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――夢を、見ていた。
幼い頃の僕がいる。隣にいるのは、やはり幼いネルケだった。訓練用の木刀を手にし、試合をしている。
必死に戦う二人を、僕は、宙から見下ろしていた。
二人の剣捌きは、幼いながらもなかなかのものだ。互いに一歩も譲らない攻防が続く。ネルケが勢いよく剣を振る。僕は飛びのき、攻撃をかわした。バランスを崩しよろめくネルケ。素早く後ろ手に回り、僕は剣を構える。
今ならいける。あの位置ならば確実に、ネルケに一太刀入れられるはずだ。
小さな僕は振りかぶる。剣を構え、標的を見据え、振り下ろそうとして――ほんの一瞬、ためらった。
途端にネルケが振り向く。咄嗟に身を引くが、間に合わない。素早い突きがその身を襲い、幼い僕は敗北していた。
『……今の敗因はわかるか、ヴィンデ』
審判を務めていた男――僕らの師である彼が、幼い僕に向かって問う。彼は無言で俯いていた。
『おまえの反応が遅れたからだよ。あそこで素早く動いていれば、勝利への一手となったろうに……』
『……はい、師匠』
態度こそ素直で従順な子供のものだったが、その瞳にはどこか覇気がない。
わざわざ師匠に言われるまでもない。彼は、幼い僕はわかっていた。わかった上でわざとやった。反応が遅れたのではない。あの時、彼は戦闘を放棄した。実の妹を攻撃するのをためらい、止めたのだ。
彼女に生まれた、ほんの一瞬の間。見逃すわけがない。むしろあの時、僕は勝利を確信した。
このままいけばやれる――殺れる。僕の剣が敵の胸を貫く。半ば反射的に、そんなヴィジョンを脳裏に描いた。その手にあるのが木刀だということなど忘れていた。ましてや相手が妹だということも。狩るか狩られるかの緊迫した状況下で、僕の中にあったのは、敵を確実に仕留めるという意識だけ。
――右胸に狙いを定め、剣を振りかぶった瞬間だった。ネルケの顔が、瞳に映った。描いていたヴィジョンは歪み、血濡れた彼女の姿へと変わる。戦場の狂乱に満ちた意識が、一気に現実に引き戻される。
今は練習試合の最中で、対戦相手は妹で、僕らが握るのは木刀で。そんな事実を思い出したのに、身体は硬直したまま動かない。
だって――僕は怖かったのだ。相手が最愛の妹だというのに、無意識のうちに殺意を抱いていた……否、殺意と呼べるほどの悪意を持たずして、ごくごく自然に対戦者を殺そうとしていた自分が。何をしでかすかわからなくって。
幼き日に度々感じた、そして今でも夢に見るほどの、恐怖感。自分は平気で人を殺せる人間かもしれない。未知の自分が恐ろしい。
結局のところ、その予感はあながち間違いではなかったのだ。だって、あれから何年も経った現在でも、僕にはネルケのような戦い方はできないのだから。
揺るがない不殺の信念も、それを実行しながらも相手を封じるだけの技量も、風格も。どうやったって僕には手に入らない。彼女は、ヴァーイスの騎士としての理想像そのもの。
……僕なんかじゃ、絶対に敵わないのだ。
気が付けば、僕はまた、宙から僕たちを見つめていた。そこには、先程見たのよりも少し大きくなった僕たちが歩いている。あの日。あの、事件の日だ。
いつも通りに、雑談をしながら歩いていく僕たち。ふと、建物の影に、三人の男が潜んでいるのが見える。夢の中の僕らは気付かない。二人が曲がり角に差し掛かった時――男たちは動く。
一人が素早い動きで僕らに飛び掛かると、後頭部に一撃を浴びせる。
『かはっ……!?』
『に……にいさま!!』
ネルケが、倒れた僕に駆け寄る。背後にいる男には気がつかない。
『う……しろ……、はやく……』
『だいじょうぶ!? けが、してない!? いま、まほうでなおすから……!』
『……ぼくは、いい、から……にげ……』
僕が言葉を紡ごうとした時。
『――逃がさねぇぜ、オジョーチャン?』
下卑た笑みを浮かべた男が、ネルケを捕らえた。
『っ!? くっ……、は、はなしなさい! このぶれいもの!!』
『おーおー、随分と威勢がいいお姫様だなぁ』
彼女を羽交い締めにした男が嘲笑う。別の男は、苛立った様子で詰め寄って行った。
『チッ……暴れるんじゃねえぞ、クソガキが!』
『……あなたがたのようなやばんなものに、めいれいされるいわれはありません!』
凛として言い放った彼女。僕を殴った男は、懐からナイフを取り出した。
『――動くんじゃねえ!! 下手に抵抗したら、こっちのガキの命はねぇぞ!?』
ギラついた切尖が、幼い僕に向けられる。ネルケは小さく息を呑み、彼等を睨みつけた。
『……あなたがたのもくてきはなんです? わたしがめあてなら、にいさまはかんけいないでしょう』
『へへっ……わかってんじゃねえか』
何もしていない――どうやらリーダー格らしき男が、ニヤニヤと笑いながらネルケに近付く。
『目的っつったか? ……なに、ちょっとオマエをさらって、身代金をいただきてぇだけよ。男のガキにゃ、城に行って身代金を請求する係をやらせるつもりだから――殺しやしねえさ』
『……そんなひきょうなまねをして、はずかしくはございませんの?』
『ぐっ、このガキィ……!優しく言ってやりゃあナメやがって!』
男の拳がネルケに向かう。
『――ネルケっ……!』
『動くなッ!!』
幼い僕は立ち上がろうとするが、男にナイフを向けられて固まる。
どすっ、と、重たい音が響き、奴の拳は彼女にめりこんでいた。
『っ……!!』
『ちょ、アニキぃ。怪我させないで下さいよー、あとあと面倒じゃないっスか』
ネルケを押さえ付けている男がのんきな声で言う。アニキと呼ばれた奴も、先程よりは少しだけ落ち着いた様子で返事をした。
『……ああ、そーだなぁ。あんまり聞き分けのねぇモンで、つい、カッとなっちまった』
その顔に浮かんだのは、下衆な笑顔。妙に明るい、ねちっこい声で笑いながら、ネルケとの距離を詰めていく。
『どうせ言うこと聞かせんなら……暴力じゃあつまんねぇよなあ。ガキとはいえ、オンナなわけだし』
『わ、わたしになにをするき……、ひぃッ!?』
――まさか、この男……ネルケに性的暴行を!? 不吉な予感に、幼い僕の顔は蒼白だった。
『……アニキぃ、そのロリ趣味ばっかりは俺、理解できないっす』
『うっせえ。ガキでもオンナはオンナだろうが』
その言葉に、予感は確信へと変わる。咄嗟に僕――彼は叫んでいた。
『や、やめろ……、やめてくれっ! ネルケはまだ、コドモで……』
『それがイイんだよ。ボーズはそこで、大事な妹が犯されるとこを見てるんだな!』
いやだ。やめろ。やめてくれ。汚い手でネルケに触れるな。僕の妹を、神聖なる騎士を汚すな。そんな事をさせてたまるか――!!
沸き上がってくる憎悪。嫌悪。殺意。僕がネルケを救う。守る。奴らを殺せ。奴らを殺せ。僕の眼前にあるナイフを奪い――この蛮賊どもを殺してしまえ。
そう思い立つと同時に、身体は動いていた。痛みを堪え跳ね起きると、腰に差した木の剣を鞘から抜く。僕を見張っていた男が動くより先に、奴の腹めがけ一突きを食らわす。
『ぅぐッ!!?』
続いて奴の右手から、ナイフを叩き払う。剣を手放し、落ちていくそれを空中でキャッチして、男の胸目掛け深々と刺した。
『が、ぁ゛っ……!』
ぬちゃり。刃越しにもわかる肉の感触。柔らかいそれをえぐるように深く刺し込むと、一気に引き抜く。
『ふ……は、はは……!』
飛び散る赤。赤。赤。赤。
『あ……アニキぃ!! あ、あいつ……っ、死んで……!?』
『ひ、ひぃいいっ……!! な……、なんなんだよ、あのガキ……!?』
『……にい、さま……?』
もう何も聞こえない。もう何も見えない。
僕の世界は絶叫に満ちて。僕の世界は真っ赤に染まって、そのまま――。
――気がついた時には、血だまりの中で立ち尽くしていた。三人の男は死んでいた。誰が見ても致死量とわかるだけの血を流し、主に心臓辺りをめった刺しにされて。
『……これ、は……いったい……?』
足元には、気を失って倒れたネルケ。助け起こそうとして、手を伸ばして――見たら。
『ぁ……、あ、ぁあ……』
僕の手には、真っ赤に染まったナイフがあった。……僕が殺した。あの男達を。こんな無残な死体に変えたのだ。
『ぁ゛……あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁああ……!?』
気付けば彼は――僕は、絶叫していた。
そこから先は、目まぐるしい勢いで世界が流れていく。
男達は通り魔に刺されたことになった。ネルケは何も覚えていなかった、から、僕も何も知らないふりをした。信じたくなかった。忘れてしまいたった。自分が人殺しだと言う事実から、目を背けたかった。
じきに、僕は剣を教わるのをやめた。騎士道を学ぶのをやめた。代わりにより殺傷力の高い武器……つまりは短刀や銃、それに魔法なんかの扱い方を覚え出した。
王国軍に入隊すると決まった時、僕は迷わず零番隊――軍内で最も危険かつ野蛮とされる部隊、殺しを主な仕事とする汚れ役――への所属を希望した。
そうするより他になかったのだ。人殺しの僕に、騎士たる資格はない――ネルケと同じ土俵に立つ資格はない。彼女の隣に立つ資格など、ない。……それに、僕は知ってしまった。僕では彼女と同じになれないこと。残酷な悪魔の衝動は、気のせいなどではなくて、たしかに僕の中にいる。
無論、もう子供ではないから。敵を殺さず倒すこともできる。武器の扱い方と一緒に、感情のコントロールも身につけた。けれど、僕の本質は――迷わず他人を殺せる人間だ。
それでも、いや、そんな汚れた僕だからこそ。ネルケを守ることができた。汚れるのは僕だけでいい。あの子が、僕の大切な妹が、美しく凛々しい騎士でいる為に。この手を血に汚してでも、彼女の純白を守らなくては。
それは、贖罪にも近い使命感。誰も知らない、僕の罪を償う為に。ただの人殺しにならないために。自らの手を更なる血で染めた。
一国の王子が殺人部隊に所属するなど普通はありえないことだったから、両親を含む多くの人が反対した。だから僕は、ネルケを守るためだと主張した。彼女の名前を出した途端に、相手の説得のトーンは落ちた。当然だ。その時点から、ネルケは剣士として有名だった。輝かしい騎士として崇拝されつつあった。王位を継ぐに相応しいのは彼女だと、きっと誰もがそう思っていた。
多くの家臣らが陰口を叩く。
『ヴィンデ様はまた、なんであんな部隊に入ろうとするのだ……』
『殿下のお考えは理解できん』
『どうしてあの方が第一王子なのだ。ああ、ネルケ様が先に生まれていれば……』
我が国の王位継承権は、第一子から生まれた順に与えられる。父が亡くなれば王座を継ぐのは僕。けれど、皆が望む王は僕ではない。ネルケだった。
だから、僕を零番隊に入れまいとして両親が突き付けた条件――王位継承権の剥奪は、むしろ好都合なことで。当然、それを受け入れた。
――僕は彼女の影になる。それが僕の生きる道。僕が殺人を犯すのは、愛しいネルケを守るため。……だからまだ、人殺しじゃない。
そう、いつだって僕は孤立していた。王宮での居場所は小さくなる一方だった。零番隊に入ってからも、決して快適と言える環境にはいなかった。
他の隊員の嘲笑が聞こえる。
『世間知らずの王子サマが、なんでこの隊にやってきたんだ?』
『金持ちの道楽か……? ナメやがって』
『どうせすぐ、根を上げるだろ』
味方なんていない。軍にも城にも、僕を軽蔑した目で見る連中ばかりだ。それでもよかった。ネルケは、相変わらず笑っていてくれたから。あの笑顔を守るために、僕は生きていると言えるから。
だから、まだ、大丈夫。
そう思いながら、数年が過ぎる。
幾つもの戦場に立った。幾人もの敵を殺した。大佐の肩書も手に入れた。殺した相手を『人』ではなく『敵』としか認識できなくなったのは、いったいいつごろだったろうか。
僕を嘲笑うものはもういない。僕を軽蔑する者はもういない。僕を知る者は皆、怯えて、目も合わせてくれないから。
『お、おはようございます……ヴィンデ大佐殿』
挨拶をする部下の男も。
『殿下……っ、ひ、姫様がお呼びでございますわ』
僕を呼びに来る優しげなメイドも。
『その……体調は、どうだ、ヴィンデよ』
『軍のお仕事……大変、らしいですわね……?』
月に一度も顔を合わせなくなった、両親も。
どこかよそよそしい態度で、僕から目を逸らす。怯えた顔をして、僕から逃げる。
仕事で戦場に行けば、勘の良い敵は僕の顔を見ただけで逃げ出す。或いは、命請いをする。そんな彼等を僕は、ただ殺す。流れ作業だ。それが仕事だ。
『にっ……逃げろォ!!敵には"死の王子"がいる……ッ!!』
『い、いやだ……やめてくれ、まだ、死にたくない……』
『うわぁああああ!!!来るなッ……、"死神"……!』
死の王子。死神。どちらも僕の二つ名、というやつだった。誰が呼び出したかは定かじゃないし興味も無いが、気が付いた時には敵味方問わずそう呼ばれていた。
それでいい。それが僕の選んだ道。こうして僕が汚れ仕事を負っていれば、ネルケのような真っ当な騎士が、戦争で泥を被ることはない。だからまだ、ただの人殺しじゃ……
『人殺しだ』
ざわり。
『『お前は人殺しだ』』
ざわ、ざわり。
『『『お前はただの人殺しなんだ。俺達とは違う。こっちに来るな』』』
幾つもの声が重なって、聞こえる。
『こっちに来るな、イカれた殺人鬼』
『話し掛けないで。私を見ないで。殺さないで!!』
『ああおぞましい、あの人殺しが私の子だなんて!!』
やめろ、やめろ。黙れ。おまえたちに僕の何がわかる。
『妹の為、なんて言い訳だ!』
違う。
『あなたは人を殺したいだけなのよ……!!』
違う。
『嘘をつくな、死神め!!!』
ち、が……
『でていけ』
『こっちに来るな』
『消えろ、死神』
見えるのは、たくさんの人々。ここまでの夢に出てきた全ての人。
『おまえなんて必要ない』
『おまえなんかいなくたって姫様は困らない』
『生まれてこなけりゃよかったんだ、おまえは』
「っ……ぁ、あ、ぁあああ……」
『さっさと死んじゃえ、殺人鬼』
僕を取り囲む全ての人間が。憎しみと恐怖を抱いた瞳で僕を見る。その目は夢じゃない。現実で、ずっと見てきたモノだ。
ガラガラと足元が崩れ落ちる。どこまでも、どこまでも落ちていく。伸ばした手の先には、ネルケ。いつも僕に向ける、美しい笑顔が。
『……幻滅したぞ、兄様』
一瞬にして、無に変わる。
夢だとわかっているのに、もう幾度となく見た光景なのに。胸が張り裂けそうになる。身体から力が抜けていく。いつもなら、ここで終わる悪夢。だのに、今日は終わってくれない。
『消え失せろ』
『おまえはいらない』
『必要ない』
消えない。消えない。ノイズが消えない。いつまで経っても、悪夢は終わらない。
『戦場狂いの殺人鬼め』
『どうしておまえは生きているんだ?』
『魔王に殺されてしまえばよかったのに』
「っ……!!」
魔王――クインス。ふと、奴の姿が脳裏によぎる。 僕などを対価に戦争を止めた、奇特な男。いつの間にか人々の輪に、奴の姿もあった。
「なっ……!?」
『認めてしまえ、ヴィンデ』
抑揚の無い声で、魔王は言う。
『貴様は人殺しだ。血に飢えた殺人鬼だ。認めてしまえば楽になる』
『そうだ!』
『諦めろ、人殺し!!』
人々のざわめきが、胸に痛い。
『認めろ、認めるのだ……ヴィンデ』
違う。僕は、ちがう。
『素直になってしまえ』
だって、そんなはずがない。認めたら終わりだ。少しでも認めてしまったら最後、僕はもうどこにも帰れない。ネルケの為という目的がなければ、僕は、本当にただの殺人鬼だから。
『来るな、死に神!』
『綺麗事言ってんじゃねえ!』
『この、嘘つき殺人鬼!!』
認められない。認めたら最後、この夢は現実になってしまうから。
「僕、は……ただ、ネルケのために……」
『嘘をつけ』
クインスと目が合う。赤い、赤い瞳。どこかで見た色。懐かしい色。遠くの方から人々が僕を罵倒する声が聞こえてくる。息苦しくて死んでしまいそうだ。
魔王は僕の目を見つめながら、優しく、優しく僕の顔に触れて。
『……私は、戦っているおまえが好きだぞ』
「っ!!」
――それは、夢じゃない。現実に僕へと向けられた言葉。つい先刻の、奴とのやり取り。
『私はおまえが欲しい。おまえの闇が欲しい』
……本当に? こんな僕でも、赦してくれるのか。こんな僕の存在を、認めてくれるのか。僕がいてもいいと、本気で、言っているのか……?
『ヴィンデ』
ああ、なんて甘い声。
『おまえが欲しい』
ああ、なんて優しい音。
『戦うおまえが見たかった』
『血に染まったあの姿が……脳裏に焼き付いて離れない』
『我が同胞となるに相応しい男』
溶かされそうなほどに甘い言葉は、全て、実際に僕に向けて語られた言葉。
『……なあ、ヴィンデよ……』
夢の中で改めて見た彼は、ぞくりとするほど美しく思えた。
『おまえはその力を、何の妨げもなく使いたいとは思わんのか?』
『「……僕、は」』
記憶の中の僕の声と、僕の意識とがリンクする。重なった僕の声。途端に、シャボン玉が弾けるように、世界が割れていき――。