Act.2
「――――ッ!!?」
がばり、と、飛び起きる。
「……夢、」
またあの夢。いつもの悪夢。軍に入って人を殺してからというもの、度々見るようになっていた内容だった。――最後のワンシーンを除いては、だが。
「どうして……魔王が……」
なぜ奴が出てきた。なぜあんな台詞を言った。なぜ、夢の中のあいつはあんなに優しい?
ああ……そんなの問わずともわかっている。どんな悪夢も、所詮夢。僕の頭が作り出した幻想。だとしたら、まるで。
「……まるで、僕が魔王を好いているようではないか」
馬鹿な話だ。そんなことあってはいけないのに。奴は僕達の、人間の敵なのに。夢の中の僕は、どうして、あの手に救いを求めていたのだ。
どこか靄のかかった頭のまま、とりあえずは寝間着を脱いで、着替えようとして――固まる。今現在、僕の手元にある服は、魔王から与えられたものと昨日城から着てきたものだけ。
つまり、今着ているガウンか、あの黒い軍服か、ネルケから借りたドレスか――それ以外に着るものが存在しないのだ!
今の季節にこの格好は、出歩くにしてはあまりに寒い。よって必然的に、日中の服装は軍服かドレスかの二択になる。
利便性を考えれば、着慣れた形をしている軍服の方が、きっと良いのだろう。だが敵から与えられたもの、ましてや我が祖国を侮辱するような見た目のものを着るなど……ヴァーイス軍の一員として、許されることではない……!
「くっ……、なんたる屈辱……」
迷った末に僕は、白と水色――我が祖国のイメージカラーに彩られた、ネルケのドレスを着ることにした。
それから、気が付けば数時間が経っていた。側近の女魔物が朝食を運んできたのだ。もちろん僕は、それに一切手をつけなかった。敵の施しなど受けてたまるか。空腹なのは確かだったが、それ以上に、魔王に甘えを見せるのが怖かったのだ。
あの声は僕の心を揺さぶる。あの目は僕の心を惑わす。ほんの少しでも甘えてしまえば、魔王の手に搦め捕られる気がして。
どうしようもなく、時ばかりが過ぎていく。
「………………」
戦場では、数日間何も口にしないようなこともざらだったから、空腹自体はそれほど問題でもない。
無論、どんな事態にも備えられるよう、食べるものがあるうちに食べておいた方が良いにこしたことはないが……どうにも気持ちの整理がつかないのだった。
多少の空腹は慣れっこだったし、捕虜にしては随分と良い待遇を受けている。黒ずくめな不気味な部屋も、まあ、我慢できなくはない。唯一僕を苦しめているのは、するべきことを与えられないこの時間だった。
やることがなければ、自然と思考は奴――奇妙な行動ばかりとる魔王のことへと、向かっていく。他のことを考えようともしたのだが、気が付けばあいつのことを考えていた。
「くっ……、何故だ! 何故なのだ……!?」
どうしてあんな男のことを考えているのだ。どうしてこんなに気にしてしまうのだ。
どうして、あの声が頭から離れないのだ……!!
『……ヴィンデよ』
低い声。赤い瞳。
『私は、戦っているおまえが好きだぞ』
嫌なはずなのに、思い出してしまう。
『私はおまえが欲しい。おまえの闇が欲しい』
昨晩の奴の言葉。夢の中でも言われた言葉。
『――おまえはその力を、なんの妨げもなく使いたいとは思わんのか?』
「ち……がう、違うッ! 僕は……!!」
惑わされてなどいない。あんな男、気にしてなどいない。そんなことがあっては、いけないのだ。
「ぼく、は…………ネルケの、騎士なのだッ!!!」
感情に任せて窓ガラスを殴る。パリンと音がしてヒビが入る。拳から、たらりと血が垂れた。――痛い。
「くそッ……、くそっ、くそっ、くそぉおォォ……!!」
痛みは僕の怒りを煽り、一瞬でも魔王のことを忘れさせてくれた。だから僕は血まみれの拳で、傷をえぐる為だけに、ガラスや壁を殴り続けた。
「……はぁッ、はぁ、はぁ……」
どれくらい時が経ったろうか。力尽きた僕は、ベッドに伏していた。寝具がだいぶ血で汚れたものの、元が黒だからかたいして目立たない。ただ、ドレスはだいぶ汚れてしまった。なんだかネルケを汚してしまったようで、薄暗い自己嫌悪に苛まれる。
横を見れば、棚の上に昼食がある。だいぶ前に側近の女が置いていったものだ。もうすっかり冷たくなってしまったろう。朝食は、手つかずのまま回収されていった。
「…………はぁ、」
かちかちと鳴る秒針の音がうるさい。窓ガラスからは夕日が差し込み、漆黒の部屋を紅に染めていた。
「……黒と赤、か」
魔王の色、シュバルツェンの色。不吉な魔の色、だ。窓の外を見れば、夕焼けをジワジワと追いやるように闇が迫ってきていた。混じり合う赤と黒。
不気味で陰欝なその色は、しかしながらこの部屋――魔王城という場所には、驚くほどに似合っていて……。
「なんと…………綺麗な、」
ため息をつくように口にして、ハッとする。僕は何を言っているのだ!? こんな毒々しく、邪気に溢れた景色など、美しいはずがないのに……!
「……これは、汚らわしいものでなくてはいけないのに」
惹かれてなどいない。闇になど、紅になど。魔の色に染まったりなんてしない。それは、許されないことなのだから……。
『――何故そこまで頑なに否定する?』
「っ、」
再び、魔王の声がフラッシュバックする。
『此処はおまえの祖国ではない――魔の国、シュバルツェンだ』
「く、ぅう……っ!!」
『戦いを好むことは美徳とされども、毛嫌いされることはなかろう』
「――違うッ、僕は、ヴァーイスの人間なのだ……!!」
叫び、傷口に爪を立て、必死に幻聴から逃れる。痛みが足りない。怒りのまま立ち上がりドアを殴る。それでも、幻聴は消えない。
……わかっているのだ。奴に惑わされそうになるのは、僕の心が弱いから。僕が不完全だから、魔王などに付け入られてしまうのだ。
「……僕は所詮、失敗作だ」
小さく自嘲し、呟いた――その時。
どんどん、と、鈍いノック音。正確に言えば、ノックと呼んでいいのか微妙な、ドアを軽く蹴ったような音。ああ、またあの女が食事を運んできたのか。
放っておけば立ち去らないだろうかと無視していると……再び、ドアが蹴られる。
「……すまない、ヴィンデ。開けてもらえないか?」
「なっ……!」
ドアの向こうからしたのは、魔王の声。予想外のことに動揺し、反射的にドアを開けてしまう。……くそっ、できるだけこいつとは関わりたくなかったのに!
だが後悔したところで後の祭り。魔王を部屋に入れてしまった。見れば奴は、食事の乗ったトレイを手にしていた。
「夕食を持ってきた――っ、」
「そのくらい見ればわかる! 悪いが僕は、敵から施しを受けるつもりは……」
「その傷はどうした!?」
「ッ!?」
魔王はトレイを棚に置くと、素早く僕に駆け寄ってきた。ガッと両手を掴まれ、まだ血が滲んでいる手の甲をまじまじと見つめられる。
しばらくすると顔を上げ、割れた窓ガラスに気付き、再び僕を見て。
「……手の他に、怪我は?」
「し、していない……が」
「そうか……良かった」
安心したようにため息をついて、ぐっと近寄ってくる。
「傷口を見せろ」
「くっ……!」
「……わざと傷口を広げたな? 治りが悪くなってしまうぞ」
「貴様には関係ないだろう!!」
「暴れるな。今から回復させる。私は治癒魔法が苦手でな……あまり良い絵面ではないのは承知しているが、魔力の媒介に唾液を使わせてもらう。失礼するぞ」
淡々とした調子で告げると、奴は唇を傷口に寄せてくる。
「は、」
「……少し、しみるぞ」
「ッ!?」
ちゅっ、と、軽く傷口を吸われる。柔らかい舌が乾いた血を舐めとった。ぬるりとした感触に、妙な気分になってしまう。
「っ、ふ……」
「……すまない、痛かったか?」
上目遣いで聞いてくる魔王。背筋にぞくりと震えが走った。優しく、柔らかい舌使いに、何故か身体が反応してしまう。
「ち、がう……、なんでも、ない……から……」
どうしてしまったのだ、僕は。男に――しかも魔王に、手を舐められたというのに。何故、身体が熱くなる?
「……ヴィンデ? 大丈夫か、顔が赤いが……」
赤い瞳。見つめていると、なんだかおかしくなってしまいそうで。
「――離せッ!!」
僕は思い切り、奴を突き飛ばした。
「い……いきなりなにをするのだ!?」
「……だから、治癒魔術のためにだな……」
「結構だ! 怪我の手当てくらい自分でできる……っ」
魔王が何か言う前に、こちらから一気にまくし立てた。
「夕食を運びにきたのだろう? ならばもう用事は済んだはずだ、さっさとそのトレイを置いて行けばいいではないか!」
「残念だがその要求には答えられんな。そもそも私の目的を誤解しているぞ」
「……どういうことだ?」
僕の問いには答えずに、魔王はこちらを見る。
「おまえは、昨夜から何も口にしておらぬのだろう」
「だ、だからなんだと言うのだ!? 敵が出したモノなど食ってたまるか……!」
そう叫んだ瞬間。ぐきゅるるる……、と、腹の虫が鳴る。
「なんだ、やはり空腹なのではないか。無理は体に良くないぞ」
「ッ……うるさい! そういう問題ではなく……っ、ヴァーイスの騎士として、敵から施しを受けるわけには……」
「……御託はいいから、こちらへ来い」
そう言って、魔王はトレイを机に置き直すと、床にぺたりと座り込んだ。
「私の隣に座るがいい」
「…………」
素直に従うのはしゃくなので、その場で固まっていると、小さくため息をつかれる。
「……座れ、命令だ」
メイレイ――命令。その言葉が、感情的になっていた僕の頭を冷ましていく。僕は軍人。ここは敵地。すなわち僕は、捕虜。
「……わかった」
渋々ではあるが、奴の隣に腰を下ろす。目の前には食事が乗ったトレイ。ほわほわと湯気のたったオニオンスープと、焼きたての香りがするパン。マスタードのかかった肉料理には、ジャガイモとキャベツが添えてある。ごく一般的な庶民の家庭料理、といったところか。パン一個に水だけだった朝食や昼食に比べると、だいぶ豪勢に感じられた。
――まあ、それだけなら、いいのだが。
「……二人分、だと……」
「そうだが、それがどうかしたのか?なかなか美味そうだろう」
「…………」
「はやくしないと食事が冷めるぞ。……ああ、食わないという選択肢は無しだからな」
そういうと魔王は、いそいそと自分の分の皿をとり、肉料理にフォークを突き刺した。
「……貴様ッ、」
「ん?」
きょとんとした表情が憎らしい。
「何故、僕と共に食事をするつもりでいるのだ……!?」
「おまえが朝食をとらなかったと聞いてな。誰かと一緒にならば食事する気も出るのではないかと」
「……貴様は、魔王と一緒にいて落ち着いて食事ができる人間がいると思うのか?」
「ふむ……、そういうものか」
くっ、ふざけるのも大概にしろ……! 僕を馬鹿にしているのか、こいつ。
「だがおまえの場合、見張ってでもいなければまともな食事をしそうにないからな。きちんと全て食べるまでは居座らせてもらうぞ」
「……食事はとる、だから監視はやめろ」
「そういう台詞は食べてから言え。無理ばかりしては身がもたんぞ?」
反論したい気持ちを抑え、とりあえずは従うことにする。
こういった、家庭料理の類にはあまり馴染みがなかった。騎士として城を離れることも多く、所属部隊の仕事柄、落ち着いて食事をとる機会はそう多くない。子供の時分ならともかくと、成長してからは王子としての立場を求められることもぐんと減った。稀にあってもそれは、フォーマルな会食の場くらいのものだ。世間で言うところのおふくろの味、なるものとはとんと縁がない。……作っているのがどんなシェフかは知らないが、これは、多分そういう種類の料理だろう。
大きな不安とほんの少しの期待を抱え、魔王にまじまじと見つめられる中、僕はその肉料理を口に入れた。
「っ……、美味い、だと……」
「そうか! ふふ……それは良かった」
ぱあっと、魔王の顔が明るくなった。肩書にそぐわない優しい笑みに、なんだか心がざわざわする。
「しっかりと食え、足りなければ私の分もやろう」
「…………」
なぜこんなにも上機嫌なのだ、この男は……。どう返して良いやらわからず、僕は無言でスープを啜る。……やはり、美味い。暖かい味だな、と、ぼんやり思った。
「……ところで、ヴィンデよ」
食事中も相変わらず無口で、時折嬉しそうに料理の解説をするだけだった奴が、突然こちらに向き直った。
「先程から気になっていたのだが――おまえには女装趣味があるのか?」
「ぶふっ!?」
あまりに唐突すぎた問いに、飲んでいたスープを吹きだしかける。流石にそれは堪えたが。
「い、いきなりなんだ! なぜそのようなふざけたことを……!?」
「いや……おまえがそんな格好をしているから、てっきり趣味なのかと思ってな」
「…………あっ」
そうだ……、ずっと着ていたせいで違和感が薄くなっていたが、僕が今着ているのはネルケのドレス。女装趣味、と言われても、なんら反論できない格好である。
「ち、違う!! 決して趣味ではない!」
「……では何故わざわざドレスなのだ。私がやった服だってあるだろうに」
「あんなものを着るくらいなら、女装の方がまだマシというだけだ! ヴァーイス軍を侮辱しおって……!」
そうだ、元はといえば魔王のせいなのだ。諸悪の権化を睨みつけてやれば、奴は、魔王らしい微笑みを見せた。
「……ふっ、そんなにアレを着るのは嫌か」
「当たり前だ! あんなものを身につけるなど、ヴァーイスの騎士の誇りが許さん!」
「ほう、大した忠誠心じゃないか。国は終戦の代償におまえを憎き魔王へ売ったと言うのに?」
「違うッ、これは僕が自ら進んでやったことだ! ヴァーイスをこれ以上侮辱するな!!」
「そんなに祖国が大切か」
呆れたような声の魔王。
「勿論だ! 祖国を愛し、その為に尽くすのは、ヴァーイスの騎士としての義務であり――」
「では、聞こうか」
――その瞬間、奴の声が鋭くなった。
「おまえは何に怯えている?」
「……なっ?」
「祖国を愛する? 騎士の誇り? ……ふざけたことを。本心ではそんなこと、思ってもいないくせに」
冷たい声。冷たい瞳。全てを見透かしたような態度に、一瞬、固まる。
「ば、馬鹿なことを……。貴様に僕の、何がわかる……」
「わかるさ。おまえが大事な祖国とやらの話をするたび、怯えた目をしていることくらいなら」
「ッ!?」
魔王はひどく柔らかい手つきで、僕の頭を撫でてきた。
「……何に怯えている? 何を恐れている? ここはおまえの国ではないのだ、ありのままのおまえで居ればいい」
「や――やめろっ、僕に……触れるな……」
「ヴィンデ」
名前。呼ばれただけで、心臓が止まりそうになる。
「おまえはヴァーイスの話をするとき、決まって、何かに追い立てられたような顔をする……。まるで『そう言わされている』ようにな。私はそれが不快で仕方ない」
ああ……また、だ、頭に靄でもかかったかのように、何も考えられなくなる。反論したいのに、声が出ない。
「私はありのままのおまえが見たいのだ。どこかの誰かに教え込まれた言葉などいらん、戦場で見た、飾らぬおまえに惹かれたのだから」
「……ふ、ざけるな! 全て適当な推測だ、あてずっぽうだろう!?」
「ああ、所詮推測に過ぎない。私におまえの本心はわからない。だから」
やめろ。頼むから僕を見ないでくれ。
「……おまえを、知りたい」
ああ駄目だ。やめろ。そんな目で僕を見つめるな。そんな顔で微笑むな。求められていると――愛されていると。勘違い、してしまいそうだ。
僕は、騎士。ネルケを……勇者を守る騎士。奴は魔王だ、僕の敵だ。惑わされるな。ありのままの僕を愛してくれるヒトなんて、存在するはずがないじゃないか。奴が欲しいのは僕の力だ。殺人鬼である僕を利用したいだけだ。
「……貴様は僕を、兵士として使いたいのだろう?」
気付けば自然と問いかけていた。
「何故こんな回りくどいことをするのだ……、魔王の力があれば、洗脳して手駒にすることもできるだろうに」
これは逃げだ。奴の口から、少しでも奴自身の都合――例えば洗脳は魔力の消費が激しいから難しいだとたか――が聞ければ、それでよかった。それで、僕は奴を再び憎める。
……はずだった、のに。
あろうことか魔王は、優しい笑みを浮かべて言ったのだ。
「……言っただろう、ありのままのおまえが欲しいと。私はおまえを部下にしたい――もっと言うならば、ヴァーイスではなく私を選んで欲しい。おまえ自身の意志で」
「っ…………!」
ああ、駄目だ。どうして。どうして胸が痛いのだ。どうして、こんなにも幸せな気がしてしまうのだ。相手は魔王、だと、いうのに。
――その日は、悪夢は見なかった。