狐は去りし夢を見る ②
貼りつきそうな喉を無理に動かし、僕は尋ねる。
「どういう状態なの?」
倒れている人たちは、全員が目を見開いたままだ。気絶しているわけではない。呼吸もある。けれど、揺すって呼んでも反応しないのはもちろんのこと、太陽光を手でかざしても、見開かれた瞳に瞳孔反応はない。
「仮死状態や。このまま放っといたら本格的に死ぬ」
「ちょっと待って。脈はあるんだよね? 脳に酸素はいってるし、呼吸もしてるよ?」
「現代医学って意味で言うてるわけじゃないんよ。あえて言うならオカルトか、もしくは未来医学や。わかりやすく言えば、魂が抜かれとるんよ。魂という生きる意志が肉体からなくなったら、脳はやがて自動的に生命活動を停止させる。時間は早いやつで二十四時間から、保って四十八時間ってとこや」
魂? そんなよくわからないもの、どうすればいいんだ?
山本警部が冬乃の言葉に捕捉を入れた。
「同じように逃げてても怪に被害者がおらんのは、人間よりも魂への干渉に対する耐性が強いからや。生命力の差っちゅうやつや。まあそれでも逃げてるっちゅうことは、怪にとっても何かしらの危険があるんやろ。長時間やと魂をかっ剥がれるか、もっと物理的な危険があるか」
怪ですら危険、という言葉に、僕は唾液を呑み下した。
「と、とりあえず医者に診せるのは?」
「無駄やと思う。魂の治療なんて、京でも聞いたことあれへんもん」
冬乃が苦々しげに吐き捨てた。
おい、おいおい……。
僕は周囲を見回し、冷たい汗を流した。
倒れている人、人、人。男も女も年寄りも、まだ小さな子供だっている。
途端に心臓が奇妙な具合に跳ねた。
「これみんな、死ぬの?」
「一日以上放っといたらな。子供や年寄りからになると思う」
嘘だろ。ざっと見回しただけで、二十名近くいる。きっと、この先にはもっとだ。死を待つしかないというのか、その人たち全員が。
これがナツユキの住む街。魔都京都が、魔都と呼ばれる所以なのか。
薄ら寒い、全身が痺れるような感覚。僕はあらためて魔都の魔性に戦慄する。
「……こんなことが、よくあるの?」
「アホ言うな。こんなん、うちかて何年も安機やってて初めてのことや」
険しい表情で左手の親指を噛み、冬乃が呻くように呟いた。
「そやけど大丈夫。これをやったやつをとっ捕まえてボコって、奪われた魂を吐き出させたらええだけの話や。魂は肉体に惹かれる。だから自分から本来在るべき肉体に帰り、肉体は元通りに生命活動を始めるようになる」
冬乃が立ち上がり、倒れている人たちを踏まないようにしながら歩き出した。
「ただ、うちがそいつに勝てたらの話やけど」
その先で、発砲音は断続的に鳴り響いている。きっと警察官が、これを行った怪を討とうしているんだ。
「鬼神より強い怪がいるかもしれないってこと?」
「その可能性もあるってこと。神格の怪じゃなくて、神さんそのものや。あいつら、個体によっては悪魔なんかよりよっぽど気難しくて厄介やからな」
僕は唾液を飲み下し、震える足を手で叩いて歯を食い縛る。
辞める。絶対辞める。この件が無事に終わったら、僕はこの仕事を辞めてやるぞ。
「そやけどな、絢十。それをどうにかできんのは、うちら京都多種族安全機構だけや」
でも、この中にナツユキが含まれていたとしても、なんら不思議ではない。なら今回に限り、僕はこの街の深淵を覗いておくべきだ。それに、冬乃一人を、そんな危険な状況に放り込むようなことはできない。
僕が冬乃の隣に並ぶと、冬乃が苦笑いでため息をついた。
「……あいかわらずアホやなあ、絢十は。ホンマはびびりのクセに。やっぱりここで待ってますぅぅ、とか言うても、うちは別にええねんで?」
今の口調は僕の真似か。ちょっとムカつく。
「冬乃一人で行かせられないだろ」
「この街で、毎度毎度そんなお人好しなこと言うてたら早死にすんで。人間はニンゲンらしく、他人のことなんて放っといたらええねん。それが京の暗黙のルールや」
冬乃も、ナツユキと同じことを言うんだな。
「他人じゃない」
ナツユキのことはもちろん、冬乃だって僕にとってはもう、街中ですれ違うだけの他人じゃなくなっている。
冬乃が少し照れたように指先で頬を搔いて、地面を蹴って囁いた。
「……まあ、なんや。ありがとうって言うとくわ……」
走り出した冬乃に続き、僕は背中から拳銃(レンの弓)を抜いて、彼女を追いかける。
人通りもなく、息づかいもなく……。
かつては百貨店やアミューズメント施設、ブティックなどで賑わった京都最大の歓楽街も、露店主さえ逃げ出した今では、すでに廃ビルの並ぶ不気味な廃墟に過ぎない。
ただ、銃声と僕らの足音だけが、だだっ広い道に不気味に響く。
道々には、やはりというべきか、逃げ遅れた仮死者と思われる人たちが多く倒れていた。
僕は、そんな犠牲者たちの中央に立ち、ただ地面を見つめる年老いた紳士を見かけた。奇妙なことに、アスファルトを右手で愛おしそうに撫でている。
まるで、そこから来る何かを待っているかのようだ。
「冬乃、あの人」
「うん」
おそらくは仮死者縁の人物か。シルクハットからはみ出す白髪交じりの髪はきちんと整えられ、首もとにはマフラーが巻かれ、足が不自由なのかステッキを持っている。
僕らに気づいた紳士が、視線を上げた。
一瞬の交差。
何もない空間に、まるで吸い込まれるような瞳。彼は生気のない虚ろな瞳をしていた。
この惨状では無理もない。
冬乃が叫ぶ。
「そこのジイちゃん、ここらへんはまだ危険やで! 急いで南側に避難して!」
迷い、僕も叫ぶ。
「ここにいる全員、僕らが必ず救います!」
老紳士は何もこたえない。
誘導したいところだけれど、今は構っていられる状況じゃない。僕らは声かけだけをすると、走りながら老紳士の横を通り過ぎた。
現場はすぐに見えてきた。
山本警部らが立ち入り禁止を形成した場所から、わずか四〇〇メートルといったところだろうか。四条河原町というよりも、すでに河原町三条に近い位置だ。
四人の警察官がアスファルトに倒れ伏していて、一人の警察官だけが拳銃を撃っていた。それも、ケガをしているらしく、三角巾で左腕を吊っている。
その狙いの先――!
冬乃が眉をひそめた。
「狐か!」
「狐?」
確かに、アスファルトで跳弾して火花を散らす銃弾を、器用にぴょこぴょこと跳ねて躱している金色の小さな獣が見える。
とても愛らしい姿だ……が、通常の動物との違いを現すかのように、その周囲には青白い炎がいくつも浮いている。
初めて見たけれど、あれが狐火というものだろうか。
「うん。本来なら理由もなく瘴気を出す怪やないし、人間の魂を抜くようなこともせえへんはずや。そんな能力もないしな。……よかった、最悪の事態じゃない」
僕らは走りながらも、動き続ける狐を観察する。
小さい。まだ子狐だ。それも、飼い主がいるのか小箱のついた紐の首輪をしていた。
「くそ、くそ、くそっ、来るな、来るなぁぁ!」
警察官が叫びながら、拳銃を撃ち続けている。子狐はチョコマカと走り回り、飛び跳ね、瓦礫を盾にしつつ逃げ回る。命中する気配はない。警察官が下手というよりも、銃弾の軌道を読んで先に動いているように見える。
相当、知能が高い。間違いなく怪だ。
装弾数の五発を撃ち終えると、警察官は片手で再装填しようとして、焦ってアスファルトに弾丸を撒き散らした。
「あ……」
途端に子狐は素早く瓦礫を乗り越えて、警察官へと飛びかかった。瞬間、首輪で揺れる小箱の蓋が開く。
「わあぁぁぁ!」
警察官が片手で頭を抱え込むのと同時に、大地を蹴った冬乃が子狐に向けて拳を放った。
「やあっ!」
赤鬼の一撃は大風を巻き起こし、狐火を吹き消して空間を貫く。震動が空間を伝い、数メートル先までアスファルトに積もっていた砂塵を舞い上げる。
あいかわらず、桁外れの威力だ。
空中で素早く身を捻るも、拳の風圧に巻き込まれた子狐は、錐揉み状態でアスファルトに落ちて、僕の目の前に転がった。
「……ッ!!」
僕は反射的に拳銃(レンの弓)の銃口を向ける。
拳を突いた勢いそのままに、遠くに着地するや否や、冬乃が叫んだ。
「絢十ッ!」
僕は引き金に指をかけ――躊躇った。
子狐の胸部は、荒い呼吸のままに上下している。脅えた野生の瞳は、どこか理知的に見え、何かを訴えてきているかのようで。
いや、子狐の口が、動いている。ゆっくり、ゆっくり、辿々しく。
「……?」
なんて……言った……?