Act.4-02
……の、だが。
「ちょっと……、ナニやってるの?」
突如聞こえた女の声に、ハッとする。見れば側近の女が、冷たい目をしてこちらを見ていた。
「はあ、昼間っからなんちゅーマニアックなプレイに手ぇ出してんだか……」
「っ……、ローゼ! 試合が終わるまでは邪魔をするなと言ったはずだろう?」
「それどころじゃないから来たんですぅ、好きで来るワケないでしょーが」
魔王は僕に背を向け、側近の方を睨んだ。
奴が離れていった途端に、すぅっと、身体の熱が冷めていくのがわかる。徐々に意識もはっきりしていく。いわば、理性が呼び戻されるような感覚。
……僕は、今まで何を? 夢から醒めた瞬間のような、なんともいえないもどかしさを感じた。
けれど、足元のナイフは返り血を浴び。僕の手は鮮血に染まっている。そして、魔王の腹から流れる赤。夢ではない。現実なのだ。ついさっきまでの出来事は。
魔王を刺したのも、奴の傷をえぐったのも、狂ったようにその血を貪っていたのも。全て、僕。
息を上げながらも側近と話す奴の姿は痛々しい。僕のせいだ。僕が彼を傷付けた。あんなコトをしたのだ。きっと、嫌われた。幻滅された。当然だ、僕のせいだから。僕のせいで魔王は傷ついたのだから。
そう思うと無性に、胸が苦しくて。気がつけば奴に駆け寄り、叫んでいた。
「――魔王っ!!」
「……む、どうかしたか?」
「すまない、魔王……僕は……僕が、貴様を……そんな、違うんだ、そんなことがしたかったんじゃなくて」
僕は何を言っている? 僕は何故、こいつに謝っている? 何故こんなにも胸が苦しい? どうして、こんなに泣きたくなるんだ。
「貴様を苦しめる気はなかった、僕はただ。頼む、お願いだ、魔王――、」
嫌わないで。捨てないで。そう言いかけて口をつぐむ。
……奴は敵、なのに。どうして。こんなことを思ってはいけないのに! そうなのだ、もうじききっとネルケがやってくる。そしてこの男を倒すだろう。そうしたら僕は今まで通り、彼女の影に隠れながら、ヴァーイスの闇として生きていく。今まで通り。……だから、魔王に惹かれるなんてこと、あってはいけないのに。僕は、ヴァーイス軍の時間稼ぎのコマにすぎないのに。
つうっと頬に何かが伝い、ハッとする。冷たい雫。……涙?
「っ、なぜ……なぜだ、僕は、泣いて……」
「ヴィンデ!!」
瞬間、魔王に抱きしめられた。
「大丈夫……大丈夫だ、ヴィンデ、私は。死なない。この程度の傷、一日もかからずに治るから」
耳元で、力強く囁かれる声に。無性に安心するのは、どうして。
「おまえとの試合は最高だった……、こんなに楽しかったのは久々だ」
やめろ。笑うな。縋りたくなる。そんな優しい目で見ないでくれ。高鳴る鼓動が抑えられない。信じたくなる。信じてしまいそうになる。お願いだから、嘘だと言ってくれ。
じゃないと、僕は。
「できるならばもう少しおまえと戦っていたかったがな。……またあとで、続きをするか?」
「ッ……、本気、か……?」
本当に良いのか。こんな僕で。貴様を傷付け、あんなおぞましい行為さえ行った男を。拒否しないでいてくれると言うのか?
「勿論、本気だ」
穏やかな笑みに、溶かされそうだ。
「……だから、謝ったりするな。自分の行為を否定するな。私は……おまえの全てに、惹かれたのだ」
「っ、ま、おう……」
胸が熱い。鼓動が痛い。さっきとは違う意味で、涙がこぼれそうになる。
魔王は僕を愛してくれる。狂った殺人者である僕を。そんな僕が欲しいとさえ言ってくれる。祖国では、誰も与えてくれなかった言葉を。
喜んではいけない。欲しがってはいけない。嗚呼、けれどもう既に手遅れだ。
「……あい、して……くれるのか……? 僕を……?」
「当たり前だ。その……ずっと、言っているだろう。おまえが欲しい。愛している、と」
真っ赤な顔で、声を震わせ、それでも懸命に紡がれた台詞。胸の高鳴りが止まらない。くらくらして、ぐらぐらして。その言葉が欲しくてたまらない。こんなことを思ってはいけないのに。惹かれては、愛してはいけないのに。
祖国への裏切りだとわかっていながらも、溢れる思いに抑えがつかない。
――ああ、僕はきっと魔王に惚れている。
気付いてしまえばそれはひどく単純で、しかし認めたくない感情だった。でもきっと、そうなのだ。惚れていたのだ。ずっと。惚れていたから、怖かった。優しくされるのが。愛されるのが。
いつか戻ってくる僕の日常――戻らねばならない祖国の為に、僕はこの感情を認められなかった。認めては、いけなかった。気付いてしまった事実に愕然とし、僕は、なに一つ言葉にできないでいた。
「……魔王様、いつまでいちゃついてらっしゃるおつもりで? あたしは仕事で来てるんですけど」
「なっ……、だ、誰がいちゃついているものか! わ、私はただ、ヴィンデに泣き止んでもらおうとしただけでっ……」
「はいはいなんでもいいですから。王子クン抱きしめたまま話すのやめてくださいません?」
側近の言葉に慌てて、魔王は僕を離し――それでも一瞬、甘く優しい視線で僕を見て――彼女の方に向き直った。
「あのですね、西部地区で種族間のトラブルがあったんで魔王様……」
「……行かんぞ。いつも通り、おまえが行け。事務処理は私よりも上手だろう」
「向こうが魔王様じゃないとって言ってるんですよ。たまにはご自身で民の元に行かれたらいかがです?」
「行かんと言ったら行かん。私の働く場所は戦場のみだ」
話を打ち切るように強引に言って、魔王は、僕の手を掴む。
「っ!?」
「……疲れただろう。戻るか?」
「あ、ああ……」
「ちょっと魔王様!」
側近がなにか叫んでいるのが後ろで聞こえる。僕は手を引かれるままに、その場をあとにした。
*
心臓が飛び出すほどに、強く、脈打っている。あれからどうしたのだったか――たしかほんの少しだけ会話をした、気がする。部屋に戻ってどれほど経っただろう。どうやって部屋に帰ったのだろう。思い出せない。まさに、頭が真っ白になったと言う表現がしっくりきた。
……だって、まさか、そんな。
魔王が僕を愛している。そして、僕もまた魔王に惹かれている?
「僕は……魔王を、愛しているのか……?」
突拍子もない話だ。悪趣味なジョークだ。そう言って笑えればどんなに楽だっただろう! ……気付いてしまった、から。愛して欲しいと思ってしまった。もう、自分をごまかせない。
あの紅い瞳で見つめられたい。低く甘い声で囁かれたい。愛嬌あふれる笑顔を見つめていたい。そうして二人で永久に、平穏を貪りながら生きていきたい。
鋭い視線で射抜いてほしい。美しい悲鳴をもっと聞きたい。強者の余裕を叩き潰して、あの縋り付くようなカオにしたい。そうして二人で永遠に、煩わしいモノを棄てて戦い続けていたい。
優しい想いも、醜い欲望も、ごちゃまぜになって沸き上がる。僕の中にこんなにもたくさんの感情があったなんて。知らなかった。
「魔王……」
男だとか、魔物だとか、そんなことはなぜか一切気にならなかった。奴が何者だったとしても、僕はその存在自体に惹かれている。きっと。
けれど僕はヴァーイスの兵士だ。ネルケを、勇者を守る騎士だ。たとえどんな汚れ役を負わされても、どんなに嫌われていたとしても、祖国の為に尽くさなければ僕の生きる価値はない。僕の生きる場所はない。魔王は敵だ、敵なのだ。僕は彼を欺いている。あんなにも真剣に、真っ直ぐに、愛していると言ってくれた男を。こんなにも強く、想っている男を。
もうすぐネルケがやってくる。魔王を消すために、ヴァーイスの兵を引き連れて。それは正しいことなのだ。魔物は滅びるべきで、生き残るのはヴァーイスの人間。それが運命だ。道理なのだ。疑うな。拒否するな。これ以上孤独になりたくない。ヴァーイスのために働いていれば、ネルケだけは、僕を認めてくれる。どんなに嫌われていようとも。彼女だけは僕の居場所だ。考えるな。駒になれ。愛して欲しいなんて想うな。愛なんていらない、僕は憎まれるために生まれた忌み子。全ての愛はネルケの為にある。
――嫌だ。魔王と離れるなんて。あの男を裏切るなんて。できない。愛したい。愛されたい。愛おしい。祖国なんか棄ててしまえばいいじゃないか。僕には魔王がいる。狂おしいほどに焦がれる男が。忘れてしまえ。国のことなど。忘れてしまえ。妹なんて。
「……っ、でき、ない……」
たった一人の妹――僕に唯一笑いかけてくれたあいつも、たったひとつの居場所――僕を愛してくれる愛しい男も、裏切れない。裏切りたくはない。甘えている時間などないのはわかっていた。それでも、僕は選べない。選ばなければいけないのに。
妹か、魔王か。祖国を守り続けるのか、奴の手を取り魔に堕ちるのか――。決めるのは、僕自身なのだ。