狐は去りし夢を見る ①
とても、やさしいヒトでした。
きずだらけの、あたま、くび、おなか、せなか、なでてくれました。
いっぱい、やけどしたところ、なおしてくれました。
あたたかく、やわらかな、てでした。
おいしいごはん、くれました。
よごれたからだ、あらってくれました。
なまえ、くれました。
たのしい、くらしでした。
もう、やまには、かえりたくありません。
もう、いたずらしないから、ここにいていい?
ずっと、ここにいていい、いってくれました。
たくさんの、たいせつ、おしえてくれました。
たくさんの、たのしい、くれました。
たくさんの、ありがとう、あげました。
どうして、いなくなりましたか?
きらいに、なりましたか?
ぽろぽろ、ぽろぽろ。
なみだ、とまりません。
……あいたいです。
◇ ◇
不安がないと言えば、嘘になる。
けれど昨日ヒドい目に遭ったからなのか、なんだかあっさりと腹は決まった。どうせ僕にはもう、この街で生きてゆく以外に選択肢などない。
ナツユキと再会を果たすまでに、僕はこの魔都で生き抜けるだけの力を手に入れたい。手っ取り早くこの街のことを知るには、京都多種族安全機構は打ってつけだ。もっとも、危険な仕事を長く続けるつもりもないけれど。
ほとぼりが冷めるまでの期間だ。ゴミ漁りの……。
「ちょっとそこで待ってて」
京都多種族安全機構のビルを飛び出したあと、冬乃はすぐには四条通の方角には向かわず、隣の廃ビルに飛び込んだ。
「お待たせ」
数秒と経たず、原付バイクが廃ビル内から飛び出してきた。ボディには「京都多種族安全機構専用あぽろ11号」という謎ステッカーと、「盗んだやつは縛り首」という不穏なステッカーが一枚ずつ貼られている。
物騒だなぁ。
「なんで11号なの?」
ヘルメットを僕に投げて、冬乃が肩をすくめた。
「1号から10号までは殉職した。さあ、遠慮せずに乗って」
「おおぅ……、……心の底から遠慮したい……」
「四の五の言うてんと乗りや! ゴミ漁りで通報するで!」
「乗りますぅぅ、乗ればいいんでしょおぉぉ!」
怖えよ~……、……月までぶっ飛びそうな名前してるし……。
一瞬の躊躇いのあと、僕はあぽろ11号の後部に跨がった。
本来なら原付で二人乗りは御法度だが、どうせ警察はろくすっぽ機能していない。それに今は緊急事態だ。仮に機能していても、ゆるされると思いたい。
「一応言うとくけど、どさくさで変なとこ触ったら、あんたの頭、海岸のスイカみたいにしたるから。こう、こうやで? パァン!」
身振り手振りで恐ろしいジェスチャーを僕に見せる冬乃が憎らしい。
「気をつける」
正直、触りたいとか考えられるような気分じゃない。これから死ぬかもしれないんだ。いや、死ぬかもしれないからこそ触るべきか。いやいや、待て。それじゃ死の確率を上げている。だけどどうせ死ぬなら、事故や瘴気を放つような恐ろしい怪に殺されるよりも、鬼だけど美少女の冬乃の手でスイカ頭にされたほうがまだ幸せかもしれ――。
「っしゃ、行くでー!」
原付が勢いよくウィリーして、思考が一瞬にしてぶっ飛んだ。
「ぎゃあああぁぁぁ!?」
背中にアスファルトが近づき、僕はとっさに冬乃の腹部にしがみつく。
「~~ッどっせい!」
腕力と体重で無理矢理原付を抑え込み、ロケットのようにスタートする。名称に偽りなしだ。
「あはっ、あっぶな! もうちょっとで10号までのあぽろ号と同じ目に遭わすとこやったわ。9号なんて縦に後方回転しよったからなあ。ウケるわー」
「それって殉職じゃなくて自滅っていう――あわわわわわっ!?」
そもそも原付の出せるレベルの加速ではないし、まともなエンジンを積んでいないのは丸わかりだ。加速Gで顔面が歪み、遙か後方に涙がぶっ飛んでいく。
ヘルメットからはみ出した赤髪が、一気に広がった。魔都の景色が溶けるように、後方へと流れされてゆく。
「あはーっ、雪降る前でよかったわぁ!」
「……降ってたら今ので一回死んでたね」
「そやなー! あははははっ」
皮肉が通じない。
鴨川に沿って川端通を北へ。スマホの地図アプリによれば、わずか一キロ離れた場所では大惨事が起こっているというのに、道沿いには露店や、古びた建物を利用した様々な店には多くの人が並ぶ。
異様な光景だが、これが魔都だ。
だけどそういった暮らしにも慣れているのか、呑気に露店主と話している主婦や、楽しげに走り回る子供まで見て取れる。彼らの間にも怪が多く混ざっているけれど、別段気にする様子もない。それどころか、怪とヒトのカップルまでいる。
僕は少し胸を撫で下ろした。
魔都京都とはいえ、人間はちゃんと住んでいるし、それなりに楽しくやっているんだ。
ナツユキからのメールで知ってはいたけれど、実際にこの目で見るまでは信じられなかった。
「……ナツユキに叱られるな……」
「ん?」
冬乃が首を斜めに傾けて、無理矢理僕に視線を向けた。
「なんでもないから前向いて運転して、前!」
「わかってるっちゅーねんっ」
すでに機能していない京阪電鉄の祇園四条駅跡を左に曲がって、河原町で原付を停める。到着まで五分とかかっていない。
かつて古都と呼ばれていた頃の、京都最大の歓楽街だ。
「冬乃」
「うん」
あきらかにパニクった状態の人々が、全力で北からどんどん逃げてきている。人間だけじゃない。怪もだ。みんな先を争うように、背後を気にしながら走ってきている。
「生命力の強い怪まで仮死状態にされてるってこと?」
「かもしれん。ますますきな臭いで」
かつて観光都市だった時代ほど、人口密度がないのが幸いしている。将棋倒しにもなりそうにないし、これなら誘導は必要なさそうだ。
「覚悟はええか、絢十?」
「……なくても行くんでしょ」
「まあ、そうやけど」
僕らは人の流れに逆らって走り出す。
重なる銃声。誰かが、この先で発砲している。何度も、何度も。けれど鳴り止む気配はない。
走る、走る、走る。左右の廃ビルに反響して、銃声に近づいているのがわかる。
一度足を止めたら、震えて動けなくなりそうだ。祈るような気持ちで何事もないことを願いながら、僕はひたすら走った。
けれど願い虚しく、数十メートルも行ったところで僕らはその光景を目にする。
警察官が七名、黄色のテープで通行止めをしようとしている。その向こう側。折り重なるように倒れている、数十名もの人――。
逃げていた集団には怪もいたけれど、仮死者は全員が人間だ。
堂々と黄色テープを片手で押し上げながら通り抜けようとした冬乃と僕に、複数名の警察官らが立ち塞がって両手を広げた。
「待ちなさい。ここから先は危険だ。我々の同僚が今、これを引き起こした怪を追っている。片がつくまでここは――あ、ちょっと!」
「邪魔するで、ヤマモっさん」
喋っている途中の警察官を片手で無造作に押しのけて、冬乃がシワだらけのコートを着用した中年男性に声をかけた。押しのけられた警察官が派手に転がったけれど、二人とも目もくれない。
「ん? おお、安機か」
「時間が惜しいから、通させてもらうで」
トレンチコートの中年男性が、口元だけにニヒルな笑みを浮かべた。
「ようやくおいでなすったか。――おまえら、その嬢ちゃんは通したれ。そいつは泣く子も泡吹いて気絶させる、京都多種族安全機構の赤鬼や」
冬乃が僕を指さして言った。
「ああ、あと、このツレも安機や。二人通させてもらうで」
僕は念のために拳銃(レンの弓)を取り出して、銃把の紋様を見せる。
「新入りか。好きにせえ」
警察官の一人が、途切れ途切れに呟く。
「あ、安機ですって? この子らが……お、おれ、実物を見たの初めてやけど、こんな若いんですか? それに、この子ら普通の人間ちゃうんですか、山本警部?」
両腕を組み、山本警部が若い警察官を叱責した。
「ど阿呆。おまえらはまだ京に来たばっかりで知らんかもしれんけど、この魔都ではな、わしらみたいな仕事は特に、他人を見かけで判断してるやつから死んでいくんや」
山本警部が、親指で自らの首を掻き斬る仕草をした。仕事のクビではない。命の頸だ。
そんな説教などには目もくれず、冬乃は倒れている人に駆け寄って、アスファルトに片膝をついた。
手首と首筋に手をあてて、舌打ちをしてから呟く。
「……脈が弱い……けど、死んではないな」