、拷問部屋から出て行った。男は気力を振り絞って拷問師の帰りを待った。やがて拷問師が帰ってきて、上の許可がおりたから母親の住所と名前を教えてくれと言う。男は喜んで、殴られ、歯も抜かれて腫れ上がった口を必死に動かして伝えた。拷問師は待っていろと言い残し、再び出て行った。男は気力も体力もぎりぎりだったが、母親に会いたい一心で待ち続けた。
やがて拷問師が、母親を連れず一人で戻ってきた。そして、ポケットから小さな薄汚れた木の箱を開けて男に見せた。中には剥がしてきたばかりのような、血と肉がこびり付いた爪が十枚、きれいに並んでいた。拷問師は説明した。御前はもう足腰立たないし、ここから出すわけにいかない。しかし罪の無い母親をここへ連れてくるわけにもいかない。だから俺にできることはこれが精一杯だ。この爪は、間違いなく御前の母親のものだ。と、男は間もなく死んだそうだ。拷問師は責任を追及されて粛清されたという。
この話は共産主義の一端をよく表していると思う。私と論客はひとしきり議論した後、御前は大した懐疑主義でひねくれ者だが、なかなか大事なことを言ってくれるから、我々のセクトに入って幹部にならないか。と誘ってきたよ。当然断ったさ。ただ、彼らはどこまでも純粋で真面目で、政権を奪取後は自分達が指導部に入るものの、新貴族層となって莫大な生産物をかすめ取り、贅沢の限りを尽くそうという現実的な陰謀論者でないことはわかった。
それだけに、どういえばいいのかな、インテリ坊ちゃん嬢ちゃんの困ったちゃん達という印象を持たざるをえなかった。だから理想社会の実現に燃えて、棒切れ振り回して、機動隊にコテンパンにぶん殴られれば目も覚めるだろう。後は肩でも組んで『インターナショナル』や『友よ』を合唱して、せいぜい共産化ごっこやってろよと思った。彼らは社会をどう良くするのかという命題については真剣に議論するものの、どうやって革命を成功させるのか? という命題については、ぽっかりと大きな空白を残したままだった。間が抜けているだろ?あんな少人数で、銃による殲滅戦など、成功の可能性は万に一つも無いよ。だけど当時、本気で真剣な彼らにそんなことを言おうものなら、私のような学生は集団リンチで殺されかねなかった。彼らは、スターリンの大粛清や毛沢東の文化大革命のおかげで、いったい何千万人が粛清されたかを知るべきだったし、ジョージ・オーウェルの『一九八四』や『動物農場』を読んでもっと議論すべきだったんだよ…… 」
北岡は西郷の目をしっかりと見ながら語り続け、何杯めかのウィスキーをぐいぐいと飲み干し、ふうと息をついた。北岡が黙ると、個室は急にしんとした。まるで時計までもが動くのをやめたかのようだった。稲葉は固い物で頭を殴られたように何も口にせず、北岡の顔をぽかんと眺めていた。篠田姉妹も同様で、今まで何度か宴席で彼と同席したことがあるが、彼は静かに飲みながら聞き役が多かったという印象を持っていた。ところが、今日は見たことがない顔で熱く語る姿に驚いていた。父も彼も、普段はそんなことはまったく知らないかのように暮らしているのに、西郷のように、面白半分ではなく、真剣に当時を知りたいと願う者を前にすると、まるでスウィッチが入ったかのように、こうも熱く語ることができるのか。と感じ入っていた。
この固まった空気を西郷が自然に変えてくれた。柔らかな表情で北岡に「言い難いことも含めて、本当によく話をして下さいました。当時の状況が本当によくわかりました。ありがとうございました。ささ、飲みましょう 」とグラスを合わせカチンと鳴らしてお互いに飲んだ。北岡は和やかな笑顔になり「あなたと話すことができて良かった。こんなにせいせいした気分になったのは久しぶりです。それというのも、あなたは終始真摯な態度で聞いてくれて、私の色々な思いをしっかりとよく正面から受け止めてくれたからです 」
11章
秋の月の下で、篠田姉妹と西郷が、地下鉄の駅に向かって歩道をゆっくりと歩いていた。月明かりが小百合の額を蒼白く美しく照らしている。麗子の方は酔って陽気に笑いながら、西郷と小百合が並んで歩く姿を後ろから眺めていた。白い歯と赤い唇が中々魅力的だ。居酒屋での食事会は、あの後すぐに解散した。したたかに酔った北岡はタクシーで帰り、稲葉は独身寮に帰り、篠田姉妹と西郷は途中まで一緒に帰るところだった。明日も仕事だから、ほどほどのつもりだったので、彼らは気楽な雰囲気だった。
「ああ、今日は意外と楽しかった。あたし北岡さんがあんなに喋ったの初めて見たわぁ。中身はよくわかんなかったけどぉ 」麗子があっけらかんと言ってのけると、小百合が同意した。
「そうね、きっと西郷さんの影響よ。西郷さんホント聞き上手なんだから 」と小百合が言った。
「そうでしょうか。おかげで七〇年代の学生の共産化運動については随分詳しくなりましたよ。お父さんも北岡さんも、それぞれの視点からしっかり語られて、なんだかすっきりしておられましたね 」
「そうなのよ御義兄さん。それが不思議なのよねぇ 」麗子が西郷の左袖について目を大きく開いて西郷に目を合わせて言った。
「御義兄さんはよして下さい……。世代が違っても、あの時代はそれほど強烈だったのでしょう。私は生まれていたのに、小さかったので全然知らないことでした。そして驚きと疑問だらけでした。だから日本人としてよく知っておきたかったのです。聞いて良かった。話して良かった。そういうことです……。こうして見ると、東京の星と月も中々おつなものですね 」
西郷は清々しい顔で空を見上げた。小百合も麗子もつられて上を見た。濃紺と黒が混ざった空に大きな月が浮かび、無数の星々がチラチラと頼りない光を放っていた。
「本当、きれーい」
彼女達もその存在をあらためて見入った。勿論西郷がいなければ、そんなことはしない。東京の人はあまり空を見ることはないのだ。
「あのね、ウチのお父さんなんだけど、あれから西郷さんは元気かってあたしに聞くのよ。なんだか寂しそうにね。お母さんも、帰りにキチンと御布団たたむなんて、素晴らしいって褒めてたわ。もし良かったら又遊びに来て 」
麗子が月と星を見た後で西郷に言った。すると小百合が麗子を窘めるように言った。
「西郷さんはね、もうすぐ帰るのよ。無理を言ってはだめ 」
「えっ西郷さん帰っちゃうの?お姉ちゃん知ってたんだ。で、いつ? 」
麗子は知らなかったが、小百合は全て西郷から事情を聞いていた。
「明日の午後三時以降にはっきりするのよね 」
「はい。今は彼の無事を祈るばかりです 」
「無事って明日何かあるの? 」
麗子が何も知らないでいると、小百合が概要を耳打ちした。理解した麗子は、再び目を見開いてこう言った。
「マンガみたい 」これを聞いた西郷は苦笑した。確かにそうだ。自分には絶対出来ないマンガみたいなことに、千葉はたった一人で挑むのだ。
「ねぇねぇ、千葉さんて人そんなに凄いの? 」麗子が興味深そうに訊いた。
「凄い…… 」
「西郷さんより? 」今度は小百合が、彼の目を見上げて言った。西郷は篠田姉妹の目を交互に見てから夜空を見ながら言った。
「これは絶対にないことですが、仮に十五メートルの至近距離で彼と撃ち合いをしたら、私が一発撃つ前に、彼は私の額と左の胸に二つ穴を空けるでしょう。格闘しても、柔道三段の私は、触ることもできずに倒されるでしょう。私は今まで、あのような男を見たことがありません 」
西郷はさばさばとした表情で言った。
「そんな凄い人が、一仕事終えてから西郷さんの次に超法規(的存在)で来るの。なんか怖い 」
麗子が首を竦めると、西郷は安心させるように言った。
「彼は紳士ですから大丈夫ですよ。私の任務は内偵で、求められた成果が出たから帰るのです。ただ、後任に知事が彼を投入するということは、怒髪天を一気に潰せという意思の現れなのでしょう 」
「ちょっと待って。あんたたち知事の命令で動いているの?小百合が驚いたように問うと、西郷は「そうですよ 」とこともなげに答えた。
「彼の明日の任務は、私には到底考えられない過酷なものですが、もしかしたらやってくれるのではないかという期待もあるのです 」
その後三人は駅で別れた。「また明日。おやすみなさい 」という小百合の声は、溢れ出るものを無理に抑えつけているようであった。
翌朝、西郷がST署の会議室の一つに顔を出すと、篠田警部と稲葉は既に来ていた。彼女は例のように上下黒に白いシャツ姿で涼しげな顔でノートPCの画面を眺めていた。稲葉は西郷を見るやはじかれたように近づいて、明るく元気な挨拶をしてくれた。これは朝から気分がいいなと思って席に着くと、「今日はお弁当作ってきたので、食べてね 」と篠田警部が言った。それを聞いた稲葉がニヤニヤしていると、「稲葉君ニヤニヤしない。君の分もあるから食べてね、ただし、今日だけよ 」と微笑んだ。
「西郷さん。あなたが昨日提案してた、三年前から設立された中小規模の幽霊法人の洗い出しね、採用されたわ。今日からリストアップ作業始めるそうよ。それからあたしたちの今日の仕事は、八王子事件以後に都内で失踪届が出ている件の調査。この中から二三十代男性に絞って調査すれば、八王子事件の死亡者にあたるかも。これ報告義務が発生するから重要よ。直ぐに行きましょう。稲葉君は本庁の近藤刑事と不審なトラック探しね。それから、何があろうと十八時に中野の警察学校に来て射撃訓練よ。ほい、弁当」
篠田警部は倍速で一気に西郷と稲葉に伝えると、大き目のデニム生地のバッグから稲葉の分の弁当を取り出して投げて渡した。稲葉はそれを受け取ると西郷に「西郷さん。僕は今日一日を無駄にしないために、何かアドヴァイスをお願いします 」と西郷の前に立った。彼は一瞬びっくりした顔をしたが、下を向いて考えをまとめるときりだした。
「いきなりアドヴァイスなんてできないけど。そうだな、人間の集中力なんてそんなに長く続くもんじゃない。やみくもに集中してるともたないぞ。しかし、興味を持てば結構いけるから、何も問題が無く模範運転をしている奴に興味を持て、元々センスが良いんだから大丈夫。水気をあまりとるな。食事は車内でとれ 」と言うと、稲葉は飼い主に従順な狩猟犬のように会議室から飛び出して行った。残った二人も負けじと会議室の照明を落として、西郷のレンタカーに向かった。
「若いっていいなぁ。素直でまっすぐでさ 」
「西郷さんもあんな頃があったんじゃなくって? 」
「そうですね。だけど先輩には、恵まれなかったなぁ。はい、前後左右確認異常なし出発します 」
西郷はグレーのホンダヴィッツを発進させた。今日は朝から何もかもがスムーズに流れている。こんな日は素直に流れに乗っていけば、良い結果が出るような気がした。
怒髪天の捜査活動は、毎日百人からの捜査官がそれぞれのテーマについて真剣に行っている。彼らはその日の成果を報告書にまとめてデスクと呼ばれる部署に提出する。デスクは集まってきた膨大な報告書に目を通し、進捗を管理しながら次のテーマを与えるのだ。警察は八王子事件で死亡した五人の身元がまだわかっていなかった。既に八王子周辺をくまなく捜査したが結果が出ないので、デスクは次の手として、事件以降に出された失踪届の中に死亡者がいるのではないかとふんだ。そこで篠田・西郷コンビに、事件以降に届が出されたものについて調べるテーマを与えた。西郷は失踪届のリストの中から、目白の藤宮家に行ってみると決めると、篠田警部がデスク担当者に電話して許可を得た。残念ながら写真は無いという。それから藤宮家に連絡をとり、これから失踪者の母親に会う約束を車内でとりつけた。彼女の仕事ぶりは、さすがと思わせるほどのもので、流れる水のようにあっという間に片づけてしまった。西郷は感心しながら車を目白の藤宮家に向けた。
今では携帯電話で、どこからでもどこへでも連絡がとれる。カーナビのおかげで、行ったこともないところでも、住所を入力するだけで迷うことなく最短コースで行くことができる。みんなが使っていて慣れているが、三十年前から考えればこれらは正に夢物語ではないか。西郷は北岡刑事部長の話を思い返し、技術の進歩をしみじみと感じた。
彼はあの夜にトラックで逃走をはかった男二人の人相をはっきりと覚えていた。自動小銃で動きを止めて運転席に向かった時、一体どんな悪党面なのかと思ったら、そこには育ちの良さそうな青年が、自分の威嚇に怯えていたので、その落差に強く印象に残っているのだ。それは凡庸な風貌ではなく。端正な顔だった。恵まれた環境で育ち、十分な教育を受けたことによる確かな教養・知性と理性を湛えていた。それゆえの諦めと恐怖が素直に伝わったからこそ、西郷は彼らをなんとか助けようとしたのだ。
篠田警部は隣で期待に胸を膨らませているように見えたが、西郷は冷静に事実のみを求めて藤宮家に到着した。家はそれほど大きくないが戸建てで、よく手入れされた庭があった。失踪者の母親という女性は、五十六歳で和服を上品に着こなしており、憔悴した表情を見せていた。
挨拶は場馴れしている篠田警部に任せ、西郷は注意深く状況を確認していた。通された応接間は重厚な家具調度が並び、洒落た本革のゆったりとしたソファに二人で腰をかける。場はあくまでも静かで、他には誰もいないのか、この場所だけが東京から隔離されているようで、母親の着物の衣擦れの音がひどく大きく聞こえるほどであった。空気はひたすらに重く、時間はやや遅く流れているようだった。やがて母親が失踪者について話しはじめた。名前は藤宮正夫・二十五歳。三人兄弟の三男でH大学院生。性格は穏やかで優しい。非行・補導歴は無い。これまで無断で外泊したことは無い。あの日はバイトがあるから(帰宅が)遅くなると言っていた。しかし翌朝になっても帰ってこないし、携帯電話が通じないし連絡もない。心配になって知人・友人に行方を訊いたが知らないという。それで家族で相談して警察に失踪届を出した。ということだった。
西郷は正夫の最近の写真を何枚か見せてもらい、彼がトラックの運転席で焼死した男だと確信した。篠田も似顔絵を見ていたので、似ていると判断したようだ。篠田警部は母親の心境を気遣いながらも毅然とした態度で、自分たちが担当した事件の被害者に似ていることを伝えた。母親は、息子が死んでいるかもしれないとショックを受けて嗚咽を始めた。彼女は静かに母親に寄り添い、まだ決まったわけではありませんからと優しくなだめ、DNA鑑定を行いたいので、正夫さんの毛髪を拝借したい旨を伝えた。母親は漸く落ち着きを取り戻し、取り乱した無礼を詫びて、正夫の部屋に案内した。篠田警部は白手袋でベッドの枕に付いていた髪の毛を数本丁寧にビニール袋に入れた。西郷は部屋を見渡し、本棚にあった本や専門書・自作ファイルの背表紙を観察していた。そして机の上にあった三十インチの液晶画面が二台、キーボードとマウス、そしてその下には大きなタワー型PCを発見した。この中にはおそらく重要な手掛かりが満載に違いないと思ったが、同時に爆弾が仕掛けてあるかもしれないとも思った。彼女は洗面所にあった正夫が使っていた歯ブラシを袋に入れると、『既にST署の篠田が、正夫氏の毛髪を預かり科警研に送ります』というメッセージと日付・署名を入れて、今後別の捜査官が同じ依頼をした場合、このメモを見せてやって下さいと言って母親に渡した。そして、今日のところはこの辺で失礼します。DNA鑑定の結果がわかりましたら、必ず御連絡いたします。御協力に感謝します。ありがとうございました。と丁寧に頭を下げて、藤宮家をあとにした。
「それにしても西郷さん、又お手柄よ。なんたって被害者の身元が初めてわれたんですもの。正式な鑑定はこれからだけど、ほぼ間違いないわね。一発で身元を当てるなんて、西郷さんはやっぱり凄いわ。ねえ、どうして目白に決めたの? 」
篠田警部の声は弾んでいた。彼は答えようか迷った末に言葉を発した。
「八王子近辺を捜査してもわからないのであれば、彼らはそこにいないと思いました。そして彼の目を見た時。恵まれた環境で高等教育を受けた者だと直感したのです。そういう目でリストを見たら、目白が浮かんできたのです。あの若者にもちゃんと名前があって、親兄弟、家族があったんですね。これでやっと家に帰れる…… 」
西郷が黙り込むと、篠田警部は、つとめて明るい調子で話題を変えた。
「なるほどなるほど。あたし西郷さんと組んでいつも思うんだけど、あなたはいつも一歩引いた目で状況見てるよね。それがいいんじゃないかな。そうだ、あたしちょっと提案してみるわ。デスクの指示で一丸となって捜査するのもいいけど、二三人位別働隊が違う観点で捜査するの。どうかしら? 」
彼女は自分のアイデアを妙案と思って先生に意見を伺う女生徒のように、西郷の瞳を覗き込んだ。
「警察官ではだめですよ。縦社会と右向け右が叩き込まれているし、実績がでなければすぐに批判されるでしょう。私はたまたまSPとして自由にやらせてもらっているから、それに良い結果が出たのもたまたまです 」
すると今度は彼女が黙ってしまった。彼女も警察官だけに、彼の言葉に説得力を感じたのだ。確かに警視庁の今回の措置は異例だ。その時、ある考えが浮かんできた。硬直化した警察が、怒髪天捜査に限って総務省の声に耳を傾けてSPを受け入れて、ほぼ自由にやらせている。ということは、総務省・警察庁の上層部は怒髪天に何か通常でないものを察知しているということ? 篠田警部は一瞬そんなことがよぎったが焦点が定まらぬままに消え去り、署に連絡すると断って、立て板に水の如くの調子で被害者の身元がほぼわれたことと、これからの行動予定を携帯電話で伝え、ノートPCで報告書の作成を始めた。西郷はそれを見て、やはり彼女は凄いと思った。
その後二人は、科警研に藤宮正夫と思われる髪の毛を届け、DNA鑑定の依頼と八王子事件の焼死体との照合を依頼して、昼食に彼女が作ったという弁当を車の中で食べた。彼女は天気がいいから公園かどこかで外で食べようと提案したが、西郷はそれを退けた。弁当は三段の重箱で端正な形のおむすびと豪華なおかず、そしてデザートに分かれていてどれもすごく美味だったが、二人で食べても残ってしまった。西郷は昼食を控え目に抑える習慣なので、急に多くは食べられないのだ。丁寧に礼を言ったのだが、篠田警部にしてみれば期待外れだったようだった。高い空の下で、公園の緑の芝生に座って二人で仲良く弁当を囲むことを想像していたとしたら、それは無理な相談というものだ。それからH大学に行って藤宮正夫の為人を調べるために新宿区戸塚に車をむけた。
篠田警部と稲葉は午後六時には、中野の室内射撃場で射撃の訓練を行っていた。西郷としては訓練の仕方は既に教えているのだから、もう説明することはなく、ゆったりと構えて見守っていた。七時前になる頃には、訓練も終わり篠田警部の御機嫌もすっかりなおっていて、稲葉の収穫なしをからかいながら、被害者の身元がわれそうなことを冗談めかして伝えた。おまけに弁当の残りを見せて良かったら食べない?という始末だ。稲葉もまだ若いので、コミカルに立ち回り、遠慮なくおむすびにパクついた。これで一食浮いたと喜んでみせると、彼があまりに旨そうに食べるので、西郷も一つとって食べた。丁寧にラップで包まれていたので、もちもちとした触感と程よい塩味と米の甘味が混ざった美味しさは冷めてしまってもほとんど損なわれていなかった。その純朴な笑顔を見た篠田警部は、嬉しそうに微笑んであたしもと一つとって食べた。
その時、西郷の携帯が振動を始めた。相手は城之内で、中野の射撃場で射撃コーチをしている状況と、八王子事件の焼死体の一人の身元がほぼわれそうだと伝えると、彼は満足そうな声で嬉しそうに西郷を褒めた。それから急にあらたまった口調に変わり、こちらも伝えるべきことがある。と言った。それはいつもと違う厳粛な雰囲気を伝えようとする声だった。西郷は千葉のことだと直感して背筋を伸ばして耳を澄ませた。
「千葉秀樹は、本日午後三時、戸畑興業の組長・源田忠治宅に単身で乗り込み、銃撃戦の末に…… 人質である梅木敏行の奪還に成功した。千葉本人も無事である…… 」
西郷はこのメッセージを、真剣な表情で聞いていた。単身・銃撃戦・奪還・無事というワードが、心底胸を熱くした。「凄い、何という男なんだ 」という感想を胸の奥から解放した。同時に、この任務はそんなに簡単ではなかったはずだ。三十人からの敵が武装して待ちかまえていたはずだ。それをいったいどうやって? 自分には永遠に答が出ない大きな疑問が、頭の中で渦を巻いて沈黙した。それは城之内も同じ思いのはずだった。
「千葉は明日から、二週間の休暇に入ることになった。従って東京入りして御前と引き継ぎを行うのはその後になる。異論は無いな 」城之内の言葉に西郷は、異論などあるわけがありませんと答えた。
「それから、彼が人質を奪還した模様は、陸自が上空から全て撮影していて、先ほど知事を含めた我々が視聴を終えたばかりだ。なんとも、凄まじかったよ。あんな真似は彼にしかできない。知事は非常に上機嫌だった。それで、全員に後学の為に視聴せよということになって、先ほどビデオ・ファイルをホテルに送っておいたから、後で観てくれ 」
「了解。それは篠田警部と稲葉も視聴可能でしょうか? 」
「……今後のことを考慮して、アイズ・オンリー(コピー禁止)と他言無用を守るならいいだろう。私の責任で許可する。但し、内容に関する質問や意見には一切応じない。今更超法規(的存在)について議論するつもりはない。それでは御機嫌よう 」
城之内は、微かな興奮の余韻を隠そうとして無理に尖った口調のまま電話を切った。
西郷は電話をポケットにしまうと、ふうと息をついた。目の前には、好奇心を丸出しにした二人の顔が並んでいたので、もう一度息を吐くと、再びポケットから携帯電話を取り出し、先ほどの城之内との会話を再生して聞かせた。
西郷は、千葉秀樹のビデオを観るために篠田姉妹と稲葉をTホテルの部屋に入れた。麗子は無関係だが、篠田警部が無理やりねじ込んできたので折れたのだ。部屋は大人の男女四人が十分に寛げるスペースとソファがあり、バスルームと寝室は別にある。小型のキッチン、冷蔵庫、ミニ・バーカウンターもある。テーブルの上には、ルームサービスで取り寄せた豪華なオードヴルが並び、事務机にはノートPCとプリンターがあって、西郷がビデオ・ファイルを映し出す準備をしている。気が利く小百合は、手早くキッチンでコーヒーの用意をした。壁には目につく高さに五十インチの黒い液晶ディスプレイがかけてあり、本格的なサラウンドシステムが設置されている。彼らは高級ホテルのスイートルームを利用したことが無いので、その部屋の設備一つ一つに興味を示し、感心しながらはしゃいでいた。勿論西郷にしても最初の頃はそうであった。
みんなそのビデオをはやく観たがっていた。三十対一の人質救出作戦の結果は、成功とわかっている。だがその方法やプロセスがどうしてもわからないのだ。特に西郷にとって、それは深刻な問題といえる。もしも自分がその任務を命じられたら、手段や方法がわからない以上、今日が自分の命日になっていたかもしれない。そうでなければ、ギヴアップして千葉に代わってもらうか辞職かという選択になる。今でもこの任務は一人では不可能だと確信している。それだけに西郷は自分と千葉とのとてつもない差を痛感して彼に脱帽したのだ。一方篠田姉妹と稲葉は、そんな当事者感覚はまったくない。警察官にそんな任務などあり得ないし、その為にSAT(特殊急襲部隊)の存在があるのだし、それでも単独任務など考えられないことなのだ。従って彼らは、まるで映画をみるような興味しか持っていなさそうであった。彼らは肝心なことを忘れている。このビデオは、娯楽のためにつくられたものではない。台本も演出もない、死傷者が出ればそれは本物。人質を救う者と、そうはさせまいとする者との本物の死闘の記録なのだ。
「再生の用意ができました 」
西郷の言葉で、篠田姉妹と稲葉は液晶ディスプレイの正面のソファに座り、西郷はその後ろに机と椅子を移動させて落ち着いた。部屋中に小百合が淹れたコーヒーの香りが充満して、みんなをリラックスさせてくれた。
西郷はみんなの前に立って話しはじめた。
「それではこれから再生しますが、このビデオはまったく編集されていないそうです。そしてこれは本来、私が後学のために観る目的で開示されたものです。しかしこれからみなさんも千葉秀樹と共に行動することが決まっているので、名刺がわりの資料のつもりで視聴して下さい。
内容については、私も観ておりませんからわかりませんが、一部説明が添付されておりますので、説明することがあります。そして視聴後は他言無用でお願いします。それから質問はSPとして一切受け付けないことをご了承下さい。いいですね? 」
西郷が見渡してみんなの同意の意志を確認したので、机に戻ってビデオ・ファイルを再生させた。
12章
その映像は唐突に、ヘリが上空でゆっくりと移動しながら、丘に建つ豪邸を映し出していた。縁側の前に美しい庭園があって池もあり、下ったところに白い砂利が敷かれた広い駐車場のような場所が映し出された。画質はぶれることなく良好だったが、ヘリのエンジンとローターの音が大きくてうるさいので、西郷が音量を下げた。画面右下に日付と時刻があって、十月二日 午後二時四六分とある。敷地はかなり広いが、高さ五メートルほどの高い塀が外部からの侵入を阻んでいた。頑丈そうな第一の門を千葉が乗っていると思われる黒いベンツが入ってきた。駐車場には既にスポーツカーや高級車が三十台ほど停めてあった。
この映像で千葉が源田邸に入り、大勢の用心棒が待ちかまえていることがわかった。源田の屋敷に入るには、ここを通過して更に第二の門を通る必要がある。駐車場のほぼ中央に、三十歳位の大柄な男が一人立っていた。筋肉質で髪の毛は無いが、髭が濃く口ひげを伸ばしている。側近不知火だと西郷が付け加えた。男は笑いながらベンツに向かって何かしゃべっているが、聞こえないので、西郷が代わりに添付ファイルを読んだ。
「よぉう、千葉、約束通り一人で来たな。ここで車を停めて、歩いて奥の源田さんのお屋敷に行くことになっている。俺が案内するから、車から降りるんだ 」
するとベンツから千葉の声が聞こえた。車に集音マイクとスピーカーが付いていて、周囲の音を聞いて、インカムマイクで声を発することができる装備が付いているのだ。その声は、ヘリのノイズをかきわけてよく聞こえた。
「不知火だな、梅木会長は無事か? 」
「ああ無事だよ。屋敷まで俺が案内するから、早く車を降りるんだ 」
千葉は、不知火の顔色を見て、車から降りろと繰り返すところを不審に思い、何かあると直感した。不知火との距離は約十メートル、位置は第二門を背にして、千葉のベンツの正面から右斜め。こんな広い庭の真中で車から降りろと促す理由は何か?
「おいおい、冗談よせよ。どうして梅木会長がここにいないんだ。直ぐに連れて来いよ。俺等はそれで帰るから。それに会長宅で若い者を二人捻り殺したのは御前だろう。言いたい事は山ほどある。その全部は文句だ。御前なんかと一緒に歩けるかってんだ。そんなに急ぐ事ないだろう。まだ三時には早い…… 」と千葉が言い終わらないうちに、パァーンという大きな銃声と同時に、ベンツの左側運転席のフロントガラスに衝撃が走り、白い煙の輪がポッと広がった。
「あっ撃たれた! 」と稲葉が口走った。西郷はここで映像を止めて説明した。
「実はこのベンツは要人ガード仕様で、フロントガラスは厚さ30ミリの防弾仕様です。狙撃用ライフル、スプリングフィールドM14から放たれた7.62mm弾の直撃を受けても貫通しません。この報告は後の陸自の調査によるものです。千葉はここから約七〇メートル先、第二の門の先にあるブッシュに潜む狙撃手の人相を確認したそうです。狙撃手は命中の手応えを感じながら千葉が無事なのに驚き、再びライフル銃を構えたところを確認したそうです 」西郷は説明を終えると再び、映像を再生した。
その途端、ベンツのエンジンが咆哮し、四輪を激しくホイルスピンさせて砂利を巻き上げながら、暴れ馬の様に車体を振り不知火目がけて突進した。彼はまるで熊にでも出くわした時の様に、血相を変えてベンツに背を向けて逃げたが、ベンツは彼を上に跳ね飛ばした。高く舞い上がった身体が落ちてきてフロントガラスに噛り付く格好でぶつかり、横に跳ね飛ばされた。この惨劇に篠田姉妹と稲葉に衝撃が走り、西郷は溜め息をついて頭を左右に振った。
ベンツは獰猛な獣と化して不知火を葬った。狙撃手はこの間も撃ってきたが、もうあまり当たらなくなった。千葉はフロントガラスについた不知火の血を、ウォッシャー液を出してワイパーで拭き取った。 今度は駐車場の車の陰に隠れていた男六人が9mm拳銃弾をやたらに撃ってきた。しかしベンツの車内は快適で、9mm弾などポコポコ音がするだけで全く受けつけない。千葉は撃ってきた男達を確実に狩っていった。逃げる者を跳ね飛ばし、車の陰に隠れた者は、その車に後ろから体当たりして潰した。
ライフルの狙撃手が、RPG―7を抱え出してきた。
「当ててみな。兄さん 」
千葉は不敵な笑みでベンツを更に荒っぽく操った。まるで生き物のように目まぐるしく動くベンツに業を煮やした狙撃手は、ベンツの動きを予測して対戦車擲弾を発射させた。
RPG―7は、戦車などの動きが遅い的に威力があるもので、素早く動く乗用車ならばまず当たることはない。千葉は、飛んできた擲弾の軌道を冷静に読んで、急ブレーキ・急ハンドルでターンし難なく避けた。弾は赤いフェラーリに直撃して大破炎上させた。
「残念だったな、兄さん。今度はこっちの番だ 」
千葉は電動サンルーフを開け、立ち上がって半身を出すと、コルト・パイソン有作スペッシャルを右手でグリップし、伸ばした右腕がブレない様に左手を添え、相手の左目のやや下に照準がくるように構えた。
狙撃手は次弾を撃つ為に二つ目のRPG―7を持ち替えたところだった。標的まで七〇メートルの距離での仰角は、拳銃の射程外だが、千葉は超精密射撃体勢で狙いすまし、その軽い引き金を引いた。パッゥグォーンという銃声と同時に放たれた357マグナム弾は、名も知らぬ狙撃手の額に当たった。
千葉の大立ち回りを、映像は客観的に映し出していた。車はその後停止した状態で、篠田姉妹と稲葉は、今度は何をするんだろうと、飲んだり食べたりすることなく、真剣な表情で憑かれたように見入っていた。
「凄い…… 」小百合がつぶやいた。
「映画みたい。顔よく見えなかった」麗子が言った。
「七〇メートル先の上にいる相手を拳銃で僅か十秒ほどの間に一発で仕留めるとは、それがどんなに難しいか、篠田警部と稲葉君ならわかるはずです。私にはとても無理です 」
西郷の重い言葉に、三人は沈黙してそれぞれが思いを巡らせた。
千葉はサンルーフを閉じて補弾すると、後部座席から防弾仕様のフルフェイスヘルメットを出して被り、付いていたチェーンを座席シートのヘッドレストの金具に付けた。これは衝突等の衝撃から首を守る為の道具で、所謂ムチウチ避けだ。それからクロス式のシートベルトで身体をしっかり固定した。ピカピカだった要人ガード仕様のベンツは、もはや傷だらけだが、あれ程の銃弾を浴びても、我がままに荒っぽく運転しても、パンクもせずに車体に穴一つあいていないのは感心した。カシオソーラー電波時計に目をやると、午後三時十分過ぎで、これからが本番なのだ。千葉はシートベルトをもう一度確認してから、アクセルを踏んで時速百キロで屋敷に通じる門をくぐった。
「あっ動き出した 」と画面を食い入るように見つめていた稲葉が口走った。
西郷は、千葉のベンツが四輪駆動で小高い石段をグイグイ登って本陣に迫る映像を観て、「この手があったか 」と、どうしてもわからなかった答えを見せつけられた気がした。口ではなんとでも言える。更に想像は自由で無限だ。それでも答えを見出すことができなかった自分に大いに失望し肩を落とした。彼は、千葉が強く進言して防弾仕様の車を梅木に買わせた経緯を知っていた。半年ほど前に、梅木が乗った車(普通のベンツ)が関西の暴力団に銃撃され、千葉がぎりぎりのところで撃退した事件があったのだ。
千葉は既に八人を沈黙させて圧倒的な数の不利を克服するとは、バカで天才で悪魔なやつに違いない。と西郷は思った。「映画みたい 」といわれようと、本来これは映像に残るはずがないものだ。結果が成功とわかっている以上、後は千葉がどのように暴れるのかという興味を禁じ得ない。そして源田とかいう者への同情の気持ちが湧きだした。
源田の本宅は、建坪二百はある和式木造二階建て。美しく整えられた広い庭には、拘りの庭石が多数あり、純白の化粧砂利が禅を思わせる紋様を描いて、長い縁側の前に小宇宙を醸し出し、手入れの行き届いた松の木が配置され、大きな池には小さな橋がかかり、上物の鯉が優雅に泳いでいる。暴力団の組長の家というものは、大勢が集まって色々な儀式や会合を行うことが多いのと、子分達に威光を示す為にも、見栄をはって豪華に大きく作る場合が多いのだ。従って源田も若くして組長の座についた分、勢いをアピールする為に、豪華さを強調していた。そしてこの家の住人は、源田に御新造と子供が五人、七人の御手伝い。そして人質の梅木がいて、乱暴な用心棒が大勢いて、犬もいれば猫もいる。
「この第二門をくぐって約三十メートル先に、高さ三メートルくらいの芝山がある。そこを…… 」
千葉はベンツの速度を上げ、左手にある富士山に見立てた芝山に突っ込んだ。ベンツは荒々しく横向きにジャンプすると、車体を捻って一回転し、縁側に方向を変えて、巨大な大砲の弾のようにバリバリとアルミサッシを突き破り、四十畳はある日本間に突っ込んで行った。
ヘリからの上空映像では、千葉が屋敷の中に車で突入した後の続きを見ることはできない。しかし全員が、千葉が、屋内で暴れまわって敵を倒す光景が想像できた。
「三十対一の戦いに勝つなど、常識では有り得ないじゃないですか。しかしそれを実現させるためには、常識を超えた発想と準備と行動が必要なのです。千葉はそれを見事に体現しました。彼の決して諦めない気骨と挑戦する気迫は、源田に十分に伝わっていると思います 」
小百合は、日頃無口で冷静な西郷が、これほど熱く語ったことに強く心が動いた。
「そうね。やっていることは狂気に満ちているけど、命懸けの気迫を感じるわ。今は暴力団の抗争事件でそれを発揮したけれど、彼が怒髪天事件で東京に来るとなると、怖い気もするわね。だけど、たしかに期待もさせてくれる 」と小百合が言うと、「そうね。凄いとしか言いようがないわ 」と麗子が口を尖らせた。
千葉は駐車場の段階で、梅木を連れて帰ることができなかった場合は、こうして源田邸へ侵入する計画であった。源田が自分を殺そうとしていたのはわかった。これからの展開は、彼等にその選択が間違いだったと思い知らせてやるのだ。庭の芝山をジャンプ台にしての一回転は、千葉が車内で重心を巧みに移動させて実現させた芸当だった。計画通りにベンツを日本間に着地させた千葉は、スピンターンしてすかさずギアを一速に切換え、アクセルとブレーキを巧みに使って暴れ回った。虚を付かれた用心棒達はうろたえ慄き、逃げ惑いながら轢き潰されるか、壁とベンツに挟まれるか、空しく拳銃弾をベンツに浴びせて、兆弾が味方を傷つけるのが関の山だった。
千葉が車毎侵入してきた衝撃は、二階の一番奥にある源田の寝室に軟禁されていた梅木と彼を監視している源田を大きく揺らした。地震かと思ったが、その後に湧き起ったけたたましい悲鳴、怒号、銃声が、梅木に「千葉ちゃんが来た! 」と直感させた。
「何か?地震か?おい梅木さんよ、下手な真似するなよ。なあに、こっちには三十人からの部下がおるんたい。千葉はもうじき死ぬとよ 」
源田は慌てたものの冷静さを取り戻して梅木にトカレフ拳銃を向けて警告した。源田は芝居がかった身振りで、携帯電話で不知火に状況を確認しようとしたが、出ない。千葉が一階で暴れまわっているというのに、他の部下にかけても全然通話できない状況は、今どういう状況なのか…… それを想像すると恐怖が身体を駆け巡った。そこへ幹部の坂之上が、血相を変えて入ってきた。
「げ、源田さん。大変です!千葉が、車毎突っ込んできて家の中で滅茶苦茶暴れてます。弾がきかんので手が付けられません! 」
その間にも衝撃で家が何度も揺らぎ、相変わらず銃声や悲鳴が聞こえている。
千葉が本当にたった一人でやって来て、まさか車毎突っ込んでくるとは、誰も予想していなかった。靴を脱いで家に上がる日本人にとって、土足どころか車で上がってくるなど、たとえ強面の暴力団ですら、全く考えもつかなかった。
「なにぃ!な、なんちゅうやっちゃ…… 」
そこへ今度は大きな爆発があって、家全体が更に激しく揺れた。千葉は、大広間で暴れた後、柱を折って壁を突き破り、応接間に移動して暴れ回った。人が車体に取り付こうが、撃ってこようが、ベンツをまるで巨大なハンマーの様にブン回し、人、壁、家具を構わず破壊しまくった。死にたい奴は別だが、逃げたい奴は家から出て行けばよいのだ。
そこへ用心棒の一人が、拳銃弾が通用しないのならばと考えたのか、ベンツが奥のカラオケルームに飛び込んで暴れていた時に、手榴弾二個をベンツの下に転がして、非常口から逃げて行った。千葉がサイドミラーでそれを見落とす筈もなく、激しくホイルスピンさせて方向転換させると一直線に庭へ飛び出した。
「あっ出てきた 」と稲葉が口走った直後に、爆発がたて続けに起こり、爆音と爆風と共に窓ガラスが割れて飛び散った。千葉のベンツも同様に背後に激しい炸裂波を感じながらも、無事に庭に飛び出しスピンターンして難を逃れた。
「もうなにこれぇ。凄すぎるんですけどぉ 」
麗子がつぶやいた。西郷がここで映像を止めて、「添付ファイルの説明によると、誰かが車の下に手榴弾を二個転がしたのが見えたので、慌てて飛び出して難を逃れたそうです 」と説明した。
千葉は車内から注意深く周囲を見回すと、源田宅の一階部分は静まり返って、もう生存者はいない様子だった。家の外にも誰もいない。上を見ると、自衛隊の攻撃ヘリ、アパッチがフル装備で浮かんでいた。
おそらくマスコミの取材用ヘリが近づかない様に警戒しているのだろう。千葉はマイクのスウィッチをONにして呼びかけた。
「梅木連合の千葉だ。みんなよく戦った。もう終わりにしようや。源田さんへの義理は十分通したはずだ。まだ足腰立つ者がいれば立ってくれ、病院へ行って治療しよう 」と生存者を確認したが、立ち上がる者はいなかった。
これは戦争ではない。だから逃げてもいいし、追うつもりもない。まさか死んだふりをして力をためておいて、不意打ちをしかける必要などないのだ。千葉はクロス式シートベルトとフルフェイスヘルメットに繋がったチェーンを外し、山羊皮手袋をしてベンツから降り立ち、リュックサックを背負って、源田宅の中に身軽に入りこんだ。右手にはコルトを握っている。
「あっ千葉さん出てきた 」
「ヘルメット被ってるじゃない。顔が見えない 」
「リュック背負ってるじゃない。中身はなに? 」
「わかりません。説明も無いです 」
「中に入っちゃった」
「速い」
「意外とすばしっこいわね」
「そうですね」
千葉はヘルメットの他に、ボディと股間にグラスファイバー製の防弾性のプロテクターも付けているので、頭部、首、胴体、急所は一応守られているが、それでも用心深い動きを怠らなかった。屋敷の中は滅茶苦茶に荒れていて、充満している悪臭に顔を顰めた。炸薬、血、肉、内臓、糞尿……それらが爆発で生焼けになって混ざった匂いだ。それに、無残な死体の数々、それから家具調度の残骸、壁の大穴、無数の弾痕、吹き飛んだ襖、剥け散った畳等々、それらが手榴弾の爆発によって混ぜ返された光景が映った。
「手榴弾を投げた奴等はとっくに逃げたんだろうな。御前らもとっとと逃げ出せば良かったものを…… 」千葉は小さく呟くと、任務のために頭を切換えた。
「源田さん、約束通り一人で来たぜ。梅木会長を渡してもらおう 」千葉は二階に通じる折曲がり階段の踊り場で、身を潜めながら聞こえるように大きく声をかけた。が、返事が無いので、下の階段辺りにあった家具の破片を掴んで二階に放り投げた。すると、悲鳴と共に銃を乱射した者がいた。幹部の坂之上だった。千葉は必死の形相でトカレフ拳銃の四発目を撃つ前に右手をコルトで撃ち抜いた。
「ぎゃぁぁ 」と悲鳴をあげて転げまわる坂之上を、千葉は二階部分を警戒しながら襟首を掴んで既に安全を確認している階段口に引きずり込んだ。弾は右手に直接当たって血に塗れて穴が開いていた。
「御前、坂之上だよな 」
「すまん。俺が悪かった。殺さないでくれ。頼む!」
「大きな声出すな。殺すつもりは無い。質問に答えてくれ。梅木会長と源田さんは二階にいて、一緒だよな 」と尋ねると、坂之上は大きく頷いた。
「二階には他に用心棒はいるのか? 」坂之上は首を横に振った。
「俺は御前や源田さんに恨みはない。梅木会長を迎えに来ただけなんだ。それをどう間違ったもんかね。梅木会長の所に案内してもらおう。立て 」
千葉はそう言うと、左手一本で小柄な坂之上を前に吊るして盾にして、右手にコルトを構えて背中を壁に付けながら、慎重に梅木と源田がいる一番奥の部屋に向かった。
「この部屋だ…… 」坂之上が小声で言うと、千葉はドアノブに手をかけたが、ロックされていた。住宅用の鍵は、それ程頑丈なものではなかったので、思い切り蹴ってドアを開け、坂之上を部屋に放り込んだ。
案の定、源田が慌てふためいて相手を確認もせずにトカレフ拳銃を乱射している隙に、千葉はコルトで源田の銃を撃ち跳ばした。坂之上は源田に撃たれて死んでしまった。千葉は源田の銃を狙って撃ったのだが、人差し指が引き金にかかっていたらしく、骨折したようで、源田は激痛に悶絶した。千葉はそれを観察しながら大股で近寄り、トカレフを拾い上げ、薬室の弾と弾倉を抜いて部屋の外の廊下に投げ捨てた。
梅木は千葉の姿を見て感激した様子だったが声が出なかった。自分を助けに来てくれた男の姿は、長い手足に逆三角形の体格で、イタリア製のダークスーツを着てはいるが、頭部と首を守る防弾仕様のフルフェイスヘルメットを被っていたので、まるで仮面ライダーの様に映ったからだ。千葉は、コルトの銃口を源田の眉間に向けた。フルフェイスの為、表情は確認できない。
「源田さん。こんな時、俺に何て言うんだ? 」源田は、右手の苦痛も忘れて、顔は血の気を失い呆然としていた。
「わしが悪かった。頼むこの通りじゃ。許してくれ……下さい。ごめんなさい 」源田はこの期に及んで千葉に土下座した。
「あんたの口からそんな言葉は聞きたくなかったな。潔く殺せと言うのかと思ったよ。この一件、どう治めてくれるんですか 」
「か、金か。金ならある。このベッドの下が金庫になっておって、一億はあるんじゃ、これでどうか 」「開けろ 」と千葉が言うと、源田は素直に右手の痛みを堪えながら、跪いてキングサイズのベッドの下にある金庫を開けた。何しろ相手は三十人からの手下をたった一人で全滅させた怪物なのだから、大人しくいうことをきく他無い。中には一万円の束が並んでいて、傍らにトカレフ拳銃があったのだが、源田はそれを取ろうとしなかった。余程背後から撃たれたくなかったのだろう。
「会長、ベッドのシーツを風呂敷代わりにして、キャッシュをつめて下さい」千葉が梅木にそう言うと、梅木はまるで千葉の手下のように素直にパッと従った。救出の感動を分かち合う時間などない。
「これは慰謝料としてもらってやる。俺は命乞いをする奴を殺す事はない」彼は金庫内のトカレフの弾倉を抜いて放り出すと、預金通帳と実印を奪ってポケットに入れた。
「あんたには、家族がいたな。今どこにいる?心配するな、危害は加えない 」
「……多分向かいの嫁の寝室に集まっとうと思う 」千葉は、関係無い源田の妻と子供達は助けたいと思っていた。既に逃げ出してくれていれば、それはそれで構わない。
千葉が、二十畳くらいある源田のマスターベッドルームを見渡すと、贅沢な家具・調度や酒類が並んでいたが、壁に据え付けられたエックス型の赤い磔台が眼にとまって眉を顰めた。よくよく見れば、その周囲には鞭だの蝋燭だの目隠しだの猿轡だのがあった。
「御前SMの趣味があるのか、まさか会長に何かしたのか! 」と語気を強めた。
「いえいえ、滅相も無い。これはほんの御遊びで…… 」梅木にも確認したが、梅木は源田からの拷問を恐れ、何でも調子良く話を合わせて機嫌をとっていたので拷問はなかった。と言うので安堵したが、「こんなものにかけられたらどんな思いがするか、御前自分でやってみろ 」と言うと、源田は抵抗することなく自ら両足と左手を固定し、最後に千葉が右手を固定して磔になると、磔の固定部四か所を確認した。肌が触れるところが革製で、その外側が鎖で十分に強度があるとわかると、梅木にシーツに包んだ札束を背負わせ、向かいにいるという源田の妻子の部屋にノックして入った。中ではベッドの上で御新造を中心に五人の子供が固まっていた。それが皆千葉を睨んで震えていた。源田の妻子から見れば、千葉は自分の家を破壊した悪者で、完全武装したその姿が異様に映り、思い切り敵視されたのは、千葉にとって心が痛んだ。
「御新造さん、源田さんは、野望を持って我々に挑んで敗れたのです。これはもうどうする事も出来ません。あなたも組長の妻ならわかるはずです。しかし、俺はあなた方を助けます。これは源田さんの通帳と実印です。残高は二億位あるようです。ここはもう危ないから、これを持って今すぐ逃げなさい 」
千葉はそう言って源田の妻に通帳と実印を渡して道を開けた。源田の妻は、「ちょっと支度します 」と伝え、千葉を睨みながら部屋を出て行った。子供たちも母親に付いて行った。他の部屋に入って手早く荷造りをしている様子が窺えた。千葉は、まだ隠れている者がいたら、今は安全だからすぐに逃げろと何度も大きな声で叫んだ。すると使用人たちが、何も持たず着の身着のままで、どたどたと階段を下りて屋敷を去って行った。最後に源田の妻子が階段を下りて、一階の凄惨な現場を見たのか、悲鳴と子供の泣き声が聞こえたが、彼女達が転がる様に家を出て行くのを窓から見送った。
「あっ人が出てきた 」千葉が屋敷に入ってから暫く動きがなかっただけに、それを確認した稲葉が、驚きとともに喜びの響きを持って言った。特に母親らしい人物と子供五人が猫三匹と犬二匹を抱きしめ、大型犬一匹を連れて出てきたときには、微笑ましい空気に包まれた。
「ほんとだ。きっと奥さんと子供かしら、みんな泣いてるわ。ねぇこれからどうなるの? 」と小百合が西郷にきいた。
「私にはわかりませんよ。おそらく千葉は屋敷内部を制圧したと思います。それで関係ない人を解放したのでしょう。後は梅木を連れて帰るだけだと思います」
千葉は二階の窓からみんなが無事に屋敷から出て行ったのを確認すると、背負ってきたリュックサックからせっせと何かを持ち出しては、二階の要所に取り付け始めた。
「千葉ちゃん。何しよん? 」
「決まってるじゃないですか、爆弾仕掛けてるんですよ 」
「決まっちょるんかいのう 」
「そうですよ。ささ、下に降りましょう。下にも仕掛けるんですから…… 」
「ああ、それかい。しかしこの札束ちゅうのは重いのう 」
「一億だと一〇キロはありますからね。それに嵩張るし、だけど嫌な重さじゃないはずです…… 」
「まっそりゃそうじゃの…… 」千葉と梅木が一階に降りると、その凄惨な現場と、あの強烈な匂いで、梅木が小さく悲鳴をあげた。
「これじゃあ子供が泣くはずじゃ。お化け屋敷だってこれ程じゃないで 」と言うと、千葉は苦笑いしながら、梅木のユーモアのセンスを褒め、せっせと要所に爆弾を仕掛ける。強力な粘着テープのシールを剥がして取り付けるだけだが、その場所が重要なのだ。
「あっあれが人質だった梅木?ですかね 」稲葉が西郷の顔を見て訊いた。
「そうです。何度か見たことがあります 」
「なんか貧相ね。それになにあの袋?シーツ? 」と麗子が半笑いで言った。
「添付ファイルの説明によると、金庫にあった現金です。一億四千五百万円と少しだそうです 」
「あら、それって略奪じゃない 」小百合の声が冷たく鋭くなった。西郷は少し困った顔になって説明した。
「たしかにそうです。その前に侵入・傷害・殺人もやっていますが、彼は超法規(的存在)です。それに当日にY県の税務署に申告済みで、半分を納税しています。残りは申告者のものになります 」
「それってY県の地方ルールなの? 」
「いえ、SPルールです。処分は、始末書提出と減俸三か月です 」と添付ファイルを確認しながら言った。
「まぁっ、でも最初からそれが狙いとも思えないけど、お金があるはずって想像はつくわね。そういうおいしいことでもないと、誰もこんな危ないことやらないってわけ? 」小百合が追及した。
「臨時の収入が目当てでこんな任務につく者はいません。それは飛躍です 」
「西郷さんも、こういう美味しい思いしたことあるの? 」麗子が面白そうにきいた。稲葉も興味がありそうだ。
「ありますよ 」と西郷はあっさり認めた。
「それじゃあ。SPって略奪集団じゃない 」小百合が言うと、「幻滅だわ 」と麗子が嵩に回った。西郷は部外者にこれを見せたことを悔いて困った顔になったが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「SPについて批判は御遠慮下さいと言ったはずです 」
「そうだけどぉ 」と麗子が納得しかけたが、小百合はまだ納得しなかった。
「そういった収入があったとき、キチンと申告して半分収めれば不問ってこと?つまり、Y県が略奪を認めているのね 」
「そうなります。我々は任務遂行中の殺人や略奪を含めた、あらゆる行為を禁止していません 」
「ほらぁ、やっぱりそうじゃなぁい 」小百合が残念そうに口を尖らせた。
「それを今私に言われても困ります。超法規については議論がつきないところです 」
「ちょっと待って下さい。家が燃えています 」稲葉が驚いたように言って、一同が再び画面に注目すると、議論になっている間に千葉と梅木の車は既になく、屋敷のあちこちから煙と火が出ていた。
「西郷さん、申し訳ないけど巻き戻して 」と小百合が命令口調で言うと西郷は素直に従い、ビデオ・ファイルを千葉と梅木が荒れた縁側から出てきたところあたりまで戻した。勿論添付ファイルの説明も付け加える。
梅木は、今や見るも無残な姿の防弾仕様ベンツを見て再び嘆いた。
「まだ買うたばっかりじゃっちゅうに御前…… 」しかし、この車と千葉の存在がなければ、自分は今頃源田に何をされていたかわからない。それを思うと、千葉ちゃん又しても有難う。と苦しい笑顔で言うしかなかった。爆弾を取り付け終わった千葉が縁側から外に出てきて、底抜けの笑顔で、でも車内快適ですよ。と後部座席のドアを恭しく梅木の為に開けてやると、梅木は慣れた様子で乗り込んだ。
「さぁ、帰りましょう! 」と千葉はベンツのエンジンをスタートさせ、源田邸の裏側の細い道から帰路についた。途中梅木に爆弾の起爆スウィッチを押させると、二階部分に仕掛けた爆弾の筒から火柱が上がった。源田の豪邸はたちまち火災になって、炎は勢いを増し、時々小爆発を起こしながら数分後には、一階部分が同様の火柱が上がり、上も下も大火災となった。梅木は源田の豪邸から大きな炎と煙が出ているのを見物していて源田のことはあえて口にしなかった。千葉は振り向きもせずに車を運転している。科学的に引き起こされた高温火災は、豪邸を瞬く間に燃やし尽くすと、一階も二階もガラガラと崩壊させ、最後の爆発で特殊な音波を発生させて、一瞬で炎を消し去った。
映像はこのあたりで終了した。
みんな黙っていたが、やがて小百合が口を開いた。
「なんで千葉さんは火をつけたんだろ? そこまでしなくてもいいじゃない 」
「最終報告書があるので読みます 」
西郷は冷静な口調で報告書を読み上げた。
「源田邸人質奪還の作戦時間は五〇分。今回の千葉の行動は、梅木会長の護衛・補佐任務に含まれる。結果、梅木氏を救出に成功。源田の妻子と使用人を解放。逃亡した者五名はその後確保。源田を含む合計三二人の殺害(陸自調べ)、現金略奪(申告済み)と放火並びに消化については不問とする。陸上自衛隊北Q州支部の協力に感謝する 」
稲葉は下を向いて黙って西郷の報告を聞いていたが、それが終わると、顔を上げて生き生きとした表情で語りだした。
「僕は、千葉さんは素晴らしいと思います。いくら一人で来いと言われたって、サラリーマン根性が沁みついた者には、絶対にできないことです。それをたった一人でよく挑みました。そして本当に、勝っちゃうんだもの。凄いじゃないですか、感動しました。僕なんか、どうやって挑むのかまったくわからなかったんですから、話にもなりませんよね。たとえ、防弾仕様の車で突っこんでいけばいいんだよって指示されたとしても、できないです。そんな技量も度胸もないです。僕は千葉さんの活躍を一生忘れないと思います。あんな気迫を持っている人見たことありませんから!
篠田警部は、正直ヒドイと思います。警部は西郷さんに命救われたんでしょう?それを略奪集団だなんて、あんまりです。はじめから超法規だってわかってるんだから、それを今批判するのはおかしいです。どうしようもないことでしょう 」
稲葉は一人の警察官として、毅然とした態度で小百合の目を見て言い切った。さすがの小百合も稲葉の勢いに押され、「それもそうね。あたしだって、何もできないもの、言い過ぎたわ。西郷さん、ごめんなさい 」小百合は西郷に向かって頭を下げた。綺麗に手入れされた黒髪がするりと前に垂れた。西郷は軽い驚きを持って「いえいえ、どうも 」とそれを受けた。稲葉はそれを見て、わかってもらえればと嬉しそうに笑った。「ほら、警察でも時々略奪ってあるよね。だからつい、そういう目で見ちゃったのよ 」と麗子がフォローした。
「千葉が最後に屋敷に火をかけた理由ですが、彼は無駄なことをする男ではありません。事前に爆弾をリュックサックに入れて用意していたのですから、そうする必要があったと考えるべきです、これは推理ですが、示威行為ではないでしょうか。
千葉は梅木組に入って梅木会長の護衛・補佐任務を遂行中で、梅木組は県内の暴力団を平定し、Q州に進出して地元暴力団と吸収交渉をしていることを知っていました。その中で、地元やくざの戸畑興業が梅木会長を誘拐したのですから、地元やくざの世界では大きな事件で、そのなりゆきが非常に注目されていたという背景があるのです。下手を打てば、なめられて今後の吸収交渉に大きく影響するのです。
これは上司から聞いた情報です。戸畑興業・源田の要求は、梅木連合の傘下に入るが、ナンバー2の千葉を排除して自分がそのポジションにおさまり、戸畑興業もナンバー2の地位をいただくという確約でした。だから千葉を一人で来させて殺そうとしたのです。やくざの世界でも、噂や憶測が伝わるのが早いもので、この要求内容は一夜にして知れ渡ったのです。つまり源田は、いざという時の切り札くらいのつもりはあったかもしれませんが、梅木を殺すつもりはなかったようです。
そして千葉は要求通り、一人で乗り込んでいきました。源田にすればこれで決まったと思ったでしょうが、結果は御覧の通りです。彼は千葉の能力を知らなかったのです。筋を通しながらも、獅子奮迅の活躍で向かってくる者を討ち、逃げる者は追わず、関係ない者は逃がしてやる計らいは、やくざが最も好むものです。その上に屋敷に火をかけて消して帰るなどすれば、これはもう地元やくざの世界に対して、歯向かうものは完膚なきまでに潰す。という強いメッセージを発信したということです。これで以降の吸収交渉は有利に運ぶというものです。千葉はそこまで計算していたと考えれば、火をかけた理由が納得できます」
「凄い。そこまで考えて…… 」稲葉は、まるでなにかの陰謀を知ってしまったかのようにつぶやいた。「話の内容は分かりやすくてよかったけど、もしそれが本当だとすると、やくざとしては最高の仕事だったってわけ? 」小百合が問うと西郷は「この上なく 」と答えた。彼はいつの間にか椅子をテーブル付近に寄せて三人と向き合っていた。
「ねえねえ、一流のやくざといっても、公務員なんでしょう? 歳はいくつなの?結婚してんの? 」と麗子がたたみかけるように言った。「彼は私と同じ主査です。歳はたしか二五か六だと思います。独身です 」独身と聞いた篠田姉妹の四つの目が一瞬きらりとしたのを西郷と稲葉は見てしまった。