Act.6-01
――瞳を開ければ真っ黒な天井。もうすっかり見慣れた、魔王城の、僕の部屋だ。
「……今の夢は、」
ひどく心拍数が早まっている。目覚めてなお、夢の続きにいるようだ。わからない。僕は、心のどこかでネルケを――憎んでいたのか?
「…………」
否定しきれない。わからなくなってしまった。どうして彼女の為に生きていたのか。どうして、彼女の影でいいと思い出したのか。夢の中の僕の台詞が蘇る。
「『……影でいい、と思わなければ、あの国では生きていくことすら許されない』か……」
それはある意味事実だった。ありのままの僕を受け入れる者は、あそこには居ない。ネルケの為という大義名分の元ですら、血塗れた僕の手をとってくれるのは、彼女だけだったと言うのに。
いやそれだって、わからない。いつかは拒まれるかもしれないのだ。或いは僕が知らないだけで、彼女も僕を拒んでいるやも知れないのだ。
夢の中で幼いネルケは、確かにはっきりと僕を拒絶した。被害妄想で済ますにはあまりに生々しかった、あの、光景。あれは一体なんだったのか……。
「……時間は、ない」
確かめている暇はない。早くしないとネルケが来てしまう。僕が今こうして黙っていること自体、クインスへの裏切りなのだ。
あの男を失いたくはない。僕の抱える闇ごと愛してくれた、愛しい人。最愛なる魔王様。奴が僕以外の手で傷付く所など、絶対に、見たくはなかった。
ネルケを裏切りたくない。国を裏切れない。その気持ちが消えたわけではない。ただ――本当に彼女を信じて良いのか、僕の居るべき場所があの国にあるのか? 僅かな疑問が胸に引っ掛かる。
きっと、今のまま何もせずネルケを選んだら、絶対に後悔する。予感はあった。例え破滅することになってでも、今、僕が隣に居たいと思えるのは――間違いなくクインスの方なのだから。
「……奴の部屋に、行こう」
そして全てを伝えるのだ。僕の思いも、ヴァーイスの卑怯な策略も、その全てを。そうすることで、何かが変わる気がする。
僕はクローゼットの扉を開け、最初の日以来ずっと奥にしまい込んでいた軍服――クインスが初めて僕にくれたもの――を、手にとった。
*
意を決して奴の私室の前まで来た。緊張に震える腕を、無理矢理動かし、扉を叩く。
「――ん、ローゼか? ……なんの用だ?」
扉の向こうでクインスの声がした。少し気怠げだがもしや、眠っていたのだろうか。僕がやって来るなどとは当然思っていないだろうな――昨日、あんなに冷たく拒否してしまったのだから。そのことについても詫びなければ。
喉がからからに乾いて、声が出ないのではないかと思う。そんなに緊張していたのか僕は。
「……僕だ、ヴィンデだ。開けてくれないか」
「なっ……!?」
がたり、と大きな音がしたかと思うと、どさどさと何かが崩れ落ちるような音も聞こえた。
「お、おいっ、大丈夫か!?」
「あっいや、その、あの……構わんッ、入れ!!」
「あ、し、失礼する……」
少々面食らいながらも扉を開けると、そこには――書類にまみれた魔王がへたりこんでいた。
「……ヴィンデ……っ、」
潤んだ瞳からは、恥じらいながらも僕の訪問を喜んでいてくれることが感じ取られ、ときめきで胸が苦しくなる。なんといじらしく愛らしいのだ。
「…………すまん、こんな格好で……その、おまえが来てくれるだなんて思わなかったものだから、慌ててしまって」
「だ……大丈夫か? 怪我は?」
「あ……い、や、その……書類の束が崩れただけだから、私は全然……」
「……よかった」
ひとまず、大事ではなかったようで安心する。慌ただしく立ち上がり、長身を屈めながら書類を机に戻す姿はとても可愛らしかった。
……ああ、のんびりと見ている暇はない。はやく――言わなくては。
「ま、おう」
ぴたりと、奴は動きを止めて僕を見た。きょとんとした目がこちらを見つめる。
緊張のあまり、心臓が口から飛び出すのではないかと思った。
「そ、の……重大、かつ至急な話が、あるのだが……今話しても構わないか……?」
絞り出した声は震えていた。
「……至急の、話?」
「ああ――昨日の返事を」
「駄目だ!!」
ぐらり。突然の咆哮に、目眩がおきる。倒れそうになったがどうにか耐えた。
「――っ、す、すまない、ヴィンデ!! つい大声を……」
「い、いや……構わないが。……駄目、とは、いったい?」
奴の顔色はひどく悪い。今にも泣きだしそうなカオをしていた。
「……すまない……、全て、私が悪いのだ。結果として、おまえの意思を踏みにじるようなことになってしまった。今更謝ったところで何にもならないだろうが……」
「……? な、何故貴様が謝る? 何の話だ……?」
「私は」
震える声で、魔王は、言う。
「私は……おまえの精神を歪めてしまった……」
……は?
いったい何の話だ? 嫌な予感がする。これから語られるのは、決して良くはないこと、らしい。不安に胸がざわついた。
「私は……私は魔王。世界で唯一、闇の属性の魔力を持つ存在。私が存在しているだけで、この身に宿る魔力は他者を魅了し魔王に絶対的服従を誓わせる」
「…………」
「私の存在自体が、強力な魅了魔術のようなモノ……。おまえの本来の意思に関わらず、長い間我が元に居れば、必ず魔王の力の下僕となる。……ここまで言えばわかったろう。私がおまえに犯した罪が」
……待て。意味が、わからない。
「…………何が、言いたい……?」
闇の魔力? 魅了魔術? 嫌な予想が頭に浮かぶ。不穏な空気に、吐き気がする。
魔王は静かに僕を見つめて、まるで罪人が懺悔をするように――言った。
「……私は……、私が、私のせいで。私の魔力のせいで。おまえを無理矢理惚れさせてしまった。そういうことだ」
「ッ……!!」
魔王は……なにを、言っている?
思考回路が完全に固まる。だってそんな。まさか。そんなはずはない。この思いが、胸を焦がすほどの情熱が――魅了の力によるまがい物だと?
そんなことがあってたまるか!!
「ふざけるな……ッ、そんな、冗談だろう!? 嘘だと言ってくれ……!!」
「…………」
「じゃあなにか、今僕が貴様に抱いている思いは! この胸を埋め尽くす感情は!! 全て、紛い物だとでも――っ、」
勢いに任せ怒鳴り散らしてから、ハッとする。魔王は辛そうに俯いていた。今にも、泣きそうな顔をして。
反射的に奴を抱きしめる。
「っ、すまない……。そんな顔をさせたい訳じゃなかった、僕も……混乱、していて……」
「…………」
腕の中で震える、大きく美しい身体。伝わる体温。僕にはこの男を慰めてやることすらできないのか。苦しくて苦しくて、泣きそうになる。
ああ――この気持ちは確かに本物だ。でなければ、こんなにも胸が苦しいはずがない。こんなにも切なくてたまらないはずがない。
少なくとも、今、此処にある僕は、確かに魔王を愛している……。
「ッ――、離せ!!」
「っ!?」
突然、魔王が僕を突き飛ばした。そのまま逃げるように身を剥がされる。
「なっ……、なにをするのだ、魔王っ……」
「駄目だ……駄目なんだ、ヴィンデ、これ以上は」
「どうして!?」
「愛しているからだ!!」
奴は、僅かに泣いていた。
「好きだ、愛しているのだ……本当に。ありのままのおまえを。だから……、あまり私に近づくな……」
涙が静かに頬を伝う。あまりの気迫に、言葉を失った。
「……私の魔力は他者を魅了し、やがては意志無き傀儡に変えてしまう……。おまえの為を思えば、もっと、早くに距離を置くべきだったのだ……」
どうすればいいのかわからない。なにを言ってやればいいかもわからない。当事者たる僕に、なにができる?
愛するこの男の為ならば、傀儡と化すことも厭わない。そばに居ることが許されるならば。……けれど、それでは魔王は報われない、のだろう?
今の僕がなにを言ったところで、傷つけることしかできないとわかっていたから――何も言えなくなる。
「……全て、私が悪いのだ。愚かだったのだ。おまえの横に居るのが嬉しくて、我を忘れた私の罪だ。赦せとは言わん、今更謝ったところでと思うだろうが……すまなかった、ヴィンデ……」
「…………」
「せめてこれからは、私と離れて生きてほしい……おまえがおまえであるうちに。できることなら私を忘れてほしい。最低な男だと罵ってくれて構わない。……一方的なエゴを押し付けてばかりだな、私は」
そんな顔で、そんなことを言わないでくれ。忘れるだなんてできるはずがないだろう? 初めてありのままの僕を求めてくれた相手のことを。
けれど、僕が隣に居ることは、魔王を苦しめるだけなのか? こんなにも愛していることが、魔王の重荷になってしまうのか。
僕は、無力だ。
けれど、このまま魔王の提案を呑んでしまえば、やがてネルケが攻めてくる。ヴァーイスはありったけの兵を注ぎ込むはずだ。備えなくして、魔王は、勝てるのか?
万が一にも彼を失うようなことがあれば。僕はまた何もなかったように、あの国に戻り生きていくのだろうか。
そんなこと、絶対に堪えられない。
「……恐らく、国に帰してはやれないが。おまえならきっと我が国でも活躍できるだろう。どこか好きな土地を見つけて、新しい人生を……」
「――待て!!」
耐え切れず、僕は叫んでいた。
「駄目だ……! それでは、駄目、なのだ……」
「ヴィンデ!! 気持ちは嬉しい、だが私はおまえが……ッ、」
視線が交わる。真剣に、奴の目を見つめた。この男ならばわかってくれると信じて。
「……、どういうことだ?」
案の定、なにかがあると悟ってくれたらしい。魔王は深く息をつき、こちらを見据える。
心臓が激しく鳴っていた。