四十過ぎの姫
4章
ほどなくすると自動車警ら隊が正門外の直線道路に入ってきた。それを見た時、篠田警部は衝撃的な事件の連続だっただけに百万の味方を得たように嬉しくなって、両手を振ってピョンピョン跳ねて誘導した。
ポリスカー五台の先頭が篠田警部の前に止まり、恰幅の良い警官が悠然と降りてきた。隊長の田中敬三だ。部下たちも迅速に後に続いて降り立ち、まるで主人に忠実な猟犬のように慌ただしく現場に向かった。
「御苦労様です。ST署の篠田です 」
「御苦労様です。自ら隊長の田中です。現場はあれですか 」と正門外の三人の遺体とポンコツになった車を指差した。
「ええ、そういう意味では現場は二つになります。もう一つは、この運送会社の中です。先ほどまでトラックが燃えていました…… 」と篠田警部は要領良く事件の流れを、身振り手振りを交えて田中に説明した。
田中隊長は篠田の話を注意深く時折質問を交えながら聞き終えると、部下に、鑑識を呼んでくれと指示し、他の部下に西郷のところに行って事情を聞いて来いと命じた。
「彼が噂のSPの西郷さんですか、働きぶりはどうです? 」と田中隊長が興味深げに片方の眉毛をあげて尋ねた。西郷はペンライトで焦げたトラックを照らして何かを調べていた。
「ええ、一言で優秀です。彼がいなければ、そこの三人の餌食になっていました 」
「なるほど、さすが客員として御呼びしただけのことはあるのですね。三人を射殺し、車を一台オシャカにして、トラック一台を炎上させて二人を焼死させた。たいしたものだ。さすがは超法規SPですな 」田中隊長は西郷が出した結果に皮肉を言った。
「いいえ、彼の行動は正当防衛の範囲だと思います。従って拘束などはしないで下さい。それにトラック炎上は彼がやったのではありません。私が証言します。
おそらくこの会社の別の者が口を封じるために遠隔操作でやったものと思われます。私、今回の事件に遭遇し、大きな組織が関わっているように思います 」
「わかりました。なぁに相手が口を封じようがなにをしようが、今は歯形からでも身元が割れます。それは大事な証拠になるのです。こいつを一つ一つ積み上げていけば、きっと犯人を捕まえられますよ 」と田中隊長は、これまでの実績から培ってきた自信を見せた。それは篠田警部にとっても馴染みのある考えで同意したが、これまでの警察の手に負えない経緯を思い出して考えると、心が弾むところまではいかなかった。
田中隊長と篠田警部は歩いて三人の遺体に近づいて検分し、それから廃車同然になったレンタカーのところに行き、ライトを当てて中を見ようとした時、運送会社の建物の二階部分で爆発が起こった。瞬間の閃光、腹の底に響く轟音と共に地面と空気が揺らぎ、二階部分の窓ガラスを吹き飛ばした。田中隊長は一瞬怯んだが直ぐに篠田警部を伏せさせてから彼女を庇うように身を伏せた。
仕掛けられた爆弾は、荒々しい悪魔のように部屋のほとんどのものをひっくり返し、破壊して大きな音と煙とともに月の夜空に響き渡って去っていった。
「最後に爆弾を仕掛けて証拠を消し去るということは…… 」西郷は炎上したトラック付近で身を伏せながら、これでこの組織と怒髪天は九分九厘関係があると確信した。
「やれやれ、篠田警部、御怪我はありませんか 」と田中隊長は立ち上がると優しく声をかけたが、篠田警部は即座に声が出なかった。
「篠田警部、大丈夫ですか 」と心配気に顔を覗きこむと、篠田警部は伏せたまま顔をそむけて見えないようにして言った。
「……大丈夫です。田中隊長、すみませんが爆発のあった地点に行って状況を見てきて下さい。私もすぐに行きます…… 」と絞り出すのがやっとであった。田中隊長は「わかりました 」と言い残し爆発現場に向かって走っていった。
「……爆弾が仕掛けてあるかもしれませんから、爆発物処理班が来るまで二階の事務所には入らせない方がいいでしょう…… 」
彼女の頭の中で西郷の言葉が響いていた。その忠告を田中隊長に真先に伝えるべきだった。それなのに事件の経過報告を優先させてしまったのだ。そのために誰かが中に入って爆発が起こったのかもしれない。
そう思うと鉛の塊を飲み込んだように胃が重く感じ、全身から汗が噴き出して力が入らず、立ち上がることができなかった。今さら悔やんでもどうすることもできないが、血の気が引き息をするのも苦しい。こんな経験は初めてだった。
西郷がこの爆発に遭遇したのは、敷地内の炎上したトラックの前で二人の警察官に一連の経緯を説明していた時だった。一人はまだ二十代でもうひとりは三十代半ばという感じだった。彼らは西郷の話を真剣に聞いていた。西郷のことは知っているようで、丁寧な応対で軽い敬意を持っていることが伝わってきた。
トラックはタイヤ四輪が破壊され、黒焦げの運転席にはシートベルトに固定された焼死体が二つ。無残な光景の中で西郷が必死の思いで火を消し止めた白い消化剤が、凄惨な現場にわずかに人間の情を残していた。場数を踏んだ警察官だからこそそれがわかる。涙を滲ませた西郷の話と現場の状況に矛盾は感じられなかった。
二人の警察官は状況を飲み込み、空気が和みはじめたときにだしぬけに爆発が起こったのだ。西郷は「伏せろ!」 と叫んでアスファルトの地面に三人で伏せた。どぉおんという轟音と共に一瞬空気が揺れて熱と衝撃が身体に伝った。
西郷は誰かが建物の中に入ったのではないかと直感したが、口に出さずに自分の身体に異常が無いことを確認してから、二人の警官と共に爆発があった建物の入り口に向かった。他の警察官がポリスカーを敷地内に乗り入れヘッドライトを入り口付近に向けた。ヘッドライトが照明代わりになり周囲が見えるようになったが、点滅する赤色灯の光が合わさって現場の緊迫感が上がった。警察官達は自然に爆発があった建物に集まってきた。
そこに田中隊長が正門から駆けつけて全員の安否を確認すると、柴田と三上という警察官が建物の入り口から中に入った直後に爆発があり、巻き込まれたらしいことがわかった。すぐにでも二人を助けに中に入ろうとする警官たちを西郷が二階に通じる入り口ドアの前で両手を広げて制した。
「Y県から来ました西郷と申します。皆さんの御気持ちよくわかります。しかし今、この中に入ってはいけません。すぐに爆発物処理班を要請して下さい。
今の爆発は破砕型で比較的小規模なものでした。私はこの爆発で、この会社は怒髪天が関係していると確信しました。連中の最近の傾向は、爆破で証拠を隠滅することが目的だったのが、死傷者を増やすという目的が加わっているようなのです。ということは、まだ爆弾が仕掛けてある可能性があります。
最近の爆弾は簡単に誘爆することはありません。だから爆弾のスペシャリスト以外中に入るべきではないのです 」
「しかし、今ならまだ柴田と三上は息があるかもしれません。せめて救出させて下さい 」と警官の一人が訴えた。西郷はそれが怒髪天の狙い目なのだと説得し、ここから声かけをして自力で出てきてもらうようにしたらどうかと提案した。しかし自分には命令指揮権が無いので、どうするかは田中隊長に任せた。
そこへ篠田警部が正門から入って来た。その顔色は陶磁器のように蒼白く、表情も無く、熱もなかった。わずか二十分ほど前に見た、元気に両手を振って笑顔でぴょんぴょん飛び跳ねていた姿が想像も付かないほどの変わりようだった。彼女の足取りは重たいが一歩一歩を確かめるようで、西郷と田中隊長の間に立った。
「……ST署の篠田です。田中隊長、今の爆発で被害はありましたか 」
「はい、柴田、三上巡査の両名が中に入って爆発に巻き込まれた模様です 」田中隊長がキビキビと報告して指示を仰いだ。この場では篠田が警部なので当然の流れだ。篠田警部は気を引き締めた表情で指示を始めた。
「皆さん非常事態です。爆発物処理班を至急呼んで下さい。それからもう誰も中に入らないで下さい。悲しいことですが、ここから呼びかけて、二人が動けるのであれば、なんとか自力で出てきてもらいましょう。
実は、私と西郷氏は都内で不審なトラックを追っていて、トラックの所有がここであることをつきとめて先回りしてトラックが戻るのを待っていました。そしていきなり襲撃されて、こんな爆発まで起りました。この犯人はこれまでになく凶悪で用意周到です。そういう意味で気を引き締めてかかって下さい。
周囲に非常線を張ってマスコミを含めた関係無い者の立ち入りを規制して下さい。そして不審なトラックと運転している人間はまだ戻ってきていません。これは重要な手掛かりになるでしょう。そのトラックの画像、車種とナンバーのデータは警視庁本部サーバーに残しました。これからアクセスコードとパスワードが入ったこの携帯を渡しますので、各自皆さんの携帯に赤外線通信で入れて下さい。
犯人は、あそこのトラックで逃げようとした二人を焼死させて口を封じたつもりでしょうけど、鑑識と科警研がすぐに身元を明らかにしてくれるでしょう。これからが大事です。それらを更なる手掛かりにして確実に追い詰めていきましょう 」
篠田警部は鬼気迫る表情で表面上は雄弁に語り終えると、右手を上げて敬礼した。警察官達は篠田の言葉を真剣に聞いて心に刻み込み、一様にサッと敬礼した。篠田が敬礼を解くと、田中隊長のところに集まり指示に従い散っていった。
彼女は自分の携帯を受け取とりポケットに入れた後は、力が尽きたように両手を膝に当てて前屈みになった。長い髪がダラリとたれて血の気がうせた顔を隠した。やがて一人の警察官が入り口の前で、いつまでも出てこない二人の巡査に声をかけ始めた。
「おーい柴田、三上聞こえるか。俺だ大森だよ。さっきの爆発凄かったな、大丈夫か。自分ら助けに行きたいんだけど、まだ爆弾が仕掛けられているかもしれないということで、そっちに行けないんだ。だからこちらは大丈夫だからなんとか自力で出てきてくれ 」
警察官はそう言って中の反応を窺ったが、階段を降りてくる者はなかった。警察官は信じられないという顔に苦笑いを浮かべて、更に呼びかけた。
「よー、切り込み隊長の柴田!その手下の三上!御前らどこかケガして動けないのか?それじゃ声だけでも聞かせてくれー、声を出してくれー 」
しかし中からは声どころか呻き声もない。大森は真剣な表情に変わり、沈黙を恐れるように、声を聞かせてくれ、頼むから降りてきてくれと哀願する言葉を強く建物の中に投げかけた。生還を信じ、それを望む呼びかけは徐々に悲痛の色が強くなってひっくりかえりそうになる。それが絶望の色に変わる前に、たまらなくなった篠田警部が止めた。
「もうやめて!もう……中の二人がどんな状態かわかったでしょう。これ以上は辛くなるだけだから、御願い。あなたは田中隊長の指示を受けて違う任務について下さい…… 」
その警察官は両目に一杯涙を溜めたまま短い敬礼をして無言で走り去っていった。篠田警部は辛くて警察官の顔を見ることが出来なかった。ポリスカーの赤色灯の点滅が彼女の影も含めて異様な姿に映し出した。その後、力無く両膝から崩れ折れると両手をつき声を抑えて泣いた。全身が小刻みに震えて髪が揺れ、涙がアスファルトにぽたぽたと落ちた。
爆発の後、二人が無事であれば直ぐに降りてくるはずだ。呼びかけても声も無いということは、もう死んでいるか声も出せず動けないくらいの重傷ということだ。それを何度も呼びかける声を横で聞かされては、彼女にしてみればまるで自分が殺してしまったと責められているようでたまらなかった。田中隊長に会った最初の段階で、建物内の立ち入りを規制しておけばよかったと強い後悔の念が彼女の胸を抉った。彼らを爆発に巻き込んでしまった責任が、重い塊となって胃の中で動き回り、息が苦しくなるばかりか吐き気も覚えて嗚咽しながら、ひたすら二人に心の中で謝った。
西郷はその光景を苦い顔で見ていた、彼女の気持ちを察して気の毒に思った。彼女は今激しく苛まれている。彼女は自分が涙ぐんだことに驚くほどの人物だったはずだ。それが今、本人が涙を流している。自分の言ったことが原因なのだろうが、これは多分「気づき」の差だ。彼女だけではない。柴田と三上の二人も同様だ。現場では、自分が死なないように、自分が苦悩でのたうちまわらないように気づかなくてはならないのだ。
「篠田警部……あの状況では中に爆弾を仕掛けてあるという確証はありませんでした。だから、二人の警官が爆発に巻き込まれたことについて、あまり気に病むことはないと思います 」西郷は言葉を選んで優しく声をかけた。篠田警部は両手を地面に付けて跪いた状態のままで応えた。
「でも西郷さんはこんなことにならないように忠告してくれた。あたしは西郷さんの忠告を無視したわけじゃないのよ。ただ流れで田中隊長に伝えそびれただけなの。そしたら本当に爆発があって…… あたしは責任逃れの言い訳はしないわ。全部あたしのせい。
……あたしね、あなたが稲葉君に言った言葉を思い出したの。良い言葉だったわ、この悲惨な事実は、きっと自分で決着をつける。あの言葉はその力になると思うの。
西郷さん、あなたは素晴らしい人ね。本当にそう思う。ただ今は泣かせて、きっと立ち直るから、御願い…… 」
西郷はわかりましたと言ってこの場を離れた。正門を出て見ると、既に鑑識が到着していて手際良く現場検証を始めていた。田中隊長が鑑識の責任者らしい男と話をしていて、西郷を見つけると軽く手を挙げて呼び寄せた。
「ほう、あんたが西郷さんかい?名前から想像するといかついのかと思ったが、なかなかの優男だ。出身は鹿児島かい?俺は鑑識の金本といいます 」
腕に鑑識の腕章を付けた男は西郷を見上げて早口で言うと、明るくニカッと笑った。身長は百六十くらいで歳は四十代後半に見える。つぶれた両耳と血色が良い太り気味の体格は、柔道でならしたことをうかがわせた。
西郷はこれまで優男と呼ばれたことは一度もなかったので、意外さに笑いながら「出身は鹿児島です。Y県から派遣された西郷です 」と挨拶した。
「いやまぁ凄まじい現場だね。当事者がいるってんならちょうどいいや。正直な話聞かしてよ 」と金本は事件の顛末の説明を求めた。西郷は内心又かと思ったが、断わるわけにはいかないので応じた。彼は西郷の話を聞きながら実地検証を行いたいのだ。
まずは西郷と篠田警部が張り込んでいた位置にポリスカーを置いて、自分が運転席に乗り、西郷を助手席に乗せた。それから第一の襲撃者が飛び出してきた正門鉄扉の小扉から実際に警官を実際に飛び出させてみた。西郷はこの男が足音を消すために裸足で忍び寄って来たのがわかったと説明した。金本は、だから一人だけ靴下だけの遺体があったのかと納得し、実際警官に靴を脱がせて足音を忍ばせてその音を聞こうと試みたが、全然聞こえないと笑った。そして西郷の耳の良さと人の気配を察知する能力を褒めた。
西郷は男が撃ってきた弾が右側のフロントガラスとドアを貫通したと説明し、弾がプロテクターの右脇腹部分に食い込んでいるところを金本に見せた。金本はそれをペンライトで照らして興味深げに見入り、この防弾チョッキがきいたわけだと感心した。
次に男が撃ってくる前にシートを後に倒し、ヘッドライトをハイビームにしてバックで逃げたと説明すると、金本は実際にハイビームにして警官を前に立たせて姿が良く見えることを確認した。それから車を降りて実際自分も浴びてみた。確かに眩しくて車の中は良く見えないことを確認した。金本は少しでも弾にあたるまいとして西郷の反射的にとった行動に舌を捲いた。
「なるほど。それでバックしながら反撃したわけだ 」
「そうです。相手は靴を脱いで足音を消すなど周到ではあったけれど、相手を仕留めるという覚悟が不足していたと思います。相手は我々を楽に仕留められると思い込んでいた節がありました。とにかく撃ち込めば勝てるという感じでした。
距離と時間ができたところで篠田警部にハンドルを握ってもらい、自分の銃で応戦しました。相手はハイビームを浴びても平然と我々を仕留めようと散々に撃ってきました。自分が撃たれることなど微塵も考えていないようすでした。だから走って追いかけながら撃ってきたのです。
私は相手を難なく仕留めました。そしてその後ろに銃を持った男が二人小扉から飛び出してきたのが見えたので、これも仕留めました 」
「凄い腕だね 」
「十分に訓練しているので、距離にして二十メートルならまず外しません 」
西郷は自分の腕をひけらかすのではなく、あくまで自然な声で答えた。金本はその目に鋼のように冷たく、固い意志を感じ取った。
「それからどうなったの? 」
金本は場が固くならないように、わざと話の続きをせがむ子供のように言った。
「それから、車内の銃声と衝撃波に驚いた篠田警部がハンドルを揺らしてしまい、バックしている車のバランスが崩れました。とっさにハンドルを握ってブレーキを踏んだのですが間に合わずに横転しました。死ぬとは思いませんでしたが、篠田警部が怪我をしないようにしっかり抱きとめていました 」
「車の窓ガラスが開いているのは、横転時にガラスが割れて飛び散って怪我を防ぐためだね? 」金本は現場をみて自分の推理をみせた。西郷は少し答えにくそうに言った。
「あれは車をバックさせている間に開けたのです。車の中で射撃するときに生じる銃声と衝撃波を少しでも外へ逃がすためです。車の横転は予想していませんでした。結果的にはそれが功を奏したのですが 」
金本はこれを聞いて西郷が自分を気遣ってくれていると気づくと、妙に親しみのような感情を持った。
「なるほど、わかったよ。直接話を聞いてよかった。これだけの襲撃をよく切り抜けたもんだ。もし並の警察官だったら、多分助からなかったな。それからどうなったの? 」
「はい、車がオシャカになった以上もう逃げられません。私は第二波の襲撃が来る前に反撃に打って出ました。篠田警部と二人で車を出て、正門前まで行って様子をうかがっていたのですが、襲ってくる気配はありませんでした。お互い様子を見ていたようです。
私も中に何人いるのかわかりませんから、迂闊に飛び込んで餌食になりたくなかったというのが本音でした。このまま警察の応援が来るまで待っても良かったのです。
しかし相手はトラックに乗り込んで逃走を試みたのです。私はとっさに逃走を阻止するために中に入ってトラックの車輪を小銃で破壊しました 」
西郷がここまで話した時、金本はトラックのところまで移動しようと言って、燃えたトラックがある現場に移動した。異様な匂いはまだあったが、そこにあった焼死体は既になく、鑑識官が距離などを測定して写真を撮っていた。みんな金本に一礼をくれる。
金本は破壊されたトラックの四輪をそれぞれペンライトで照らして目視確認した。四輪ともタイヤのゴム部分がなくなっており、ホイールはまるで標的のようにほぼ中心部分が破壊されていた。これではエンジンの動力は地面にうまく伝わらないから逃走は不可能だ。自動小銃でこれほどあてるとは、金本はあらためて西郷の射撃テクニックに感心した。
「それで、トラックの四輪を破壊してどうしたの? 」
西郷は、トラックが炎上し、二人の男を助けることができなかった事実と理由を語った。それから爆発があった状況をできるだけ詳しく伝えた。金本は西郷の話を全部聞いて顔をあらためて見つめた。
「西郷さんの気持ちはよくわかるよ。トラック炎上もあの爆発も、なんとか助けたかったんだけど、できなかったんだよな。俺は仕方が無いと思うよ。だってそうだろ?こんながんじがらめの状況だもの。助けるなんて誰だって無理さ。爆発にしたって、そらぁ真先に現場に飛び込むってのは警官の習性みたいなもんだ。それを狙うなんて卑怯だよな。
まぁ、俺も仕事柄色々な仏さんのお顔を見るんだけどさ。安らかなお顔は見たことないな。ほとんどが無表情なんだけど、時々残念無念の表情が固まったお顔を見ることがあってさ、そんなときには、今の御前さんみたいな気持ちになるよ。だがよ、その気持ちに引きずられちゃいけないよ 」金本の現場経験者ならではの優しい言葉は、西郷の心に深く沁み込んだ。気持ちが軽くなった実感があった。
「……そうですね。乗り越えなければなりませんね 」
「そうだよ。負けんなよ。俺正直西郷さんに会って話が聞けて良かったと思っている。最初現場を見たときは、あんたのことを非情な戦闘マシンだと思ってた。だが実際顔を見て、話を聞いて、それが誤解だとわかったよ。あんたは腕の立つ優しい良い男なんだな 」
金本は西郷を元気付けて背中をポンと叩いた。この時西郷は無条件で嬉しくなった。久し振りに心が通じたような気がしたからだ。そんな時に見せる西郷の笑顔は、天真爛漫な子供のようで人の心をグッと惹きつける。金本も笑顔になって今度は肩をポンと叩いた。
金本は、事件の経緯を頭の中でまとめ、何か考えを巡らせて実地検証について完全に納得し、何かをふっきったような笑顔になった。これで金本の実地検証は終了したようだ。
金本の後ろにはいつのまにか田中隊長がいて、柔らかい表情で西郷と金本のやりとりを見ていた。これほどの大きな事件の状況が西郷の説明で明らかになり、損害として乗用車が(レンタカー)一台が廃車になり、トラックが炎上、建物が一部損壊。五人が死亡、二人の警官が巻き込まれたものの、怒髪天捜査は大きく進展すると思われたからだ。
「西郷さん、爆発物処理班はもう直ぐ到着するそうです。もう夜が明けますから、後は我々に任せて一旦退いて休んで下さい。救急車がありますから病院まで送らせますよ。一応診てもらった方がいいと思います 」
西郷は救急車で運ばれるほど自分が弱っていないと思ったので、救急車搬送を辞退してタクシーを呼んで篠田警部と帰ると言うと、田中隊長は苦笑いしながら返した。
「いえいえ、失礼ですが、その格好ではタクシーの運転手に通報されるかもしれませんので、PCと運転手出しますよ 」
田中隊長はあくまでも真面目に提案したのだが、それが妙なおかしみを醸しだして西郷は笑い顔を浮かべ、「えっ今私、そんなにひどいですか? 」とあっけらかんと言った。すると金本が「まったく鏡がないのがさいわいだよ。鑑定の必要もなく、今のあんたはボロボロだね。はやく帰んな 」と金本が続けると、田中隊長も同意して笑った。西郷も自分がボロボロと言われても、実際平気なのはタフにできた体躯のおかげなのだろうとおかしくなって笑った。
田中隊長は若い部下を呼び、二人を送るように命じるとポリスカーの用意に走っていった。それから田中隊長は西郷と共に篠田警部のところに歩いた。彼女は建物の入り口前から動いていなかった。顔色は相変わらず蒼白かったが二人を認めると軽く頭を下げる。
「篠田警部。後は我々で処理しますので、もうすぐ夜が明けますが、PCを用意しましたので帰って休んで下さい 」田中隊長は彼女の状態を気遣い柔らかい笑顔で声をかけた。彼女は目を伏せたまま、ただ肯いた。
「多分篠田警部は、この朝の捜査会議は休むべきだと思います。二三日休むことが必要かもしれません。その時は勿論本人から連絡があるでしょう。その辺りのことはうまく上層部に伝えておいて下さい。こちらからも上層部に伝えます」と田中隊長に言った。彼が間違いなく伝えますと力強く言ってくれたので、西郷はこれで安心して一休みできると笑い礼を言った。西郷はキャディバッグの中身をよく点検してからポリスカーのトランクに詰め込み、篠田警部と後部座席に乗り込んで、間宮という巡査にTホテルに向かうように言った。間宮巡査は、病院に行かなくても宜しいのですかと気遣ったが、西郷は大丈夫、これぐらいなら心配ない、それより早く眠りたい。それから病院なり自分で行くだろうと行く先を変えなかった。巡査は「了解 」と言ってポリスカーを発進させた。
5章
西郷は張り詰めていた気が急に緩み、疲労感と共に猛烈な眠気が襲ってきたのだが、今度は身体のあちらこちらがズキズキと痛み出した。疲れて眠いのに身体――特に右脇腹――が痛むので眠れない状態のまま、時計をみると午前四時を過ぎており、空はゆっくりと明るくなりはじめていた。
「西郷さん、おなかの傷は痛みますか? 」と篠田警部が辛そうにしている西郷を気遣って口を開いた。その声はかすれて小さかったが、静かな車内では十分に彼の耳に届いた。
「ええ、そりゃぁ痛いですよ。肋骨にひびが入ったかもしれません。でもまずはホテルに帰ってシャワーを浴びてぐっすり眠ります。篠田警部はどうですか 」
「あたしは大丈夫です。でも、とても眠れそうにありません。先ほどは気をつかって頂いて休むと田中隊長に言って下さいましたが、あたし朝の捜査会議には出ます。現場の状況を報告しなければならないし…… 」
「篠田警部は真面目だな。そんなに頑張らなくても、報告ぐらい他の人がちゃんとやりますよ。だからしばらく休みましょう。こういうときは戦略的によく考えるのです。この事件はきっと長くなりますよ。今ここで無理したら後で困ることになるのです。その時は、誰も助けてくれないのですよ。身体を大事にしないといけません。それに眠れないから捜査会議に出るなんて、警部らしくない 」
篠田警部は言われた通りによく考えた。そしてこれまでの経験を振り返ってみた。あたしは嫌なことがあると、気になって眠れない性質。寝ないで仕事に向かったことは何度もあった。その結果はどうだったであろうか。うまくいったこともあれば、更に窮地に追い込まれたこともあった。
一体どちらの方が多かったのだろう。思い出せない。今夜の出来事は、あたしにとって初めて死を覚悟したものだった。銃声、弾が空気を鋭く切る音、そしてどこかにあたる音、そして否応なく身体を貫く衝撃波、匂い、酷い遺体、思い出しただけでも身体が震えてくる。二度と思い出したくないが一生離れることはないだろう。本当に怖かった。そして自分のせいで二人の警官を犠牲にしてしまった。そして西郷さんに忠告されていたことを、とうとう誰にも言えなかった。こんなあたしは、年々無感覚で、傲慢で臆病になっていく。今の自分は警察官として人間として、下劣で最低……。
篠田警部はそのようなことを、ポツポツと語った。それはまるで彼女が自身のどこかを切り取り、その切れ端を車内に少しずつ落としていくようなものだった。西郷は黙って彼女の切れ端を丁寧に拾い集めた。こんな精神状態では、ろくでもないことしか思いつかないものだ。無骨な西郷には、彼女を抱き寄せて黙らせるしか他に思いつかなかった。
すると篠田警部は抵抗するどころか、弱々しくもすすんで西郷の分厚い胸にある心臓の音に耳を寄せた。間宮巡査はバックミラーに映ったその光景を見て驚いた様子だったが、気づかぬふりでポリスカーを走らせている。
「間宮巡査といったね。今見聞きしたことは誰にも言わないように。私も疲れていて、つまらんことでもめたくないんだ」西郷はまるで寝た子を起こさないように小さな声で言うと、「了解。心得ているつもりです」と言ったが、同僚が死んだ経緯を知り。複雑な表情を浮かべた。かといって篠田警部を恨む気にもなれなかった。
西郷は彼女を抱いたまま目を半開きにして、窓の外を流れる夜明けの街を見ていると、篠田警部が寝息をたてて本格的に眠り込んでいることに気がついた。さっきとても眠れそうにないと言ったのは誰なんだと苦笑いが浮かんだ。バックミラーを見ると、間宮巡査も軽い笑顔になっていた。西郷は彼女が起きないように細心の注意を払いながら携帯電話を取り出すと、上司の城之内に電話をかけた。
「――私(城之内)だ。何かやらかしたのか 」夜明け前の時刻だというのに、彼の声の調子は変わらない。西郷は城之内に敬意を感じながら言葉を続けた。
「はい、ついに動きがありました 」
「それでケガをしているのか、それとも捕らわれているのか、声が少し違うようだが 」
城之内は西郷の声を聞いただけでわずかな異変に気がついた。
「ええ、確かに負傷しています。しかし今はポリスカーの中でホテルまで送ってもらっている途中です。隣で篠田警部が眠っているので起こさないよう配慮しているのです 」
「ひと段落ついたわけか、いったい何があったんだ? 」
西郷はこの長い夜に起った出来事を時系列に城之内に報告した。この情報は録音されて、秘書が文書にしてくれるのだ。城之内は二三質問を加えながらその顛末を冷静に理解した。
「負傷しながらも、よく篠田警部を守りながら急襲を凌いだな。さすがだ。朝になってこの話を知らずにTV捜査会議に出ていたら、赤恥をさらすところだった。だが今はTV会議が待ち遠しくなったよ。これで捜査も大きく前進するだろう。漸く尻尾を掴んだな 」
城之内はあまり感情を出すタイプではないのだが、喜んでいるのが西郷にも伝わった。
「そうかもしれません。記憶がホットな内に、考えていることを言ってもいいですか 」
「勿論だよ。続けたまえ 」
「私は、尻尾を掴むどころか踏んでしまったと思います…… 」
西郷はこう切り出すと、自分の考えを順々に述べていった。
この運送会社と怒髪天との関連はあると考える。天誅実行部隊の搬送を請け負っているのではないか。しかしこの会社の経営者を調べても怒髪天本体には辿り着けないだろう。なぜなら、口封じのためにこれだけの犠牲を想定しているのだから、そう簡単に本陣に食い込めるとは思えない。
この運送会社はホームページを開設しており、世間的には問題なく存在していた。これを怒髪天の天誅実行部隊の搬送部隊とするなら、標的を決める評定部隊もいるはずだ。そして民衆を味方につけるために声明やビデオを発表する広報部隊や、人や武器や弾薬、爆弾を調達する部隊もあると思う。とすればそれなりの人員と資産が必要で、かなり大掛かりな組織といえる。これらを運営していくには、それなりのブレインと資本が必要である。単に世間を騒がした悪人を誅して世にアピールするためだけに、これだけの投資をする人物がいるとは思えない、おそらく先には他の目標があると思う。それが何かはわからない。今回の事件で怒髪天側にはじめて打撃を加えたことになるが、怒髪天側から何か声明を出すのではないかと思われる。
私は五人の男と遭遇し、その内の三人を射殺、二人が焼死したが、皆二十代の日本人で驚くほど普通に見えた。戦闘訓練を受けて実戦経験があるようには到底見えなかった。怒りも狂気も映ってはいなかった。そのような者がシグ・ザウエルみたいな高性能自動拳銃を手にしていたのは驚きだった。そして銃撃の時などは、まるで射的ゲームを楽しんでいるかのような無防備さと気楽さが感じられた。彼らには命のやりとりをしているという自覚が無いようだった。おそらく彼らは本業を別に持っていて、それでキチンと生活しており、誰かにたぶらかされたか洗脳されたかで、必要とされたときに呼ばれてここで働いていたと考えられる。そうだとすれば、都合が悪くなれば捨て駒にされたことも理解出来る。歯形や指紋、DNA等から身元は早晩判明するだろうが、彼らの関係性や、ここで何をして、そして我々を襲撃した理由を知りたいと思う。
尚、当初追跡していたトラックと搭乗していた二名の行方については不明のままである。車種やナンバーなどの詳しい情報は既に警視庁のサーバーに保存しているので、警察が見つけてくれるだろう。今回の事件を足掛かりにして、天誅実行部隊の確保を望む。この部隊はそれなりの訓練を積んでいると思われる。
私は今負傷し疲れている。又、篠田警部も目に見える外傷はないが、心的ショックが大きく、現在気を失ったように眠っているので暫く休養を申請する。そして任務遂行中にレンタカーを大破させてしまった。
西郷は言葉を選びながら冷静に城之内に報告した。痛みを堪え、疲れを噛み殺して自分にしか伝えられない情報を今後の捜査に役立てて欲しいという思いは、城之内によく伝わった。城之内は西郷に事件の引継ぎ報告が終ったことを伝え、三日の休暇療養を許可した。警視庁にも篠田警部の休暇療養を促がすと確約し、よくやってくれた。ありがとう。今後のことはまた連絡するから何も心配せずゆっくり休んでくれと言った。
西郷は城之内に礼を言って電話を切った。なんてものわかりのいい上司だと感心しながら携帯電話をポケットに収めると、ふうと大きく溜め息をついた。これで自分の役目はひとまず終ったと思うと、早くホテルに帰ってシャワーを浴びて眠りたかった。ふと下を見ると、篠田警部はまったく同じ姿勢で深く眠り込んでいた。両膝をきちんと揃え、西郷の左側の丁度心臓の上に右の耳をあて、左手は上着を握りしめていた。右の腕はいつの間にか西郷の腰にまきついている。
シャンプーリンスと汗と香水が混じり合った女の匂いが、西郷の鼻をくすぐった。更に、ワイヤーがついていないスポーツブラに包まれた乳房の柔らかい感触が意外に大きく感じられた。風景は既に都心に入っており、朝日が街を美しく照らしていた。ポリスカーはTホテルに確実に近づいているようだった。
「本当によく眠っておられますね。眠りというのは人間にとって非常に重要なものです。疲れた心と身体を癒し、脳を休めている間に骨や血液を新しく作り直して、身体を内側から再構築しているんですって、何かの本で読みました 」これまで黙って運転していた間宮巡査が言った。西郷はへえと返した。
「今の篠田警部はまるで、壊れてしまった心を必死に修復しようとしているみたいです。防衛本能っていうやつですかね、そのためには西郷さんの存在がとても重要だというのがわかります。その左手が、何があっても離さないぞという強い意思がうかがえます 」
間宮巡査は、これまで西郷に話しかけたくて仕方がなかったように付け加えた。
「私は抱き枕じゃないんだけどな。きっと家でも何かに抱きついて寝ているんだろう 」と西郷は間宮巡査に笑って見せた。
間宮巡査はバックミラーで彼女の寝顔をチラチラと観察する。化粧気のない卵型の輪郭の横顔に形の良い耳が見えた。一直線の眉毛、その下には睫毛が長い羽を降ろし。高くはないが、筋が通って優しい曲線を持った鼻がある。その寝顔を見ている間に、顔が自然に緩んでいたことに気がつき引き締めた。
「……まもなく千代田区のTホテルですが、篠田警部の自宅住所を御存知でしょうか 」
間宮巡査がバックミラー越しに西郷に問い掛けた。
「いや、知らないよ 」
「困りましたね。それでは篠田警部を御自宅に送ることができません 」
「彼女の免許証を探せばいいだろう。あっ、彼女がいつも持っているCのマークがついたバッグ(カルティエ)が無い。多分現場のレンタカーに置いてきたんだ。ここにはない。間宮巡査と言ったね。彼女を起こして家まで案内してもらって下さい 」西郷がこともなげに言うと、間宮巡査は非常に困りいって恐縮した顔になった。
「しかし……御言葉を返すようですが、西郷さん、そんなにぐっすり眠っておられる人を起こすなんて、私にはとてもできません。特に今の篠田警部にはできません。どうしてもというならば、申し訳ありませんが西郷さんが起こしていただけませんか 」
間宮巡査は警部を起こすのを断わった。西郷は内心驚きながらも仕方なく、警部、起きてと言いながら揺さぶったが、まったく起きる気配がないのでもう諦めた。西郷にしてもこれまで寝た子を起こしたことは一度もない。たとえ四十過ぎの女に対してであっても気がすすむものではない。
「私は本当に篠田警部の住所を知らないんだ 」
「でも、自宅までの道は御存知なんでしょう? 」
「いや、知らないよ 」
「西郷さんはウソをついている 」
「どうして(わかる) 」
「西郷さんは田中隊長にタクシーを呼んで篠田警部を送ると言っておられました。ということは、住所は本当に知らないとしても、家までの道順は知っていることになります 」
間宮巡査は嫌味のない笑顔で、西郷の嘘を暴いてみせた。西郷にとっては篠田警部がこんなに深く眠り込んでしまったことが予想外だった。こうなった以上は、彼に道順を教えてやるのが筋だろう。しかしここで間宮巡査とのやりとりが少し面白くなり、少し相手になる気になった。
「さすがだな。君は良いおまわりさんになるよ 」と西郷は静かに笑った。
「もうおまわりさんですが、良いかどうかはわかりません……。正直に申し上げて、西郷さん、あなたは今や田中自ら隊の英雄なんですよ 」と間宮巡査は笑顔で言った。
西郷は何を言い出すのかとぽかんとした。
「私は英雄なんかじゃない 」
「そうですよ。英雄とは第三者が担ぎ上げるものなのです。自称英雄なんて胡散臭いだけです 」
西郷は間宮巡査の顔を確認したが、それは冗談めかしたものではなく、あくまでも真面目な顔で目を見て言ってきた。どうやら本気のようだ。疲れと眠気と痛みを丸め込んだ大きな塊をしょいこんで、ただ眠りたいと願っているときに、もしもし、あなたは英雄ですよと念を押されても、西郷の胸が踊ることはなかった。
「西郷さんの活躍は語り草になるでしょう。はるばるY県からやってきて、たった一人で悪党どもをたちまちバンバンバンとやっつけて、美しい姫君を守ったのですから 」
「……四十過ぎの姫君だ 」
「ちゃちゃをいれないで下さい。あなたは鬼の異名をとる田中隊長と、偏屈で知られる鑑識の金本さんにスッと受け入れられて事件を引き継いでもらって、傷心の姫君と共に白馬の馬車に乗ったのです。そして姫君はあなたにすべてを委ねて深い眠りについたからには、姫君をお城に送り届けなくてはならないのです。私はその御者といったところです 」
「……白馬って、白と黒のツートンだろう。しかしまぁ、君の目にはそんなふうに映るわけだね。良いコメディ作家になれるよ 」
「これでも文学部卒です。学生の頃はミニ映画をつくっていました。姫はアパートに一人暮らしですか?」「いや、一戸建てで家族と住んでいるようだ 」
「ああ、イメージにぴったりです 」
西郷は、調子のいい男だなと思ったが、面白いから何を話すのか黙って聞くことにした。
「おそらく御尊父に厳格に育てられた厳重なる箱入り娘で、家事の一切はお手伝いが担当し、仕事一筋うん十年。つまりそこは非の打ちどころがない王国なのですよ。この姫の安らかで上品な寝顔を見ていると、これまで大事に育てられてきたとわかるのです。
ですから、御尊父の元へ御姫様抱っこで御渡しする役目は、西郷さんがぴったりで、私みたいのではとても無理なのであります。そういう意味でも、あなたは英雄なのです。私にはそんなイメージが浮かんでいます。そうしてこそ、きれいにかたがつくのです 」
間宮巡査は、やり手の映画監督のようにきっぱりと言い切った。西郷は英雄や御姫様抱っこという言葉に多少抵抗感が残るものの、これ以上間宮巡査を相手にするには十二分に疲れてきたので、力の抜けた声で篠田警部宅の道案内を引き受けた。
篠田警部の自宅は台東区の住宅街の一角にあった。お城というわけにはいかないが、木造二階建ての歴史を感じさせる一戸建てであった。庭は十坪程度あって、高さ百五十センチ位の生け垣で仕切られており、御尊父の趣味らしい盆栽が並んでいた。
秋の朝日は爽やかに街を照らし、道路や家々などのすべてを美しく映し出していた。雀が空を飛び交い、その一部が電線にとまって鳴いている。いつもの長閑な朝の風景だ。もう少しすれば小学生が隊列をなして学校に行くのだ。どこかのおじいさんが犬を散歩させ、おばさんが掃き掃除をしていた。どの顔も穏やかでどこか清々しい。その通りを間宮御者が操る白と黒の馬車が通りかかると、なにごとがあったのかと見入った。静かな水面に一石を投じたように、興味という波紋がそれぞれの顔に浮かんで広がった。
馬車は篠田警部宅に静かにとまった。そこの主は藍の丹前をきちんと着こなして盆栽の手入れをしていたが、生垣の隙間から見えたポリスカーが家の前に留まると、興味ではなく、正しく只事ではない事態を想定し、ゆっくりと庭を出て歩みよってきた。
それを確認した間宮巡査は西郷に顔を向けて、御姫様抱っこですよと言いつけて素早くポリスカーから降り右の後部座席のドアを恭しく開けた。西郷は仕方なく篠田警部の両膝の下に右手を差し入れ、左手で身体を支えてお姫様抱っこを完成させると、身軽にポリスカーから降り立った。その立ち姿は朝日を浴びてそれなりに雄々しく映った。
「帰りが遅いと思うとったが、どうした 」
篠田警部の父親である隆之は、娘の姿を見て心配気な顔で西郷に声をかけた。
「お初にお目にかかります。西郷と申します。実は八王子で事件にあいまして、でも安心して下さい。警部はぐっすり眠っているだけですから 」
「君が西郷君だね。小百合から話はきいとるよ。どうも御苦労様。八王子の事件なら朝のトップニュースだよ。何しろ無事で良かった。ちょっと家内を呼んでくるから 」
今回の事件は朝刊には間に合わなかったが、TVの朝のニュースには十分だったようだ。間宮巡査が篠田警部の下の名前を知って、少なからずの驚きを、反笑いの顔で表していた。
「警部の下の名前、さゆりっていうんですね。見かけによらないものですね 」
「よせ、聞こえるぞ 」
「大丈夫ですよ。よだれ出てますもん。まだぐっすり眠ってますって 」
「最高だ 」と西郷は小さく呟いた。
彼女の名前については、ある夜にこんなことがあった。篠田警部が自分の下の名前を聞いてきたので、誠実の誠で、まことだと答えると彼女は、あーというリアクションで引き取り、じゃあ私の名前はなんだと思う?という九十パーセント以上の確率で出てくるなぞなぞをくり出してきた。西郷がけいぶと答えると、何も考えてないでしょうときた。事実そうだ。夜回りで神経を尖らせているときには、彼女の下の名前が、けいぶ、でも、こんぶ、でもまったく問題ない。彼女は西郷が興味なさそうだと悟ると、知ってもらいたさに吉永小百合の、さゆり、と言った。更に父が吉永小百合のファンなの、と付け加えた。名は体をあらわすというが、彼女のこれまでの言動から推測すると、小百合に到達するには何万年もかかりそうだ。西郷はそれを聞いて珍しく声を上げて笑った。それでも彼女があまり怒らないということは、これはネタのようなもので、ある程度親しくなった者に何度か試してきたのだろう。西郷の笑い声はおそらく彼女の想定の範囲だったのかもしれない。
西郷がそんなことを思い出していると、家の中から母親の千鶴子がそそくさとやってきた。小柄で和服の似合う品の良い人だ。父親から話を聞いたらしく心配と安堵が混ざった顔色は結果的には笑顔で、目線をちらりと下にやって小百合が左手で西郷のジャケットをしっかり握ってよだれをたらしている姿を認めると、戸惑いをみせた。
「まぁあ、この度は大変な事件で、本当にごくろうさまでございます。そして娘の命を救って下さった上に送ってくださいまして、本当にありがとうございます。なんと御礼を申し上げたらよいか、こんなところでもなんですから、ささ、どうぞ中にお入りになって 」といかにもすまなさそうに頭を深く下げて礼を言い、家の中に入るよう西郷を促がした。
「いえ、私はここで結構です。実は篠田警部は車の中で眠り込んでしまいまして、夜を徹して働いたのですから無理もありません。漸く無事に送り届けることができましたので、これで私も一安心です 」と西郷は断わった。疲れておりますので、とは言わなかった。彼女はまるで主人に懐いた飼い猫のように安心しきってよだれを上着に付けて眠っていた。
「そんな、こんな芋虫みたいな状態では、いくら娘でもとても抱えきれんから、申し訳ないが部屋まで運んでくれませんか 」と父親が言った。彼は155センチの小太りな体型で、自分の体重を支えるのがやっとのようだし、荷が重いかもしれない。西郷はわかりましたと小百合を抱えたまま母親に案内されるままに家の中に入った。父親は娘を軽々と抱き抱えて背筋をピンと伸ばして軽やかに歩く西郷の後ろ姿を眩しそうに見つめていた。
引き戸玄関で靴を脱ぐとすぐに二階へ上がる階段があり、母親に導かれるままにトントンと上がりこんで、よく磨かれた廊下を奥へ入って右手が彼女の部屋で、母親はさっとドアを開けた。そこは六畳ほどの部屋で、昔の男性アイドルのポスターが色褪せて貼ってあるところからみて、ここは彼女が生まれてからずっと専用の部屋であることがわかった。父親といい母親といいこの小百合といい、そしてこの家のすべてのつくりが西郷の常識よりも三センチほど小さく見えた。何かの本で読んだのだが、代々の江戸っ子というものは皆品よくこぢんまりとできているそうだ。西郷は今ここへ来てなるほどと納得した。
母親がベッドを手早く整えたので、西郷はそこへ静かに寝かせてやった。驚いたことに小百合はまだジャケットから手を離さないので、仕方なくその辺にあった熊のぬいぐるみを掴んでパッと自分のジャケットとすりかえ、小百合の左手に握らせてやった。子供によく使う手を試してみたら、小百合は目を覚ますことなく漸く西郷から放れてくれたので、ふうと静かに息をついた。母親はその光景を慈しむように目を細めて眺めていたが、西郷が離れると手早く毛布をかけてやった。西郷はこれで本当に御役御免になると信じて足取り軽く玄関に戻ると、父親が立っていた。
「西郷さん、娘の窮地を助けて下さり、本当にありがとうございました 」と心のこもった礼をしてくれたので、西郷はそれを受けとめて真摯に頭を下げて挨拶を返して帰ろうとしたのだが、父親は縋るように言った。
「ちょっと待って下さい。あなたは我々の英雄だ。このままおかえししては末代までの恥となります。ぜひなにか御礼をさせて下さい 」父親は少し慌てたようすで早口に言った。
「英雄だなんて、とんでもありません。困ったな。あの、御気持ちは大変嬉しいのですが、私も休まなくてはなりませんので、これで失礼させていただきます 」西郷は父親の感謝の気持ちを最大限に配慮しながら尚も帰ろうとしたのだが、父親は引き下がらなかった。
「いいえ西郷さん。英雄という言葉があたらなければ、あなたは娘の命の恩人です。これに間違いはありますか 」
「間違いはありません 」
「あなたにはお子さんが二人あると聞いています。もしもお子さんが襲われて殺されるところを警察官でもない見ず知らずの人が救ってくれて、わざわざ連れて帰ってきてくれたら、あなたはきっとその方に何か恩返しをしたいと思うはずです。
娘から聞いておられるかもしれませんが、私はXX署の署長を二年前に退官しました。あなたが警察官なら、御苦労様の一言で十分なのです。しかしあなたは警察官でないのに、勇敢に立ち向かって、私の娘を救ってくれた。私はここに大きく胸を打たれておるのです。あなたに休養が必要なのはわかります。ぜひここで遠慮なく、お休みになってその疲れを癒させて下さい。御願いします 」
父親は必死の形相で、息子ほども年が離れた西郷にしっかりと頭を下げた。既に退官したとはいえ、元署長となれば警察組織では警視クラスのエリートである。そんなエリートに、今恩返しをしなければ末代までの恥とまで言わせて頭を下げられては、西郷はもう断わることなどできなかった。
西郷はきっぱりと世話になると決めた。これ以上悶着するには疲れすぎている。「わかりました。御世話になります 」と言うと、父親の表情はパッと明るくなり、「有難う 」と言って右手の応接間兼リヴィングに通された。母親にも「御世話になります 」と挨拶すると、ニッコリ笑って「どうぞごゆっくり、今御風呂の御湯を溜めますわ 」と浴室の方へ消えて行った。
それから西郷は外で待っていた間宮巡査に事情を説明して、ポリスカーのトランクからキャディバッグを取り出して帰ってもらった。その時、間宮巡査は意味深な笑みを浮かべて、「人生なにがあるかわからないでしょ 」と言った。「まったくだ。君は中々面白かったよ。御苦労様 」と返した。間宮巡査は最後に真面目な顔で敬礼して去っていった。
西郷は間宮巡査を見送ると再び篠田家に入り、洗面所の鏡で自分の状態を確認した。額と左頬に傷があり、そこから血が流れ出てそれにかまわず袖で無造作に拭いたものだから顔中に血が広がって、そこに大量の汗が流れでて血が薄り、そこに砂などの汚れがついていた。今では傷口の血が赤黒いのりのように固まっていた。極めつけに髭が伸びていて、金本さんが、御前さんは鑑定の必要なくぼろぼろだと言ったのがやっと納得できた。
静かに顔を洗って血や汚れを落とし、ピンセットを貸してもらって額と左頬に刺さっているガラス片を抜き出した。再び血が噴き出し痛いなどといっていられない。このまま眠ってしまったらもっとひどくなるのだ。それから買い置きの歯ブラシをもらって歯を磨き、父親の電気カミソリでヒゲを剃ってから風呂に入った。身体の状態を調べてみると、右の脇腹は紫色に変色していて、押せば激しく痛むが、そうでもしなければ鈍い痛みしかないことがわかった。他に目立った傷はなかったので、ひとまず安心する。
風呂からあがって父親の下着と寝巻きを借りて穿いてみたがサイズが合わないので、寝巻きだけを身につけると、母親が蒲団をしいた客間に案内してくれた。その寝巻きにしても丈が短すぎてちんちくりんだったが、どうせ寝るだけと覚悟を決めた。歩きながら小百合の状態を尋ねると、あんまりぐっすり眠っているようだから、そのままにしておいたと笑った。こんなことは高校時代バレーボールの猛練習で鍛えられた日以来だという。母親は西郷の目を見て、どうか主人のことを悪く思わないで下さい。普段ならあんな無理を言う人ではないのですと言った。西郷は、悪く思うなんてとんでもない。御世話になると決めた以上、宜しく御願いしますと返した。
母親は客間に入ることなく、御蒲団はしいてありますからごゆっくりお休みになって下さいと言い残してリヴィングに戻っていった。西郷が襖を開けると、そこは八畳の和室だった。床の間には掛け軸が飾ってあり、押入れがあり、左手の雪見障子の先は縁側になっていて良く手入れされた庭が見えた。そして畳の匂いがする真中に、清潔な蒲団がしかれてあった。西郷は懐に入れておいたS&Wを枕の下に忍ばせてから蒲団に入った。横になって枕に耳を当てると、ジャリジャリと蕎麦殻の音がした。その音を聞いていると、まるでおじいちゃんの家に遊びに来た夜を思い出して妙にリラックスできた。外を見ると日差しはこれからますます明るくなる気配を見せていた。大きく息を吸い込むと、微かな防虫剤の匂いがして、初めての場所のはずなのになぜか懐かしい気持ちになった。もう西郷はあれこれとものを考えることは一切やめた。ここは御好意にあまえてぐっすり寝よう。枕の下にある銃はそのための保険だ。やがて西郷は眠りの底に沈んでいった。
6章
城之内は、午前九時から警視庁で行われた捜査会議にTV会議システムで参加した。会議は早々に昨夜八王子で起きた事件の報告がなされた。既に事件を知っている者は顔をしかめ、知らない者は驚き苦い表情になった。事件の顛末が報告される中で、鑑識が撮影した現場の生々しい画像が表示されると、場の空気は否応なく緊迫した。城之内は西郷から電話で報告を受けていたのだが、壊れた車や遺体の画像を見ると、やはり気が滅入った。そんなとき「なにも射殺することはなかった。警察ではありえんことだ 」と幹部の一人が発言すると、SPは過激に過ぎるという空気が強くなってきた。城之内はその空気に怯むことなく、これはまったく不用意に三人から同時に銃撃を受けたのだから、止むを得ない措置であったと主張した。ここで警察との無用な摩擦はどうしても避けなくてはならない。
しかしだからといって西郷の命がけの行動が不当に評価されるのを黙って見過ごすわけにはいかないので、城之内は真剣な表情で西郷の功労に理解を求めた。その後の報告で、警察官二人が爆発に巻き込まれたものの篠田警部が最終的に無事だったことで、SPに対する警察の反応はそれほど険悪なものではなくなった。その篠田警部は現在自宅で休んでおり、西郷も篠田元署長の配慮で宅の客間で休んでいるとの報告があり幾分空気が和らいだ。
その後会議中に緊急の情報が入った。八王子の現場で爆発物処理班二名が建物内に入ったところ、建物全体が吹き飛ぶほどの大きな爆発があって、一名が重症、もう一名が奇跡的に無事。そして先に入って爆発に巻き込まれた警察官二名の死亡が確認されたというのだ。会議室は軽い混乱状態になったが、どうにか今後の方針(死亡者の身元の割り出しと、運送会社の経営者を捜査して怒髪天との関連を調べること)が決まって、会議は十一時には終了した。
同日午後三時頃、城之内はY県県庁舎の知事執務室へ向かう大理石の床に敷かれた赤い絨毯の上を歩いていた。これまでは特に進展がなかったので、知事の秘書である菊沢ユリに電話で進展無しと伝えていただけだったが、八王子襲撃事件と名付けられるほどの惨事が起きて、捜査が前進する可能性が出てきたので、今後の方針について議論したいということだった。
県庁知事室の扉は重厚な樫の木で出来ている。それは明治維新の後に当時の職人が腕によりをかけて彫刻を施した見事なものだ。必要に応じてグランドピアノでも搬入できるように大きな両扉が開閉する仕組みだが、通常人間が出入りする場合は小扉を使う設計になっている。城之内はこの小扉の前で服装や表情を整えてから、プロトコルマナーである四回ノックを実行した。やがてガチャリと重たい金属音がすると、どんなに大きな力士でもバスケットボール選手でも十分にそのまま入れる扉がゆっくりと開いた。
この重厚な扉が開いて最初に訪問者をもてなすのは、歴史を含んだ風だ。そこには独自の匂いや熱が含まれている。幕末・維新のあとY県が辿った数奇な運命を知らなくても、又は知っていても、誰もがここへ入るたびにこの風を浴びる。そしてこれから入って成すべきことを促がすのだ。城之内はこの風を浴びると、いつも身が引き締まる。否応なしに緊張感が高まる。それは彼がY県の歴史を知っているからだ。さらにY県をとりまく今の状況もわかっている。それに、城之内は県知事である鈴木有作という男を尊敬していた。彼の演説は力強くてわかりやすい、それに実行力があって結果を出している。今まで政治などまったく興味がなかった彼だが、鈴木有作が知事に就任してからこれまでにないほど政治に興味が湧いたものだ。そして瞬時に知事の演説が頭に甦った。
「……我々の先人は過去に何度滅亡を覚悟したか知れない。滅亡とは、みんな殺されてこの世からいなくなるということである。そして後世にどのような影響も与えることもできず、家系は絶えて我々もいなかったかもしれないということである。それがどれほど恐ろしい事態であったか、自分の身におきかえて考えていただきたい。しかし強調すべきは、当時の状況は我々の想像などという生やさしいものでは到底おいつかない、血も流れれば痛みも走る過酷な現実であったということである。その恐ろしい滅亡が、刻々と大軍勢とともに迫り来るのである。多くの者が恐怖し、うろたえたであろう。座して滅亡か、迎え撃って活路を開くか、究極の選択がなされて先人は戦った。そして滅亡を撥ね返した。更には当時の国家権力である江戸幕府をも打ち倒したのである。
私は歴史ロマンに酔っているのではない。そんな暇はないのである。私はそうして生き残ることができた経緯を、みなに思い起こして欲しいのだ。そして今、我々は生き残っているが、先人の墓前に胸を張って一体何を報告できるのだろうか。長い歳月は人間の魂を少しずつ緩め、堕落させるのだ。その先は推して知るべしである。私はみなさんに問う!このままの延長線上の未来で良いのかと!
例えば、困難にあたると、乗り越えようとする精神を忘れ、いとも簡単に先送りにする。対立を恐れて和を求める余りに、議会でニタニタ笑っておしゃべりに興じて妥協する。これまで大事に守ってきた伝統を、時代が変わったんだからまぁいいじゃないかと軽んじる。終戦後も一貫して毎年毎年これらをだらだら繰り返した結果、Y県はどうなったか。人口が減少し高齢層が増え、若年層が減ったではないか。これは産業が衰退し、県にとって真綿で徐々に首を絞めるような優しい衰亡を意味する。そして財政は安易な借金を繰り返して火の車である。これは社会秩序を保とうとする力の衰退を意味する。このままいけば早晩我々は滅亡し、手の付けられない額の借金が残るのだ。
私は、この事態を放置してきた歴代の権力者を批難するつもりはさらさらない。そんなことをしても未来への役に立たないからだ。今さら誰が悪いといって糾弾し、罰したところで、それにかかる時間と労力と経費を考えれば、それらを未来のために使ったほうが良いということは誰でもわかることだ。
よろしい!私の知事としての船出はこのような途方も無いスケールのマイナスからである。素晴らしいではないか、私は決して屈しない。私は県を再び甦らせる方法を知っている。維新後百三十年も立てば、どんな頑丈な建造物でもがたがくるというものだ。私は緩んだ土台の楔を引き抜いて、意志のとんかちで更に太い楔を打ち込む。緩んだネジは、闘志のネジ回しでかちかちにねじあげるのだ。害虫を徹底的に駆除して余計な贅肉脂肪を削ぎ落とし、必要な筋肉を付け加える。そして感覚と頭脳を研ぎ澄ますのだ。私はこれらを断固たる意志を持って実行する…… 」
城之内は知事の演説を聞いて、はじめて心が震えた。よく通る聞きやすい声は火の出るような激しい言葉をわかりやすく伝え、見開いた目は爛々と輝き、揺るぎない信念と強固な意志を強く放射し、時折目を細める緩急は聴衆を強く惹きつけた。更に両腕を自在に動かすジェスチャーは聴衆の気持ちを惹きつける。
この新知事は口先だけでなく、全国規模で実施された市町村合併を実行して大リストラを敢行した。更にオンライン化を進めて県庁や市町村議会や役所の人員を削減した。数々の悪しき慣例を公表してから廃止した。それから新しい県政で法律が邪魔をするのならば、条例で通すと宣言して港に面したS市を国際観光都市にすると宣言し、カジノなどを実験的に解禁・運用する許可を政府から得たのである。それでも治安が悪化しないように警察組織を再編成して、新しくSPという機関を創設したのだ。
当時Y県警の捜査二課の課長だった城之内は、はじめて知事と対面し新組織SPの辞令を受けて役割について個別に説明・指導を受け、自分の職務を完全に理解し、感動を覚えた。Y県の新知事である鈴木有作という人物は、人に感動を与えることができる人物なのである。城之内はそんなことを一瞬のうちに思い返し、鈴木有作と対面できることの喜びと緊張を年甲斐もなく味わえることを嬉しく思った。
扉が開いて中に入ると八畳ほどの前室があり、武装した衛兵が人物確認をして執務室の中に案内した。そこは白い大理石の三十畳くらいの広々とした空間で、高い天井には大きな美しいシャンデリアがいくつか下がっており。広いガラス窓から秋の豊かな日差しが入ってきて、天井についたシーリングファンが静かに回っていた。長い応接ソファには既にSPの等々力(元Y県警捜査一課課長)が腰掛けていて、その奥の執務机には知事である鈴木有作が、机に両脚を乗せて専用マグカップでコーヒーを飲んでいた。その右隣に応接チェアとテーブルがあり、リチャード・ギリガンという白人の紳士が座っており、有作の左横には秘書の菊沢ユリが立っていた。
城之内は菊沢ユリほどの美人を、手が届くほどの距離で見たことがなかった。美人であることは勿論だが、明るく清楚な印象の中に微かに滲む色香と野性味と知性、さすがは一世を風靡したモデルだけのことはある。初対面の挨拶のときなどはそのあまりの美しさに思わず動揺したものだ。危うく郵便局や銀行でみかける等身大の立て看板と見紛うところだった。今では慣れてそんなことはないが、それでも見ているだけで気持ちがよい。今日のユリは深い紫のビジネススーツを鮮やかに着こなしていた。膝上十五センチのミニスカートから伸びたきれいな脚を黒い刺繍入りの網タイツで見せている。
有作は城之内と目が会うと両脚を床につけて立ち上がり、にこやかな笑顔で近づいて右手を差し出して力強く握手をした。身長は百七十五センチくらいだが、面と向かうと身長以上に大きく見える。黒っぽいグレーで小さなチェックパターンが入った上質な生地のカスタム・メイドのスーツを着こなし、水色のシャツに真っ赤なパワーネクタイをキッチリと締めている。眉は太く真っ直ぐで、両の眼はエネルギッシュに大きくなったり小さくなったりめまぐるしく変わって様々な表情を見せる。鼻は日本人にしては高い。口は大きく演説や議論では大活躍する。
「やぁ、待っていたよジョーノウチ、元気そうだな 」有作が人の名を呼ぶときは、なぜかカタカナのような響きがある。次にいつも有作の傍にいるリチャード・ギリガンと握手して少し緊張した笑顔を見せて言われるままに等々力の隣に腰を降ろした。ユリは城之内の自分に対する気持ちをまったく知らないようすで、明るく爽やかな笑顔とともにウェッジウッドのカップにコーヒーを注いで差し出した。有作は再び自分の机に戻ると、再び両脚を机に乗せてマグカップのコーヒーを一口飲んだ。
「さぁ、皆揃ったのではじめようか。今朝の警視庁の捜査会議の中身は知っているから、その上で話をしよう。しかしTV会議中に又爆発があるとは、徹底しているよな 」有作が苦笑いの表情できりだすと、ユリがいつものようにリチャードに小声で通訳を始めた。
「そうですね、実は西郷はその可能性を示唆していました 」
「そいつは凄いね。サイゴーは大手柄だよ。いきなり襲われてよくきりぬけたものだ。それで彼は今頃篠田さん宅で休んでいるんだよな。大丈夫かな 」
「大丈夫だと思います。篠田警部の父上は元署長で、面倒見のいい親分肌だと聞いています。多分トノ(知事の通称)とウマがあうのではないでしょうか 」
「そうか、よくある警察一家だね。しかし寝込みを襲われなければいいがな。ジョーノウチ、すまんが警視庁の誰かに頼んで護衛つけられないかな。心配なんだよ、だってやつら抜け目ないだろう?Tホテルだったら安心なんだよ。あそこは常に人がいるし、セキュリティも万全だからね。まさかあそこを襲撃するほどバカじゃないと思うからさ。頼むよ 」
それを聞いた城之内は虚をつかれた。有作がそこまで見通して西郷の宿をTホテルに指定していたとは夢にも思わなかったのだ。彼は立ち上がり、執務室の端へ行って携帯電話で公安の伊東課長に篠田宅の警護を依頼した。伊東課長は事情をきくと、私服刑事を二人篠田家に護衛につけることを約束してくれたので礼を言って電話を切って戻ってきた。
「公安の伊東課長が護衛をつけてくれるように手配してくれるそうです 」
「それは良かった。ありがとう。ただ護衛の話はサイゴーには伝えておけよ。そうしないとあいつなら必ず気づいて敵だと思い込んで痛めつけるかもしれない。そうなったら気の毒だからな 」
「わかりました 」城之内は、それは十分ありえるというふうに苦笑が混じった。
「さてと、ざっくばらんに議論しようや。俺は不思議なんだけど、この運送会社の連中は、なぜいきなり襲撃してきたんだろう 」
「ご存知と思いますが、それは捜査会議でも議論されましたが、確かな情報はまだありませんで、結論には至りませんでした。おそらく本部のようなところから命令が出たのではないかと思われます 」
「それで命令に忠実に行動したと? 」
「おそらく 」
「だって彼らの本業は運送業だろう?それで銃持って出ても相手が一枚上手で反撃されたら終わりじゃないか……。そうか、夜に門の前でなんだかわかんないヤツが張り込んでいたら襲え、という命令はそういうことだったのか。つまり、そいつに事情でも聞かれたりしたら、彼らは所詮素人だから簡単に正体がばれちゃうからそれはまずいんだよ。だから襲え、なんだよ。監視されているということは、怪しまれているのだから、夜陰に乗じて殺して、車ごと処分するつもりだったんだ。その後は、土地建物を処分するつもりだったんだと思う。やっちまったら必ず足がつくから、襲ったら相手を逃がしたら絶対だめなんだな。 後で必ず正体がばれるからアウトだろう。おそらく逃がしてしまったら、応援を出して証拠隠滅をはかるか、全員トラックで逃げろと命令しといて焼き殺し、後は建物を爆破して証拠を隠滅して謎だけを残すつもりだったんだろう。しかし現実はああいう具合になってしまった。従業員は全員死亡、警官も巻き込まれて犠牲になった。気の毒だがね 」
「たしかにそう考えると筋が通ります。警視庁の会議では、それほど自由に発言して考える人はいなかったです 」城之内は感心したように言った。
「そうかい。ただの外野の独り言さ。でも俺はサイゴーの行動を支持する。そうでなければ、始めからマグナムなんか持たせないよ。銃撃戦になったら何が起るかわからないから、それでも必ず勝って生きて欲しいからね。その為には相手を確実に先に倒さなきゃならない。サイゴーが狙って射殺したんなら、俺はとやかく言わないよ 」
「トノ…… 」
城之内は、有作が批判めいた言葉を全く言わないことを心から嬉しく思った。有作は誰に言うわけでもなく、とうとうと喋り続ける。
「この事件でわかったことは、連中はかなりの予算を持っている。それに武器、特に爆弾に不自由はなさそうだ。起爆方法も凝っていて技術力もあることがわかった。そして責任者は冷酷だ。わかりやすく言えば、まるで大企業のトップだよ。大きな事業を成し遂げるためには犠牲を全然厭わないんだからな。
サイゴーも言っていたようだが、多分土地建物の所有者とか経営者はみなゴーストで、その線から捜査しても本陣には辿り着けないだろうな。だからといって捜査活動が無意味といってるんじゃない。それをすることで何かが新たにわかるはずだ。そして相手にプレッシャーをかけることになる。たとえ本陣に辿り着けなくてもね 」
「犠牲を払って本陣を守る。完璧なトカゲの尻尾切りですね 」城之内は有作の説をまとめた。すると今まで黙って話を聞いていた等々力が口を開いた。
「トノは実際のトカゲが尻尾切るところを見たことがありますか? 」
「いや、レトリックとして知っているが、実際に見たことはないなぁ 」
「私は小学生の頃に見た事があります。飼っていた猫が十センチくらいのトカゲを裏の山で見つけて、前足でちょっかいを出しているのを見ていたら、その内にスポッと尻尾が切り離されましてね、その尻尾がもうまるで生き物のように、くねくねくねくねと縦に横に跳ねたわけですよ。それを見た猫は、尻尾の方にたちまち夢中になりましてね、すっかりトカゲ本体から注意がそれてその隙にトカゲはするするっと逃げていきました。あの時の光景は、今でも脳裏に焼きついているんですよね 」
等々力は視線を上に向けて懐かしそうに語った。その話は、等々力の表情が豊かで尻尾がくねくねのところで、右腕を立ててぶらぶらと振って見せたところが思いのほか笑いを誘った。
「それで御前は、トカゲの尻尾切りと聞くと、その話をせずにはいられないんだな 」有作は笑いながら言うと、等々力は素直に、はいそうですと答えた。
それに輪をかけたのが、ユリがリチャードにしていた同時通訳だった。ユリはトカゲの尻尾切りという、うまい比喩表現がとっさに思いつかなかった。せいぜい犠牲を意味する ” sacrifice ” だが、どうもしっくりこない。” scapegoat ” も少し意味が違うような気がして、等々力のくねくねの説明がつかない。そこでユリは、” cutting the tail of the lizard ” とそのまま英語にして、真面目に等々力の説明と身振り手振りを表現したので、リチャードは話を完全に理解して声を出して笑った。ユリ以外の全員も時間差を置いた意外なユリのくねくねの熱演を見たので、爆笑に近い盛り上がりがあった。
リチャードは一頻り笑った後、ハンカチを出して品良く顔を優しく拭いてから話し始めた。ユリは冷静に通訳に徹してリチャードの言葉を日本語にした。
「……トカゲの尻尾切りの話は面白かったし、良い表現だと思うよ。久し振りに笑うことができました。ありがとう。ところで、昨夜の八王子事件は、御存知のように警察側の被害は出たものの、初めて彼らに被害を与えました。私もこの運送会社と怒髪天はなにかつながりがあると思います。
これまで彼らは世間で悪人と評されている日本人を家族ぐるみで殺害し、その光景を公開して刑法の限界を超えた。というような主張をしてきました。私が興味深いのは、彼らは衝撃的で残虐な映像とともに、主張なり声明を英語でも表しているということです。それも我々にもわかりやすく。これは単に活動を日本国内で留めることなく、世界に向けて発信しているということで、それなりの評価、勿論これらは許されるものではありませんが、特定の層に一定の評価を得ている事実があるのです。
彼らはもうワイドショーのネタのような、残虐なシリアルキラーの類ではなく、もっと本格的な組織で、何かの理想や思想、あるいは信条に基づいて活動を続けており、それを支持する人が国内外に少数だがいることを知っておいた方がいいでしょう。
そして世界には、変わった趣味を持つ金持ちが多くいることも知っておくべきです。これは私の個人的な意見ですが、その中の誰かが極秘裏に彼らの天誅・公開活動を資金面や武器弾薬の調達などを助けている可能性もあるのではないでしょうか 」
リチャードはユリが通訳を終えるのを待ちながら、ゆっくり言葉を選んで意見を述べた。それはこれまで誰も思いつかなかった死角から出てきたようなものだった。一同は少なからずの違和感を覚えたが、それを否定する者はいなかった。怒髪天が公開した天誅映像を観た者は、それを思い出さずにはいられなかった。
はじめにCGで作られた見目麗しくも怒っている表情の中性的な人物が登場し、合成音声によって標的の所業を暴き立て、律法を超越した我々が天誅を下すと宣言して画面が現場に切り替わる。
標的を正座させ、器具で身体と瞼をがっちりと固定し、身動きは勿論まばたきすら完全に奪ってから、目の前で家族を一人ずつ殺害していく光景と、それとシンクロした標的の苦悶と絶望の表情を画面の隅にみることができた。ということは、殺害の光景と標的の表情を同時に撮影していることになり、少なくとも二台のカメラを固定して撮影し、後で編集・合成している。この手間が、観る者にどのような心理的・生理的影響を与えるかは千差万別である。気分を害して吐き気を催し、それ以上観るのを拒む者がいる一方、好んで観る者もいるのである。そういう趣向を持った者にとっては画期的な手法といえる。
更に殺害方法は、現時点で二種類が確認されている。一つ目は、ナイフで首から上を切断し、その頭部を標的の膝元に並べるものと、全裸にしてから身体をうつ伏せに抑えつけ、金属製の槍のようなものを肛門から刺し込み、背骨にそってそのまま喉を通って口から鋭い穂先が出たところで持ち上げ、壁に立てかけて並べるという串刺しである。槍には半月状の鍔がついていて、立てかけると身体が下がって臀部がそこでおちついて、死ぬまでの間両手足がぶらぶらするのだ。
目の前で次々に家族が殺害されるのを見せつけられた標的は、最後に同じ方法で殺害されたところで映像は終る。標的と家族は事前に喉にクリーム状の麻酔薬を塗られて声を奪われているので、どんなに泣き叫んでも蚊の羽音程度の声しか出すことができない。映像に映っている実行犯は五六人で、全身が黒づくめで覆面と手袋で面相を隠し指紋も毛髪も残さない。後で爆弾によって現場を吹き飛ばすので、足跡さえ消してしまう。役割分担が決められているようで、会話どころか声一つ出さずに躊躇も無駄な動きも無く淡々と行動している。警察は天誅映像を分析して現在も何か手掛かりがないか調べている。
有作もSP幹部も警察の怒髪天捜査に関係しているので、天誅映像を観ている。ユリは途中で辞退して二度とみようとしなかった。そのフェイクでない凄みのある凄惨な映像を観ることは不快だが、心のどこかに潜んでいる怖いものみたさの好奇心がある事実を否定できなかった。リチャードが主張するように、怒髪天を支援して、もっと天誅映像を欲しがるという心理までいく者がいるとは中々考えられなかった。リチャード発言の後に口を開く者がいなかったので、有作は英語で彼と話しはじめた。
「要するに、カタルシスやデトックスか何かのために、残虐な映像をわざわざ求める人がいて、それが大金持ち、つまり百万ドルを小銭と思うような人々で、かたや百万ドルさえあれば、俺たちはなんだってやってやるぜというイカれた連中がいて、どういうわけか双方がつながって、律儀に残酷な映像をつくって配給する。という闇の市場が昔から存在していて、今回の天誅映像もそれに関係があるんじゃないかということだな? 」
「おおざっぱに言えばその通りです。知事はスナッフフィルムの存在を御存知ですか? 」
「うーん実は聞いたことがある。反吐が出るがね。どうやら俺はそこまでの金持ちではないようだ 」有作は少し顔をしかめて顔を横に振りながら言った。
「スナッフフィルムは、昔から、八ミリ映写機の頃から存在しています。世界のどこかの、金持ちの何人かが金を出し合って闇のプロダクションをつくらせて特殊な…… つまり非合法な映画を制作して、それを観て密かに楽しんでいるという現実です。勿論、そのメンバーは次々に交代して今も続いているのです。又闇のプロダクションも消えては出来るというサイクルを繰り返しているので、確実に存在しています。彼らはホラー映画のようなフェイクでは決して満足しないのです。暗く憂鬱なことですが…… 」リチャードは沈痛な表情で、病んだ世界の代理人のように少しうつむき加減で言った。
「リチャード、君はスナッフフィルムを見たことがあるのかい? 」
「立場上イエスです。勿論私も気分が悪くなりましたが…… 」
有作は他の者にもスナッフフィルムなるものを見たり聞いたりしたことがあるか訊いてみると、全員が無いと答えたが、城之内が補足して説明した。日本では氏の言うような闇の出資者やプロダクション、スナッフフィルムも事件になったことはないと答えた。ただ、類似したケースとして、昭和の戦後からブルーフィルムというものが存在したが、これは主に本物の強姦やSMプレイを記録したもので、殺人のケースは聞いたことがない。しかし、殺人者が現場を撮影して、見て楽しむというケースはあった。その他、アダルトビデオ制作の演出が行き過ぎて出演者が死傷したケースが事件になったことがある。又、男女の恋愛が破綻した後、男が腹癒せに女の裸をネットで公開する所謂リベンジポルノというものがある。そして最後に、勿論私が認知していないからといって、そんなものは日本では無いと言い切ることはできない。と付け加えた。
「最近はデジタル化が進んだおかげでカメラ機材が安く普及し、それに画像処理や公開にかかるコストや手間が大いに低減し、誰もが映像を作って発信することが出来るようになった。まあそれでも手間隙かけて映像を作りたいという者は、みたい・みせたい・目立ちたい・主張したい・残したい・儲けたい・感謝されたいの欲求がエネルギーになっているんだろう。その中には良いものもあれば悪いものがあるんだろう。その判断はみる人に委ねられる。それらは時代に生きる人の欲望と好奇心の記録みたいなもので、これからも残っていくんだろうな。まあ、リチャードの意見は天誅映像を公開する理由を考えた時の答えの一つとして覚えておこう。
さて、少し空気を変えて運送屋の話に戻そうか。連中は表では真っ当な商売をしていると見せかけて、裏では怒髪天の殺し屋グループを送り迎えしていたと仮定してみよう。それでは、怒髪天はどうやって人を集めているんだろう。きょうび求人広告を出してもなかなか良い人材が集まらないというのに、それなりの苦労はあるのだろうが、俺はその方法が知りたいよ 」有作は笑って話題を変えた。
「それで、今後の方針なんだが、サイゴーは八王子の事件を切り抜けて、多くの手掛かりを警察にもたらしたのだから、もう十分内偵の任務を果たしたと思う。だから二三日休養をとったら戻そうかと考えている 」有作はそう言ってコーヒーを飲んだ。
「たしかに、もう内偵の段階は終りましたね 」城之内は有作の言葉を聞いて、ホッとしたように言った。ということは、SPの警察支援も次の段階に入るのだ。城之内はもうウチからは人を派遣することはないだろうと安心する反面、等々力がここにいるということは、次は等々力班の誰かが派遣されるのだろうと予想した。有作はコーヒーを飲みながら、右手の人差し指をくるくると回して等々力を見つめて言った。
「それで次のエージェントとしてチバを出そうと思うんだ 」
城之内と等々力は、千葉と聞いて少なからず驚いた。等々力は自分なりに今は佐藤のスケジュールが空いているので彼を推すつもりでいたのだ。
「千葉秀樹ですか、ご承知のように千葉は今、梅木組に入って組長補佐をつとめておってですね、そのような時間はないと思うのですが…… 」等々力は控えめに難色を示した。その声はうわずっていた。
「トノ、私も違う者が良いと思います 」城之内の声も少しうわずっていた。千葉の起用にSP幹部二名が揃って異を唱えるとは有作は意外だった。
「どうして? 」
「彼を東京にやるべきではないと思います。彼は警察官経験もありませんし、若過ぎますし、まだ経験不足です 」城之内は有作に向かって言い放ったところで、場の緊張感が一気に高まった。有作は笑顔のままだが城之内を睨み即座に言った。
「勿論奴は年齢若いし、警察官経験も無い。しかし経験不足というのはどうかな? そんな理由が反対する本当の理由ではないだろう。多分御前らはチバの実績からくる反響を恐れているんじゃないか。或いは怒髪天を気の毒に思うのかな 」と有作は悪戯っぽく笑って城之内と等々力の顔を見た。
「御前らも怒髪天の底知れない不気味さを感じているんだろう。天誅だと? 笑わせるよ。俺に言わせりゃ、そんなのまったくきりが無いことだ。浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじってやつだよ。
俺には連中が今後もそれを繰り返すとは思えないんだ。そんなバカとはとても思えない。天誅なんて名刺代わりのウォームアップで、そのうち本領を現してくるんじゃないかと思う。しかしその時になってから手を出すというのでは遅いと思うんだ。犠牲はとても大きくなるだろう。警察さんの民主的な後手後手対応では犠牲者は増える一方で、連中をどんどん増長させるだけだと思わないか。
この手の組織形態ってのは、新興宗教を含めた宗教団体によくみられるんだ。そういう組織なら人を集めやすいし、教義に絡めて教育だか洗脳だかを施したら、どんなことでもさせることは可能だからね。こういう連中の対策は、直ちに大元を早めに絶つことだ。そうすりゃ後は有相霧相の集まりなんだから霧散霧消さ。だから俺はチバが適任だと考えるんだ。チバ投入で何があろうと責任は俺がとる。俺が考えていることわかるだろ?連中の本当の目的なんて知りたくもないね。どうせ独りよがりの御託宣を並べるに決まっている。今の段階でぶっ潰すにかぎるんだよ。
公安庁からの報告では、現存の宗教団体系は怒髪天とは全て無関係だそうだ。彼らはそういう団体を常にモニターしているから、もしもなにかつながりがあったらすぐにわかるから、それなら話は簡単でSPの出番はなかったな。つまり怒髪天は公安庁もまだ把握できていない未知の団体ということになる。例えばNPOだとか、ボランティア団体とかね。何せ東京には人が一千二百万もいるんだ。きっとそんなのは山程あるはずだ。その中から表向きは問題のない、裏でろくでもないことをやっている連中が怒髪天だったりするんじゃないかな。今は通信手段も新しいものが色々あるから、瞬時に人に連絡をつけることができるし、教育だか洗脳だってできるんだ。俺はチバを投入して、そいつらをとっとと炙り出して終らせたいのさ 」
等々力と城之内は有作の意見を聞いてそれぞれに納得した。既に東京の地下に根を張り巡らせた怒髪天という組織存在を認知し、これがまだ試作段階であると見当をつけてこれが完成形になる前に潰そうとしているのだ。等々力は、有作の切れの良い意見に感心していた。独りよがりの御託宣とは良く言ったもので、それに天誅を、笑わせるほどのきりのないバカなことだと言い切った時は気持ちがスッとさえした。 勿論千葉が東京で何をしようと責任は有作がとるのであれば全然異論はなかった。一方城之内も有作の思考パターンの鋭さに感心していた。朝の警視庁の捜査会議では及びもつかなかったNPOや各団体との関連性や、白色テロルをも想定に入れていることが窺えた。同じ様な情報ソースで、TV捜査会議の方針と有作が出した方針がこれほど違うとは驚きを禁じえなかった。
「怒髪天は大衆を味方につけようとして、八王子事件について何か声明を出すかもしれませんね 」城之内はそう言ってコーヒーを口にした。冷めていたが悪くない味がした。